Memory

滝川零

冒頭部分

人はどこか皆違っている。

 だから、強い人がいれば弱い人もいる。私はどっちでもない。いつも弱い人にされないように怯えながら過ごしていた、ただの偽善者。

 ある意味、一番最低な人間だったと思う。

 朝日が差し込む電車内。私は扉の側に立ち、ガラスを通り越して入ってくる日の光など気にせず、流れ行く町並みを見ていた。

 ふと思い耽っている時は、いつもこうだと周りから言われる。思い出すのは小学校時代。

 まだ何も分からずにただ笑っていただけのあの時代は、私にとって心地よいものとは言い難かった。


 二〇〇九年。小学五年生の私・東雲千鶴は平凡な女子であった。決まったグループの女子と昨日観たドラマや新しい洋服についてなんかの話しかしていなかった。

 五年二組の教室、三〇人の中に彼がいたのだ。

 いつも一人で席に座って本を読む男子。

 確か名前は、水上久人君。

 去年、ウチの小学校に転校してきたのを覚えている。

 今年のクラス替えで一緒になったのだ。

 彼も至って普通なように私には見えた。

 しかし、クラスの数人が彼をいじめていることは、他のクラスにも広がるほどに有名な話である。

 一体、彼の何が原因となったのかは、部外者の私には知る由もなかった。

「おい、水上。放課後一緒に遊ぼうぜ」

 クラスの数人が彼に声をかける。

 遊ぶというのは勿論、彼をいじめること。

 ほぼ毎日のように誘われて知っているはずなのに彼は何故か快く応じていた。いじめている男子生徒達もしばらくそれが続いた時には、流石に違和感を覚えていたようだ。

 そして、放課後。学校と私の家の間にある公園に行くと、やはり久人君がいじめられているのを見てしまった。


 久人君の毎日はきっと私にとっては、地獄だ。

 上靴を隠され、机にはチョークで落書き、後は彼のかけていた眼鏡がいつも壊されていた。

 いじめに関わる男子以外は皆見て見ぬフリ。勿論、私もその中に入っていた。止めれば次は私の番だと、皆が思っていただろう。

 しかし、誰も手を出さなかったのには他にも理由がある。

 久人君が、いつも笑っていたから。

 何故、毎日あんなにも辛い目にあってるのに、平気で学校に来れるのだろうか。その笑顔がいじめている生徒達にとって、逆効果であることも分からなかったのだろう。

 だから、彼はいじめられても平気なんだと私達は――いや、私は思っていた。小学五年の秋、体育祭の時に久人君が些細なミスをしてしまった。

 それにより、ウチのクラスは学年対抗のリレーで最下位となり、当然の如く彼への扱いはエスカレートしていた。

 先生に見つからないようにして、陰湿ないじめは繰り返される。

誰も先生に言わない。言えば、犯人探しが始まり、次は誰が彼に変わって標的にされるか分からないから。

 だから、いじめている本人達が一番有意義な立場にいるという事実は、私の中にやはり名も付けられぬ奇妙な感情を生むのであった。

 

