第69話 錨を放つ 十三


 近衛たちが今後について話していると、先ほどの烏天狗が戻ってきた。だが、その後ろには多くの仲間を引き連れている。殺気立つ烏天狗の群れがじわじわと距離を詰めてくる。

「大歓迎じゃねぇか」

「徹底的に反抗心を砕いておくべきでしたか」

 ナギが少し面倒くさそうに言って烏天狗を見据える。近衛は横目でナギを見た。

 この鬼は愛情という枷で怒りを抑えているだけだ。ひとたび枷を外したならば、その怒りは濁流のようにすべてを飲み込むだろう。これは、そういう鬼の眼をしている。

「オレたちはスズハノワタリという者に聞きてぇことがある。だからここまで来たんだ。話をさせてくれ」

「スズハノワタリなら、私が羽を折った彼ですよ。その名の通り羽が錫の色をしているでしょう?」

 ナギが群れを率いる烏天狗を指差した。スズハノワタリとはどうやら錫羽渡という字を書くらしい。

「捕らえましょうか?」

「こっちは山を歩いてきたばかりなんだぜ、もう少し穏便に済ませてぇんだが」

「しかし、向こうは力で解決しようとしていますよ」

 錫杖を構えた烏天狗たちは今にも近衛たちに襲い掛かろうとしていた。近衛とナギは拳を構え、榊は志麻を守る。互いに睨み合い、一歩も譲らない。空気が張り詰める中、不意に榊が叫んだ。

「上です!」

 榊の声に全員が空を仰いだ。

 橙色に染まり始めた空を青白く光る巨大な鳥が飛んでいた。汽車の客車一両よりも遙かに大きい。呆気にとられた近衛たちの上で怪鳥が甲高い声で鳴いた。辺り一帯にこだまする。そして怪鳥が何かを吐き出した。何かが真っ逆さまに虚空を落ちてくる。

「五津海さんです!」

 目の良い榊が真っ先にその正体に気が付いた。

「冗談だろ!」

 近衛たちはもはや烏天狗たちの相手をしている場合ではなかった。烏天狗たちも予期せぬ事態に混乱して散り散りに逃げ出す。

「私が受け止めます!」

 ナギが五津海を追い掛けて落下地点まで駆けた。伸ばした腕の中に五津海が落ちてくる。勢いと衝撃でナギは五津海を抱えたまま地面を転がった。紅葉が舞い上がる。ナギは真っ赤に色付いた柏の木に背中からぶつかった。

「宗貴さん、宗貴さん!」

 五津海はナギの腕の中でぐったりとしていたが、呼び掛けに目を開けた。

「ヒュッ、ごほっゲホッ」

 五津海が激しく咳き込むと、口の中から鳥の柔い羽毛が溢れ出した。次から次へと喉の奥から羽根が湧き上がってくる。上手く息が出来ない五津海は苦しさのあまりナギの腕を引っ掻いた。

「すみません、失礼します」

 ナギは五津海の口の中に手を入れて吐かせた。赤い落葉の上に落ちる吐瀉物はすべて鳥の羽根だった。その羽根は怪鳥と同じように青白く光る。

「五津海、平気か……?」

 近衛が五津海に声を掛ける。いつのまにか烏天狗たちも集まってきていた。構えていた錫杖を下ろし、心配そうに見ている。怪鳥は山の上に輪を描きながら悠々と飛んでいた。

「なぁ、そいつ大丈夫か……?」

 若い烏天狗が恐る恐る尋ねた。

「食われたんだろ」

「吐き出されていた」

 別の烏天狗たちも加わってくる。戦うつもりは無くしたらしい。今はもう突然降ってきた五津海のことでいっぱいだ。

「カハッ」

 羽毛の塊を吐き出して、ようやく五津海は呼吸が出来るようになった。ナギが背中をさすって荒れた息を落ち着かせる。

「宗貴さん、大丈夫ですか」

 五津海は手の甲で口を拭った。顔色は悪いが、それ以上に機嫌が悪そうだ。

「……最っ悪だ」

 低い声で五津海が唸る。立ち上がって二歩だけ歩き、パタリと倒れた。烏天狗たちがざわつく。

「宗貴さん!」

 慌ててナギが五津海を起こす。塊を吐いてそれで全部かと思ったが、まだ口から羽根が零れていた。

「水場はどこだ」

 近衛が問うと、烏天狗たちは一斉に下を指差した。

「ナギ君は五津海を頼む、オレは志麻を連れていく」

 近衛たちは水を求めて山を下った。その後ろに烏天狗たちもぞろぞろと付いてくる。先ほどまで一触即発だったとは思えない。

 少し下ったところに湧き水があった。その水を飲み込んでは吐き出し、飲み込んでは吐き出し、五回ほど繰り返してようやく五津海は羽根を吐き出さなくなった。怪鳥の姿は夜の迫る東の空のほうへと消えていった。

