第15話 蒼に啼く 六(終)

 町医者は志麻の無茶を叱り飛ばした。

 結局、五日間の入院となった。初日はここぞとばかりに惰眠を貪るだけで一日が終わった。しかし、二日目にはすでに暇を持て余していた。重傷だったとはいえ、気持ちはしっかりとしていた。仕方のないことだが、退屈だ。だからといって町医者の目を盗んで外出するのも気が引けた。

 榊は毎夜、宿へ帰る途中に病室を訪ねた。その日あった出来事を利き手の動かない志麻に代わって報告書に書き記した。

 五日目の夕刻、診察を終えた町医者が出ていくと、志麻はひとり病室に残された。窓の外には連なる街の屋根が見える。あれだけの騒ぎだったはずなのに、街は普段と何ら変わらず、商いの活気が病室まで届いてきた。志麻は目を閉じた。窓から入ってくる風の中に、微かな夏の気配がある。

 ヒョー。

 聞き覚えのある囀りに志麻は目を開けて窓を見遣った。

 一羽の鳥が窓辺に止まっていた。黄と黒が混ざり合う斑模様。一尺ほどのその鳥は羽ばたいて病室に入ってくると、くるりと旋回した。ずっと目で追っていたはずだが、鳥がいつの間に姿を変えたのか、まったく分からない。気が付くと晴嵐が傍に立っていた。

「礼を言いに来た」

 晴嵐は神妙な面持ちでそう言った。

「そうか。詫びるために来たのなら、追い返すところだった」

 志麻はそう返したが、声も表情も穏やかだった。

「具合はどうだ」

「この有様だが、そのうち腕も動くようになる。まあ、今しばらくの辛抱さ」

「いつ発つ」

「俺は明朝、五津海は報告書次第だな」

「明日……急いでいるのか」

「まあ、そうだな」

 何か言いたげに口を開いた晴嵐だったが、迷った末に口を閉じた。代わりに志麻が尋ねる。

「ハルノブとミソラには話が出来たか?」

「……いや、会っていない」

「それで構わないのか?」

「構うものか、悔いることなどない、未練なんてない」

 志麻は外を見た。山の向こうへ落ちる夕日に霞が掛かっている。ふたりとも黙ったまま、静かな時間が流れていた。しばらくして言葉を決めた晴嵐がゆっくりと沈黙を破った。

「晴啓は大切な友達だ。だからこそ、いつだって自分の意志を貫き通さない晴啓が嫌いだった。あの時だってそうだった」

 晴嵐が言うあの時とは、晴嵐が晴啓の前から姿を消した日のことだろう。自分には千草屋しかないのだと思い知らされた、晴啓はそう言っていたが、はたして真相はどうだったのか。

「今更、信じてくれとは言わないけれど、すぐにでも術を解いてミソラを帰らせるつもりだった。ただひとこと、ミソラと幸せになるって言ってくれたら、すぐにでも」

 夕焼けが街を杏色に染め上げる。病室にも黄金色が溢れる。伸びた影が晴嵐の顔を翳らせる。志麻は何も言わずに晴嵐の声を聞いていた。悔いも未練もないと言った、そんなものは嘘だ。ぽつりぽつりと紡がれる声は愁いを帯びて、伏せた顔には嘆きが忍ぶ。

「今度こそきっと、晴啓は幸せになれるだろう。ミソラがいて、千草屋があって、もう迷うことなんてない」

 晴嵐は淋しさを隠すように笑ってみせた。志麻はそんな笑顔を冷めた視線で見詰めた。

「……所詮、俺は部外者だ。お前たちの事情に口を挟みたいわけではない。だが、報告書を仕上げるためにも、いくつか聞いておかなければならない」

 志麻は枕元の棚に置かれている報告書を片手に乗せて開いた。

「幼少期に一度、ハルノブの前から姿を消したと聞いている……が、それはハルノブがお前のことを認識出来なくなっただけではないかと俺は考えている」

 晴嵐は視線を逸らした。

「姿かたちを変えるのは得意だろう。何者でもないが、何者にもなれる、そして何者かである。それがお前たちの本質だと聞く」

「あのままでは駄目なのだということくらい、分かっていたんだ。人間にとって妖怪や物の怪は、現実ではない。晴啓は、晴啓の世界で生きるべきだ。人間の世界で生き抜くべきだ」

「なるほど、お前の言うことは理解出来る。だがそれならば何故、ミソラの前に現れた。ミソラだってハルノブと同じだ、人間の世界がある。あの杉の木を登った時、深窓のミソラを不憫に思ったのか」

「ああそうだよ、両親を亡くしたミソラが可哀想だった。屋敷にはじいさんも女中たちもいた、だけど、いつだってミソラはひとりぼっちだった。そうだよ、ミソラはハルノブと同じだった。ふたりとも、幸せになってほしかった。そう願うことの、何が悪い」

 何が悪い、晴嵐は込み上げる感情を抑えるように唇を噛んだ。志麻は溜息を吐いた。

「俺は別にお前のことを責めてなどいない。事実をハッキリとさせておきたいだけだ。お前に悪意がなかったことも承知しているし、何より、ハルノブもミソラも、お前のことを恨んでいるわけでもない。俺たちオニカエシの負傷など被害には勘定しないのだから、僅かな擦り傷や打撲、少々の物損くらい、書くまでもない」

