16 彼を知り、己を知れば

「彼女の生まれは、決して恵まれているとは言えなかった。絶えず貧困に苛まれ、荒んだ者達は日夜罪を犯す、そういうところに居た。それでも、彼女は善良に生きようと懸命で。そこに私は惹かれた」


 壮年の男は、自らの半生を語るうちに知らず立ち上がっていた。

 胸の奥から込み上げるたかぶりが、そうしているようだった。


「だが、私達には、ごく当たり前に愛を育むことすら許されなかった。今は亡き父が私達に言い放った“住む世界が違う”という言葉は、忘れたくとも忘れられない。親に認められぬまま、秘かに逢瀬を重ねるうちにやがて彼女は身ごもった――君を」


 立ち上がった男は語りながら部屋を歩き、語り聞かせる青年の前に立つ。

 目の合う高さはほぼ同じ。青年と自分との、確かな血の繋がりを感じた。


「彼女は。君の母は体が弱くてね。君をこの世に産んですぐ……亡くなった。あの時、おおやけには君に対して、若く非力な私にできたのは、知己の教会に君を預けひたすら見守ることだけだった」


 男はありし日の苦悩を思い出し、自分の頭に手をやると、クセのついた金髪を掻き毟るようにした。

 それが男の癖であった。


 述懐を聞かされている軍服の青年は、直立不動のまま眉ひとつ動かさない。

 ただひたすら、目の前の男を見た。睨むでもなく、慈しむでもなく、ただただ、見た。


「ようやく、最大の障害は除かれた。だからこうして、君を迎えに来たのだ。我が最愛の“ひと”との愛の結晶。この世でただ一人になってしまった、愛すべき息子ひと――バンカ。今まで、すまなかった」


 父を名乗る男に対し、バンカが投げかける視線は冷たい。

 バンカ自身も、自分がいつも以上に冷静で居られているのが不思議だった。


 いつもの自分であれば、このような話を聞かされれば、身勝手な父親を殴り倒していても良いものだというのに。


「――――随分勝手なこと言うじゃねえか。ついでに、俺を軍から抜けさせて商売の真似事でも仕込もうってか?」

「そんなつもりはない。おまえが軍人という生き方を選ぶのなら、私は応援する。アンナロゥ大佐から目をかけられていることも知っているよ。さすがだ、バンカ」

「チッ」


 ようやく、嫌悪感が舌打ちとなってせり出してくる。

 バンカは今度こそ、唐突にやってきたを――レックス財閥4代目当主ネイル=レックスを睨みつけた。


「今さらのこのこ出てきて、親父だなんて思えねえよ。だが、本当にアンタが俺の親父ファーザーだって言うんならよォ――息子が乗るための出世道レールは、きっちり用意して貰おうじゃねェか?」


