第75話 錨を放つ 十九
五津海は両膝を立てて座っている。その脚の間に榊がすっぽりと収まっている。榊は五津海を支えると心に決めたらしいが、今は眠気と戦っていた。ふらふらと頭が前後左右に揺れて、ハッと立て直す。その繰り返しだ。五津海は所在無げに爪を見たり、外を見たり、榊のつむじに目を落としたりしていた。皆の話を聞いてはいるがさっぱりと分からない。そもそも周りに居るのが誰なのかも分かっていないというのに、話の内容に付いていけるはずもなかった。しかし、質問を挟む隙も無い。五津海は沈黙が得策だと心得て議論を眺めるだけに決めた。
「呪術師たちがどこに居るのか分かるか?」
「どこで実験をしていたか、という話か? 連中は用心深い、幾つか拠点を持っているようだった。それぞれの所在地も、どれが重要な場所なのかも、調べるには時間が足りない」
尾行を悟られた以上、晴嵐としても呪術師たちの周囲に留まることは危険だと判断したのだろう手に入れた情報を失う前に、こうして志麻たちの元を訪れたのだ。
「今のところ、最も可能性があるのはやはり、あの洞窟ということになるか」
「港へ向かうのが良いんじゃねぇのか」
「その前に戦う準備を整えなければ」
志麻の言う通り、まずは戦いに備える必要があった。志麻たちは集落の火災で所持品の殆どを失っている。闇市から文字通り飛んできた五津海も何ひとつ所持していない。鬼切の妖刀はまだ返還されておらず、たとえ持っていたとしても今の五津海が抜刀したところで、どうなるかは予想出来なかった。
「宗一郎の腕の具合は?」
矢橋が霊薬の効き目を尋ねた。志麻は包帯を解いてゆっくりと腕を動かした。夏の間には治りそうになかった腕が、ぎこちないながらも少し動くようになっていた。これが霊薬の力かと志麻は驚いた。
「折れたところは治り始めたみたいだね。長く固定していた分、筋肉は落ちているかな。どう、先生?」
ナギが志麻の腕に触れる。
「霊薬の効果は上出来のようですね。暫く慣らすように動かしていれば、夜明けには殆ど元通りになると思いますよ」
「しっかしなぁ、そんな優れた薬、副作用は無ぇのか?」
「乱用することで寿命が縮む可能性はありますね。天狗の霊薬は、肉体が本来持っている治癒力を最大限に高めて回復や成長を早めるものですから、必要以上に飲んでしまうと、治癒力が活発になり過ぎて肉体が老化する危険はあります」
晴嵐も横から忠告する。
「霊薬は中毒になりやすいぜ。幻覚や幻聴も厄介だが、身体が痛みを求め始めるようになると、何よりそれが一番つらいらしい。傷を癒すために霊薬を飲み、霊薬を飲むために自傷行為を繰り返す。昔の合戦場では重宝がられたそうだが、今でも中毒症状を治す薬は無い。破滅するだけだ。霊薬が飛び抜けて苦いのは、苦味で正気に戻すためだとも言われている」
「霊薬といえども飲み過ぎればただの毒ってわけだな」
志麻は拳を握ったり開いたり、腕を曲げたり伸ばしたり、自分自身の身体の感覚をよく確かめるように動かした。じわじわと感じる痛みと痒みは傷が治りかけている時の感覚と似ていた。
「武器をどう調達したものか。刀はともかく、宗一郎の銃は難しいな。だが、腕が動くようになるのならば、銃は手に入れておきたい。帝都へ戻るのは得策と言えないが、他の大きな街はここから遠い。港で待ち構える連中に準備をする時間を与えず、自分たちの準備を整えるにはどうすれば良いか」
思案する矢橋とは対照的に、近衛はもう考えるのは飽きたと言わんばかりの表情で指をパチンと鳴らした。
「奪おう。港湾の警備班なら一通りの装備品は持っているんだ。手っ取り早く奪おうぜ」
「野蛮だなぁ」
近衛の提案を矢橋は呆れた様子で笑ったものの反対はしなかった。
「武装した警備班を相手にこっちは丸腰だ。向こうも軍人だぞ、どうやって奪うつもりだ?」
志麻が問う。警備班は勢いだけでどうにか出来る相手ではない。
「どうにかするしかねぇだろ、何かこう、妙案は無ぇか」
近衛が腕を組んで考える。そもそもオニカエシはその名の通り鬼を相手にする部隊であるから、人間相手の戦闘においては、対人訓練を受けている部隊に勝るものではない。今はただ、自分たちの持つ手札で勝つ方法を考える必要がある。
