1-2 狙われなくてよかったですね
社で定められた休憩時間はあるが、SEという仕事柄、その時間内に食事を取れない社員もままいる。休憩を終えた者と遅めの食事を求める者が行き来する社員食堂の隅っこに、結と章彦は腰を落ち着けた。
「午前中、何か変わったことはあったか?」
箸に手を伸ばしながら結は目の前の後輩に尋ねる。
「仕事では特に何も。藤村さんから電話がありましたけど」
「へぇ、何だって?」
「特に要件はないけれど元気でやってるか、と。あの人、ヒマなんでしょうか」
吐き捨てるような章彦の口ぶりに、結は口にした飯を噴き出しそうになった。
「うちの西村さんと同じ、三課の課長だから暇ではないと思うよ。気にかけてくれているんだろう」
「もうとっくに東京支社の人なんですから、こっちのことまで気にしなくてもいいのに」
章彦は面白くなさそうな顔をしている。元々あまり人を寄せ付けない言動の彼がそのような顔をすると、ますます近寄りがたい雰囲気だ。
事実、以前より緩和されたとはいえ、章彦は課員の中で浮いた存在だ。
藤村さんはそういったところを案じているんじゃないかな。と結は思ったが、それは口にしないでおいた。藤村もあまりストレートに「心配している」などと言うタイプではなく、むしろ茶化したりするので、また章彦の感情を逆なでするようなことを言ったのかもしれない。
「うん、まぁ……。ところで、来週から新しい派遣先に行くことになったよ。名芝学園高校だ」
藤村の話題は切り上げて、結は先程言いつかった仕事の話をする。
「緊急メンテですか?」
「ああ。手に負えない場合は応援を頼むかも。よろしく頼むよ」
諜報の捜査を表す隠語にうなずいて、結はふと、照子との出会いを思い出した。
照子は結の恋人だ。二年前の春に知り合い、そう間を置かずに交際に至った。
「それはもちろん。そう言えば、
章彦の問いかけのタイミングの良さに、結は今度は茶を噴きそうになったが、ぐっとこらえた。
「うん。二年近く前に、彼女が働いている大学に藤村さんと一緒に派遣されたんだ。あの時は藤村さんがほとんどメンテをしてくれたから、俺はあまり出番がなかったよ」
「どこのパソを?」
「理事長室」
「なるほど、それはベテランの藤村さんの出番ですね」
「それで、俺は事務員の方に回ったから、彼女と知り合いになったんだ」
「青井さんが思っているよりも激務だ、と他戸さんはご存じなのですか?」
「いや、まだ言ってない」
ひと気が少なくなったとはいえ、防音設備なども何もない食堂での会話は、直接的な表現はできない。
それでも章彦は結の言いたいことは理解しているようだ。さすがに結が照子に接触した真の理由を察しているわけではなさそうだが。
照子は極めし者であり、事務員達はもちろん、教授や学生達にも人気であった。理事長とでさえ気さくに話す照子が、もしかすると何か知っているのかも、と疑い、偶然を装ってわざと近づいた。
結局、大学側に不正はなく、藤村と結は二カ月で退くこととなった。
派遣期間が終わると照子に会えなくなる。そう思うと結は寂しさを覚えた。捜査対象者として接していたはずの照子にいつの間にか本当に心を奪われていたのだ。
なので終了間際に、結から照子に付き合ってほしいと告白した。もちろん、諜報員であることは隠して。
それからの付き合いは順調だが、二人ともそろそろ結婚を意識する年齢に差し掛かってきている。
プロポーズすることも、その際に本職を明かすことも心に決めている。問題はどういう話の流れでどう切り出すのか、だなと結が考えていると、章彦がさらりと爆弾発言を投下した。
「それから二年ですか。藤村さん、仕事はすごく出来るのに女癖が悪いですからね。他戸さんを狙われなくてよかったですね」
これには、さしもの結も笑いをこらえきれなかった。
「それは、うん、そう思う」
結が笑うと、章彦も朗らかな顔で笑みをこぼした。
(こんな表情を、他の人にも見せてくれたらいいのに)
藤村を茶化す章彦こそ、仕事はすごくできるのに人間関係は……、と思わざるを得ないのであった。
週末、結は照子をデートに誘った。
