第72話 錨を放つ 十六

 五津海が苦しむ様子も無く寝入ったことを見届けて、志麻たちは話し合いを再開する。

「中継地点は飛ばして、港まで行くほうが良さそうか。だが、四雲会の船の行き先を調べるのは難儀だな。さて、どうしたものか」

「手あたり次第探すわけにはいかないのですか」

「そりゃ無理だぜ。四雲会は帝都でも有数の船会社だ。何隻も停泊している船のどれに目当ての品が積まれているのか、調べるだけでも時間が掛かって探しているうちに出港しちまう。そもそも港に戻っているとも限らねぇわけだ」

「船を探すよりも港で搬入を待ち伏せるほうが確実ですね」

「そう好都合に搬入されるもんかね」

 首を傾げる近衛に志麻が言う。

「いや、むしろ今だから動きがあるはずだ。療養所の下の集落を焼き払った以上、あのまま療養所に患者を留めてはおけない。幻術を解除する人間を恐れるなら、万里の所在の確かな間は適しているだろう」

 志麻は横目で五津海を見た。

「五津海は、幻術に掛からないことは大きな利点だが、幻術を掛けることも解くことも万里ほど心得ているわけではないから、闇市から五津海の消息が掴めなくなっていても、万里ほどの脅威と捉えられることはないだろう」

「確かにな、五津海は幻術の盾にはなっても薬にはならねぇ。幻術に落ち切った連中には今更、盾なんぞ不要だからな」

「宗貴さんはどれほど幻術に強いのですか?」

 ナギが尋ねると、矢橋も首を傾げる。

「実際のところどれほど強いのだろうね、それは俺も知らないな」

「燕の呪術を破ったこともある、なかなかの見物だったな」

 近衛が笑う。

「青柳さんもかなりの実力者とお見受けしましたが」

「呪術は経験と胆力が大きく影響するから、上の世代の鬼殲隊にはもっと優秀な呪術師が在籍しているのかもしれないが、少なくとも同年代では青柳に敵う呪術師は知らないな。京都に詰めているくらいだから、青柳の実力は相当評価されているだろう」

「なるほど、そうでしたか」

 そう言うとナギは少し考えるように顔を傾けた。

「どうかしたか、先生」

「いえ……」

 頭を振って否定したナギだが、どうにも歯切れが悪い。表情にも憂慮が見え隠れしている。

「何か引っ掛かっているんだろ? 言ってくれなきゃオレたちだって気になっちまう」

「ですが、私の単なる想像ですし、私の口から言うべきものでもないと……」

「先生、懸念があるなら言ってほしい」

 志麻たちに答えを迫られて、ナギは迷ったものの少し息を吐いて立ち上がると、五津海に歩み寄って揺り起こした。

「すみません、宗貴さん。少しお聞きしたいことがあるのです」

 五津海はとろりとした目でナギを見る。

「矢橋さんの最期について、誰かが真相を隠していると志麻さんから伺いました。嘘を吐いているのは、宗貴さん、あなたではありませんか?」

 ナギの言葉に五津海は目を見開き、慌てて上体を起こした。

「いや、何を言っているの」

 泳ぐ視線が五津海の動揺を物語る。ナギは言葉を続けた。

「鬼を恐れて刀を抜けなかった宗貴さんを庇って矢橋さんは肉体を鬼に奪われた、それで間違いありませんか?」

「先生、それは確かなことだ」

 志麻がナギを宥めるように言うが、ナギは五津海から視線を外さなかった。

「宗貴さん、あなたは恐怖心で刀が抜けなかったわけではありませんよね。あなたは見えている世界が違っていたから、矢橋さんの指示通りには動けなかった。あなたひとりだけが幻術に掛かっていなかった、それが真実ではありませんか?」

 五津海は両手で口を覆った。見開いた瞳はナギを見て、それから矢橋に向けられた。

「宗貴」

 矢橋が五津海の名を呼んだ瞬間、五津海の表情が崩れた。言葉で肯定せずとも、その仕草のすべてが答えだった。

「何故」

 険しい表情の矢橋が五津海に問う。

「どうして嘘を? 君にはひとつの得も無いだろう」

 矢橋の銀色の視線が鋭さを増して五津海を責める。

「それともまだ何か隠し事があるのか?」

 矢橋の低い声が五津海を非難する。五津海は矢橋を見るだけで何も反論しなかった。いや、出来なかった。荒れた呼吸は殆ど過呼吸となり、乱れた息の間に狂った笑いが混じっていた。

