信之さん

正成

信之さん

「困ったことが起きたなあ」

私はそう心の中で呟いて誕生日ケーキの蝋燭を消すような太くて短いため息をついた。困ったことが起きたなあ。私は今すぐにでも帰りたいのに。帰れないんだ。火葬場から絶え間なく出ているあの大きな煙が私の足と、心にがっちりと絡みついて離してくれないから。もうどのくらい立っているだろう。足の筋肉がいい加減「帰ろうよ」と悲鳴をあげている。でも、私の心は「まだよ!」と叫んでいる。何て統一感のない体なんだ。

自分の体をうまく制御できないことに気が滅入って、今度は肩をすっと下ろすだけの細く小さなため息を漏らした。筋肉がほぐれたような気がして少し楽になる。とりあえず、首の筋肉もほぐそうと上下に首をぐいぐい曲げる。上を見る時に視界に入った曇り空に私は少し顔を顰めた。これじゃ、出てくる煙がよく見えない。天気予報は今日は晴れと言っていたはずなのに、意味がないじゃないか。なんてことだ。信之さんが空に溶けてしまう。それは駄目だ。信之さんが見えていないととっても不安だ。私は、煙を鼻から勢いよく吸い込んだ。

 視界がしだいに鮮明になり、辺りの色が灰色から白色へ変色していく。火葬場の煙はもう私を縛らない。解放された私はゆっくりと後ろを向いて動けるようになった足を前に繰り出す。さっき吸い込んだ信之さんを逃がさないように鼻の穴を親指と人差し指できゅっとつまむ。同時に息をするために口を開けるけど、そこから信之さんが出てきてしまうんじゃないかと心配になる。だから私は一旦手を鼻から外して、それから思い切り口と鼻から息を吸い込んだ。これでもう安心。形勢逆転。私は、信之さんを捕まえることに成功した。


 私と信之さんの出会いは、今の職場だ。私は都内の大学を卒業して、かねてからの念願だった出版の仕事に就いた。幼いころから本が好きだった私にとってぴったりの仕事だった。もちろん甘くなかったし、多忙だったが充実した日々をおくっていた。

信之さんは、私の上司だった。当時私が25歳のとき、信之さんはもう39歳で40代に突入する年齢だった。信之さんは決して顔は整っていなかったけれど、その愛嬌のある顔立ちと、竹を割ったような性格に時折見せる子供っぽい笑顔をすることから男女ともに人気のある人だった。趣味はスポーツで特にバスケが好き。学生時代にバスケ部で今でも週末にバスケをしていたから普通の中年男性より筋肉はあるし、身長だって高い。信之さんに欠点という欠点はほとんどなかった。

そんな信之さんは、私にもたくさん優しくしてくれた。作家さんとのトラブルに落ち込んでいる私を居酒屋に連れて行って愚痴をたくさん聞いてくれたし、会社に泊まり込みの時はドーナツやら栄養ドリンクやら差し入れして何かと世話を焼いてくれた。そのたびに私はご飯をごちそうしたり、お金を返そうとするも、信之さんは子供っぽく右ほほにえくぼを作って「いいっていいって」と手を振った。優しい人だった。

私はいつか人の上に立つならこんな人になろうと純粋に思った。誰にでも分け隔てなく屈託なく笑える人間になろうと本気で思った。私は信之さんに憧憬していた。信之さんのやることに間違いはない、と本気で思っていたから一種の信仰心もあったかもしれない。私は信之さんのことを信頼し、崇めていた。私の世界基準は信之さんが絶対だった。

 今年で私は35歳になり、信之さんは49歳になるはずだった。信之さんには同い年の奥さんと20歳の息子がいる。「息子の成人式がもうすぐなんだ」と喜々として皆に話していた。皆もそれを「楽しみですね」と返していたし、私も「おめでとうございます」とかそんな風に返していた。

けれど、信之さんは息子の成人式に行くことはなかった。否、行けなかった。車を運転しているときに、いきなり後頭部を激しい頭痛に襲われたらしい。驚いたことに、朦朧とする意識の中で、信之さんはブレーキを踏んで車を止めた。そのおかげで交通事故による死者はでなかった。信之さんは病院に搬送されたが、一足遅かったらしくこの世を去った。所謂、くも膜下出血というやつだ。