明日から新しい仕事に就く。SEとしての派遣なら休みもなんとか確保できるのだが、諜報員として期限付きの捜査に携わる場合、週末も任務に費やされることがほとんどだ。
なので、今日はしっかりと照子と楽しいひと時を過ごしたかった。
「一日デートって久しぶりだったよね」
夕食時、人の声と物音が絶え間なく混ざり合う居酒屋の席で、照子がにこやかに笑って言う。ファッショングラスの、赤いフレームを軽く押し上げるしぐさは才女の雰囲気を醸し出すが、それよりも快活な言動が上回る女性だ。
「うん。なかなかしっかり会えなくてごめんな」
「いいよ。忙しい人を好きになっちゃったんだから」
結の詫びを照子は笑って流す。彼女の包容力の豊かさに、いつものことながら居心地の良さを覚える。
「さらにごめん、なんだけど、明日から新しいところに派遣されたから、また忙しいと思う」
「そうなんだー。どんなとこ?」
「大阪の高校。夏休み中にパソコンのメンテナンスを頼まれてね。期限付きだから手こずると土日返上だ」
「あらら。大変だね。体にだけは気をつけて」
照子が、少し心配そうに結を見てくる。
会えない不満どころか体調を気遣われて、嬉しいよりも申し訳なさが上回る。
「ありがとう、ほんと、ごめんな」
「いいって。結と会えないならチャンプしてくるから」
照子は、あははと笑った。
彼女は勤め先の大学近くにある公園で週末に開かれている素人の格闘大会にしばしば出場していて、今のところ無敗を誇っている。極めし者としての力を使うことを禁止していない大会なので、他に極めし者がいなければ当然の結果だろう。
なので、照子はその公園で「チャンプ」などと、親しみを込めて呼ばれている。
異能をさらけ出すと偏見や恐怖から忌み嫌われることも少なくない。なので力を隠す極めし者も多い。だが照子はそのような扱いは受けたことがないと言う。彼女の人柄のおかげだろう。
「チャンプしてくるのはいいけど、もう危険な大会には出るなよ?」
少し声をひそめた結の切り返しに、照子は痛いところをつかれたと言う顔をした。
「もう絶対出ないよ。結に心配かけたくないから」
同じように声量を落とし、顔を少し近づけて照子が悪戯っぽく笑う。
「あの時は驚いたよ。闇大会だもんな。暴力団とか関わってて危険なのに出ているなんて。普段はどっちかっていうと穏やかなおまえが、この大会だけは、って必死だったのも正直言ってあせった」
「だって雪辱戦がかかってたんだもん。これを逃したらもう『あの男』に会えないって結も思わない?」
「……うん、思う。なんか怖そうな男だったし、普通に生活してたら近づかない感じのヤツだな」
照子は姿勢を戻して「でしょー? わたしももうこりごり」と笑った。
実はその大会に、結は諜報員として裏側で潜りこんでいたのだが、これもまだ照子には打ち明けていない。
プロポーズが延びている原因の一つが、その大会であったことも。
照子の返事にうなずきながら、いや、と心の中でかぶりを振る。
(プロポーズを先延ばしにしていたのは、誰のせいでもない、俺が臆病だからだ)
何十年と一緒に暮らすのに、本職を隠し通す自信はない。ならば、ばれるかもしれないと気を使い続けるよりは、結婚相手には自分の職のことを知っておいてもらいたい。照子なら、自分が裏社会に関わる人間でも受け入れてくれるはずだ。
そう思いながらも、もしも嫌だと言われたらと考えると委縮していた。それを、この仕事が終わったら、次の仕事が終わったら、と仕事のせいにしていた。
諜報員となって七年、いろいろな仕事に関わったが無事に切り抜けてきた。たとえ照子と結婚してもうまくやっていける。うまくやってみせる。
照子が関わる闇大会の調査を無事に切り抜けたことで、ようやく結に自信が芽生えてきた。
(来月には、こっそり準備している婚約指輪も出来上がるはず。明日からの仕事を無事に片付けて、照子にプロポーズだ)
結の顔は自然と幸せそうにほころんだ。
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