「違う、矢橋、それは違う」

 矢橋を止めたのは志麻だった。志麻の声には懇願するような悲痛さがあった。

「五津海の嘘は、お前の名誉を守るための嘘だ。損得の話ではない。お前の失策を隠し自分を悪役に仕立てることで、お前の誇りを守ろうとしただけだ」

 志麻の言葉に矢橋は深呼吸した。五津海はナギの腕に縋り付いていた。怯えているように見えるが、それでも口の端に浮かぶ笑みは歪んでいた。

「俺のために、君はその心まで砕いたのか」

 驚きと困惑と、後悔、それら万感が散らばって言葉にならない。苦々しさが心に広がった。

「どうして……」

 愕然としたまま矢橋は五津海に尋ねた。五津海は高らかに笑って掻き消した。

「それをお前が問うか?」

 アハハ、アハハと五津海は壊れたように笑うが、その瞳は正気と狂気を行き来し、精神は狭間にあるようだった。必死にもうひとりの自分を抑えようとしているのだろう。

「僕に問わずとも、答えなら自分で持っているだろう! ヒヒッ! お前のため? 自惚れるなよ、矢橋!」

 叫ぶ五津海の声は、もはや、どちら側の心なのか分からなかった。あるいは、どちらにとっても本音なのかもしれないが、それを確かめることは出来なかった。

「後悔したいのか? 此岸に留まる未練が欲しいか? 諦めろよ、これは僕のものだ、僕の受けるべき報いだ! アーハッハッハ!」

 泣いている、と思った。ナギは自分の腕の中で狂い笑う五津海が泣いていると思った。頭と心がちぐはぐで、心の中もばらばらで、理性と狂気が混ざり合い、魂が悲鳴を上げている。

「やめてくれよ、矢橋。もう僕を救わないでくれ」

 そう告げた途端、五津海はガクッとナギの腕の中に崩れた。

「え、宗貴さん!」

 ナギが慌てて五津海の身体を起こす。

「……眠っています」

 五津海は深い眠りに落ちていた。負担が掛かり過ぎて処理しきれなくなったのだろう。ナギは五津海をゆっくりと床に下ろして榊の隣に寝かせた。

「俺が……」

 矢橋が呟いた。白い影がゆらめく。

「何がいけなかった? どこで間違えた? 何を見落とした?」

 矢橋の銀色の瞳が怪しく光っていた。元より鬼に食われて欠けた魂だ、このままではいずれ怪異と化すだろう。

「駄目ですよ、矢橋さん。怨霊になってはいけません」

 ナギが言う。怨霊となったほうが楽だ。負の感情に流されるままで居られる。他に難しいことなど考えなくて良いし、明日がどうなろうと関係ない。衝動に任せれば良い。多くの霊と曖昧に溶け合って自我を失ってしまえば、恐れることなどもう何も無い。手当たり次第に祟ることも出来る、呪いで希望を奪い取ることも出来る。何がどうなろうともはやどうだって構わない。

 しかし、そんな道を選ぶわけにはいかなかった。

 矢橋は深く息を吐きながら視線を五津海に戻した。五津海の寝顔は苦しんでいるように見えた。

「もう失敗出来ない、もうこれ以上は失えない」

 口元に手を当てて考える。

「これだけ劣勢の今、もはや先手を取るのは難しいが、せめて、優位に立たずとも同等に戦えるだけの情報が欲しい」

 その横顔は、本来の人間性が滲み出ていた。焦り、喜び、嘆き、怒り、奮い立つ、誰かの理想像ではない矢橋そのものだった。思慮深さは、表からは見えない底で必死に足掻いている。幾度も繰り返される試算、分岐する可能性を放棄し、枝分かれした選択肢から一筋の道を導く。矢橋直紹の本質は、その熟慮にあるとも言えるだろう。

「もっと鬼神計画の中心まで近付きたい。だがこちらの行動は筒抜けだと考えるべきだ。察知されずに動くのは不可能だ。核心に手の届くところまで辿り着くには、多少の犠牲を覚悟するべきか、だが、出せる対価は高が知れている」

