戦場にて

名無し

名前のない女と名前のない男と

「……なあに? しないの?」

「や、別に……君と話してみたかっただけ……」

なのね」

シュミーズを着た女は「ま、それもいっか」と言ってベッドに身を投げると、狙撃兵の男はスプリングフィールド銃を立てかけてベッドに座りました。

「名前は?」

「名前なんて幾つでもあるの。みんな私のことを好きな名前で呼ぶわ」

十字窓から月明かりが照らしていました。他の部屋の賑やかな喧騒が響いてきているのに、なんだか世界はぽっかりと二人きりに閉じ込められているみたいでした。

「それは貴方も同じでしょう? 名無しの兵隊さん」

人類最古の職業である兵隊と娼婦は、どちらも名前を必要とされないという点で似ています。権威者にとって、ロッド穴倉ホールは機能している限り何だっていいのです。

 名前のない女は上体を起こして、その長い髪をブラシで毛繕いして、『鏡の国のアリス』のジョン・テニエルの挿絵のようなアリスバンドを付けました。少女のように幼く見えるのに赤毛の混じった白髪をしており、吸い込まれる瞳の色もまるでこの世のものとは思えないのでした。

「もう長いの?」

「北アフリカからシチリアまで」

「じゃ、ベテランだ」

「階級は兵卒プライベートのままだけどね」

「きっと勲章デコレーションも貰ったでしょう」

「英語が上手だね?」

「ん……まあね。イングランドで過ごしてた時期もあったから」

「フランス人じゃないの?」

名前のない男がそう訊ねて、女は「んー」と言ってはぐらかしました。

「女には秘密が付き物なの」

「男にだって秘密のひとつやふたつ」

「浮気のこと? 薬指に急いで外した指輪の痕が残ってる人も多いわ」

「そういうんじゃないよ……」

男が照れてはぐらかすと、女は「ふぅん」と言って興味があるようにしました。

「じゃあ、いっせーので秘密を打ち明け合う? 二人だけの内緒にしましょう?」

「秘密のひみつ?」

「ほんとのヒミツ」

「それなら、じゃあ、いいよ」

二人は「せーの」と言って互いの口を開きました。

「僕はインディアンに育てられたんだ」「私は、“外なる神”なの」

二人は声を揃えて「え?」と聞き返しましたが、それぞれが思うところは違ったようでした。しかしずは男が女に訊ねました。

「“外なる神”って?」

「私、もともと宇宙そらから来た神格のひとつだったの。旧支配者とも言うわ」

おんなは十字窓の夜空に輝く星のひとつを指差しました。

「あの星。見える? 私はあそこから来たの。まあ、大体だけど。あっちの方向よ」

「月のこと?」

「あの“肋骨から作られた女”と一緒にしないで……」

女は今となってはそこまで月のことを嫌っているわけではないが、その地球に付き従う貞淑さに一種の軽蔑を覚えていました。

「私は昔、隕石だったの。あの月は、この惑星ほしがまだ煮えた金属だった頃に私とぶつかって出来たのよ。生まれはもっと遠くだけれど、えーと、人の子の言うラグランジュ点? で他のみんなと一緒になって、あれよあれよと質量を増していったのだわ」

「……小説の話?」

「あら、それを言ったら聖書だって『おはなし』じゃない」

「じゃ、その神さまの名前は?」

「色々あるの。【暗い月】だとか……ちょっと昔だとキスキル・リラとかキ・シキル・リル・ラ・ケ、あとはニンリルと呼ばれた頃もあったわ」

ここ最近は、リリスで落ち着いてるの。だから気に入っちゃった。ふぅんと言って男は薄着のままの彼女の身体を一瞥しました。

「どう見ても、普通の人間にしか見えないけど」

「それ、褒めてくれてるの? 人の子らが無闇に怖がらないように人の形プーペ・ド・ソンを取っているのよ。表面上はね」

「そんなものかな」

「信じてないのね」

そうは言ったものの、女はもともと大して男たちに期待もしてないようでした。

「ま、でも、とりあえずいいわ。今度はあなたの番。インディアンに育てられたって?」

「あまり自分のことを話したことがなくて」

「聞くわ。私、あなたのことに興味がある」

女は男たちを惹かせる術に長けていました。神性は人の子に求められれば応えてしまう性質サガであったのかもしれませんが。

 普段はもっと手を繋いでじっと相手の瞳を覗き込んだりもするのですが、今はしませんでした。「じゃ、言うけど……」と男は言って続けました。

「僕は捨て子だったんだ。両親の記憶はないし……インディアンたちは、たとえ捨てられているのが白人の子であってもコミュニティの一員として育てる習慣があったらしいんだ。……と言っても、僕を育てたのは狩りの師匠の爺さん一人だったけれど……」

「だから狙撃兵なのね?」

「うん。気配の消し方や獲物の追い方を教わったりしたよ。周りにはボーイスカウトで習ったんだって言って、ごまかしているけど」

「それはなぜ?」

「何故って……分かるだろ?」

女はキョトンとしたままでした。男は直接的な言い方を避けていましたが、少しイライラして、やはり言いました。

「仮にインディアンの血が入っているとでも思われでもしたら、僕はここに居られなくなってしまうよ!」

当時のアメリカには一滴法ワン・ドロップ・ルールという法律があり、たとえ一滴でも黒人やインディアンや日本人の血が入っていれば、有色人種だと見なされて差別の対象となるのでした。女は「なるほど、」と言いました。

「人の子らは未だ肌の色などで争っているのね」

女はそう呟きましたが、子供のすることだと思って、ニコニコと笑っていました。

 心底どうでもいいのでした。

「でも、秘密は守るわ。あなたも守ってね? また火あぶりにされるのは懲り懲りなのだわ」

「『また』というと?」

「むかし何度かあったの。魔女だなんだと言われてね」

「君は、死なないの?」

「たとえ死んでも、何度だって蘇るわ。それは当たり前の話なの」

草木が春に芽吹くように、朝には陽が昇るように。その輪廻の循環は変わらないの。

「でも……リルはまだ長いわ。もっと話を聞かせて頂戴? ベドウィンたちの行き交う北アフリカの砂漠から、ブドウやオリーブの実るシチリアの山々……ギヨーム2世への意趣返しとなった、ノルマンディの海岸の話まで!」

女は、夜伽話を聞かされる子供のようにニコニコ期待を膨らませていました。男は自分のスプリングフィールド狙撃銃をちらと見やって……「自分から話すのは苦手だけど、」そう言うと、静かにこれまでの物語を語り始めました……。

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戦場にて 名無し @Doe774

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