第71話 錨を放つ 十五
事の始まりは、と矢橋は語る。
「ある強大な力を持った鬼を相手にした鬼殲隊が壊滅したことだった。鬼殲隊は再編を余儀なくされた。鬼を滅ぼす者たちと、鬼を遠ざける者たちだ。再編の裏側で同時に、鬼を利用する計画が密かに持ち上がった。古来より鬼は人間と近しい場所に在った。人間が転化して鬼となることもある。人間と鬼の境界を上手く掴むことが出来れば、人間に鬼の力を宿すことも叶うのではないか、と。これが鬼神計画の始まりだ」
志麻たちは何も言葉を発さなかった。相鎚も打たなかった。構わず矢橋は続ける。
「方術、呪術、妖術、東西の医学。あらゆる手を尽くした。多くの人間と、同じだけ多くの鬼を要した。長い年月と、数多の犠牲を払って生まれたのが、人間でありながら内側に鬼を宿す子供だった。唯一の成功例に、志麻宗一郎という名を与え、手の届く場所に囲った」
「方法はあるの?」
尋ねたのは五津海だった。矢橋に代わってナギが答える。
「それは晴嵐に調べてもらっています。しかし、人間の自我を保つ鬼憑きの前例は私も聞いたことがありませんから、それは晴嵐も同じでしょう。ただ、明確な方法を手に入れているのであれば、志麻さんと同じ待遇の人間が存在しているはずです。けれど、志麻さんひとりに固執しているのですから、志麻さんの成功は完全なる偶然であって、方法はまだ確立されていないのだと私は考えています。もうひとつ考えがあります。それは、方法が分かっていても、再現が限りなく不可能に近い場合です」
「たとえばどういう場合?」
「そうですね。たとえば、五百年を生きている鬼でなければならない場合、対象となる鬼を見付け出すことだけでも困難ですが、その鬼を生け捕りにするとなれば、部隊を再編したくらいでどうにかなるものではないでしょう」
「確かに、オレたちは津々浦々と歩いているが、大物の鬼に当たることは本当に稀だな」
近衛はそう言うと、胡座を組んでいた脚を投げ出して座った。
「鬼神計画はまだ続いている、そうだな?」
「勿論。むしろ計画は進行して、状況は悪化している。宗一郎から鬼を引き摺り出すことが、今ならきっと叶うだろう」
「お前を祓ったからか?」
近衛が問うと矢橋は笑った。
「それは違うよ、近衛。俺自身の限界が近いんだよ。むしろ霊薬は幸運だったくらいだ。霊薬で祓われたら怨霊にならなくて済む」
矢橋は一瞬だけナギを見て、すぐにまた近衛に視線を戻した。
「俺たちがどれほど強固な結界を張り巡らせていたとしても、幾度も繰り返される査問にいつまでも耐え続けられはしない。波が岩を削るように、少しずつ摩耗していく。最も外側にある俺の結界から壊れることは予想していた」
「矢橋の結界が壊れてもまだ内側に結界があるのなら猶予はあるんじゃないの?」
五津海が尋ねる。
「俺の結界は呪詛返しの流れだから調伏師のような連中には強い。だが、他の結界の性質は、俺じゃ解読は無理だった。次の査問で何が出てくるのか、それに耐えることが出来るのか、俺には分からない。分からないが、破られるだろうという予感はある」
「いつだって、そういう嫌な予感ほど当たるからね」
「だが、分からねぇと言っていつまでも逃げ回っているばかりじゃ埒が明かねぇ。永遠に逃げ続けられるわけもねぇんだ」
「そうだよ。鬼神計画を潰さない限り、終わらない」
「終わらせる手立てはあるのか?」
志麻が尋ねると、矢橋は口元に手を当てて考えるような仕草をした。
「実を言うと、実験を行う場所の見当が付いていないんだよ。先生の調べはどこまで?」
矢橋はナギに確認する。
「あなたに言われた通り、帝都周辺で行方不明になった鬼の足取りを追って、スズハノワタリに辿り着きました。関与していたのはスズハノワタリだけではなさそうですが、問い質せば捕らえた鬼の行方は幾らか掴めそうです」
「分かった、良いね、それは後で聞こう。宗貴は?」
「何が」
五津海は手を退けて矢橋を見たが、すぐにまた目元を押さえた。
「万里はどうした?」
「帝都で別れた後どうなったか、知る由も無いよ」
ただ、と五津海は疲れた様子で言う。
「消費した調合材料を補充すると言っていたから、港のほうに向かっただろうと思う」
