第17話 白を喪う 二
明くる日の朝早く、志麻はひとりで家の外に佇んでいた。村の者達はまだ夢の中、静かな朝だった。雪は降り続いていたが、昨日よりも随分と風が強い。舞い上がり振り落ちる雪が吹雪となって視界を白く染めていた。志麻の軍帽に、肩に、雪が積もる。
家の周りをぐるりと見て回り、志麻は社の前に立った。祠の供物が凍っている。無数の小さな氷柱が剥き出しの牙にも見えた。
昨日、村を見て分かったことがある。
この祠に神は居ない。
村の祈りが空虚なものだとは思わないが、村の守り神が不在であることは確かだ。空席になったのは最近というわけでもなさそうだが、代わりが現れないということは不自然だ。神であれ、そうでなくとも、どこかに空きが出れば誰かがその座を狙ってやって来るはずだ。
しかし、この祠は不在のまま、村の祈りばかりが積み重なっている。神が居ないのであれば、この一帯を統べていた者はどこへ居ったのか。守り神の居ない村が生き延びられるとは思えない。こんな雪深い環境ならば尚のことだ。近くの村の守り神がここまで面倒を見ているのか、あるいは山の主でも居るのだろうか。
いずれにしても、空席の座が不可解なことに変わりはない。
凍て付く寒さで耳が千切れそうに痛い。
守り神を探し出せば、モドリのことについても何か分かるかもしれない。風雪が収まれば少し足を延ばしてみよう。
深く息を吸い込めば、胸の中まで凍り付いてしまいそうだった。志麻が家に入ると、薄暗い闇の中からモドリがじっと志麻を見詰めていた。流石に少し驚きはするが、不気味だとは思わない。それはきっと、モドリの命に両親からの確かな愛情を感じるためだろう。
「おいで」
志麻は手を差し出した。モドリの小さな手が志麻の手を掴んだ。抱き上げた全身から命のぬくもりが伝わる。
「その命の在り方は、やがて足枷になるだろう。だがその足枷の外し方を俺はまだ見付けられない」
疑うことも知らないのか、無邪気にモドリが甘えてくる。志麻はモドリの無垢な魂に、雪の白さと神々しさを感じていた。
「雪が止めば明日にでも近くの村へ行ってみようと思っている」
朝食を取りながら志麻は雪成に伝えた。
「それなら雪の底の向こうに村があります。あちら側のほうが少し大きい。誰か案内出来る者を呼びましょう」
雪の底を挟んで村があるらしい。雪成の言葉を借りるならば、あちら側とこちら側だ。それはまるで彼岸と此岸のような響きを持っていた。
その日、志麻は村の者達にモドリのことを聞いて回った。
「いい子でしょう、少し身体が丈夫なだけよ」
「口が利けんことの何が悪い、それで困ったことなど一度もねぇな」
モドリのことを悪く言う者はおらず、舞い上がる雪で煙る景色を眺めながら志麻は溜息を吐いた。何かが妙に噛み合わない。歪な気配が立ち込める。盲目なまでにモドリを善だと決めつけるような空気が、この村を包んでいる。
いや、それは可笑しい。
子供らと駆け回るモドリを目で追う。雪玉を片手に走り回る。証言を信じるならば、モドリは確実に怪異の類だ。人間と似た、けれど人間とは別の命だ。それが受け入れられている、当然だと思われている。あるいはそれ以外の選択肢などまるで知らないかのようだ。
仲睦まじく平穏に暮らしているならば、それで構わない。村の者達の心に偽りなどないだろう。だが、目には見えない違和感が確かに横たわっている。不自然な程に自然な優しさが、まるで取り繕われているようにさえ思える。
強い風が吹いた。凍った枝先の氷柱は落ちて、下に居たモドリの腕に突き刺さった。
「モドリ!」
子供たちから悲鳴が上がる。志麻はモドリに駆け寄った。鋭い氷柱はモドリの細い腕を貫いていた。うずくまるモドリの周りの雪が赤く染まってゆく。しかし、モドリは泣きも叫びもしない。
「引き抜くぞ」
志麻はモドリの腕を貫く氷柱を引き抜いた。すぐさま腕を縛って止血する。
しかし、志麻の処置よりも早く、ぽっかりと穿たれたはずの穴が塞がっていた。