 志麻は頁を捲った。

「そんなことよりも報告書に必要なのは、あの大鬼の発生源と、まあこれは五津海に任せるとして、ああそうだ、お前のことだ。ハルノブを特別視する理由があれば聞かせてもらおう。なければ気紛れと書いておく」

 夕暮れ、風が止む。志麻は晴嵐を試すようにその答えを待った。日が落ちれば今夜も榊が来る。晴嵐のことだ、榊が来れば姿を消すだろう。このまま晴嵐が何も語らずとも、それで構わない。うやむやになったところで、それもまた一興、晴嵐と同じく掴み所のない案件だったと報告するだけのことだ。

「名前を貰った」

 晴嵐は窓辺に立った。後姿は逃げ出そうとするものではなく、霞み落ちる夕日を名残惜しむような佇まいだった。

「日常を掻き乱す、まるで嵐のようだと、自分の名から一字取って、晴嵐」

 それだけだ、と晴嵐は志麻を見た。

「人間に、分かってもらおうとは思っていない。名前が持つ意味も、その価値も。数多くの命の中から見出された、この幸運を。分かってくれなくていい、だけど、たったそれだけのことが、充分すぎる理由になるんだ」

「……いいや、分かるさ。俺も名前を与えられた側であり、与えた側でもある」

 志麻はそう返した。晴嵐は怪訝そうに少しだけ眉を動かした。

「呼ぶべき名前があるということ、誰かに呼んでもらえるということ。それらがどれほど幸福なのか、俺だって知っている。まあ俺は自分の名を失ってしまったが」

 晴嵐は、そうかと呟いて、また外を見た。志麻は報告書を閉じた。

「恩を返したかったと、記しておこう。これでお前の矜持も少しは保たれるだろう。それで、これからどうするつもりだ。ふたりに会わず、いなくなるつもりか」

「……何を言っている」

 晴嵐は振り返って志麻を見遣った。その瞳は人間のものではなく、妖しい光を灯す、人非ざる者の眼をしていた。

「嫁入り前の女は幻覚を見た、男は過去に思いを馳せた、ただそれだけのことだ。晴嵐というものなど、はじめから存在していない。朝が来れば、すべてが曖昧になり、何が何やら訳が分からないと、訝しいだろうが、すぐにすべて忘れ去る」

「ふたりの記憶を消すつもりか」

「それが唯一の償い。ただひとつ残された、幼き友情だよ」

 余りにも身勝手だと思ったが、志麻は何も言わなかった。これが晴嵐のやり方だ、いや、こうしなければならないのだ。

 継ぎ接ぎのようなその姿の、何が本当で、何が偽りなのか、誰にも分からない。どこまでが本心で、どこからが虚栄なのか、自分自身でも分からない。

 鬼や天狗、そういった種族の名前を彼らは持たない。だからこそ、その存在はいつでもぼんやりとしている。曖昧でなければ、存在することさえ出来ない。そういった命の在り方をしているのだ。

「うまく、口裏を合わせてくれないか。すべては大鬼の仕業だったと。晴嵐というものは、最初から最後まで存在しなかった。あの大鬼には悪いが、そういうことにしてほしい」

「それくらいのことは協力してやろう。俺の負傷はあの大鬼の所為だからな。だが、報告書だけは真相を記録させてもらう。後続の者達のためにも、嘘は残せない」

 晴嵐は目を細めた。

「たわごとだと笑ってくれ。だけど本心だ。ふたりには幸せになってほしかったんだよ」

「ああ、心に留めておこう」

 志麻の答えに満足したのか、晴嵐は安堵の表情を見せた。そして、窓から身を投げた。夕暮れの街を一羽の虎鶫が飛んでゆく。

 晴嵐を責め立てるつもりなどない。志麻は報告書を元あった場所に戻した。すべてを書き記すつもりもない。真相を知る者からすれば、これほど勝手な幕引きはないだろう。何があったのか、晴啓や美空には真実を知る権利がある。だが、晴嵐の選択を無意味にすることは出来なかった。

 罰ならば、もうすぐ受ける。

 遠い思い出をひとり抱えながら、晴嵐は生きてゆく。次に会った時、ふたりには晴嵐のことが分からないだろう。共に過ごした時間は確かに流れていた。だが、愛しいすべてを無に帰す。これほど重い罰が、他にあるだろうか。

 晴嵐。

 その名前だけが、ただひとつ残された、幼き友情だ。


 夜になって榊が見舞いに訪れた。榊はいつのまにか失った軍帽と弾き飛ばされた銃を持っていた。

「軍帽は隣家の庭の茂みの中にありました。銃は少し先の家の屋根に突き刺さっていました」

「ありがとう。銃身は少し曲がっているが、この程度ならばどうにかなる」

 志麻は軍帽と銃を枕元に置いた。榊は顔を綻ばせた。

「明日の朝、ようやく退院ですね」

「ああ、迷惑を掛けたな。早速だが今日の分の報告を頼む」

「はい、今日は街に残る鬼たちの世話をしました。それから迷子のおばあさんを助けて、屋敷の屋根瓦を修繕して……あ、大鬼の移送が完了したという報せが届きました」

「予想よりも早く済んだな」

 開けたままの窓から入る夜風はまだ冷たくも心地良い。夜の喧騒が遠くから聞こえてくる。街はいつも通り、まるで何事もなかったかのように今日が始まり、そして終わる。そしてまた新しい一日が始まるのだ。その日常を志麻たちが守ったと言えば聞こえは良いが、それはただ都合の良い結果でしかない。また来る明日に、過ぎ去った昨日に、晴嵐はいなくなるのだ。日常から欠け落ちたその存在を誰も思い出せなくなり、やがては消えてなくなる。長い時を生きる者たちにとってきっと忘却は死よりも恐ろしいことだろう。

