天王洲アイルの奇想譚
東雲綾
CLUE 1
《消えた》兄の日記が見つかった。
片付けがてら覗いた押入れの奥から出てきた、青のキャンパスノート。表紙にはマジックペンで「日記」とだけ書かれている。そして、背表紙にも裏表紙にも、持ち主を示す情報は何ひとつ書かれていない。しかし、この手掛かりの無さこそが「兄の私物である」という、より一層の確信を私にもたらしたのだ。
兄は《消えた》人で、それと同時に《忘れられた》人だった。いつだったかは忘れたが、ある日を境に兄は、ぱったりと姿を見せなくなった。そして、二度と私の前に現れることはなかったのだ。
さらに不思議なのは、兄が消えたことに対する私の家族の反応だった。最初の数日間は私もちょっとした家出みたいなもんだろう、あの兄にしては珍しい、などと楽観的に考えていたのだが、一週間ほど経ったある日、反抗期真っ盛りの薄情な妹だった私もさすがに心配になってきて、「そういえばナカスは」と両親の前で尋ねた。すると両親は気まずそうに互いの顔を見合わせたのち、私に向かって怒るような口調で「知らない」とだけ答えたのだ。
とにかく私にとって、これは非常にショッキングな体験だった。そもそも長男だった兄は、二番目の私より大人びていて、それでいて勉強もできたし、性格も良かった。そんなよくできた兄だからこそ、両親をはじめとした大人たちからの愛情もプレッシャーも、私に向けられるそれより遥かに大きかった。昔から得意なことといえば縄跳びとかけっこくらいしかなかった私は、彼を尊敬する反面、彼への嫉妬の情に苛まれていた。
あれは中学生の頃だった。ふたつ年が離れた私と兄が、同じ学校に通っていた最後の一年。一学期終業の日、中三の兄と中一の私は、揃って親の前に成績表を差し出した。その内容は、四年経った今でも鮮明に覚えている。
三年A組 天王洲ナカス
《通知欄・素行》
受験期を前に、順調に自主学習に取り組めています。元々成績もよいだけに中だるみが心配でしたが、本人は意に介するところもなく、いたって真面目に日々の学校生活を送っています。立ち振る舞いも相変わらず大人びていて、クラスのまとめ役として活躍しています。
一年C組 天王洲アイル
《通知欄・素行》
活発で明るい反面、少々やんちゃな面も見られます。授業進度にも置いて行かれがちで、考査の成績も芳しくありませんでした。ご家庭でも指導のほどを――
ここまで読んで、父は私を一喝した。
そりゃ私は、確かに子供っぽくてやんちゃで、どうしようもないおてんば娘だったかもしれない。だが、隣で母からお褒めの言葉を頂戴している兄を前に、反省よりも劣等感の爆発が勝ってしまった。私は父と母と真っ向から対峙し、激情をぶちまけ、そのまま家を飛び出した。
しかし、そんな時でも傍にいてくれるのが兄だった。
夕方、運河沿いの親水公園のベンチに座り、右手にくしゃくしゃの成績表を持った私。水辺で騒ぐ子どもたち、そしてその光景を見守る親たち、それから――。
――まるで迷子のような表情でこちらを見つめている男子中学生。天王洲ナカスだ。私の兄だ。兄は私の姿を認めると、ゆっくりとこちらへ足を進めてきた。
「アイル、帰ろう」
なんでだ。私の兄はなぜこんなにお人好しなんだ。私は両親への恨みも兄への妬みさえも忘れて、溜め込んでいた思いをすべてを開放するように、兄の胸で泣き叫んだ。
もちろんそれで劣等感や嫉妬が拭えたわけではなかったし、その後いわゆる反抗期を迎えた私にとって、兄は常に尊敬と嫉妬の対象だった。だからこそ、私は兄が《消えた》とき、周りの誰にも彼がどうしたかを深く追及することができなかった。
彼が消えて、しばらく経つ。そして、もう戻ってくることは無いだろう。ある日ひょっこり玄関の扉を叩いても、我が家は彼を迎え入れることはできない。私が気付かない間に、彼の部屋は書斎になっていた。彼の靴はすべて消えていた。彼の参考書には私の名前が書かれていた。彼はもういない。
だからこそ、私は件の日記帳を見つけたとき、兄の物だと瞬時に理解した。誰のものでもない、つまりここにいない人、消えた兄の物だ。私は少々躊躇いつつも表紙をめくった。
十二月九日(金)
もう年末だ。年明けまでには、絶対に例の問題を解決してやろうと思う。これは僕だけの問題ではない。両親や友人、そしてアイルの将来にも関わる一大事だろう。
最初のページには、こう短く記されていた。なんだこれは。あまりにも簡潔で不穏な内容に、私はしばし呆然とする。
十二月十日(土)
宣言通り、明日から本格的な調査を始めようと思う。まずは旅だ。前々から目星をつけていた、 京都 川区東 川二丁目付近を訪れる。我ながら馬鹿げているとは思うが、ここが僕、そしてアイルのスタートラインになるかもしれないのだ。
黒く雑に塗りつぶされた地名。あの真面目な性格の兄が、まさかこんな修正を加えるとは思えない。もしかすると、私の前に誰かがこの日記の不都合な部分を修正し、第一発見者の目に留まらないように隠したのか。だとしたら、それは何のために。得体のしれない恐怖を胸に、私は兄の私物だった地図帳をめくった。
おそらく区切りとしては「○京都」「○川区」「東○川」「二丁目」で間違いないだろう。そうすると、一つ目の区切りは絶対に「東京都」だ。そしてその下は特別区、つまり東京二十三区のいずれかの地名が入る。地図帳によれば、「○川」という名の区は「荒川区」と「品川区」の二区。そして、「東○川」という地名を有するのは「東品川」が属する品川区のみ。つまり、「東京都品川区東品川二丁目」が正解。
やっと謎が解けた。ささやかな充実感を噛みしめる私は一方で、とある事実に気付きはじめていた。
部屋着のポケットに入ったスマホ。なぜ、これにインストールされている地図アプリで住所検索を掛けなかったのだろう。
敢えて避けていた、というわけではなくて、ただ単に思いつかなかったのだ。常日頃から肌身離さず持っている文明の利器の存在が、この小一時間の間、完全に頭から抜け落ちていた。
私はついに空恐ろしくなって、地図帳を放り投げた。もしかしたら私は誰かに制御されているのかもしれない、そんな馬鹿馬鹿しい妄想さえ頭の中で真実味を帯び始めて、脳裏をぐるぐると回り始める。もし仮に誰かの意向で私の行動が決定されるのなら、それに反抗したらどうなるのだろう。私は怖くて試せなかった。スマホの地図アプリを開く気にもなれなかった。
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