この話を最初に同僚に聞いたとき、悲しみよりも「さすが信之さん」という気持ちだった。信之さんは、死ぬ間際まで信之さんだわ、と妙に納得したのだ。ただ、他の同僚や上司は皆悲壮感溢れる顔をしていたので私もそれに習った。

 信之さんの葬式には多くの人が参列していた。明るい性格だったので、友人もたくさんいたんだろう。泣き声の大合唱を聞きながら、私はぼうっと信之さんの奥さんと思われし女性を見ていた。

奥さんは泣いていなかった。泣くのを我慢しているというわけでもなく、目は穏やかに、参列者のお悔やみの言葉に口元を綻ばせながら優しく返していた。その姿は今夫の葬式に来ている妻とは思えないほどゆったりとしていた。

途端に私は確信し、安心した。「ああ、この人も私と同じで信之さんの行為に納得した人なのね」と思った。信之さんの死を悲しむのではなくて、一生懸命にブレーキを踏んだ行為を称えることが大事だ、と。良かった、本当に良かった。信之さん、あなたすごく幸せ者ですね。あなたにはあなたのことを理解してくれている女性が二人もいる。

 葬式が終わって一週間後、私は高校からの付き合いのF子に会った。今でもメールやら電話やらでちょくちょく話していたのでこれと言って話すことはないので私は信之さんについてF子に話した。するとF子は、

「あんたその信之さんのこと、好きだったんじゃないの?」

と言ってきた。私はびっくりして「どうしてそう思うの?」と聞き返すと

「だって、今の話を聞く限りそうとしか思えないわ」

と呆れたように言った。再度驚愕して私は口をあんぐり開けたままだった。

F子は人のことをよく観察していて、それをはっきり口に出して言う女性だ。オブラートに包むこともないし容赦がない。私はその性格が気に入っていたのだが、まさかここでその性格の餌食に私がなると思っていなかった。

「私が、信之さんのことを、好き?」

ぽつ、と確かめるように呟いてみる。口に出していうと現実味を帯びて妙にはっきりとした形に変わる。F子はそんな私の様子を見て今度は優しく言った。

「まあ、こういう場合って自分じゃよくわからないものよ。特に恋愛はね。その人が好きとか嫌いとか一番わかるのは自分自身だって言う奴が時々いるけど、そういう奴って大抵頭の悪い教養のない奴よね。客観的に見て気づくものって、この世にたくさんあると思うわ。こう考えると他人も捨てたもんじゃないわよね」

F子はそういってじっと私を見据えた。

「私、今あんたが考えてること当てられるわ。あんた今、信之さんが死んだ後でこの気持ちに気づいてよかった。だって、生きてるときに気づいていたら信之さんにきっと迷惑がかかってしまうから、って考えてるでしょう。」

返事をする代わりに私は苦笑いで返した。F子は本当に賢い。そういうところは本当に好きだけど、今は少しうっとうしい。賢いから、何でも手に取るようにわかってしかもそれを口に出してしまう彼女は、残念ながら全く悪気はないのだ。それを私は分かってるから文句も何も言わない。F子はウェイターを呼んで、ウインナーココアを注文した。彼女は甘いものが好きだ。

「まあ、別に気に病む必要ないわよ。ゆっくり時間をかけて思い出にするといいわ。時間って容赦なく私たちに現実を突きつけてくるようだけど、辛いことを思い出にしてくれる案外優しい部分もあるのよ」

F子は私を気遣うようにゆっくりと言葉を紡いだ。私は「そうね」とだけ返して窓の外を見た。雪が降っている。積もりはしないものの、星のように無数の雪がたくさん地面におちては消えていく。趣がある光景ってこういうことを言うのかしら、とぼんやりと思った。

 火葬場で私が捕まえた信之さんは今でも私の中にいる。私の中で生きて、時折すごく悲しい気持ちにさせる。だけど私はそんな時、F子が教えてくれたことを思い出す。時間は優しい。私たちに思い出を与えてくれるから。確かにそうだと思う。だから私はずっと待ってる。私の苦い思い出になるまで。

信之さんが私の中からいなくなるまで、ずっと待っているのだ。



 

 

 


 

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信之さん 正成 @rk0808

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