 ぎらついた目で“父”を睨んだまま、バンカは口端を裂けるほどに吊り上げて、白い歯を剥いてみせた。


 バンカ=T=レックス。

 彼は決して、財閥の御曹司などではない。

 飢えた狼であった。


 *


 士官用にあてがわれた自室にヴォルテを呼びつけたアヤは、お気に入りの茶を二人分淹れてソファに腰を下ろした。

 分隊のミーティングなどとかこつけてはいるが、既に日は暮れ、多くの兵士は休息に入っている。


 要するに、アヤは英気を養いたかった。ヴォルテとお茶を飲むことが、今やアヤにとって、英気を養うことに繋がっていた。


「バンカ兵長のお父上が、あのレックス財閥の当主だったなんて」


 ほぼ確定の噂として耳に入った、本日最大のニュースを反芻してアヤはため息。

 ヴォルテもまた、茶をひと啜りして息をつくが、彼が含むのは驚きではなく喜びである。


「……良かったなあ、バンカのやつ。本当に、良かった」

「ヴォルテ伍長……嬉しそうですね」


 アヤは屈託のない彼の笑みから思いをさとる。

 ――きっと、この青年は心の底から、何ら含むところなく祝福しているのだろう。同じ孤児であった、同期の戦友を。


「もちろんです。あいつは突っ張ってるけど、寂しがり屋でしたから。ずっと、心の拠り所を探して、だから、軍隊に入った、って」


 友人の話をするヴォルテを見るアヤの目が、ほのかに憂いの色を帯びる。

 彼女の意図を察し、ヴォルテはいつも通りの柔和な笑みをアヤに向けた。

 見る者の心に沁みるような、自然な微笑みだった。


「僕は、孤独じゃありません。だって、ずっとファーザーが近くに居るんですから。それに、アヤ少尉たちが力を尽くしてくれるお陰で、どんどんファーザーのことを知っていけてる。近づいていけてる。こんなに恵まれているのに、他人を羨んだりする訳がないじゃないですか」

「……ヴォルテ伍長は、本当にファーザーのことを――ドリルのことを大切に思っているんですね」

「ええ。それが、僕の生きる道しるべみたいなものですから。ドリルは、僕そのものです」


「じゃあ、私ももっと、ドリルのことを知りたいな」


 カップから離れたアヤの唇が、艶のある音で言葉を紡ぐ。


「だって……そうすれば、あなたをもっと知ることができるんでしょ?」


 対面するソファからゆっくりと立ち上がったアヤは、きょとんとした顔をするヴォルテの隣に座り直した。


 肩が触れ合う近さ。

 黒髪から、シャンプーのいい香りがして。

 眼鏡越しの青い瞳は、潤んでいて。


「少尉――!?」


 ヴォルテが何か言うより早く、アヤは細腕を彼の肩に回し、唇を重ねた。


 長い長い、わずか5秒のキスだった。


 顔を離した瞬間に、二人はお互いの頬がみるみる紅く染まるのを見た。

 お互いの胸が、大きく鼓動を打つのが聴こえた。


 アヤは、自身の鼓動を抑えるかのように、重ねた両手をブラウスの豊かな膨らみに沈め。

 レンズを隔てた青い眼から、理由もわからず涙が伝うのもそのままに、ヴォルテを見つめ。


「おねがい、アヤって呼んで。少尉じゃなくて。上官じゃなくて。ここに居るのは、ただのアヤ=ルミナ、だから」


 衣擦れの音と、青年が息を呑む音がした。


 ぱさり、と。

 ブラウスが床に落ちる。

 続いて、スカートと、下着も、落ちる。


 ――ヴォルテの目の前に、アヤ=ルミナが立っていた。

 羞恥と決意の桃色が差す柔肌をあらわにして、高まる鼓動に全身を微かに震わせながら。

 それでも健気に、彼女は両手を広げ、彼を迎えようとする。


「ほら……ね? ヴォルテ」


 そして彼もまた、応えた。

 生まれたままの姿になった少女を暖めるように、優しく。

 包み込むように、解け合うように、抱きしめた。


「うん――――アヤ――」


 再び、唇が重なる。


 一対の男女が絆を繋げ、確かめ合う、契りの口づけであった。


 *


 夜の簡易機甲渠ドックでは、夜を徹した作業が続けられている。

 決戦に備え、アーマシングのコンディションは最高に保っておかなくてはならない。

 ここが我らの戦場とばかりに、整備兵は駆けずり回っていた。


 その一角に、他とは異なる系統の作業を続ける者たちが居た。


「各機関ブロックの分解を終えたら、順次『輸送機ゾーガメ』へ積み込み、“本部”へ移送だ」


 素肌に軍服のジャケットを羽織ったアンナロゥが、作業員へ指示を飛ばす。

 ちらちらと見える胸元、桜色をした乳首の左側だけが妙に赤くなっているが、それに質問できる者はこの場には居なかった。


「ああ、キミ。ちょっと頼まれてくれ。私の部屋にベッツ曹長が居るから、ことづてしてくれたまえ」


 作業員の一人を呼び止めたアンナロゥは、相手の困惑、動揺は一向に気にせず、用件だけを伝える。


「重犯罪者『ヴォルテ=マイサン』と『アヤ=ルミナ』の両名を、ただちに捕縛・尋問せよ。罪状は――――『惑星侵略罪』だ」

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