第16話 白を喪う 一

 白、白、白。

 どこまで行っても白い雪の世界を志麻は歩いていた。振り返れば自分が辿って来た足跡も雪に掻き消され、もはやどこを歩いてきたのかも分からない。白い吐息もすぐに凍て付く風に攫われる。鈍色の空から絶えず降り注ぐ雪は柔らかく残酷に世界を白く染めていた。


 この白銀の世界に足を踏み入れたのは早朝のことだったが、目的の村に着く頃には夕刻になっていた。厚い雲に隠された冬の太陽は頼りなく、どこまでも白い世界は時が止まっているようで、すっかり冷えた身体は時間の感覚などとっくに失っていたが、薄暗い世界がさらに一段の暗さを増せば、夜が来るのだと志麻にも分かる。

 村の入り口には今にも朽ち果てそうな木の柵と門があった。見る限りでは門番としての役割はさほど果たしていないだろう。しかし、ここに村があると知らせるには充分か。開けられたままの門を潜れば、家屋が点々と建っていた。家々はどれも深い雪に閉ざされて眠っているようだったが、数人の子供たちが外で戯れていた。

「あ」

 ひとりの少女が志麻に気が付いた。それを合図に子供たちの視線が一瞬にして志麻に投げつけられる。

「見慣れん服装だな」

「オレ、知っている、あれは軍人さんだ」

「軍人さんが何をしに来た」

「モドリを連れに来たんか」

 志麻はまだ何も告げてなどいないが、どうやら村の子供たちの視線は敵意のほうが大きい。閉ざされた土地ほど結束が固く、誰かの一言で村の態度が決められる。子供たちの中ではモドリを連れに来たから悪い者だという結論に至ったようだが、そもそもモドリとは何か志麻は知らない。

「俺はモドリとやらに用はない。雪成という者から手紙を貰った。この辺りに住んでいるはずだが」

 志麻がそう告げると子供たちは顔を見合わせた。小さな声で話し合ったあと、村の奥を指差して次々に口を開く。

「お社の隣」

「病で寝ているかもしれん」

「居なければ裏に回れ」

「モドリには手を出すなよ」

 子供たちは繰り返してモドリのことを案じていた。刺さるような監視の視線を背中に感じながら、志麻は村の奥へと歩みを進めた。子供たちは散り散りになってそれぞれの家に駆け込んでいった。おおよそ親へ報告に向かったのだろう。

 雪を掻いた名残がほんの僅かに道を示していた。雪は降りやむことを知らず、積もった深雪が音を吸い込んでいるように静かだった。

 暫く歩くと、社が見えてきた。傍には小さな家屋がある。社といっても傾いた木製の鳥居と、雪に埋もれた祠があるだけの質素なものだ。志麻は祠を覗いた。相当年季が入っているらしいが、供物は丁寧に供えられている。

 家屋からは灯りが漏れていた。人の気配もある。志麻は玄関の引き戸を叩いた。すぐに足音が近付いてきて、建付けの悪い引き戸はガタガタと開いた。

 子供がひとり佇んでいた。小柄な少年だ。五、六歳ほどだろうか。真っ黒な瞳がじっと志麻を見上げていた。奇妙な雰囲気を纏っていた。先程会った子供たちとは異なる、妙な気配があった。

「雪成という者は居るか。依頼を受けて来た、志麻という」

 志麻が尋ねると、少年は頷いて家の奥を指差した。口が利けないのか。少年はパタパタと走り奥へと去った。志麻は家の中に入ると引き戸を閉め、土間で雪成という者を待った。

 少年が連れてきた雪成は三十路ほどの男だった。病がどうのこうのと言っていた子供たちの言葉が思い出される。身体は病的に細く、顔も青白い。しかし、気力はあるようだった。