 それは酷く寂しい選択だが、志麻に出来ることはただ最後まで結末を見届けることだけだった。

「杉の木はどうなった?」

 志麻は榊に尋ねた。ああ、と榊は思い出したように答えた。

「街の材木商が買い取りました。切り分けて運びましたよ」

「立派な杉だったからな、ミソラの持参金にでもなるだろうさ」

 杉の木とは、庭にそびえ立っていたあの大木のことだ。折れたわけではない、落雷で燃えたわけでもない。地面から引き抜かれたのだ。


 あの夜、晴嵐の術は確かに大鬼を捕捉した。纏っていた妖気の殆どは剥ぎ取ることが出来たものの、それでも大鬼の動きを完全に止めるには不十分だった。

 志麻は倒れている晴啓から渡していた銃を抜き取り、弾を込めた。右腕が使えない今、単発式の銃は厄介だったが、他に武器がない。陣から逃げ出そうと足掻く大鬼を正面に見据えたまま、志麻は振り向きもせず、横のやや上へ銃口を向け、迷うことなく引き金を引いた。ギャンッと犬が吠えるような声を上げて美空を捕えていた鬼が窓から落ちた。すかさず弾を込め直し、同じようにもう一発撃ち込む。晴啓を外に放り出した鬼も倒れる。そして気を失っている晴啓の襟首を掴み、ズルズルと引き摺って避難させた。

 大鬼の眼には怒りが満ち溢れていた。その眼差しは志麻をしっかりと捉えている。体が自由になれば即座に志麻へ襲い掛かるだろう。

 志麻は次の弾丸を装填する。二発撃って分かったことは、片手で扱うには反動が大きすぎるということだ。両手で撃つ分には問題のない、むしろ古いながらも良い銃だ。だが、今の志麻にとっては弾ひとつ込めるだけでも難しい。

 杉の根元に倒れているナギは、志麻からの距離よりも大鬼からのほうが近い。迂闊に発砲すれば跳弾してナギに当たりかねない。志麻は慎重に距離を探る。晴嵐の力はどれほど保っていられるのだろうか。

 妖気を失ったことで大鬼はいくらか弱体化しているだろう。だが、この様子ではさほど期待は出来そうにない。一体、何がこの大鬼をここまでの鬼と成しているのか。

 だが、考えている間にも時間は過ぎる。動くなら大鬼の自由が利かない今のうちだ。一か八か、賭けになるが、ナギを救い出せるのは今しかない。志麻は銃を腰帯に刺した。大鬼と呼吸を合わせる。近付き過ぎれば間違いなく拳が飛んでくる。今度こそ骨を折られるだけでは済まないだろう。

 今だ。

 大鬼が瞬きをしたのを合図に志麻はナギの元へと駆け寄った。無事を確認している暇はない。腰に左腕を回し、掬い上げるようにして抱える。そのまま駆け出そうと体の向きを変えた瞬間、志麻の瞳には白み始めた空が映っていた。

 あ、痛い。

 一瞬遅れて痛みが体中を駆け巡った。草の匂い。口の中に広がる血の味。耳の奥に感じる鼓動が速い。嬉しそうに覗き込む大鬼の顔が志麻の視界を奪っていく。あの陣で駄目だったのならば、どうすればこの大鬼を封じることが出来たのか。喰われるのは構わない、そんなことは覚悟の上だ。だが、もはや斬るほかに道がないのであれば、悔しい。

 榊。

 先生。

 ただその約束を果たせないことが、心残りだ。

「いいえ、私はあなたを死なせはしない」

 志麻の視界から大鬼が消えた。一瞬の出来事に、何が起こったのか志麻の理解は追い付かなかった。体を起こして見遣ると、大鬼は威嚇するように牙を剥き出しにしている。反対側を見れば、そこには倒れていたはずのナギがしっかりと地に足を付けて立っていた。

「怒りに心を奪われまいと堪えていたのですが、もう限界です」

 その言葉の通り、ナギの表情には怒りが露わになっていた。普段の様子とはまるで別人のようだ。放たれている殺気は大鬼のものとは比べ物にならない。遠くから様子を窺っていた鬼たちは一目散に逃げだした。刀の切っ先を突き付けられているような恐怖が辺り一帯を支配する。息が出来ない。動くことも出来ない。まるで世界が凍り付いたようだった。

 ナギはゆっくりと一歩を踏み出した。瞳の色は赤みの強い紫色をしていた。山桜の葉の色だと志麻は思った。ナギが歩みを進める程に、その髪が色褪せていく。やがて髪の色は淡い紅色に変わった。美しく咲き誇る山桜が人の姿を得たならば、きっとこのような姿になるだろう。

