第70話 錨を放つ 十四
志麻を近衛が、五津海をナギが背負って道なき道を進んだ。烏天狗たちは山の奥へと一行を案内する。頭上の空は藍色に染まり星が幾つか光っていたが、森の中は暗かった。
「わっ」
榊が何かに躓いた。後ろから烏天狗が支える。ナギが振り返って尋ねた。
「怪我はありませんか」
「大丈夫です、びっくりしたぁ」
下草の中に倒れた石鳥居が埋もれていた。榊が足を取られたのは割れた破片だった。随分と深いところまで来たが、こんな山奥に人の手の加えられたものがあるとは驚きだった。
さらに進むと鬱蒼とした木々の奥に古い建物が見えてきた。
「神社か?」
近衛がスズハノワタリに尋ねた。
「信仰が混ざり合って出来た場所だ」
「修験道と同じか……なるほど、そりゃ天狗の縄張りが生まれるわけだ」
山奥の小さな社とはいえ、本来は何棟か建っていたようだ。殆どは崩れ落ちているが、拝殿らしき建物がまだ残っていた。ナギの鬼火が中を照らした。烏天狗たちが大急ぎで掃除したのだろう。十分に休息出来る環境だった。
「天井があるなんて有難いね、回っているけれど」
木板の床に寝かされた五津海はまだ眩暈が消え去らず、両手で眼を押さえた。榊が五津海の隣で大の字になる。ずっと山道を歩き回って疲れ果てたのだろう。榊はすぐに寝息を立て始めた。
「お前の目が回っているんだ」
五津海とは対照的に具合の良くなってきた志麻は柱にもたれて座った。ナギと近衛もそれぞれ床に腰を下ろす。
「眩暈以外は平気だよ、だからそろそろ真面目な話をしよう。これまでずっと僕たちは核心に触れることを避けてきたけれど、悠長なことを言っている時間は無いんだ。すべての持ち札を見せ合うべきだろう?」
五津海の言葉に全員が口を噤んだ。僅かに緊張が走ったが、五津海だけは笑った。
「ふふ、こういうのは言い出した僕が一番に口を開くべきだよね。この眩暈はおそらく、カイレンと取引した余剰が還元されているんだろうね」
他人事のように五津海は言った。志麻と近衛は渋い顔をする。
「闇市の取引というのはどういう仕組みなのですか?」
ナギの問いに志麻が答える。
「商品と対価は同等でなければならない、これが闇市や夜市の絶対的な規則だ。だから対価のほうが商品の価値を上回った場合、売主は商品を追加することで対価の価値に近付けようとする。カイレンにとって五津海を俺の元まで連れてくることは容易いことで、オニツクシたちの命は過剰だったんだ。だから何らかの形で払い戻す必要があった」
「発生した差額をそのまま返すわけにはいかないのですか」
「食っちまったもんは同じ形で取り出せねぇだろ」
横から近衛が口を挟む。
「だから別の商品で埋め合わせされているってわけだ。追っ手は何人だったんだ」
「たぶん、六人か七人だとは思う。あ、青柳は居なかったから安心して」
「あー、確かにそりゃお前の払い過ぎと判断されちまうかもな。願い方が悪ぃってのもあるかもしれねぇ」
「どのような形で戻ってくるか分からないのですか」
「取引相手がここに居ねぇんだからなぁ。ただ、損にはならねぇ、それだけは確実だ」
「価値観の異なる種を相手に同等の取引を持ちかけるということ自体に無理があります。損得の基準も違っているはずです」
「でも既に取引は成立してしまったんだ。損得が似ていることを祈るしかないね。あの刀を折ってくれやしないかな、いや、僕の身体に不調が出ているんだから、あちら側を消してくれはしないかなぁ」
五津海は力無く笑った。五津海の特徴と言える妖刀も、抜刀することで現れる人格も、五津海は失ってしまいたいと願っているらしい。
「そうですね……」
ナギは曖昧な相槌を打ってから少し黙ったが、すぐに口を開いた。
「次は私でも構いませんか? 本当ならば私が真っ先に切り出すべきでしたが、すみません、一瞬だけ躊躇しました」
「僕も、ナギ君がここに至った理由を詳しく知りたいと思っていたんだよ。話を聞かせてよ」
五津海がナギを促した。ナギは息を吸って、吐いて、そして言葉を紡いだ。
「鬼神計画について、話をしたいのです」
志麻と近衛は顔を見合わせた。聞いたことの無い言葉だった。
「鬼神、計画……?」
「矢橋さんの言葉を借りるならば、鬼の力を持つ人間を生み出す、という計画です」
「待った。ナギ君は矢橋に会ったことがあるのかい?」
五津海がナギの言葉を止めた。志麻が答える。