「こんなところまで遠路はるばるありがとうございます」

 雪成は深々と頭を下げた。年の割に白髪が目立つ。

「寒かったでしょう。どうぞ、こちらへ。ちょうど夕飯の支度も出来たところです」

 促されるまま、志麻は共に夕食を取ることにした。三人で囲炉裏を囲む。この家には雪成と少年のふたりしか居ないらしい。

「それで、調査を依頼されたはずだが」

「ええ、この子のことです」

 雪成は少年に目を向けた。少年は小さな手で器を持ち団子汁を飲んでいた。志麻と雪成の会話には全く興味がなさそうだ。

「この子には名がないのです」

 その言葉に志麻は雪成を見た。

「妹の子でして」

 囲炉裏の火が雪成の顔に翳りを与える。

「この子のことは、よく分からんことが多いのです。確かなことは、母親が僕の妹ということだけ。曖昧な話になって申し訳ないのですが、この子のことを分かる限りお話します。そうして、正体を明かしてほしいのです」

 雪成は静かに続けた。

「僕はもう長くはありません、この冬は越せんだろうと医者に言われました。幼少の頃から身体が弱かったのですが、ついに胸を病みまして、もう助からんのです。残されるこの子のことだけが気掛かりで。せめて何者であるのかだけでも分かれば、そこがこの子の居場所となるのではないか、そう思うのです」

「人間ではないと言いたいのか」

「刃で切れば血が流れる、火で炙れば火傷をする、高い場所から落ちれば骨が折れる。そういったものが人間であるならば、この子を人間とは呼べません。村の者達はこの子をモドリと呼びます」

 モドリという言葉に志麻は聞き覚えがあった。村の子供たちがしきりに口にしていた言葉だ。それはこの少年のことだったのか。

「信じられん話だとは思います、ですが、この子は雪の底から戻ってきたのです」

「雪の底?」

「村の近くの谷底です。山の雪崩はすべてその谷に流れ込みます。この辺りでも一等雪深い土地です。もう三年前になりますか、他の子供らと山で遊んでいた折に、運悪く雪崩に巻き込まれたのです。村の者が総出で、他の村からも人が駆け付け、皆で雪の底を探しましたが、三日三晩探しても見つからず、捜索は打ち切られました」

 深い雪に閉ざされた雪の底という場所を志麻は想像した。酷く冷え切った淋しい場所が思い浮かんだ。

「そうして見つからぬまま一週間が過ぎて、遺体はなくとも供養はしなければならないと、皆で話し合っていた時でした。この子が山から帰ってきたのです。身に付けていた服はボロボロになっていましたが、この子だけは無傷でした。別段、弱った様子もなく、ケロリとして。それから皆、この子のことをモドリと呼ぶようになったのです」

 団子汁を啜る姿は他の子供たちと何ら変わりはない。

「普通の子供に見えるでしょう」

 志麻の考えを見透かしたように雪成が問う。

「熱を出したこともない、転んだ怪我も一瞬で治る、火に触れて爛れた手も跡形さえ残らない。丈夫だという言葉ではもう説明が付かんのです」

 雪成の言葉に、志麻はじっとモドリを見詰めた。

「僕はこの子を恐れているわけではないし、憎んでいるわけでもありません。むしろ、可愛くて仕方がない。僕なりに精一杯愛しているつもりです。だからこそ、ひとり残されるこの子の将来を思えば悲観的になる。今はまだ良いでしょう、ですが、やがてこの子だって気が付く。周りとの絶対的な差を思い知ることになる。その時、この子に居場所はあるのか。僕はそればかりを憂いてしまうのです」

 溜息のような雪成の言葉は嘘偽りのないように志麻は感じた。モドリに向けられる眼差しは親のそれと同じだ。

「今年で七つになります。他の子よりも発育が遅く、口を利くことも出来ません。耳は聞こえているのですが、読み書きは出来ません。誰よりも足が速く、力も強い。鬼の子ではないかと、村の者達は噂しています」