 本当に、鬼なのか。

 志麻は目の前のナギを信じることが出来なかった。確かに額には二本の角がある。それは鬼の角に間違いはない。だが、こんな鬼は見たことがない。こんな鬼は知らない。

「……先生……?」

 ナギは志麻を見ると、ニコリと微笑んだ。血の気が引いたのは、怪我を負ったからではない。怖い。本能が怯えている。それは大鬼も同じだっただろう。ナギを前にして、微塵も動けずに立ち尽くしていた。一歩でも動けば切り刻まれる。そう錯覚するほどに、ナギの放つ殺気には恐ろしい威圧があった。

 これが、鬼。

 無理矢理にでも理解せざるを得ない。理由など必要ない。どんなふうに抗っても無駄なのだと、底の見えない恐怖に思い知らされる。少しの希望さえ、どこにもないのだ。

 それからは本当に、ひとつ息を吸い込んで吐く間に終わった。のめり込むようにして地面に倒された大鬼に、ナギは追い討ちをかけた。

 杉の大木を軽々と引き抜くと、大鬼を目掛けて振り下ろした。陣で縛ることが出来ないのならば、物理的に押さえつけてしまえばいい。そう言わんばかりだった。さすがの大鬼にも体の上に横たわる大木を動かす力はなく、もはや抵抗する気力も失せているようだった。

 ナギは随分と冷静だったらしい。何も壊すことのないようにと角度をうまく調整して杉を倒していた。ナギは暫くの間、木の上に立っていたが、やがて我に返ったように木から降りた。

 髪の色こそ異質だったが、それまでのことは夢だったのではないかと疑うほど、ナギは普段と同じ穏やかな風貌だった。

 志麻は気が遠くなった。


 榊と五津海が屋敷に帰ってきたのは朝日が昇った頃だったらしい。五津海に担がれて、志麻は診療所に連れられた。倒れてからのことは榊から聞いた。鬼となったナギの姿をふたりとも見てはいないという。それがどんな様相だったか、志麻は自分の心の中にだけ留めておこうと思った。

 北へ向かったふたりのほうも、あれやこれやと大変だったらしい。手分けをしたとしても、相当な数の鬼を相手にしただろう。その辺りは五津海の報告書を待たねばならないが、敢えて聞かずともふたりの様子を見れば分かる。疲労が顔に出ていた。

 さすがというべきか、やはりというべきか。ナギだけは疲れた素振りは少しも見せず、すべてをただ笑って誤魔化した。五津海が追及しなかったのは、ナギが只者ではないということを悟っていたからだろう。高位の鬼かもしれないと五津海は言った。あれは忠告だったのだろうか。

 榊が帰った病室で、志麻はひとり思案に暮れた。

 ハルノブとミソラのことならば、心配は無用だろう。迎える結末が、ハルノブにとって良いことなのか、千草屋にとって好ましいだけの結果なのか、それを決めるのは志麻ではない。

 セイランがいなければ、ハルノブは商売の道を迷わなかったかもしれない。ミソラは今でもまだ屋敷の窓からひとりで空を眺めていたかもしれない。だが、セイランがいなくとも、ふたりは出会っていたかもしれない。すべてに可能性があって、何ひとつとして絶対ではないのだ。

 心配なのはセイランのほうだ。

 これからどうするつもりなのか。行く当てはあるのか。侘しい声が耳の奥に残る。

 厄介なのは、セイランに悪意がなかったことだ。悪事を働こうと思っていたわけではない。鬼たちを呼び寄せようとしたわけでもない。ふたりを慈しんだ言葉は真心だ。だからこそ、処遇に困る。

 幸せになってほしかった。だから身を引こうとした。そのためにハルノブを試した。ミソラへの愛情が自分との友情よりも深いものだと証明してほしかったのだろう。かつてハルノブの前から姿を消したのも同じ、自分よりも千草屋を優先してほしかったからだ。

 人間と共に生きたいと願う者たちは皆、人間と共に生きることは出来ないと感じている。希望を抱きながらも、絶望を見据えている。その矛盾こそが怪異を生み出すのだ。名前を与えられて、晴嵐はどれほど幸福だっただろう。

 今もまだどこかで鳴いているのだろうか。

 志麻は夜の闇の中、瞳を閉じた。


 翌朝、町医者に小言を掛けられつつも志麻は診療所を後にした。晴れた空はどこまでも青く澄み渡り、爽やかな風が街の喧騒を連れて吹き抜けていた。活気に満ちた人で溢れる街を志麻は神妙な面持ちで歩いていく。

 何が変わって、変わらなかったものは何だ。

 結末を見届けなければ、この街を去ろうにも発てない。目深に被った軍帽の下で瞳が光る。取り返しのつかないことになっているだろうという予感はあった。そういう悪い予感ほど的中するのだ。

 まずは美空の屋敷を訪れてみた。そびえ立っていた杉の木がなくなったことで、景色は一変していた。屋敷は変わらず静まり返っていたが、嫌な気配は消えている。まだ誰も屋敷には帰っていないらしい。晴嵐の姿もなかった。

 志麻は大通りを歩いた。旅人も商人も街路樹も、街は何もかもが元通りに見えた。少しの変化も感じられない。お大事にと叫びながら、子供たちが志麻の横を駆けてゆく。嘘のように平穏だった。

