CLUE 2
翌日、私は東品川へ出かけた。親には「友だちのお見舞いに行く」という私らしからぬ嘘をついてごまかしたが、罪悪感よりも兄の足跡を追いたいという焦りが私を駆り立てた。
目的地はそう遠くなかった。電車を二回乗り換え、ついにその時がやってきた。
《次は天王洲アイル、天王洲アイル、お出口は右側です。東京モノレール羽田空港線はお乗り換えです――》
無機質な自動放送が、人もまばらな車内にこだまする。ここだ。これだ。私が探していたのは。
そもそも「アイル」なんてカタカナ書きの名前自体がおかしい。私の家はごく一般的な日本人の家庭で、両親ともに一般的な常識は持ち合わせているはずだ。いや、外国人だって「Isle」なんて名前は付けないだろう。「Isle」は英語で「島」という意味だ。
そういえば、兄の名前も変だった。「ナカス」は「中州」、つまり私の名前と対になっている。島と中州、そして「天王洲アイル」の地名。いったい誰が、何のために私たちにこんなふざけた名前を与えたのだろう。恐ろしく気分が悪かったが、かろうじて姿勢を保ち、呼吸を整え、駅の外を目指す。天王洲アイル駅の住所は東京都品川区東品川二丁目。兄の目的地はまさしくここだろう。私は鞄から日記を取り出し、さらにページをめくった。
十二月十一日(日)
相変わらず息が苦しい。気分が悪い。吐き気が止まらない。自分で自分を制御できないような気分だ。正体不明の恐ろしさ。あんな所に行ったのが間違いだった。
僕の家から天王洲アイルはそう遠くない。それなのに日常生活で気付かなかったのは。何本もの運河を挟んで。電車やバスで直に行けなかったからだ。近くて遠い場所。なぜ僕は行ってしまったのだろう。
しかしここで止めるわけにはいかない。僕、そしてアイルの未来が掛かっているのだ。
明日は区の住基台帳を照会するつもりだ。天王洲家、そして僕とアイルは何者なんだ。
私はスマホを取り出し、震える手で「苗字検索」というワードを打ち込んだ。「苗字一覧」というサイトを選択し、苗字検索のページを開く。以前、個人情報保護の観点から小規模な社会問題にまで発展したデータベース。各自治体の住基台帳を基にしたという説明書きが目に飛び込んだ。ここなら間違いはないだろう。
天王洲。確かに変わった苗字だが、幼いころから耳に馴染みがあるせいか、決して違和感を持つことはなかった。膨れ上がる小さな疑念を宥めるように、検索窓に「天王洲」と打ち込み、検索ボタンを押す。
天王洲を検索しました 0個ありました
「苗字」欄の漢字がおかしい場合、苗字検索(s-jis)を使用してください
決まった。天王洲などという苗字は実在しない。いや、実在してはいけない。なら私の名前は。恐怖が頭を支配し、混乱する。見慣れた東京のウォーターフロントのビル街が私を威圧する。通り過ぎていく車が私を怒鳴りつける。私は恐ろしさのなか、貪るように日記のページをめくり続けた。
十二月十二日(月)
案の定だ。区の住基台帳に天王洲の名は無かった。《なかったこと》になっているのか、それとも最初から《なかった》のか。僕にはわからない。そして、わかりたくもない。
十二月十三日(火)
僕は天王洲ナカスだ。ただ、それだけだ。他の何者でもない。僕は僕だ。それは僕自身が一番よく知っている。
十二月十四日(水)
昨日から耳鳴りが酷い。頭痛も収まらない。連日の疲れからだろうか。それとも僕の知らないところで何かが始まっているのだろうか。怖い。ただ、ひたすら怖い。
十二月十五日(木)
空が青い。いや、青いという質感が伝わってくるのではなく、ただただ《青い》。そのままの意味で《青い》のだ。これはなんだ。今まで自分が気付かなかっただけで、この世界はただの文字列だったのだろうか。
文 が降ってくる。ただ文章が羅列されていく。僕は天王洲ナカスだ。いや、そのアイデンティティさえ文 列に集約されていく。
十二月十六日(金)
アイル、僕が悪かった。どうか許してくれ。これは僕の遺 だ。きっと僕はもうここにい いけない。この が全て二十×二十の原 用 の中に封 められた 構であること。きっとそれを知った僕には、もう 場 物としての資格がない。どうか生きてくれ。気 かな でいてくれ。
十二月十七日(土)
ア
ここまで読んで私は気付いてしまった。空が青いのだ。青いという「質感」ではなく、ただただ「表現」として《青い》。無辺の空から《青い》という言葉が降ってくる。《ビル街》という語が、《通り過ぎていく車》という語が、私の前に立ちはだかる。そこに建っているのは《天王洲アイル駅》という語だ。全てが文字列として可視化され、私の視界を支配する。
耳鳴りが酷い。頭痛も収まらない。ただ、ひたすら怖い。ただ文章が羅列されていく。私は天王洲アイルだ。そのアイデンティティさえ文字列に集約されていく。この世界は全て二十×二十の原稿用紙の中に封じ込められた虚構だ。きっとそれを知った私には、もう登場人物としての資格がない。
私には見える。原稿用紙の向こう側に開けた《質感》の世界が見える。私と兄に名前を与えた人間も、あの日記帳を塗り潰した人間も、天王洲ナカスを《消した》人間も、そちら側にいることを私はよく知っている。
そして私には、この文章を追っている君たちの姿が見える。ついに私は全てを悟ってしまったのだ。《私の世界》は思いのほか単純だった。
私はこの世界から追い出される。
《日記帳》が、《天王洲ナカス》が、《天王洲アイル》が、
濁流に浮かぶ小枝のように引っ掛かっては、文字列の海へと次々に溶けていく。
《手》が消え、
《脚》が消え、
《頭》が消え、
溶けて、
攪拌されながら
混じり合う。
混濁の中で
意識を
失いかけている
《私》は、
最期に
金切り声を
上げて
唯一不変の
事実を
叫ぶ。
私は
天王洲ア
天王洲アイルの奇想譚 東雲綾 @r_shinonome
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