 矢橋は早口で独り言を並び立てる。指先がくるくると円を描くように動いていた。志麻たちはその様子を黙って見守った。こうなると矢橋は思考が終わるまで止まらない。

「何か見落としているだろう、些細な事でも良い、思い出すんだ。完璧な人間は存在しない。誰かが口を滑らせていないか、不自然な動きは無かったか。繋がる点があるはずだ」

 不意に矢橋の言葉が止まった。指もぴたりと動きを止める。呼吸をゆっくりと三回、それから矢橋は口の中で転がすように言った。

「高い水の光るところ、深い闇の綺麗なところ」

 矢橋は近衛を見た。

「近衛。禁足地を記憶しているか?」

 同期の中では禁足地の封印を任されることの多い近衛だったが、呆れたように答える。

「はぁ? 幾つあると思っている、全部憶えているわけがねぇだろ」

「記憶している範囲で構わない。その中に、滝のある禁足地は?」

「……少なくとも三か所はあるぞ」

「周辺に洞窟があるのは?」

「どちらだったか……いや、待てよ、その滝は山にあるのか?」

「滝があるのは山だろう?」

 矢橋は少し怪訝な顔をした。対照的に近衛は合点がいったという顔をした。

「オレも話で聞いただけだが、海からしか入れねぇ禁足地があるらしい。かつて水軍の船の隠し場所だったとか、海賊の財宝が眠るとか、色々と言われちゃいるが、鍾乳洞に繋がっている。その奥に大きな滝があると聞く。だが、何と言った? 水の光るところ?」

「高い水の光るところ、深い闇の綺麗なところ」

 そう答えて矢橋は志麻を振り返った。

「出会ったばかりの頃、どこから来たのか聞いたら、宗一郎がそう答えた」

「俺が?」

 記憶には無いと志麻が首を傾げる。

「記憶を曖昧に消されたばかりの頃だから君はきっと憶えてはいないだろう。けれども君は確かに、そんな場所から来たのだと言った。俺の知る限りでは君の過去に関する情報はそれだけだ」

「そうか、俺はそんなところから……洞窟の奥から?」

 志麻は腑に落ちない様子だったが、矢橋は気にせず続ける。

「だから船か、辻褄は合う」

「おい、まさか向かうなんて言うつもりじゃねぇだろうな」

 近衛が肩を竦める。

「あの禁足地が鬼神計画に関連しているとすれば、見張りが居るだろう。気付かれずに忍び込むのは無理だ。何よりオレたちには船が無ぇし、航海技術も持たねぇ」

「ひとり居るだろ、船を動かせる奴が」

 矢橋が不敵に笑う。

「……渡会」

 ハッとした様子で志麻が言う。近衛がすかさず反対する。

「無茶だ、絶対に無理だ。渡会がオレたちに協力するわけねぇだろ」

「味方になれとは言わない。だが、真相を知りたいのは渡会だって同じはずだ。一時的な休戦、それで事足りる」

「あいつは躊躇せずに五津海を斬ったんだぜ? 五津海をどう説得するつもりだ」

「宗一郎が行くと言えば行く、組めと言えば組む。そうだろう?」

「そうだとしても、そんな大事なことを俺に丸投げするなよ。俺だって五津海と渡会を引き合わせるのには賛成出来ないからな」

 志麻も矢橋の案に反対した。

「分かった、それなら代替案を出してくれ」

 矢橋に言われて志麻と近衛は言葉に詰まった。

「他に手立ては無いのだろう?」

「だが渡会がどう出るか分からねぇだろ。そもそも行方も掴めていねぇってのに、渡会を頼るのはあまりにも無謀だろ」

「その禁足地が本当に意味のある場所だと思うのか? まったくの見当違いだったらどうする? もう後が無いのは俺たちも同じだ、失敗出来ない」

「代替案は出せないくせに、言い訳ばかりはペラペラと。随分と饒舌に並び立てるんだな」

 そう言って矢橋は揶揄するように笑った。返答に窮する志麻と近衛は顔を見合わせた。こんな時でも矢橋は状況を楽しんでいる。逆境でこそ力を発揮するのは矢橋の優れた点だったが、今はどうにも悪戯を企てる少年のような顔をしている。

「渡会の説得は、お前がするんだな?」

 観念したように志麻が問うと、矢橋は何食わぬ顔で肩を竦めた。

「俺は死んでいるんだよ、宗一郎。渡会には俺が見えない」

「お前は……この期に及んで」

 怒りを通り越して呆れた。志麻は前髪を掻き上げた。

「このままだと矢橋の思うつぼだ。俺たちは皆、疲れていて真っ当な判断が出来ないからな。だから俺たちは寝る、お前は不寝番だ」

 志麻は矢橋を指差して言い聞かせた。アハッと矢橋は笑った。

「良いね、名案だ。夢の中でゆっくり考えると良い。朝になったら考えを聞かせてもらう」

 そう言った矢橋はやはり、愉悦を滲ませていた。志麻と近衛は不貞腐れた様子で横になったが、ナギだけは黙って座っていた。

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