 千草屋の近くまでやって来ると、店の前を掃いているのは美空だった。美空は志麻を見つけると顔を輝かせた。

「志麻さん、おはようございます」

 美空は志麻に挨拶をすると、暖簾の奥に向かって声を掛けた。すぐさま慌てた様子の晴啓が店先に出てきた。

「おはようございます。怪我はもう平気なのですか。俺たちを鬼から庇った所為で、そんな怪我を」

 晴啓の言葉に、志麻はほんの一瞬だけ身構えた。しかし、動揺を悟られまいと言葉を紡ぐ。

「実のところ、頭を酷く打ったためか、そのあたりのことは曖昧なんだ。見た目はこの通りだが、自分でも存外に元気だ」

「そうだったのですね。俺たちも驚いていたんです。鬼たちが屋敷の蔵書を狙っていたなんて。志麻さんたちが対処してくださったとはいえ、あの屋敷で美空さんをひとりきりにするわけにはいきませんからね、あの後すぐに、こうして千草屋へ来ていただいたんですよ」

「そうか、そのほうが安心だな」

 妙に話が合わない。だが、志麻は真相を隠す。

「千草屋での暮らしにはもう慣れたか」

「皆さん、とても親切にしてくださいます。まだ至らないところばかりですが、商家の嫁として一日でも早くお役に立ちたいですね」

「何か変わったことはないか」

「変わったことですか、そうですね……」

 晴啓と美空は顔を見合わせて首を傾げた。

「いや、何もないのならば、それに越したことはない。ところで、笹野は?」

 志麻が尋ねると、晴啓は店の奥へ笹野を呼びに入った。店先にふたりで残されると、美空は遠慮がちに口を開いた。

「あの……晴啓さんはきっと心配するから、言わなかったのですが」

 志麻は美空を見た。箒の柄をギュッと握りしめて、深刻な顔をしている。

「何か、大切なものを忘れているような気がするのです。うまく言葉には出来ませんが、とっても大切だったはずなのに、少しも思い出せないのです」

「……鬼の気に中てられて、そういった症例がいくつか報告されている。恐らくは、その一種だろう。錯覚させることで心に隙間を作り、入り込みやすくしようとする、鬼たちの手口だ」

「そうなのですか」

 美空は安堵したように箒を握りしめる手の力を緩めた。

「では、鳥の声は、どういう理由なのでしょう」

「鳥の声?」

「はい、夜になると聞こえてくる鳥の……ヒョーと嘆くようなあの声を聞くと、胸の奥を締め付けられるような侘しさを感じるのです。まるで、何か大事なことを伝えようとしているように聞こえて。他の鳥の鳴き声はそんなこと思わないのに……」

 志麻は何と言うべきか迷った。美空の表情はどことなく寂しげだ。

「それは恐らく、虎鶫という鳥だろう」

「トラツグミということはツグミの仲間ですね」

「ああ、鶫よりも一回り大きい鳥だな。古くから、鵺とも呼ぶ」

「ヌエ……」

 美空は少し考えるような仕草を見せた。

「ヌエというものには聞き覚えがあります。祖父がよく話をしてくれました。様々な獣を合わせたような姿をしている物の怪のこと」

「確かに彼らを鵺と呼ぶこともあるが、本来は虎鶫の名であって、彼らの名ではない」

「そうだったのですね、では祖父が愛したあの子には」

 青く澄んだ空を美空は見上げた。

「ずっと名前がなかったのですね」

 独り言のようなその言葉に、志麻の眉は僅かに動いた。美空は、かつて祖父が可愛がっていたという一羽の鳥のことを話した。

 美空が生まれる前から屋敷の庭に遊びに来ていたその鳥は、祖父の講座が始まるといつも窓辺で聞いていたらしい。熱心な生徒だと祖父はその鳥を可愛がった。美空が生まれてからも、両親が他界してからも、その鳥は姿を見せた。普通の鳥ではなく、鳥の形をした何かだと幼いながらも美空は感じていたというが、捕まえて調べるようなことはしなかった。祖父が歳を取って講座を開けなくなった頃、その鳥も姿を見せなくなった。

 ついに一度として鳴くことはなかった。

「じいさんが街を離れて、その鳥も寂しがっているのかもしれないな」

 志麻がそう言うと、美空は顔を綻ばせた。

「そうであれば、愛情が伝わっていたのならば、嬉しいですね」

 晴啓に呼ばれて笹野がやって来た。何事かと戸惑っている笹野を志麻は連れ出した。特に行く当てはない。志麻は黙ったまま笹野と歩いた。しばらく歩くとようやく笹野が目的を尋ねたので立ち止まった。

「坊っちゃんに、何か悪いことでもありましたか」

 千草屋に、とは尋ねないところが、志麻が笹野に声を掛けた理由だった。

「ハルノブからは何と聞いている」

「南条の翁の蔵書に鬼が憑いていたと」

「その影響でハルノブとミソラは、やや記憶のあやふやになってしまっている可能性がある。何が真実で、何が鬼による幻なのか、本人たちでは区別が難しい。周囲からもあれこれと聞かれるかもしれないが、おおよそのことは伝聞でやり過ごすのが吉だろう」

「志麻さんは真実をご存知なのですか」

「どうだろうな。俺も幻を見せられているひとりかもしれない」

 志麻は日差しを避けて街路樹の木陰に立った。

「ふたりの将来は心配する必要はないだろう。だが万一、欠落感を拭えないと言い出したならば、その時のために言付けておく。幼き日々の友情は朽ちることはない、と」

「それは……」

「あまり深くは考えてくれるな。俺だってこんな役目は辛いんだ。約束は守らねばならないが、知っていて何もせずに放っておくことも出来ない。俺から伝えられるのは、これくらいで精一杯だ」