「気持ち悪い……」

 五津海は木の根に身体を預けて呻いた。

「視界がぐるぐるしている」

 酷い眩暈に五津海は苦しんでいた。その隣に志麻を寝かせると、志麻は薄らと目を開けて五津海を見た。

「……五津海」

 志麻は掠れた声で五津海を呼んだ。

「どうにか無事だよ」

 五津海は目頭を押さえながら答えた。烏天狗たちが羽団扇でふたりを扇ぐ。

「まずはこの状況を整理する必要がある、というか、整理させてくれ。もう何が何だかさっぱりだ。だが何から確認すれば良いんだ」

 近衛は頭を抱えた。苔生した倒木の上にナギと榊が並んで座る。

「近衛さんたちは、どういった経緯でこちらに?」

 ナギが質問する。最も気になるのは五津海が降ってきた経緯だが、まだ話が出来そうにはなかった。烏天狗たちが果実や酒瓶を持ち寄ってふたりを介抱している。害意は感じられない。その様子を横目で見ながら近衛は答える。

「幻覚騒ぎがあった話はしたよな」

「ええ、オニツクシの襲撃を受けたとも」

「深く幻術の掛かった人間を療養所から秘密裏に運び出していたようなんだが、その一味の中に渡会が居たらしい」

「会ったのですか?」

「いや、目撃された特徴から判断しただけで、本人だと決まったわけじゃねぇんだが、渡会以外には有り得ねぇからな。それで、療養所からどこへ患者を連れていったのか、それを探るには、空を徘徊しているスズハノワタリなら知っているかもしれねぇと狼たちから助言を受けて、この山を目指したってわけだ」

「狼とは、ハシバミたちの群れか」

 会話に加わってきたのはスズハノワタリだ。

「真朱という名前は聞いたが、他は知らん」

「それがハシバミの群れだ。なるほど、彼らか……」

 そう言ったきりスズハノワタリが言葉を続ける様子は無かった。ナギは志麻たちを見た。烏天狗たちが持ってきた食糧をふたりで分け合っている。次々と持ち寄られる食糧は介抱されているというよりは、むしろ献上されているようにも見えた。しかし、山で採れるものだけでは不十分だろう。それに睡眠も必要だ。一度しっかりと休息を取って立て直す必要がある。ふとナギは志麻の手元に目を留めた。志麻が手にしている瓢箪に見覚えがあった。

「それ! 霊薬です!」

 ナギは思わず志麻を指差して大きな声を出した。中身を口に含んだまま、どうしたものかと志麻がナギを見る。

「飲み込んでください。それで解毒されるはずです」

 そう言われて志麻はゴクリと飲み込んだ。とろりとした液体は林檎や桃を思わせるような甘味の後に強烈な苦味がやって来た。志麻は顔を顰めた。同じ瓢箪を手にしていた五津海は志麻の表情を見てそっと手を下ろした。

「それで少し休んでいてください」

 ナギは倒木から立ち上がり、スズハノワタリに歩み寄った。思案に暮れていたスズハノワタリが顔を上げてナギを見る。スズハノワタリはナギとの交戦を思い出して身構えた。ナギの手が折れた翼に触れる。

