今日の記憶

屋根裏

今日の記憶

 歌を聴いて涙を流したのはこれが初めてだ、と思った。明日への希望を歌った歌だった。明日を悲観しているわけでも、思考がネガティブなわけでもないが、自分と似たような境遇に置かれている人間が明日への希望を語った歌を作ったということに、素直に感動したのだ。

 自分と似たような境遇、というのも、僕は数年前から記憶障害を患っている。そしてこの歌を作った作曲家もまた、記憶障害を患っているのだった。記憶喪失とは少し違い、記憶が一日しか持たないという症状の障害で、詳しい原因は解明されていないらしい。僕の場合は数年前に起こした交通事故のショックが原因で、事故以前の記憶はそのままに、事故以後の記憶に障害が残った。あまりこの作曲家について詳しくないため、彼の記憶障害の原因についてはわからないが、同じように一日を終えるとその日の記憶はリセットされてしまうらしい。つまり、〝明日〟を望んだとしても、実際に〝明日〟を迎えてしまえば、望んだ記憶など残っていないのだ。そんな症状を抱えた人間が明日を望むことなど、意味の無いことだと決めつけていた。しかし、街中で流れてきたメロディーは確かに、僕の心を揺さぶった。

 これは、ある男の明日を変えた、ある男の今日の記憶である。

 

 僕も楽器を演奏することは出来る。中学時代に始めたギターやベース達は、バンドを組んでライブをすることがなくなった今でも、手持ち無沙汰な毎日に彩を添える存在として、部屋の一角に群れをなしている。昨日の記憶はなくても、チューニングがぴったりと合っていたり、指板が綺麗に磨かれていたりすることから、毎日のように手に取っていることが窺える。なにより、いつ弾いてもある程度形になる演奏ができることが、それの証明だろう。弦楽器以外にも、親の影響で小さい頃から始めたピアノや、高校時代に組んでいたバンドのドラマーを真似て練習したドラムも、人並みに演奏することは出来る。つまるところ、単純に音楽が好きなのだった。日頃からの音楽好きに、事故以来の親の過保護が相まって、部屋の本棚や小物入れの殆どはCDで溢れかえっていた。積み重なったCDの一番上にあったのが、例の明日への希望の歌だったのだ。初めてこの曲を聴いた日からしばらくの間は、毎日のように新しい気持ちでCDを手に取り、一通り聞いては涙を流す日々が続いた。しかし、ある日を境にこの曲を聴くことはなくなってしまった。積み上げたCDの上に新しいCDが増えたあの日から。

 

 新しく増えていたCDには、悲しい歌が収録されていた。過去の一定期間の記憶が残っていないため、その日の心情は、その日の始めに聴いた曲の影響を受けることが多い。楽しい曲を聴いた日は楽しく、悲しい曲を聴いた日は悲しく、といった具合に、だ。不幸中の幸いか、悲しみが後を引く事はないが、反対に、楽しい音楽を聴かない限りは、毎朝のように悲しい気持ちを味わうことになる。それからは暫くの間は、大して味気のない生活を送っていた。まるで作業のような毎日の中で、楽器に触れている間だけは、悲しい気持ちなど忘れてしまったかのように夢中になれた。

 これだけ楽器が演奏できるなら。同じ境遇の彼にも作曲ができるなら。僕にだってできるのではないか?そう思ったことは何度もあった。実際に制作に取り掛かったこともあるのだろう。その残骸もデータとして残っている。けれど、製作途中で眠ってしまえば曲も未完成のまま眠りについてしまう。僕にとって〝知らない誰か〟の描いた世界が、僕のパソコンに無数に存在している。翌日の僕にとっては、昨日の僕は他人であるかのように映る。今日はそんな曲を作ってみようか。挫折の記憶は残ってないから、何度だって繰り返す。作って、壊した。描いて、消した。今の僕には、なにか残っているのだろうか。あるいは、残せるのだろうか。部屋を流れる悲しい歌に乗って、自分の中の黒いものが流れ出す。どうして僕だけがこんな目に?記憶を失う病気であることを忘れてしまうことができれば、こんな思いはしなくて済むのに。何度もそう考えたが、事故までの記憶が残っていること、一日のスタートを切るために毎晩つけている、自分の状態を記したノートなど、自分が患っていることを証明するもので溢れたこの家では、自分が何者であるかを知らずに生活することの方が難しい。

 悲しい毎日を過ごしているといっても、数日の間繰り返していれば少しずつ変化も現れる。CDを手に取るタイミング、着る服、朝に飲む水の量、食事、外出の有無、楽器と触れ合う時間……。

