第77話 焔に嗤う


 白み始めた空の彼方から早朝の爽やかな風が吹いてくる。頬を撫でる風に目を覚ました志麻は、ゆっくりと起き上がって見渡すと、外から入ってきた晴嵐と目が合った。

「行ったぜ」

 晴嵐は煙管を片手に言った。

「そうか、見送ってくれてありがとう」

 志麻がそう言うと、晴嵐は面倒くさそうに欠伸をした。照れ隠しだった。丁度ナギと近衛も起きてきた。

「おはよう、先生、近衛。矢橋はもう行ったそうだ」

「ようやくか、次に会うのは地獄だな」

 近衛はそう言って大きく伸びをした。それから首の後ろに手を遣って、もうそこに後ろ髪の無いことを思い出した。

「先生、腕の調子を診てほしい」

 志麻はナギに腕を差し出した。折れた腕は元通りになっていた。

「一晩で治りましたね」

「霊薬さえあれば軍人も楽なんだろうが、酒も薬も溺れるのは御免だな」

 仲良く眠っている五津海と榊を近衛が起こす。五津海はまだ慣れない様子だった。顔を洗って目を覚まそうと榊が手を引いて五津海を外に連れ出す。すると烏天狗たちが集まってきた。烏天狗たちが次々と話し掛けてくるものの、五津海にはさっぱりと分からなかった。戸惑っている様子を見かねた晴嵐が間に入って話をする。

「霊薬でも五津海を元に戻せねぇか」

 外の様子を眺めながら、呟くように近衛が言う。

「あれが本当の五津海なのだと言うのなら、元に戻ったということではないのか?」

「バラバラに砕けたものをひとつに戻せねぇのかってことだ、振り出しに戻るってことじゃねぇよ。調子の良い五津海も、狂った笑い方の五津海も、分裂した心とはいえども両方がともに五津海だったはずだ。欠片が元あった場所に戻らねぇってことは、この先もずっと矢橋が死んでからの歳月は五津海にとって空白になっちまうってことだろ」

「残念ながら霊薬は肉体の損傷にしか効果がありません。頭を打ったことにより一時的に記憶を失ったのであれば戻る見込みはありますが、精神には作用しないのです」

 ナギの言葉に近衛の表情が翳った。しかし、とナギが言葉を続ける。

「人間の心は複雑で、奥が深く、自分自身でさえもすべてを把握することなど叶わないと聞きます。いつか宗貴さんの空白が埋まる時も訪れるのではないでしょうか。絶対に無理だと言い切ることは出来ませんよ」

「そのいつかが来るまで、どうしたもんかなぁ……」

 近衛は腕を組んで眉間に皺を寄せた。

「あいつは闇市の取引で追っ手のオニツクシを何人か売り渡したっていうのに、その自覚も無ぇんだ。軍から追われる身になっていることをどう説明する? 学生時代の五津海をどう納得させりゃ良いんだ」

「実際に追われてみれば五津海だって嫌でも納得するだろ。数年間の記憶が無いことなんてすぐに分かるんだ。可哀想だが、五津海が闇市でオニツクシを消したのは事実だ、どうしたって変えようが無い」

 志麻は外を見た。晴嵐が志麻たちに向かって手を振っていた。

「近くまで送ってくれるって」

 晴嵐の言葉に志麻たちは顔を見合わせた。

 嫌だ、無理だと最後まで渋ったのは近衛だった。

「大丈夫なわけねぇだろ! 空だぞ、絶対に無理だ!」

 近衛は柱にしがみついて離れない。志麻と榊が近衛を引き剥がそうとする。

「それならお前は港まで自力で行けるのか! 屋根の上は平気で走っているだろう!」

 烏天狗たちは志麻たちを抱きかかえて港の近くまで飛ぶと提案したのだ。山を下りて街道を歩くよりも速く、道中で待ち構えている刺客を避けるためにも安全な移動だった。時間の無い志麻たちにとっては願ってもいないことだったが、近衛は首を立てに振らなかった。