 席替えで隣の席になった時、彼は私に「初めまして。よろしく」

 と明るい声で言った。

 『初めまして』、その言葉に引っかかりを覚えながらも私は、ぎこちなく挨拶を返す。

 話したこともなかったから初めましてと言ったのだろうと解釈した私は、それ以降彼と話すことはあまりなかった。

 相変わらず、休み時間には男子達が彼を連れて行き、授業の始まる直前に戻ってくる。

 彼は本を読むのを止めていた。

 前までは、ずっと休み時間に本を読んでいたのだけれど、最近は休み時間毎に連れて行かれるのを分かっているからか、本を取り出そうとすらしない。

 流石に笑顔であった彼も限界を感じているのかと私は思う。

 しかし、翌日になればまたいつもの調子で登校してくる彼がいる。

 思い切って聞いたことがあるのを覚えている。

「本、読まないの?」

 唐突に話しかけられたからか、少し遅れたレスポンスがなされる。

「本って、何のこと?」

 不思議そうに首を傾ける彼の仕草に私は、何か変なことを聞いてしまったのかと恥ずかしくなり、顔を背けた。


 その日もやはり、久人君の服は埃や砂で汚れていた。

 それなのに彼は、変わらぬ笑顔で翌日も翌々日も登校してくる。

 一体、何がそんなにもおかしいのかと私は思うばかり。

 別に自分には関係ないと分かっていたから。

 六年になってもクラスはそのまま継続される。

 このまま、久人君は毎日いじめられ、いじめてる人達も傍観してる私達も変わることなく卒業まで一緒だと思っていた。

 その矢先、朝の会で先生が唐突に言い放った。

「水上久人君は、ご両親の都合により転校されました」

 何とも簡潔な言葉である。

 いじめていた男子達も傍観して私達も少し驚いた。

 そう、ほんの少しだけ。

 翌日にはもう誰も彼の話をしていないし、口にしなかった。

 そうして、私達は小学校を卒業し、自動的に決められた中学校に通うこととなった。

 中学の時は久人君のようにいじめられる子はいなかった。

 私が知らないだけもしれないけれど。別の学校の子も一緒になるのだから、お互いに慣れない時間を過ごしていたんだと思う。

 心に余裕がないから、相手に対する時間を使いたくないという思いが沢山見えた。

 高校は家から少し離れた場所に通うことにした。

 京阪の祇園四条駅から徒歩で一〇分程の烏丸高校に合格した。

 理由は制服が好きだとか、電車通学に憧れてとか色々あるけれど、何よりも大きいのは小中と過ごした人間関係に飽きたから。

 中学から地元の高校にそのまま進む生徒が大半なため、とにかく離れたかった。


 通勤する社会人の波に押されながら、祇園四条の駅を出る。

 高校までの道のりは、同じ制服に身を包んだ生徒ばかりであった。

 二年になって既に一ヶ月が経とうとしていた。実感は湧かない。

「千鶴、おはよう」

 背後から声をかけられたかと思うと、その声の主は私目の前に出て、後ろ歩きをしている。

「綾乃、おはよう」

 高校に入学してすぐに席が隣になった鳴海綾乃。明るく活発な少女。

 同じバドミントン部で活動している。「明日って朝練あったよね?」

「あるよ。先輩達も一緒に参加のはず」

 烏丸高校のバドミントン部は強豪として有名なのである。

 そのため、部員の人数は多い。

 ただ、他の部活との兼合いで場所は限られているため、朝練のグループが別れているのだ。

 放課後は個々に決められた練習メニューがあるために場所が足りなくても何とかなっている。

 朝も同じようにできないのは、顧問の先生二人が監督できないため、生徒だけで出来ることが限られているから。

 練習スペースに全員が入ることは無茶なのである。

 私も綾乃も通学鞄ともう一つラケット用ケースを肩からかけていた。

 校門前に着いた時、いつものように見張り番の先生と他数名の先生が挨拶してくる。

 煩わしいと思いつつも律儀に返す。

 教室までが長い。上靴に履き替え、二階へと上がり、廊下の突き当たりに私達のクラスがあった。

 綾乃は入り口のすぐ側、私は窓際の席に着く。

 鞄とラケットケースを机の横に置いて、教科書を机の中にしまっていく。

 一時間目の開始を告げるチャイムが鳴ると同時に担当の先生が教室のドアを開けて入ってくる。

 話してた生徒達は、皆席に戻っていく。開始の挨拶と共に今日も退屈な授業が始まってしまった。

 