 大きく広がった枝葉の隙間から強い日差しが筋となって差し込んでいる。

「それで、アンタを呼び出したのは他でもない、銃の代金のことだ。万一のことがあった場合には二倍支払う約束だっただろう」

「確かにそういうお約束でしたが、美空お嬢様はご無事ですよ」

「これで大団円というわけにはいかない」

 志麻はそう言うと懐から一通の封筒を取り出した。

「約束は、約束だ。今回の件で失ったものは大きい。それを金で買い戻すことなど到底出来はしないし、そもそも金で買えるものでもないが、ささやかでも幸福な暮らしを送っていれば、それで報われる献身があるだろう」

「一体、何のことを」

 受け取れませんよ、と笹野は拒んだ。だが、志麻はその手に封筒を押し込んだ。

「ならば、祝儀だと、ふたりに渡しておいてくれ。それなら文句はないだろう」

 笹野は何か言おうとしたが、志麻はそれを遮った。

「俺たちはもう発つが、五津海は今しばらくこの街に残る。何かあれば五津海を頼ってくれ」

 困惑する笹野を残して、志麻は去った。

 街路樹の緑が日差しを浴びて鮮やかに輝く初夏の街並み。伸びゆく緑のように、人々は活気付いていた。商いの街の喧騒は他の街とはまた異なる熱を帯びている。彼らは敏い。日々の変化に適応して、空白などすぐに埋めてしまうだろう。

 志麻は真っ直ぐに前を見据えて歩いた。ただ前を見ていた。

 つらい。

 息を吐き出すたびに、消えたはずの胸の痛みが戻ってきたかのように、胸の辺りが痛んでいた。結局、何を救えたのか。何を守ったのか。晴啓に掛けた言葉が頭の中で繰り返される。もっとうまくやれたはずだ。今頃、笑っていられたはずだ。

 まだ明けきらない静かな歓楽街を歩き、宿に戻ってきた。久しぶりの宿だった。部屋の襖は開けられたままで、荷造りをする榊の背中が見えた。

 志麻は音もなく榊に近寄ると、その小さな背に頭を預けた。

「わわっ。志麻さん?」

 驚いた榊が振り返ろうとするが、体格の差だ、体を反転できない。顔だけを後ろにいる志麻のほうに少し向けるのが精一杯だった。

「……名前」

 そのまま志麻は榊を抱き寄せた。少年の体温は高く、陽だまりのような匂いがした。

「その幸福を守ってやりたかった」

 名を贈られる幸福を知っている。名を贈る幸福も知っている。歓喜に打ち震えるその心情を知っている。だからこそ、事実を歪に捻じ曲げてまで親愛の情を貫いた晴嵐の痛みが分かる。その結末が可哀想だとは思わない。ふたりは幸せになれるだろう。晴嵐の願いは叶う。

 だが、晴嵐は救われなかった。晴嵐を救うことが出来なかった。

 そのことがどうしようもなく悔しいのだ。

 自分の未熟さが嫌になる。こんな負傷までして、情けない。何もかもは出来なくとも、あとひとつくらい何か、出来ることがあったはずだ。

「志麻さん?」

 片腕の中の榊が心配そうに声を掛ける。志麻は息を吸い込んで、止めた。

 榊と名を付けた。その名に神を冠する者。今でもまだその素性は分からない。だが、そんなことくらいで還すのを躊躇うことなどない。

 この子を、還す。あるべき場所へ、あるべき姿で。

 その時を迎えるために、体中を突き抜ける痛みも胸を裂くような苦しみも拭い切れない悔しさも、すべてが糧になれと願う。力になれ、魂になれ。必ずや榊を還すのだ。

 長い息を吐きながら、志麻は榊を解放した。榊はようやく志麻と向き合った。

「志麻さん、大丈夫ですよ。榊は大丈夫です」

 膝をついたまま項垂れている志麻の頭を榊は優しく撫でた。


 五津海が千草屋の前を通りかかると、表には晴啓の姿があった。いくつもの荷物を店にせっせと運び入れている。

 今朝になって唐突に、話が噛み合わなくなったことを五津海も気が付いていた。自分の記憶と晴啓たちの証言が食い違う。それが晴嵐の仕業だろうということは察しが付いていたものの、肝心の晴嵐はあの夜から姿を見せていない。自分の記憶の正しさに自信はあるが、いささか居心地が悪い。

 晴嵐という言葉を誰も口にはしない。晴啓も美空も、まるで晴嵐のことなど少しも知りはしないかのように。すべての出来事が、晴嵐を介さずに進んできたかのように思える。

 幼少期における晴嵐との思い出など一切なく、一連の騒動はすべて鬼の仕業。この街に晴嵐が居たという痕跡が消えている。

 記憶の改竄ともなれば、そう容易く出来る術でもない。さすが、あの種族の底力というべきか。自分自身を偽るということに長けている命の在り方だ。

 それはさておき、知らない記憶と辻褄を合わせるのは難儀だった。なかなか気が重く、仕事に励んでいるのを邪魔するのも悪い。五津海はそのまま通り過ぎようとしたが、向こうから声を掛けてきた。

