第76話 錨を放つ 二十(終)


 志麻は矢橋を見詰めた。矢橋の外見は時を止めて、あの頃のまま変わらない。志麻たちは少しばかり歳を重ねたが、矢橋だけはまだ青さの残る顔をしていた。片目こそ銀色になっているが、変化はそれだけだ。矢橋は変わらない、いや、変わりようが無かった。

 矢橋が死んでからというものの、今夜のように同期で集まって話し込むということも無かった。それぞれが与えられた任務で忙しく動き回り、年に一度、矢橋の命日だけが決まって集まる機会だった。だが、夢を辿ることももう無いだろうし、今夜を逃せば矢橋と話が出来る日も二度と来ないだろう。

 思えば今夜は贅沢だ。先に死んだ者たちに夢でも良いから会いたいと願う人のほうが多いくらいで、ましてや死者と言葉を交わすなんて、どれほど切実な願いだろうか。

 そんなことを思い、志麻は少し笑った。

「矢橋」

 志麻は矢橋の名を呼んだ。名前を呼ばれた矢橋も薄らと笑っていた。

「俺は、お前が完璧な人間ではないと知ることが出来て、良かったと思っている」

 志麻の言葉に矢橋が面食らっている横で、近衛が笑いを堪えようと俯いて肩を震わせていた。

「心外だな」

 拗ねたように矢橋が言う。

「俺を完璧な人間だと思っていたなら、それは宗一郎が勝手に期待して勝手に失望しただけだ。俺に欠点があったとすれば、それもやはり君の勝手な意見だ」

「ああ、俺は勝手な人間だな」

 志麻は含み笑いのまま答える。

「いつだって矢橋は優等生だったから、何でも出来るんだと思っていたよ。凄い奴だと憧れていた。とにかくお前は隙が無かった。だからお前は弱みにつけ込まれることも無かったが、誰かに心を許すことも無かったな。今になって思い返してみれば、お前の生き方は少し、不器用だったのかもしれないな」

 ムッとした顔のまま矢橋は志麻の言葉を聞いていた。

「死者との対話なんて誰もが羨むほどに貴重な経験だろう。だが俺にとっては、後悔が薄らいだとか心のわだかまりがとけたとか、そういう気持ちよりも、矢橋の本来の心を垣間見たことのほうが、よほど価値のある時間だった」

「……随分と饒舌だね」

 矢橋は目を細めた。

「俺が鈍いということも勿論あるが、お前だって自分自身を出さなかった。お前を分かってやれなかったことは悲しいし、悔しいことだと俺は思っていた。だが、今は少し違う。俺は、お前のことを分かってやれなくて良かったとも思っている」

 志麻は肩を竦めた。

「五津海がお前を庇っていたことを知らなければ、俺の中で矢橋はずっと完璧なままで在り続けたんだと思うよ。本当ならば、よく出来た奴だと思い続けていることがお前のためになったのかもしれない」

「それは、宗一郎が俺に期待しているほうが、俺自身は幸せだったかもしれないということかい? 俺の幸福を君の物差しで測らないでくれ」

「そう言われるのは些か不服だな。お前だって同じだろう。他人の幸福を勝手に想像して、勝手に願った。鬼神計画に首を突っ込んだのは、単なるお前の好奇心か? 違うだろ」

「それは……」

 矢橋は言葉に詰まった。そんな矢橋の様子を見ながら志麻は問う。

「そこにお前の心残りがあるんじゃないのか?」

 志麻の問いに矢橋は俯いた。少しの間、矢橋はそのまま黙っていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。

「救いたかった」

 零れ落ちたような言葉だった。矢橋は静かな声で言った。

「宗一郎を救うことで俺自身が救われると思った」

 矢橋の眼差しは真っ直ぐに志麻へと向けられていた。

「俺は人間のことをかなり好きなほうだと自負しているけれど、だからといってすべての他人を好きなわけじゃない。俺はずっと誰かの役に立ちたかった、だけど、それが誰でも良いわけじゃなかった。宗一郎、俺は君を救いたかった」