 汁を飲み終えたモドリは、茶碗や箸を持って炊事場のほうへパタパタと小走りで向かう。その姿を見ながら志麻は尋ねる。

「名前をくれてやらないのは、理由があるのか」

「……本当ならば、名前があったはずなのです」

 雪成もまたモドリの姿を眺めながら答えた。

「妹はこの子に付ける名前を胸に秘めたまま息を引き取りました。この子を産んだ時のことです。酷い難産でした。僕は妹の手を握って懸命に呼び掛けましたが、妹の命が少しずつ潰えてゆくのを感じていました」

 自分の手に視線を落とした雪成が言う。

「妹は、この子が生まれるのをそれはもう楽しみにしていたんです。俺が丈夫じゃないばかりに妹には苦労ばかりさせてしまって、遠い親戚を頼って帝都に働きに出ると言って、村を出ました。時折寄越す手紙には、帝都での暮らしぶりが書かれていましたが、誰かと恋仲であることなどひとつも書いておらず、腹を大きくした妹が帰ってきたときは驚きました」

 雪成は妹の思い出をひとつずつ丁寧に思い返しているようだった。

「オニカエシという人たちが居ることは妹から聞きました。妹が世話になっていた食事処は陸軍の近くにあって、そこでオニカエシの存在を知ったそうです。御伽草子みたいだと妹は興奮した様子でした。昔から、夢見がちな妹でしたから」

「ああ、それでオニカエシまで直接の依頼が届いたわけか」

「はい、妹の話をもとに、文を。まさか本当に届くとは。妹とは仲が良かったんですよ、両親が相次いで亡くなってからは、兄妹ふたりで生きてきました。けれど、相手について、妹は決して話そうとはしませんでした」

 外はどれほど寒かろう。時折、僅かな隙間から冷たい風が吹いてきた。

「この子に悪いことをしている自覚はあります。けれど、名付けようとするたびに妹の顔が目に浮かぶのです。そんな名前ではない、他人が名付けて良い命ではない、と。それがどうにも苦しくて、気が付けばもう七年です。酷い伯父でしょう。名前もくれてやれず、出生も明かしてやれない」

「……自分の目で確かめなければ信じがたい話だな。しばらくの間、ここで世話になっても良いか」

「ええ、勿論です。何もない家ですが、どうぞご自由にお使いください」

 志麻は様子を見ることにした。例えば怪我がどのように治癒するのか、その過程を見れば何者であるか分かるかもしれない。あるいは、行動の傾向、好き嫌い、手掛かりはどこかにあるはずだ。

 モドリはただの子供にしか見えない。眠っている間に正体を現すのではないかとも思ったが、そういうわけでもなかった。

 雪は止むことを知らず、夜の間中もずっと振り続けた。


 明くる朝はまず雪を掻くことから始まった。玄関の引き戸を開けると雪の壁が迫っていた。志麻はモドリとふたりで雪の中に道を開いた。志麻が声を掛けるとモドリは頷いたり首を傾げたりする。言葉は理解している。だが、言葉を発するために口を開けることをしない。声はあるのか、それとも声も失っているのか。モドリの様子では判断が付かなかった。

 朝食の後、志麻は暫くモドリに付いて歩いた。モドリはすぐに雪の中へ埋もれてしまう。それを引っ張り上げながら、ふたりで村を歩き回った。モドリは志麻に村を案内しているようにも思えた。

「モドリ」

 行く先々でモドリは何かを貰っていた。干し柿であったり、使い古された防寒具であったり、村の者達はモドリのことを放っておけないらしい。

「雪成はもう長くない。あの子まで死んでしまったら、モドリはひとりになってしまう」

 村の者達はモドリの未来を心配していた。異質な命を排除しないのには理由があるのだろうか。

「雪穂は良い子だったよ」

「思いやりに溢れた子だった」

「笑うと小さな八重歯が覗くんだ」

「雪穂だけじゃない、雪成も、あの子たちの両親も」

 雪成の一族の話をするときの村の者達の顔はどれも朗らかで、いかに彼らが愛されていたのか、その人徳が良く分かる。余所者の志麻に対する態度も、あからさまな悪意はない。昨日は鋭い目つきをしていた子供たちも今は志麻とモドリの周りを駆け回っている。