「五津海さん」

「やあ坊っちゃん、ごきげんよう」

 晴啓の額には汗が滲んでいた。春も終わりの日差しには力強さが宿り始めている。

「先程、志麻さんにお会いしましたよ。退院されたのですね、この街にはいつまで?」

「すぐに発つはずだよ。僕も、報告書が出来上がったら出発する。僕たちオニカエシには休暇というものがないからね」

「もっとたくさんお聞きしたかったのですが。そもそも鬼というのは」

「坊っちゃん。好奇心は大切なことだが、あまり首を突っ込まないほうがいいよ。坊っちゃんにはもう、守るべき日常が見えているだろう」

 目を輝かせて鬼の話を聞きたがる晴啓を五津海は窘めた。晴啓は恥ずかしそうに頬を掻いた。

「俺、昔から自分の興味のあることばかりを見て、周りが見えなくなってしまうんです。子供の頃にも、仲の良かった子から同じようなことを言われました。守るべきものがあるのだから、見誤ってはいけない、と。年の割に随分と大人びていた子でしたが、今でもどこかで元気にやっているのでしょうか。顔も曖昧で、名前も思い出せないのですが」

 それがきっと晴嵐だったのだろう、五津海はそう思ったが、決して口には出さなかった。言ったところで分かるはずもない。

 ただ、ほんの僅かな隙間に、晴嵐の名残があった。それが一層、心苦しい。

 五津海は適当に話を切り上げて宿に戻った。

 荷造りを終えた志麻と榊がのんびりと茶を飲んでいた。

「まだ行かないのなら、報告書を手伝ってよ」

「断る。先生が戻り次第、出発する」

 ナギは朝から出掛けたきり、まだ帰っていない。行先は告げていなかったが、この街のどこかにいることは間違いない。心配せずともじきに戻るだろう。

「次は京都に行くと言っていたかな」

「ああ。寄り道はしたが、はじめから京都を目指していたんだ」

「今は確か司令部には近衛が帰っているはずだよ」

 五津海が挙げた同期の名前に、志麻は意外そうな顔をした。

「万里じゃないのか」

「いつもの放浪癖さ。夏には帝都に戻るつもりらしいけれど、どこで何をしているのやら。その代わり、近衛が詰めているはずだよ。よろしく伝えておいて」

「そうか、近衛か」

 志麻はどこかホッとしたような表情に変わった。

「嬉しいの?」

「いや、嬉しいというわけではないが。近衛のほうが淡泊だからな、先生のことをあれこれと説明せずに済む」

「それは一理あるね。万里なら根掘り葉掘り聞きかねない。けれども性格に難があるのは近衛のほうだよ」

「ああ、まあ、そうだな」

 志麻が顔を顰めると、隣の榊は首を傾げた。

「近衛さんも万里さんも、いつもお菓子をくれますよ」

 その言葉に五津海が慌てた様子で榊の両肩を掴んだ。

「あのふたりから貰った物を食べてはいけない」

 五津海の余りにも思い詰めた表情に、榊はただただ何度も頷いた。

「そういうお前は、帝都へ戻るのか」

「書き上がった報告書を持って帰るよ。そのまま本部で三人の帰りを待つことになる。遅刻は厳禁だよ」

「今まで俺たちが遅れた年なんてなかっただろう」

 志麻の返事に、そうだね、と五津海は笑みを浮かべた。僅かな翳りがあった。五津海は窓辺に移り、通りを見下ろした。

「……セイランのことは残念だったね」

「鬼を還したという点においては俺たちの仕事は成し遂げられたが、すべてを救えなかったという意味では失敗だな。だが、セイラン自身がこの結末を受け入れている以上、俺たちが勝手に憐れむわけにもいかないだろう」

「宗一郎君はセイランに会ったのかい?」

「昨日の夕方、病室に来た」

 外を見ていた五津海は室内に視線を戻した。

「口裏を合わせるように頼まれたが、この状況だ。真相を知っている俺たちのほうが異端者だな。だから俺たちが何を言ったところで、この街にとっての現実は変わることなどない。ほんの僅かにセイランの名残もあるようだが、それも些細なことだ」

「幸福も未練も、すべて失ったのだろう。それはやはり可哀想だと僕は思うよ。それがたとえセイランが受けるべき罰だったとしてもさ」

「さて、それはどうかな」

 志麻は湯呑の縁をガリリと噛んだ。

「セイランはすべて消し去ったつもりなのだろうが、それでもなお、おぼろげな記憶が残っている。友情が勝ったんだ。そう考えたならばこの結末にも、少しの救いはあるんじゃないか」

「そういうものなのかな」

「俺はそう願うよ。人と人非ざる者との友情だ。意義があってほしいと、俺は祈る」

 そう言った志麻の言葉に、五津海は溜息混じりに天を仰いだ。それから再び通りへと視線を落とす。

「おや、ナギ君が帰ってきたよ」

 五津海は通りを歩いてくるナギの姿を見つけた。離れたところからでもすぐに見分けられる。その整った容姿も、秘めた力も、他の誰とも異なっている。

「宗一郎君。万が一の話だ、たとえ小さな不安だったとしても、ひとりではナギ君を還せないと感じたならば、迷わずに教えてほしい。分かるだろう、彼はとても高位の鬼だ。それこそ僕たちが今まで対峙したことのないほどの鬼だ。宗一郎君の味方をしているからこそ、気を付けてほしい」

