第73話 錨を放つ 十七


 夜が更けていく。

「先生は眠らなくて良いのかい?」

 矢橋が尋ねると、ナギは少し考えてから答えた。

「話し相手が必要でしょう?」

 ナギの答えに矢橋は笑った。志麻たちの様子を見るようにぐるぐると歩き回る。

「あなたが悪霊に成り果てるのではないかと少々焦りました。霊薬を使っても完全ではないのですね」

「危なかったと俺も思う」

 あっけらかんと矢橋は言う。

「何があなたをこの世に留めているのですか?」

「それは、俺の一番の未練が何か問うていると解釈して良いのかな?」

「ええ」

 ナギは横目で五津海を見た。

「宗貴さんはあなたの一番の未練に心当たりがあるようですね」

「どうやらそうらしい」

 矢橋も五津海を見る。苦しそうな寝顔は幾らか和らいでいたが、それでもまだ安眠しているとは言えそうになかった。今眠っている五津海は、どちらなのだろうか。

「実際、何が最も俺を引き留めているのか、自分自身でもよく分からない」

「死者の魂を自我がある状態で此岸に留めておくためには、かなりの強い未練が必要だと聞きますが」

「小さな後悔は幾つもある。けれど、最も大事なものが思い出せないんだよ。三途の川の岸辺に置いてきてしまったかな」

 冗談交じりで矢橋は言うが、本当に思い出せない様子だった。確かに、此岸に留まる死霊は生前の記憶が曖昧になることも多いと聞く。

「宗貴に教えてもらうにしても、目覚めたのが裏側だったらきっと、教えてはくれないだろうな」

「人格は表と裏だと思いますか?」

「俺はそう思っているけれどね、表は穏やかな理性、裏は攻撃的な狂気。先生は宗貴をどう見る?」

「そうですね……本来の性格を表と称するのであれば、私はどちらも裏ではないかと思うのです」

「おや、そうなのかい? 興味深い意見だな、もう少し詳しく教えてくれないか」

 そう言って矢橋はナギを促す。

「あなたと話していて感じたのですが、普段の宗貴さんの人格は、あなたの模倣ではありませんか?」

「宗貴が俺を真似ている? どういうこところでそう感じるんだ?」

「初めて宗貴さんにお会いした時から、妙に、芝居がかったような感じがありました。飄々としたところや、高い社交性など、人誑しと呼べるような明るい性格は、宗貴さん本来のものではなく、後付けされたように感じたのです」

「その違和感が、俺と話をしたことで腑に落ちたというわけか」

「ええ、あなたのその、計算高さは宗貴さんに被る部分があると感じられたのです」

「なるほどなぁ、ははっ、なるほどなぁ」

 矢橋はどこか楽しげに五津海の周りを歩いていたが、不意に屈み込むと、五津海の寝顔を見詰めた。

「俺が宗貴と出会ったのは、軍学校で下級生の演習を見学した時だった。俺はその時から既に仲間を探していたんだ。いや、仲間なんて、良く言い過ぎたな。要するに俺は、自分の手駒になりそうな奴を探していた。上級生の目星は付いていたから、下級生に逸材を見付けられたら良いと思っていた」

 懐かしそうに矢橋は言う。

「射撃訓練で活気に溢れる下級生たちの中で、ただひとり、憂鬱そうな顔をした陰気な奴が目に付いた。驚くほど整った顔をしているのに、今にも死にそうな感じがした。華族の子息が軍学校に馴染めずに精神を病んだのだろうなと思ったよ」

 だが、と矢橋は続けた。

「銃を構えた途端に、その目付きが変わった。勿論、誰もが真剣に取り組んでいるが、宗貴の瞳は、他の連中とは違っていた。俺は思ったよ、こいつは憎悪に生かされる性質だと。恨みで強くなる、憎しみに燃え上がる、怒りに突き動かされる。そして、それを自覚している。俺はね、こいつが欲しいと思った」