「無茶を言うんじゃねぇよ! 空は落ちたら死ぬだろうが!」

「目を瞑っていたらすぐに着きます!」

「お前は空から落ちくらいじゃ死なねぇから余裕だろうな!」

「屋根からでも打ち所が悪ければ死ぬだろ」

 呆れたように晴嵐が手元でクルクルと煙管を回しながら呟く。

「無理もありません」

 ナギが近衛に歩み寄る。

「地上に生きる者が高所を恐れるのは当然のことです。私だって恐ろしくないと言えば嘘になる。私が近衛さんと一緒に行きましょう。疲れた時には私が背負って走りますから」

 そう言ってナギが近衛を宥めていると、いつのまにか近衛の後ろに回っていた晴嵐が片手で素早く印を結び、指の間にフゥッと息を吹き掛けた。次の瞬間、近衛はガクッと床に崩れ落ちた。晴嵐が妖術で眠らせたのだ。

「大人しくさせておくのが一番だろ、眠っている間に着くさ」

 晴嵐はそう言うと雀に変化して榊の頭に止まった。近衛が烏天狗たちに引き摺られていく様子をナギは憐れんだ目で見送った。

 こうして志麻たちは烏天狗たちに抱えられて朝の始まる空へと飛び立った。


 遙か眼下に田園が広がる。人々の営みはまだ眠りの中にある。翼のある者たちが見ている景色はこれほど清々しく美しいものだったのかと志麻は感激していた。風が音と共に過ぎ去る。遠く山々の端が輝く。蛇のような川の流れ。遠くまで続く道。見たことのない払暁の世界に恐怖よりも感動が勝った。焼き付けておこうと志麻は思った。いつか思い出す日のため、心に、瞼の裏に、忘れずにいようと思った。


 志麻たちは港から少し離れた雑木林に降り立った。

 烏天狗たちの妖術で姿を隠してきたが、あまり港から近すぎると妖気を勘付かれかねない。地上に降りる頃には朝が始まっていた。道行く行商の列に紛れ込めば、うまく港に入れるだろう。晴嵐は魘されている近衛の術を解いた。起きた近衛は状況を把握して、ただ呆然としていた。

「ここから二手で行動しよう」

 志麻が言う。武器を探すのは志麻とナギ、それから五津海の役割で、渡会を探すのは近衛と榊、志麻に変化した晴嵐だ。晴嵐は志麻の周りをぐるぐると回って入念に確かめると志麻に化けた。志麻の骨折が治っていることはまだ知られていない。首から吊られた腕以外では志麻と晴嵐の見分けが付かなかった。

 偵察に出ていた烏天狗が戻ってきた頃には近衛も持ち直していた。烏天狗からの情報を頼りに作戦を練る。

「オレたちは西から入って南へ行く。志麻たちは北から東だ」

 警備班の詰め所は東側に、埠頭は南側にあるという。

「渡会を誘い出すなら晴嵐を先に見付けさせるのが良いだろう。近衛たちが先に行ってくれ」

「ああ、そうだな。首尾が良ければ船の一艘くらい奪えるか。いずれにしても埠頭で会おう」

「気を付けて。榊、お前なら大丈夫だから、渡会に怖じ気づくなよ」

 志麻の言葉に榊は元気よく頷いた。

 近衛たちは先に雑木林を出たが、すぐに榊が駆け戻ってきた。榊は走ってきた勢いのまま志麻にしがみついて志麻の腹の辺りに顔を埋める。

「どうした、榊」

 別行動は不安だったか、渡会と対峙するのは相手が悪かったか。あるいは自分たちを心配してくれているのか。志麻は色々と考えを巡らせた。数秒の沈黙があって、榊は顔を上げた。

「いってきます!」

 それだけを告げて榊はまた走っていった。志麻とナギは手を振って榊を見送った。

「榊さんなりに何か思うところがあったのでしょうね」

「身体はいつまでも子供のままだと思っていても、精神は少しずつ成長している。いつか心は身体を追い越すのだろうな」

 志麻は姿が見えなくなっても榊が駆けていったほうを見詰めていた。そんな志麻とナギの後ろで、五津海は烏天狗たちから色々と渡されていた。果実や呪符、それから錫杖。風呂敷に包まれた荷物と錫杖を携えて所在なげに立つ五津海の姿は、田舎から帝都に出てきたばかりの若者のようだった。

「持ちますよ、宗貴さん」

 風呂敷包みをナギが持った。五津海はすっかり話さなくなった。ずっと口を噤んだまま、寄る辺が無いから志麻たちと共に行動しているだけだ。その変化にナギも戸惑っていたが、今はどうすることも出来なかった。もっとも、一番混乱しているのは五津海自身だろう。

「俺たちも出発しよう」

 近衛たちが向かった方角とは別の道へと志麻たちは歩き出した。烏天狗たちが心配そうに雑木林から見送っていた。

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