「神無月商会でしたか、目録を見せていただきましたよ」
「いつも通りならね。龍澤さんがまだ向こうに残っているはずだ。どういう立場なのかはさておき、万里のことは心配しなくて良いと僕は思うよ」
そう言うと五津海は身体を捻って志麻を見た。
「宗一郎君、あの霊薬、効果は出た?」
「ん? ああ、腕が少し動くようになった」
志麻はそう言って首から吊った腕を動かしてみせた。
「この調子なら明日には治るかもしれないな」
「えぇ……霊薬ってそんなに効くの……」
「霊薬は万病の薬に最も近いものとも言われますからね。効果は絶大です。ただ、最も不味い薬とも言われますね」
ナギが言うと志麻も頷いた。
「今まで口に入れたものの中で一番苦かった」
顰め面の志麻を見て、五津海は嫌そうな顔をしたが、五秒ほど唸ったあと、身体を起こした。
「うぅ、霊薬を貰ってくる。ああ、嫌だぁ……嫌だぁ……」
そう言いながら五津海はふらふらと覚束ない足取りで外に出ていった。すぐにバサバサと烏天狗の羽音が聞こえた。
「随分と慕われているようだが、烏天狗というのはああいう種族なのか?」
志麻がナギに問う。ナギは肩を竦めた。
「彼らの多くは元々人間ですが、人間に肩入れすることは稀ですね。山で独自の社会を形成して暮らしていますから、自分たちの縄張りに迷い込んだ人間と接触することはあっても、鬼のように自ら人里へやって来ることは珍しいです」
「へぇ、あいつらは別に人間が好きってわけじゃねぇんだな。カイレンに食われて無事だったことは余程の衝撃だったのか」
「そうですね。あの青鷺火は明らかに別格でした。闇市での取引が宗貴さんの不足でなくて本当に良かったですよ」
「それでもあれだけ羽根を吐いているのだから、実際の損得は誰にも分からないか」
志麻は外の暗闇に目を遣ってから近衛のことを見た。
「近衛は万里がどちら側だと思った?」
「黒だな。だが、渡会とは別だろう」
近衛はすぐにそう答えた。矢橋が尋ねる。
「根拠はあるのかい?」
「万里は自分の好奇心に真っ直ぐな奴だろ。自分の知らないことは徹底的に調べる奴だ。だが、志麻の査問については消極的だ。オレはずっとそこが引っ掛かっていた」
「うん、それは確かに疑問だね。宗一郎の中の鬼についてはまったく首を突っ込んでこない」
「だからオレはこう考えた。他に何か、熱心に取り組んでいることがあるんじゃねぇか。それは龍澤さんの下でやっているんじゃねぇかって。それで、万里と渡会は、まったく別の道を進んではいるものの、最後には同じところに辿り着くんじゃねぇかとオレはそう読んでいる」
近衛の考えは推測に過ぎないが、もっともな意見に聞こえた。
「オレは別に、万里が裏切っているとは思わねぇ。あいつはただ、自分の興味関心だけを基準に動く奴だから、志麻の鬼をどうにかする手立てだってそうだ、龍澤さんの持ち札のほうが万里にとっては面白いと感じるのであれば、万里はそっちを選ぶだろう。そういう性格だというだけだ。五津海が志麻を基準に行動するのと同じだろ」
「異論は無いなぁ」
矢橋は考えるように天井を仰いだ。
「療養所の裏手の川を下って港に出る、そこで別の船に積み替えて、さらに先へ運ぶ。その運んだ先がどこなのか、いや、人間より鬼を運ぶほうが厄介だな、スズハノワタリがどういう方法で鬼を運んだのか、やはりそこが一番知りたいところか」
ひとりでぶつぶつと言ってから、矢橋は視線を下ろしてナギに尋ねる。
「先生。鬼たちはどうやって捕らえられたんだ?」
「最も単純なものは、天狗の酒で連れ出す方法ですね。天狗の酒は種族を問わず評判が高いので、良い酒を仕込んだという誘いに乗る鬼は少なくありませんよ。特に自身の力を豪語する鬼ほど、酒や博打のような娯楽で釣りやすいといいます。大鬼も酔い潰せば、後は容易いでしょう」
「上手い話に乗るのは鬼も人間も同じか。そうでない鬼は?」
「妖術に関しては、鬼よりも天狗のほうが圧倒的に優れています。一筋縄ではいかない鬼には、妖術を使うのが良いでしょう。幻術に掛けてしまえば山の中へ誘い込まずとも、そのまま港でもどこでも、鬼をオニツクシやオニカエシに引き渡すことが出来ます。この方法が、最も手っ取り早いですね」