 矢橋の笑みは、獲物を前にした獣のようにも見えた。

「俺の見立ての通り、宗貴はよくやってくれたよ。本当に、よくやってくれた。でも、誰もここまでしろとは言っていない」

「宗貴さんが心を壊したこと、それがあなたの未練ですか?」

 ナギの問いに矢橋は首を振った。

「いや、それは違うだろう。宗貴の心については後悔しているし、当然、責任も感じている。だが、それが未練だとするのはおかしい」

 矢橋の指先が上下に動く。

「宗貴の心の分裂は俺の死がきっかけになった、つまりは俺の死後の話だ。その場に居ない俺が知る由も無いから、俺の未練には成り得ない」

「では、あなた自身の死によって志半ばで潰えたことが、あなたにとって一番の心残りである、と」

「それが何か分かれば苦労はしないんだけどな」

 ふむ、とナギも一緒になって考える。

「そもそもあなたは何故、自分の手駒を集めようとしていたのですか? 鬼神計画に辿り着くのは、もっと後になってからでは?」

「それは良い疑問だな、確かにそうだ。俺が手駒を集めていた理由か……たとえばどんな理由が考えられる?」

「まず考えられるのは、立身出世のためでしょうか。自分のために動いてくれる同志の存在は重要でしょうから。しかし、様子を見ている限りでは違うようです」

「先生は俺を買い被り過ぎだ」

「いいえ、あなたのことではありませんよ」

 ナギは柔らかい笑みを浮かべた。

「あなたが本当に出世欲のためだけに同志を集めて行動していたのならば、あなたの周囲には同じく欲に塗れてギラギラとした眼差しの者が集まっていたことでしょう。けれど、そうではありませんからね」

「あぁ、そういう……」

 矢橋は僅かに照れた様子だった。

「偉くなりたいとか、人の上に立ちたいとか、そういうのはあまり、興味が無かったな。人を自分の思い通りに動かすことは面白かったが、指揮官を目指すということには繋がっていなかった。むしろ……」

 そこで矢橋は黙ってしまった。だが、指先は動いている。

「むしろ?」

 ナギが続く言葉を問う。

「自分の采配が人助けに繋がる、そのことが心地好かった。上の立場になればもっと多くを助けられたのかもしれないが、当時の俺はただこの手の届く範囲が変わるだけで良かったから、その先のことは考えていなかったな」

 矢橋は自分自身でも気が付いていなかった内面を今になって知ったようだった。死んだ今頃になって気が付いたところでもう遅いのだが、それでも新たな発見に矢橋の頬が緩んでいた。