「なぁなぁ、帝都ってどんなところだ」

「お前、寒くないのか」

「ウサギを狩りに行こう」

 脈絡のない子供たちの会話に誘われ、志麻は村の外の平原に出た。見渡す限りの雪が世界の果てさえも白で覆い尽くしている。雪原には動物たちの足跡が残り、命の気配を感じさせた。

「モドリ」

 盛り上がった雪の陰に隠れて子供たちが雪原をじっと見詰めている。

「見えるか、モドリ」

 暫く雪原を見ていたモドリが不意に雪原の只中を指差した。指し示した方向に目を凝らせば、真っ白な雪ウサギが辺りを見渡していた。志麻には分かったが、子供達には分からないらしい。

「どこだ、見えん」

「おい軍人さん、見えているならあれを仕留めておくれよ、立派な鉄砲を持っているんだから」

「鍋にしよう」

 子供たちに促されて志麻は長銃を構えた。ズドンと一発、ウサギは雪に沈んだ。銃声は方々に響き渡り、近くの木々から鳥が飛び立った。

 子供たちが駆けだしてウサギを回収した。モドリだけは志麻の傍らに残り、煙の昇る銃を不思議そうに見ていた。触るなよ、と志麻が言えば、分かっているのかどうなのか、モドリは志麻をチラリと見ただけだった。

「一発だよ」

「鍋にしよう、きっとうまい」

「もう少し欲しいな」

「おぉい、軍人さん」

 そういうわけで志麻は子供たちに連れ回されることとなった。


 昼過ぎに村へ帰った子供たちの手にはウサギや鳥たちが何羽も握られていた。嬉しそうに駆ける子供たちの後ろから、鹿を背負った志麻が付いて歩く。モドリは鹿の後ろ脚を持って志麻を手助けしているつもりらしかった。

「軍人さん、捌いてみるか」

「いいや、こういうのは手馴れている者に任せなければ、うまい肉にならないと聞く」

「一理ある」

 鹿の処理は村の者達に任せ、志麻は銃の手入れをした。そんな志麻のことをやはりモドリが興味深そうに見詰めてくる。

「触るなよ、怪我をしても俺には治せないからな」

 志麻が言うと、モドリは小さな手でペタペタと志麻の頬を触った。まるでそこにある志麻の存在を確かめているようだった。冷えた指先が輪郭を辿る。どうやら懐かれたらしい。やがて満足したらしい、モドリは子供たちの元へ駆けていった。

 志麻の元へ鍋が運ばれてきた。

「軍人さん、あんたが居ると食べ物に困らんね」

「いいや、あの子の目のお陰だ。俺はあの子が見付けた獲物を撃っただけだ。こうも雪深ければ、やはり食糧も尽きやすいのか」

「そうでもないさ。こんな雪は毎年のこと、共に生きる術なら心得ているよ」

 不都合など何もないように思える。確かに雪に埋もれた集落だが、心地の良さは暮らしを明るく照らしている。モドリもここならば好きに生きられるだろう。

 だからこそ、モドリの命の在り方が問題なのだ。モドリに関する言葉が本当ならば、たとえば今、この村を雪崩が飲み込んだとしても、モドリだけは生き永らえるだろう。村の者達が絶えても、モドリは生き続ける。恐らくは肉体の寿命が訪れるまで、そう簡単に死ぬことはないだろう。だが、その寿命というものが、普通の人間よりもどれほど長いのか、予測も出来ない。

 今はまだ、少しの差だ。だが、青年になる頃には、明らかな違いが現れるだろう。悲愴や絶望に心を奪われてしまえば、もはや人間とは共生出来ないだろう。居場所など、どこにもない。

 幸か不幸か、モドリから感じる気配は鬼のものではない。どんな怪異をその身に宿しているのか。今はただ様子を見るしかなさそうだ。

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