 今朝、何故小学校の時のことを思い出したかと言うと、夢を見たからだ。

 忘れもしない、あの席。隣には転校してしまった彼が座っていて、皆真面目に授業を受けていた。

 休み時間になるところまでそれは続いて、私は例の如く彼の元に数人の男子が来るのに変な緊張を覚える。

「水上、サッカーやるから行こうぜ。隣のクラスとゲームすんだ」

 軽快な声が私の耳に飛び込む。

 思わず彼らに目を向けると、どうもいつもと雰囲気が違う。

「分かった。あんまり上手くないけど」

 久人君は笑顔で走る彼らについていく。

 彼らはやはり久人君をいじめるのではないだろうか。

そのような不安を抱えたところで、私の意識は目覚まし時計の音により現実へと戻されたのだ。


 昼休み、綾乃と二人で中庭に行く。

 大体、ここでお昼を食べるのがいつもの決まりなのだ。

 木製の机と椅子がセットで置かれたスペースに着く。

 彼女の弁当箱は男子のよりも少し大きく見える。

「そんなに食べると、練習の時にお腹重くない?」

「全然大丈夫。授業で頭使った分、エネルギー補充しない方が体に悪いって」

 笑って答えながらも彼女は箸を口に運んでいく。

 食べ終わった後は、自販機で買ったジュースを飲みながら色々なことを話す。そこで、ふと私は何を思ったのか、夢のことを思い出した。

 そして、綾乃にいじめについてどう思うかを聞いてみる。

 彼女はしばらくの間を置いた。

「私の小学生の頃にもあったなあ。いや、中学でもか。私は正直見てるだけの人間だった。今思い返すと罪悪感みたいなのを少し覚えるんだけどさ。でも、それって卑怯だと思うんだよね」

「卑怯?」

「そ、卑怯なんだよ。完全なまでに安全な場所へ逃げれたことを確認して、罪の意識を覚えるなんて卑怯じゃん」

 その言葉に私は、深い感動ではない何かと、空虚を感じとった。

 突然、このような話をさせてしまったことを彼女に謝罪し、チャイムが昼休みの終わりを告げたので教室に戻ることにした。

 昼休み後の授業は何故こんなにも眠いのだろうか。後二時間もこの眠気と戦わなければならないのは、とても苦である。六時限目の終了を告げるチャイムが鳴り、私達はようやく今日の授業から解放されたのだと、肩を下ろす。

 鞄を背負った綾乃が私の元に駆け足で寄ってくる。早く、体を動かしたいというのがとても分かる彼女の輝いた目。

「早く早く、もう皆体育館向かってるよ」

 私の机に両手を置いて、両足を跳ねる子どもみたいな彼女はとても可愛らしかった。

「お待たせ。行こうか」

 綾乃は走り、私はそれに遅れないよう早歩きで体育館へ向かう。

 正確には体育館横の更衣室。

 創立四〇年の学校にそぐわない程に綺麗なのは、私たちが入学する直前に老朽化などの危険が訴えられたことによる工事が施されたからだ。

 入学したときから一年通ったぐらいでは、まだまだ出来立ての状態に近い。白塗りの壁にぴったりと並ぶ灰色のロッカーは私達の荷物が全て入るほどの大きさ。

 普段の体育の授業では使わない。男子は教室で、女子は別の更衣室でと決まっているからだ。

 他の運動部も共に利用するが、大半はウチの部員が使うため、ここはバドミントン部専用と言っても過言ではない場所なのだ。

 私は自分のロッカーに鞄を入れる前に体操着を取り出す。

 四月の後半、少しの肌寒さを覚えるので、まだジャージの上下を手放すことはできない。

 赤の生地に青のラインが袖をなぞるよう引かれており、胸元に姓が同じ青で刺繍されている。

 バタン、とロッカーに荷物を入れて閉めた音が二つ鳴る。

「綾乃、ジャージは? 今日ちょっと寒いと思うけど」

「へーき、へーき。どうせ汗かいちゃうし。しのも結局脱ぐんだし、着なくてもいいんじゃない」

「体を動かすまでが寒いの」

 話しながら更衣室の扉を開けると、制服姿の女子が目の前に立っていた。

 女子にしては身長が高い部類に入る私だが、彼女はもう少し高い。

「二人とも今から? 気合い入ってるわね」

「お疲れ様です。飾先輩」

 三年の大月飾さんは、バドミントン部のエースであり、私の憧れでもある。

 中学の時にバドミントン部に所属していたから、高校では別のことをしようと思っていた。

 入学初日に隣の席の綾乃に声をかけられ、私は半ば付き添いで体育館に向かったのだ。

 そこで見たのは、軽やかにコート内を動き、シャトルとダンスをしているかのような飾先輩がいた。

 見とれていた私達に気付いて近寄ってきた先輩を見た瞬間、美しいという言葉を体現したのはこういうことなんだと、心の中で何かが嵌る音がした。


 飾先輩も私達と同じく体操着に着替えると、行こうかと笑いかけて歩き始めた。すらっとした長い足に綺麗な手、短いのに靡く髪の動きと、全てが私の憧れで綾乃にとってもそれは同様であった。