 どのような言葉を掛けようかナギが悩んでいると、外から宵闇を切り裂いて一羽の木菟が飛んできた。

「セイラン」

 現れたのは晴嵐だった。やはりいつのまに変化したのか認識出来ないまま、木菟は人の姿になっていた。烏天狗たちも驚いて外から中の様子を窺っていた。

「探したぞ、こんな山奥で何をしているんだ。死人の魂もまだ居座っているし」

「色々とあったのです」

「こっちも色々とあったよ。はぁ、人間というのは、欲望の尽きるところを知らないな、ほとほと呆れる」

 そう言うと晴嵐は床にドカッと座り、どこか面倒くさそうに報告する。

「調べてきたが、自我を保ったまま鬼を宿す人間から鬼を引き出す方法は分からなかった。だが、別のことが分かった」

 晴嵐は呆れた顔というよりも、むしろ軽蔑の色を帯びた瞳で矢橋とナギを見た。

「鬼の力に耐える器を造る。どうやら肉体を捏ねくり回して鬼の力を内包出来る人間を生み出そうとしているぞ」

「何?」

「気を付けろ、それはもう人智を超えている。どこで何が崩壊するか分かったもんじゃないぞ」

 ナギと矢橋は顔を見合わせた。ナギは不可解な表情だったが、矢橋は明らかに動揺していた。

「もう少し詳しく教えてくれ。君の持ってきた話はおそらく、俺たちの求めているものの深層に最も近いはずだ。ナギ君、全員起こしてくれるか」

 矢橋に言われるがまま、ナギは志麻たちを起こして回る。志麻と近衛はすぐに目を覚ました。自分たちの寝ている間に現れた晴嵐を歓迎する。

「晴嵐か、戻ってきていたんだな。久しぶりに会った気がする」

「戻ってきたわけじゃない、別に俺はお前たちと一緒に行動しているわけじゃないからな。自由気ままに生きているだけだ」

 晴嵐はそう言って口を尖らせるが、満更でも無さそうだった。

「宗貴さん」

 ナギは五津海を揺するが起きる気配は無い。隣の榊が先に目覚めた。

「あれ、起きませんね」

「五津海さん、大丈夫そうですか?」

「霊薬が効き過ぎているのでしょうか」

 呼吸も脈も正常だ。随分と深い眠りに落ちているらしい。榊もナギの横から頬を突くが、五津海は起きそうになかった。

「どうしましょうか、無理に起こすのも気の毒ですが」

「いや、起こそう。夢に囚われていたら危ねぇ」

 そう言うと近衛は五津海の上体を起こしながら後ろに回り、脇の下に腕を入れて五津海を立ち上がらせた。五津海はパッと目を開けた。次の瞬間、五津海は背後の近衛に頭突きを食らわせた。思わず近衛が手を離す。五津海は目の前に屈んでいるナギを見た。ナギは咄嗟に広げた掌を突き出して五津海を牽制した。

「医者です!」

 五津海の動きが止まる。

「吐き気は治まりましたか? 他に具合の悪いところは?」

「え、えっ」

 明らかに状況を飲み込めていない。視線はきょろきょろと落ち着きが無く、怯えている様子だ。近衛に対する反撃は咄嗟に出た反射的な防衛本能だろう。

「こいつ……どっちだ?」

 近衛が鼻を押さえながら尋ねる。志麻も首を傾けたままどうしたものかと立ち尽くしている。これはどちらの五津海か。ナギは嫌な予感と共に矢橋を見返った。矢橋は驚きのあまり口を開けていたが、ハッとして手で口を覆った。

「……嘘だろ」

 そう言うやいなや、矢橋は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。

「お前、こいつがどっちか分かっているなら言え!」

 近衛が矢橋を責める。矢橋の顔に焦りが広がる。

「……多分、それ……主人格だ」

「はぁ? 説明しろ」

 志麻と近衛が矢橋の元に集う。ナギと榊が呆然としている五津海を床に座らせて落ち着かせている。晴嵐は欠伸をしながら様子を見守っていた。

「主人格って?」

「宗貴の本来の人格だよ。社交的でもない、攻撃的でもない、人間嫌いで内向的な性格だ」

「待て、普段の五津海でさえ、分裂した欠片だったということか?」

「ああ、そうさ。宗貴の心は多重になっている。いつも表に出ているのが、俺たちが一番よく知っている社交的な心。これは元々、宗貴が消極的な自分を変えようとしていた努力の名残だ」

「オレたちが裏側だと思っているのは?」

「抜刀を合図に出てくるのは、切り離された憎しみや怒りだ。だが、もう抜刀だけが引き金になっているわけじゃない。境界は脆くなっているはずだよ」

「そのふたつが表裏一体で五津海になっているわけじゃなかったのか」

「違う、どちらも防衛機制で解離しただけだ」

 矢橋の答えに志麻は横目で五津海を見た。ナギと榊がゆっくりと宥めている。混乱しているが、ふたりに任せれば大丈夫だろう。

「心が多重になった最後のきっかけが矢橋の死だと言うなら、そこで本来の五津海は眠ったと考えるのが妥当だろう。そこから今までずっと、ふたつの心に守られてきたとすれば、少なくとも矢橋が死んでからの記憶を主人格が持っていなくとも不思議ではない。だが、近衛を認識していなかった」

「ということは、もっと前か。あの感じは、頭蓋骨を抱えていた頃と似ているが」

「学生時代まで戻ったということか?」

「もう少し厳密に言うならば、俺と出会った頃かなぁ」

 そう言って矢橋は力無く笑った。

「これはちょっと予想外だ……ここまで壊れているとは思わなかったし、ここまで壊れてしまうとも思っていなかった。どうしよう、絶対、眠る前に俺と口論になったのが原因だよなぁ……」

 弱ったなぁ、と矢橋は顔を伏せた。志麻は外を見た。夜明けまではまだ遠い。

「何にしても、ここでひたすら考えたって仕方が無いんだから、ひとまずは話を進めようぜ」

 傍観していた晴嵐が口を挟んだ。

「鬼の力を留めても壊れない人間を造り出そうとしているって話、聞きたいんだろ?」

 皆が晴嵐を見た。晴嵐は得意気に笑った。

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