 一つの歯車が起こしたズレは、やがて全ての歯車へ伝播し、狂わせる。その狂いがある一定の水準に達すると、多少の狂いはやがて故障へと変わり、修復を求めるようになる。日常も同じ。ある日突然、大きな変化を感じることがある。一般の人でいえば、事故が起きたり、災害に見舞われたり、反対に幸運が訪れたり、と言った具合にだ。僕の場合は、手に取ったCDの変化が主だ。元に戻したはずのCDが落ちてしまったのか、新しく購入したものなのかは分からないが、他人にとっては小さなこの変化も、僕にとっては一日を、ひいては毎日を変えうる大きな故障と呼べるものだろう。見方を変えれば、修復、とも呼べるのかもしれない。

 今回の場合は、修復に当てはまるだろう。悲しい歌に溺れた毎日から脱却したのは、色褪せた日々が2週間以上続いた後のことだった。

 

 今度の曲は、ありのままの叫びだった。記憶という、時には残ってしまうことを疎ましくさえ思われてしまうものを積み上げられない自分に、かたちある何かを積み上げ、重ねていくことが出来るのだろうか。自分には一体何が残せるのだろうか。それはまるで、今朝読んだノートに書かれた、昨日の自分の心を写したようだった。全く同じ思いを抱え、叫んでいた。しかし僕とははっきりとした違いがあった。彼はこの歌を残した。確かに叫んでいた。いつも思うだけ、考えるだけの僕と違うことを、痛いほど感じた。悲しくはならなかった。むしろ共感すべきことが多すぎて、無意識のうちに口ずさめるほどに聴き入っていた。けれど痛かった。何をしても明日には忘れてしまうから。そう考えて逃げてばかりの自分と、必死に今日生きた証を残そうともがく彼との違いに、鳩尾を殴られたような鈍く重い痛みが、何度も何度も波紋した。それでも聴くことをやめなかった。辞められなかった。羨んだ。憧れた。悔しくて泣いた。僕だって何かを残してやる。

 

 今度こそは、と開いたパソコンには、記憶にないフォルダがあった。僕の知らない誰かの、昨日の記憶が。

 

 僕の憧れる彼は、今日を生きた証を歌に刻み、積み重ねていた。そして彼の今日の記憶は、僕の明日の記憶を変えた。彼の歌に胸を打たれた僕は、同じように音を奏でた。今日の記憶を形にしようとした。真似事だということは分かっていても、僕に何が残せるかを考えた時、思い浮かんだのは音楽だけだったのだ。しかし彼は、いつでも一歩先を歩いていた。必ずと言っていいほど彼は、僕が決意した翌日には新しい曲を作った。少しでも近づこうと伸ばした手から逃げるかのように。僕のパソコンには、おそらくボツになったのであろう曖昧な記憶の断片が散りばめられていくだけなのに。もう昨日のことだから、この断片たちがどれだけ昨日の僕を知っているのかは分からない。けれども、少なくとも今日の僕よりは知っているのだろう。そう思うと、狭い狭い僕だけの世界の中では、今日の記憶を刻んでいると言えるのではないだろうか。彼とは違って世間に知ら占めるようなことは出来なくても、何かを残しているという事実だけで、彼に一歩追いついたような気になれた。

 途端に僕だけの世界に散りばめられた記憶たちが、とても愛おしいものに思えてきた。今までは〝 知らない誰か〟のものだと思っていたから、聴いたことは無かった。今思えば、避けていた節さえあった。けれどそれらが自分のものなのではないかと思い始めた僕にとって、もうそれらは避ける必要の無いものだった。試しに、目に入ったフォルダを開いてみることにした。それは、数ヶ月前のものだった。

 

 数分間の沈黙の後、僕は涙を流した。記憶の断片は、明日への希望を語った。事故以後の記憶は残っていないから、感覚的な話になるが、この歌は聴いたことがある、と思った。どことない懐かしさを感じた。正確には、歌を聴いて涙を流したのが、また、なのか、初めてなのかは覚えていない。けれどもおそらく、また、なのだろう。この歌に泣かされたのは、これが初めてではないと、残っているはずのない記憶が訴えてくる。まさか。けれども、どのフォルダを開いても、記憶と呼ぶことが出来るのかすら危うい何かが、僕に向かって叫ぶのだった。

 

 

 もう気づいていた。もしかしたら昨日の僕も気づいたのかもしれない。けれど、昨日の僕はもう僕じゃない。

 

 僕が憧れる作曲家は、また一つ、今日を生きた記憶を、証として残すのだろう。そうして僕は、僕の明日を描いていく。


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