「それでも駄目な場合は?」
「失敗した場合は返り討ちに遭うだけです。私のように、こうして縄張りへ乗り込まれてしまう。地上での真っ向勝負となれば天狗よりも鬼に分があります」
ナギの答えに、ふむと頷いた矢橋は視線を外に向けた。丁度、五津海が入ってくるところだった。五津海はめそめとしていた。
「宗一郎君はよくこれを飲めたね」
「思い切りが大事だ。あと、すぐに他の物で口直しをするのも重要だな」
「先に言っておいてよ」
不味いと繰り返しながら五津海は床に腰を下ろした。まだ具合は悪そうだが、床には横にならず、入口近くの柱に身体を預けて座る。
「それで、スズハノワタリが言うには、帝都近辺の森で鬼を攫っていたみたいだよ。帝都の周辺は皆、人間を嫌って縄張りが穴だらけになっている。そういう空白は人間にとっても、怪異にとっても、悪事を働くには丁度良い場所だからね」
五津海は霊薬を貰うついでにスズハノワタリから色々と事情を聞いてきたらしい。
「ということは、彼らは鬼を運んではいないのか……」
矢橋が腕を組んで口元に手を当てる。
「麓の療養所は元々、胸を病んだ患者を受け入れていたようだよ。それが精神を病んだ者に変わったのは、ここ数年のことみたいだ。以前からスズハノワタリたちの元へ鬼を捕まえる依頼はあったけれど、それは五年に一度ほど、オニツクシの手に負えない大鬼の捕縛がほとんどだったらしい。頻繁に、無差別に、鬼を捕まえるようになったのは、やっぱりこれも数年前からだという」
「療養所が変わったことで、人間たちとの距離が近付いたんだな」
「川の行方は、支流が合流を繰り返しながら、もっと先で本流に入り、その後は港町へと続くみたいだ。この合流地点には少し大きな船着き場のある集落があって、人も物も、かなり動きがあるらしい。療養所の患者をどうにかするなら、その集落だろうと、烏天狗たちが知っているのは、そこまでだ」
五津海はそう言って矢橋を見た。ふぅん、と考えてから矢橋は答える。
「川の流れは逆らうよりも、流されるほうが楽だ。生きた人間をこっそりと運ぶならば当然、下流へ向かうのが理に適っている。人間も物資も、出入りの多い船着き場なら、積み荷を紛れ込ませることも容易い。木を隠すなら森の中であるように、人間を隠すなら街の中だ」
「船着き場から先、陸を行くのか、そのまま港へ向かうのか、どちらだと考える?」
「俺なら港へ向かう。運ぶ人間の数が多くなるほど、荷馬車よりも船のほうが手っ取り早い。鬼も帝都の港から船で運び出すだろう。鬼を汽車に乗せるのは得策とは言えない、途中で正気に戻る可能性を考えるとあまりにも危険だ。それに比べて、水の上は逃げ場が無いからね」
「そうなると、それぞれの船の行き先が問題か……」
「心当たりが無いわけじゃ無いよ」
そう言ったのは五津海だ。
「神無月商会、黒虎組、四雲会、暁廻漕。この辺りは陸軍と取引があって、かつ、自分たちで自由に出来る船を持っている。陸軍の頼みを聞くことで、表には出せないような商品も見逃してもらっているからね、持ちつ持たれつの関係だ」
「どこが怪しい?」
「人間を運ぶというのはどこでも出来るけれど、生きている鬼を運ぶなら四雲会が一番の適任じゃないかな、ほら、渡会が海軍へ出向する前に、警護任務で民間の船に乗ったの、憶えていない?」
「あー、あれか、呪いか何か、曰く付きの岩の輸送だろ、金持ちの爺さんの依頼だ」
近衛には心当たりがあったようだ。
「うん、あの時に船を出していたのが四雲会。船上での任務は珍しいだろって、渡会に誘われて僕も港へ見に行ったから憶えている」
「つまり、四雲会には渡会との繋がりもあるということだね」
「きっと」
ふぁあ、と五津海は欠伸を噛み殺しかねた。眠そうに目を擦る。
「眠そうだな、霊薬の効果か?」
見かねた志麻が声を掛ける。
「先に寝ていても良いぞ」
「そう? それならお言葉に甘えて。話が決まったら教えて」
五津海は榊の隣で横になった。
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