 五津海は振り返らなかったが、その声には不安があった。志麻はじっとその背を見詰めていた。

「ナギ君を狙う輩は必ず現れるよ、それが人間であろうと、なかろうと。宗一郎君たちの前に立ちはだかる。だから困った時はいつだって、僕たちに教えてほしい、頼ってほしい。僕がそうであるように」

「五津海」

「失うのはもう矢橋だけで充分だ」

 そう言ったきり、五津海は黙ってしまった。

 志麻は飲み終わった湯呑を片付けた。何とはなしに気まずい。言葉が出ない。左肩に二丁の銃を担ぐ。纏めた荷物は少ない。ナギと出会った頃には沢山あった荷物も今では僅かになった。ここにはない荷物の中に失って惜しいものがなかったと言えば嘘になる。しかし、惜しいものの、また手に入るものばかりだった。

 あの日に失ったものは二度と戻らない。失うのはもう矢橋だけで充分だと言った五津海の嘆きが胸に突き刺さる。だからこそ、ナギを還さなければならない、榊を還さなければならないと強く思う。そうでなければ何も変わっていないのだ。ただ停滞していただけの日々など、矢橋に顔向けできない。失ったからこそ今があるということを証明しなければならない。オニカエシとして、なによりも友として、使命を果たさなければ、矢橋の死が無駄になる。

「すみません、お待たせしました」

 気まずい沈黙を終わらせるようにナギが現れた。部屋の外で機会を窺っていたのかもしれないと志麻は思った。どこで何をしていたのか、ナギの髪がやや乱れていた。

「先生が帰ったことだ、俺たちはもう出る」

「ああうん、気を付けて。別れはいつも寂しいからね、僕はここでさよならだ」

「また、夏に」

「夏に」

 それはまるで合言葉のようだった。

 あっさりと別れを済ませて志麻たちは宿を出た。窓から五津海が手を振っていた。榊が元気に手を振り返した。

「宗貴さんならば街の外れまで見送りに来るのではないかと思っていましたが、意外です」

「今生の別れでもあるまいし」

 歓楽街を抜けて大通りに出るとナギは志麻の腕を引いた。

「こちらです、志麻さん」

「何かあるのか?」

「ええ、志麻さんがお休みの間に馬車を手配しておきました。手配といっても、ちょうど京の方向へ行くという御者に会ったのでお願いしただけなのですが。積み荷と共に旅をしましょう」

「馬車?」

「お代はご心配なく、稼ぎましたので」

「荒稼ぎか?」

「まさか」

 通りを暫く歩いていると、馬車が見えてきた。荷台に木箱を積み込んでいる最中だ。

「この街や近くに残る鬼たちの治療や隠れ場所の手配を行ったところ、彼らが謝礼にとあれこれ持ってきたのですよ。それを換金したのです」

「なるほど」

「残ったものはすべて彼らに返却しました。私が持っていても仕方のないものですからね」

「それにしても馬車とは。俺は歩くつもりだったのだが」

「出来る限り安静にしているようにとお医者様に言われませんでしたか」

「……言われたな」

「傷を治したいのならば、大人しくしていてください。何度か乗り継ぎは必要ですが、徒歩よりもうんと安静に過ごせる移動手段ですよ」

 そう言うとナギはふたりから離れて、地図を広げた御者と詳しい話を始めた。二頭の馬を愛でる榊を志麻は木陰から見守っていた。馬たちはもう榊に懐いたようだ。それもひとつの才能かと志麻は目を細める。

 木箱を積み込み終え、志麻たちも乗り込む。馬車はゆっくりと動き始めた。

「五津海はどうだった?」

「興味深い方でしたね。良い意味では人間らしい、悪い意味ではオニカエシらしくない、そんな方でした。私に刀を向けた時も、どこか救いを求めているような眼差しに、やはり鬼と人は違う命なのだと実感しました」

「アイツ、刀を向けたのか」

「鞘に仕舞ったままの刀でしたよ、それも、右手に握って。本気で斬り捨てるつもりならば利き手である左手で握るはずでしょう」

「そういう問題ではない」

「痛みを隠して強がってみせたり、幸福の中で不安になったり。だからこそ、人は愛おしいのでしょうね」

 ナギはどこか遠くを見詰めてそう言った。鬼だって同じではないかと志麻は言いたかったが、黙っていた。それは今かける言葉ではないと思った。

 歪な街に別れを告げる。賑わいが遠ざかる。穏やかな風が吹く。隣に座る榊はいつのまにか眠っていた。

 いつか思い出す日が来るのだろうか。友のこと、その幼心の尊さを。忘れたままでいることと、思い出すことのどちらが正しくて、どちらが幸せなのか。志麻は答えを持たない。ただ、想像する。ふとした瞬間、たとえば月明かりの下、夢の中、深い眠りの奥、どこかに漂う色褪せぬ笑顔を見つけた時、彼らの心の水面にひとしずくの懐かしさが落ちるだろう。

 一羽の鳥が馬車の横をすり抜けた。志麻は鳥の姿を目で追った。褐色の鳥は暫くの間、地面に擦れそうなほど低く飛び、やがて天高くへと大きく舞い上がった。その姿が見えなくなると、後にはどこまでも広がる雲ひとつない空が残った。


 あまりにも青い空だった。

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