 体育館の練習場所には既に本入部を終えた一年生と他のクラスの二年生、数人の三年生が素振りや筋トレに励んでいる。

 飾先輩の姿を捉えた他の皆も快く挨拶をする。その後ろをついて歩く私達は、先輩のおまけ程度に挨拶を返されているのだと言ってもいいほどの存在に思えてくる。

 今のは自分を貶め過ぎか、と少し反省。今年から後輩ができ、来年には飾先輩とまではいかないが、皆の前に立てるよう立派になろうと、四月の始めに決めた私のメンタルの弱さたるや。


「今日の練習はここまで。皆体をしっかり休めて、明日も元気に来てね」

 部長・三船佳苗の声が響く。皆が一斉にお疲れ様でしたと挨拶し、片付けを始めた。

 結局私は半袖とハーフパンツというジャージを脱ぎ去った状態でいる。

 三年生は先に帰る準備を始めていた。これは、伝統というか“決まり”なのだ。中には手伝ってくれる先輩もいるが、上級生としての威厳というものがあるため、基本は手伝わないのが正解なのだ。

「明日の朝練は、東雲さん、鳴海さん――」

 掃除をしている私達の手を中断させて、三船部長が明日の朝練参加者を読み上げる。最後に飾、と彼女の名前が入った。

 明日は朝から先輩と一緒。

 床に落ちた汗を拭くモップを持つ手が自然と軽快に動いた。

「しの、掃除頑張ってるね」

 耳元で聞こえた声に振り返ってみると、少し上に飾先輩の笑顔があった。

 思わず後退った私を見て、驚かせたと思った先輩は変わらぬ笑顔のまま謝罪する。

「いえ、別に大丈夫です」

 本当に驚いているから間違いではないが、ここは否定すべきだと私の脳みそが導き出した。

 既に制服姿の彼女は、他の皆に挨拶をして、三船部長の元へ行く。

「先に校門で待ってるから」

「OK、すぐに行く」

 二人はダブルスで組むほどの信頼関係を築いている。部活関係なしに仲が良いのを知る者は多い。

 そんな三船部長のことを時々羨ましいと思ってしまう自分がいる。

 飾先輩を待たせぬように掃除を急いで終らせた。

 部長は最後に戸締まりまで確認する仕事が残っているから、私達が遅いと帰りも遅くなる。

 とても優しい先輩なので怒られることはないだろうが、と思っている者はいるだろう。

 ロッカーで制服へ着替え直した私と綾乃は他の部員と一緒に歩いて帰る。授業のことや部活、好きなアイドルや俳優で盛り上がるのは小学校時代からあまり変わらないと、話を合わせながら私は考えていた。

 途中に家がある子達が多いので、駅まで行くのは私と綾乃だけとなる。

「明日朝練かあ、早起きするの嫌だなあ」「電話かけてあげようか?」

「それで起きないのはこの前分かったでしょ」

 綾乃の返答に笑いながら、四条大橋を渡っている時であった。

 鴨川沿いの河原は建物の明かりでオレンジ色だったり、黄色ぽかったりと明るかった。

「私、この時間好き」

 欄干にもたれかかるようにして河原を見た綾乃の言葉に、私もと便乗する。

 河原を疎らに行き交う人の流れを見ていると、綾乃は何かに気が付いたように私の袖を引っ張った。

「あそこに座ってるの、四条高校の人じゃない。しかも、結構イケメンだ」

 身を乗り出す彼女は、間違えれば橋から落ちそうであった。

「止めなよ。指なんかさしたら失礼でしょ」

 言いながら、私も遠目に見える、別の学校の男子を見た。

 四条高校と言えば名門校として、知れ渡っている。

 きっと頭もいいんだろうなあと更に目を凝らしてみた所で、私はえっと口から言葉が漏れていた。

 自然と足が動く。今来た道を少し戻り、橋の横についている階段で河原にいる男子に向かって走り始めている。

 綾乃も私の異変に気が付いて、後を追ってきているがまだ追いつきそうにない。

 河原に座り、恐らく流れている鴨川を眺めているであろう彼の背に向かって、

「あ、あの!」

 と声をかけていた。

 彼に向かっていったのが伝わったのか、ゆっくりと振り返ってくれた。

 その後はもう頭に浮かんだ言葉をただ口にしていた。

「水上さんですか?」

 震えながら出た言葉に彼は真っ直ぐに私を見つめたまま、

「誰ですか?」

 と短い一言を発した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Memory 滝川零 @zeroema

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