「あいつは俺に取り憑いていたらしい」
「宗一郎君に? 四六時中一緒に居たってこと? えぇ……ずるいな、僕も死んだらそうしよう」
口ではそう言った五津海だったが、声の調子から察するに本気ではなさそうだった。
「で、矢橋は今も?」
「どうなんだ、近衛」
「五津海が空から落ちてくるまでは近くに居たが、今は分からねぇな」
「志麻さんが霊薬を飲んだことで、これまで通りにはいかなくなったと思いますよ」
それで、とナギは続ける。
「皆さんが夢を辿っている間に、矢橋さんと話をしました。鬼神計画が存在して実行されている、その中心に龍澤千早という人間がいる、ということが分かっているそうです」
「龍澤さんが?」
近衛は険しい表情をした。
「随分と苦労して手に入れた情報だそうですよ」
「鬼の力を持つ人間を生み出す……龍澤さん……」
志麻は小声で同じ言葉を繰り返していた。
「矢橋さんの語る話を信じますか?」
「……矢橋は俺のことを何と言っていた?」
ナギの問いに志麻は質問を返した。
「七つほどの頃より前の記憶や情報が一切残っていない、と。三つの結界が張られているために鬼が自由には顕現しないということ、それから、現状では鬼神計画の完成形に最も近い存在である、と」
「……そうか」
そうか、と志麻は繰り返して言うと、両手で顔を覆い、大きな息を吐いた。その仕草は嘆いているように見えた。
「あぁ、そうか。最初から、そういうことだったか」
「何がどういうことなんだよ、オレたちにも分かるように言ってくれ」
答えを求める近衛のことを志麻は指の間から見た。
「心を殺せば楽になれると、龍澤さんはそう言って笑っていた。いつかの査問の時だ。龍澤さんが査問を止めないのは、俺のために鬼を消そうとしていたからじゃない。鬼の力のために俺を消そうとしていたんだ」
「お前、それは……」
告げようとした言葉を飲み込んで、近衛は別の言葉を選んだ。
「志麻にしてみれば龍澤さんは父親代わりだからな。身寄りの無ぇお前を引き取って、立派に育てた人だ。龍澤さんのおかげでお前は今、一人前のオニカエシになっているんだよな」
「それ、ずっと考えていたんだけど」
五津海が口を挟んだ。
「矢橋が僕たちをオニカエシに引き入れたのは、龍澤さんに対抗するためだったんじゃないの」
近衛は五津海を振り返った。五津海は変わらず床の上で仰向けになっていた。
「矢橋はもっと上手く立ち回って危険や困難を避ける賢い男だったはずだ。それなのに、鬼神計画だって? そんな噂を知っただけでも消されそうなものに首を突っ込むなんて、矢橋らしくないでしょ。あいつ、本当のところは鬼神計画の真相に辿り着いていたんじゃないの」
「かなり確証めいたものは持っていたと私も思いますよ。ただ、正しいと確かめる手立てが無かったか、時間切れだったのでしょう。矢橋さんの結界は即席のものではありませんし、何より、強い未練が無ければ死者が自我を保ったまま此岸に留まることなど出来ません」
ナギは矢橋の様子を思い出していた。余裕のある素振りをしながら、年齢相応の虚栄を抱いていた。二十一年という月日は酷く短い。諦めと似た死者の達観の中に若者の青さが滲んでいた。安堵の底には後悔が沈んでいた。矢橋は核心に触れていた。だからこそ、去ることが出来なかった。
「死人をあまり美化するなよ、所詮は勝手な想像なんだから」
笑いを堪えるような声に、志麻は覆っていた手から顔を上げた。背後に気配があった。
「理想を押し付けないでくれ、俺はもうそこに居ないんだから」
志麻はゆっくりと振り返った。脈打つ鼓動が耳の奥で忙しなく響いていた。
「……矢橋……」
柱にもたれかかって立っていたのは、紛れもなく矢橋だった。志麻は続く言葉を持たなかった。五津海は指の隙間から一瞥しただけだったが、近衛は深く溜息を吐いて顔を伏せた。ナギはいつもと変わらない表情で矢橋に尋ねた。
「霊薬は効きましたか?」
「宗一郎から俺を追い出して、拒絶反応も癒す。手段を選ばないところ、君の美点として気に入っているよ」
矢橋は銀色の瞳でナギを見詰めて笑ったが、すぐに神妙な面持ちをした。
「もう時間が無い。俺が知り得たすべてをもって、最後の幕開けにしようか」
そう言って矢橋は微笑んだ。どこか寂しそうな笑みだった。
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