視界の隅で何かが動いて、近衛がそちらに目を向けると、それまで黙っていた五津海が手を挙げていた。五津海は何か言いたげな様子だ。
「どうした?」
近衛が尋ねると、五津海は少し遠慮がちに口を開いた。
「港湾の警備班は、黄昏時から夜明けまで、夜間の人員配置は多いけれど、真昼は手薄、です……」
最後のほうは消えかかるような弱々しい声で五津海はそう言った。確かに五津海の言う通りだった。人の多い活発な時間帯の昼間よりも、闇に紛れて密航や密輸を行う夜間のほうが、警備班は多くの人員を配置して有事に備えている。そもそも船の積み荷に関しての取り締まりは陸軍ではなく交易局の管轄となり、日中の警備班は実力行使の問題が起きた際の仲介役としての役割のほうが大きくなる。
「そうか、真昼に民間人として港に紛れ込んでおけば、こちらにも勝機がありそうだ」
希望が見えてきたと矢橋が嬉しそうに笑う。一方の五津海は言いたいことだけを言ってまた黙り込んでしまった。五津海のことは気にせず、矢橋は段取りを考える。
「港に着いたらまずは」
「腹ごしらえだ」
志麻が矢橋の言葉を遮るように言った。矢橋が意外そうに志麻を見遣った。
「お前は死んでいるから空腹を感じないかもしれないが俺たちは駄目だ。疲労も空腹も限界に近い。万全からほど遠い状態では、交戦になれば勿論不利だが、それ以前に集中力も落ちる」
「空腹……そうか、そうだね、もっともだ」
矢橋はまるで空腹というものの存在を思い出したような顔をしていたが、気を取り直して話を続ける。
「食事の後は、二手に分かれるのが良いと俺は考える。武器の調達と、渡会の捜索だ」
「それなら渡会さんを知らない私は調達班ですね。皆さんはどうされますか?」
ナギが尋ねると、近衛が答えた。
「オレは渡会を探すほうで構わねぇぜ。志麻には銃が必要だし、五津海は戦力として期待出来ねぇしな。オレが指名しても良いなら、こっちには榊をくれ」
「え、榊ですか」
榊は驚いた声を出した。てっきり自分は志麻に付くとばかり思っていたのだ。
「お前は目が良いだろ。それに渡会の顔も知っている。人探しにはもってこいだ」
「分かりました、しっかり探します」
「頼りにしているぜ」
近衛に声を掛けられて、榊は深く頷いた。
「晴嵐、君も近衛と一緒に行動してくれ」
次に矢橋が晴嵐を見遣って言う。
「えぇ、俺も頭数に入っているのかよ」
晴嵐は嫌そうに顔を顰めた。
「君の変化は本当に一級品だからな」
「でも俺はそいつの顔を知らない。知らないものは当然、化けることが出来ない」
「誰も渡会に化けてくれとは言っていないよ。君に化けてほしいのは、宗一郎のほうだ」
矢橋は横目で志麻を見ながら続ける。
「宗一郎の姿を見付けたら、渡会は必ず現れる。渡会に限って、泳がせて様子を見るなんてことはしない」
「つまり俺は囮ってことか」
「近衛と榊が一緒なら心配せずとも、君が逃げる時間は稼いでくれるよ」
「そこは勝てると言っておけよ」
はぁ、と溜息をついてから、それでも嫌そうに晴嵐は頷いた。
「分かったよ、化けて気を引けば良いんだろ。ああ、本当に、俺は自分の身を危険にさらすことはしないからな。危なくなったらお前たちのことは見捨てて一目散に逃げるからな。俺はそういう奴だからな」
晴嵐は何度も念を押した。これは本当に種族の差だ。戦うことを得意とする鬼や天狗のような種族とは異なり、名も無き彼らの本質は擬態による自衛だ。他の種族に紛れて生き延びる生存戦略を得意とする彼らにとって、真っ向勝負は命取りになりかねない。しかし、晴嵐は嫌な顔をしながらも、手助けとなることを拒みはしなかった。晴嵐なりの矜持があるのだろう。
それで、と近衛が矢橋を見た。
「お前はどうするんだ」
近衛の問いに矢橋はただニンマリとした笑みを浮かべるだけで答えはしない。しかし、横で見ていた志麻にはそれで十分だった。志麻は溜息まじりに髪を掻き上げると、どこか憎らしげな眼差しで矢橋を見た。
「朝が来たら消えるのか」
「それが順当だろう?」
別段悲しみも無い様子で矢橋は答えた。
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