 矢橋は僅かに視線を外したが、すぐにまた視線を志麻に戻した。

「俺にとって宗一郎は特別だった……笑わないでくれ、だけど……君が初めての友達だった」

 矢橋の言葉は志麻には思いがけないものだった。いつだって輪の中心に居た矢橋だ。ただ矢橋の背をずっと見てきただけだと志麻は思っていた。

「君を救うことで、俺自身が救われたかった。でもそれは、君の役に立ちたかったからじゃない。俺は……俺は、ただもう少しだけ、君と一緒に居たかった」

 そう言って矢橋は笑った。まるで涙を堪えているような笑顔だった。そんな笑い方もするのかと、志麻は今になってまたひとつ矢橋の顔を知った。

「宗一郎の中に鬼が宿っていると気が付いた時、俺は真っ先に、どうすればこの先も一緒に居られるかを考えた。優等生で在り続けたのも、人格者を模倣してきたのも、舞台の上で望まれたように演じ続けてきたのはすべて、すべて、いつか必ず鬼神計画を叩き潰すためだ。あんな計画、俺の邪魔にしかならない。邪魔なものは消すしかない」

 俺は、と矢橋の銀色の瞳が揺らいだ。

「君が何を望んでいたとしても、そんな些細なことはどうだって構わなかった。本当は宗一郎を救いたかったわけじゃない。君を救ったようなつもりになって、俺自身が報われたかっただけだ。すべて俺が俺自身の幸福のために為したことだ」

 そう言った矢橋はハッとして五津海を見た。

 今の五津海は何も知らないが、五津海は答えに辿り着いていた。答えが分かった今となれば、あまりにも単純なことだったと呆れるほどだ。しかし、矢橋はこの心残りを思い出すために随分と時間が掛かった。大切なことほど不意に淡くなる。死ぬということは、どうやらそういうことらしい。

「そうか……俺のこの幼心のままの執着を宗貴は知っていたのか」

 五津海は矢橋を見ていた。何も分からないなりに、分かろうとしていた。自分の心が砕けているという自覚すら無いはずなのに、それでもなお五津海は歩み寄ろうとする。今の五津海は人間を嫌う元来の性格であるはずだ。五津海の心は不可思議なものだと矢橋は思う。矛盾ばかりを抱えた危うい心だ。それでも一際輝いて見えるような瞬間があった。

 分かってやれなかったと志麻は言ったが、それは矢橋も同じだった。矢橋には五津海が分からなかった。良き理解者であるつもりになっていただけで、本当のところは、五津海を矢橋は理解出来ていなかった。五津海の辿る模倣の意義を分かってやれなかった。五津海に救いなど必要無かった、その脚はいつだってしっかりと地面を踏みしめて歩いていた。五津海の心を取りこぼした代償は大きく、死んだ今となってはもはやツケを払う手立ても無かった。もう二度とは元に戻らない。何が優等生だ、我ながら情けない話だと、矢橋は呆れたように少し笑った。

「夜明けと共にここを発とう」

 まだ暗い外を見ながら矢橋が言った。太陽が昇るまではまだ少し時間がある。その時間を休息に費やす必要があった。この先はもう道標も無い道だ。

「それを二度目の今生の別れとしよう」

 矢橋の提案に志麻も近衛も、もう何も言わなかった。夜風が静かに吹くだけだった。

 夜が明けるまでの不寝番は晴嵐が自ら進んで引き受けた。

「俺が起きておくよ、その代わり、俺を懐にでも入れて歩いてくれ。そうすれば俺は移動中に寝られるから」

 晴嵐の言う通りに任せることとして、皆それぞれが好きな場所で横になった。志麻は隅で横になって目を閉じた。次に目を開けるとき、矢橋はもうどこにも居ないのだろう。寂しくはない。永訣も二度目ともなれば随分と心得たもので、心寂しさよりもむしろ、清々しさを感じていた。良い夢を見たような心地だった。目を覚ませば消えてなくなるとしても、悲しくはなかった。この時間は、僥倖だった。

「おやすみ、矢橋」

 目を瞑ったまま志麻は言った。だから矢橋がどんな笑い方をしていたかは分からない。

「ああ、おやすみ、宗一郎」

 返ってきた声は笑うのを我慢しているような響きをしていた。それは間違いなく矢橋の声だった。

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