「結果的に霊薬は手に入りましたから、これは私が貰い受けます」

 触れたところに赤い鬼火が光り、翼の中に吸い込まれていく。

「貴方が鬼を売ったという事実に変わりはありませんよ」

 赤黒い光が錫色の羽から染み出してくる。ゆらめく鬼火がナギの腕を伝って袖の奥へと消えた。

「これでどうですか」

「……羽が動く」

 そう言ってスズハノワタリは翼をはためかせた。

「ナギ君」

 近衛が複雑な表情でナギの腕を掴んだ。

「たいしたことはありません。自身の怒りを上手く扱えない私への罰だと考えれば、軽いくらいです」

 ナギはそう言うと掌の上に青白い鬼火を出して灯りの代わりにした。日が暮れ始めた薄暗い森の中が仄かに明るくなる。

「宗貴さん、ご気分は?」

 五津海は顔を上げた。

「すこぶる調子が良いよ。浮いているみたいだ。世界は右回りだね」

「まだ目が回っているじゃねぇか」

 呆れた様子で言った近衛を見て、五津海が首を傾げた。

「その髪はどうしたんだい」

「取引に使った」

「ふぅん」

 自分から尋ねたわりに五津海は興味の無さそうな返事をした。

「何か必要なものは無いか?」

「寝床を用意するか?」

 烏天狗たちが五津海に尋ねる。五津海は笑ったが、顔に疲れが出ている。

「随分と甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるんだね」

「お前はカイレンが連れてきた」

「食われても無事だった」

「無事だったということはカイレンよりも格が上だということだ」

「カイレンよりも上の者は敬わねばならない」

「それってあの鳥の名前かい?」

 五津海が確認すると、烏天狗たちが一斉に頷いた。どうやら先ほどの怪鳥はカイレンと呼ばれており、烏天狗たちにとっては畏怖か畏敬の対象であるらしい。そのカイレンが連れてきた五津海のことを烏天狗たちは丁重に扱おうとしているようだ。

「確かに寝床があると助かる、あ、ちょっと待ってまた」

 吐く、と言い終わらないうちに五津海は顔を背けて吐いた。食べたばかりの果実に混ざって、まだ十枚以上の羽根が青白く光っていた。烏天狗たちが困った様子でおろおろと五津海の背を撫でて羽団扇で扇ぐ。

「おや、まだこんなに。内臓に引っ掛かっているのでしょうか。消化も悪そうですし。完全に治まるまでは暫く時間が掛かりそうですね、食事もつらいでしょう……」

 ナギが少し不憫に言う。

「はぁー、どれだけ飲み込んだんだよ、美味くもねぇだろ」

 近衛は面倒くさそうだった。

「好きで飲み込んだわけじゃない」

「帝都で何があった」

 近衛が尋ねると、五津海は喉元を手で掻きながら答えた。

「梧朗たちを送り届けた後、万里は消費した材料を買い足しに行くと言うから別れた。陸軍への帰り道、尾行されていることに気が付いた」

「相手は?」

「オニツクシの軍服だった、顔はしっかりと見ていない。それで、撒けるかと思ったけれど、むしろ上手く誘導されて、闇市へ入る羽目になった」

「闇市? どうしてそんな面倒な場所へわざわざ」

「往来だと目立つからじゃない? 向こうはともかく、こっちは白い軍服だ。騒ぎになったらどうしたって記憶に残る。人通りの多いところで行動すれば、目撃者が増えるだけだしね」

 はぁ、と五津海は息継ぎをした。眩暈も吐き気もまだ治りそうにないが、意識はしっかりとしていた。

「闇市を逃げ回っているうちに、朝を迎えるし、挙げ句の果てに方角を失って出られなくなった。それで仕方が無いから取引したんだ、やむを得ずだよ」

 どうしようもなかったことだと五津海は強調した。よほど不服だったらしく、髪を掻き上げた。すでに乱れていた髪がさらに乱れ、眉目秀麗であることには変わりないが、整えられた普段の爽やかな姿とは随分と違った印象になる。

「一体どんな取引をすりゃぁ、あんな鳥に食われることになるんだよ」

「手っ取り早く終わらせようと、目に付いた相手に話し掛けたのが不味かったかな。僕の追っ手をくれてやるから、宗一郎君のところまで連れて行ってくれと交渉した」

「その取引は上手いな、互いに損が無くて良い」

「ああ、複数を片付けるなら大きいほうが良いと思ってね。折角、空を飛べる相手だったのに、まさか口の中に含まれて運ばれるなんて。ああ、もう、思い出したくもないや」

 ここまでの道中は、随分と居心地の悪い旅だったらしい。

「あれは一体何だったんだろうね」

「青鷺火の一種でしょう」

 五津海の疑問にナギが答える。

「あー、五位の光だったっけ、名前は聞いたことがあるよ。そう言われてみれば確かに鷺だった。思っていたのとは少し違う大きさだったけれど」

「私もあれほど巨大なものは見聞きしたことがありません」

「烏天狗たちが一目置くのも分かるよ」

 そう言うと五津海は扇いでいた烏天狗に声を掛けた。

「やっぱり寝床を頼めるかい? 横になりたいんだ」

 烏天狗たちは我先にと羽ばたいて、五津海の頼みを叶えようと飛び立った。

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