なるほど、これか。
瞬きをする間もなく、モドリの腕は元通りになった。どこを負傷したのかさえもう分からない。目の前で繰り広げられた現象に、志麻の表情は険しいものへと変わった。
「痛みはないのか」
志麻が尋ねるとモドリは小首を傾げた。どうやら痛みはさほど感じていないらしい。モドリは腕を回したり手を広げたりと、何事もないことを志麻に見せた。
「俄かには信じがたいが、なるほど、そういうことか」
ふむ、と志麻は立ち上がると腕を組んだ。
「雪は未だ止まないが、向こう側に行ってみなければならないな。会わなければならない者が居る」
複雑に思考を巡らせる志麻の足元で、モドリは不思議そうに志麻を見上げていた。
案内役を買って出たのは、タキネという少年だった。村の子供らの中では最年長らしい。年少の者達は羨ましがっていた。
「軍人さん、オレはタキネ。タキネは滝の音って意味だ。よろしく頼む」
タキネは志麻の隣を歩いた。道もない森の中をタキネは迷うことなく進む。
「モドリのことをどう思う」
志麻はタキネに尋ねてみた。
「うーん、どうって言われてもなぁ。モドリは生まれたときからモドリだったから、それ以外のモドリを知らないから、そういうもんだと思っている」
木の枝を足元の雪に突き刺しながらタキネは答えた。
「モドリは死なん。そんなことくらい、みんな知っている。凍った池に落ちたこともある。熊にやられて首が落ちたこともある。それでもでも死なん。死ねんことは可哀想だ」
だけど、とタキネは続ける。
「たとえモドリがオレたちとは違っていても、モドリの母親の雪穂も、雪成だって、村の人間だ。少しくらい他とは違っていても、モドリは村の子だ。口が利けん、死にもせんだけで、オレの弟分に変わりはない」
タキネは志麻を見上げて尋ねた。
「軍人さんはモドリをどうしたいんだ」
「俺は正体を明かしてやってほしいと頼まれてここへ来た。それだけだ、どうするつもりもない。あの命の在り方を決めた理由が分かれば、永遠を彷徨うこともないだろうという、雪成の最期の祈りだろう」
「モドリは死なんのに、どうして雪成は死ぬんだ。この冬は越せんと大人たちが言っている」
「それはつまり、モドリの父親のほうに、原因があるということだろうな」
不意に志麻は足を止めた。言葉を発しようとしたタキネの口を志麻は手で塞いだ。そのままタキネの身体を抱き上げて木の陰に隠れる。
鬼の気配だ。
白む木立の奥から鬼の気配が徐々に漂ってくる。こちらに気付いているのかもしれない。徐々に濃くなる気配に、タキネも何か感じるものがあったのだろう。志麻の身体にしがみ付いて震えている。志麻の胸に顔を埋めて声を殺そうとするあたりは危機感があって助かる。だが、このままでは戦えない。鬼が何もせずに過ぎ去るのを待つしかない。
腐臭にも似た不快な臭いが鼻を衝く。鬼のほうが風上なのは幸運だ。
鬼が近付いてくるにつれて、紛れる別の気配を志麻は感じ取った。
何だ、こいつは。
志麻は全身の神経を研ぎ澄ます。
やがて、鬼は森の奥へと消えていった。
「……もういいぞ、タキネ」
志麻はタキネを解放した。タキネは腰が抜けたのか、へなへなと雪に座り込んでしまった。
「今のは」
この辺りによく出るのか、と尋ねようとした志麻の言葉をタキネが遮った。
「何だ、あれ、あんなのがこの森に居るなんて知らん」
蒼白になった顔で、タキネはまだ震えていた。
最近になって現れた鬼だろうか。それにしても妙な気配を纏っていた。だが、考えても仕方がない。今はまず、向こう側の村を目指さなければ。
案内役がタキネなのは良かった。もう少し大人であったならば戦おうとしただろう、もう少し子供だったならば泣きだしていただろう。抱えられるということは、戦えずとも、逃げ出すことは出来るということだ。
志麻はタキネと手を繋いで雪の底の向こう側を目指した。
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