第14話 蒼に啼く 五
「お待たせして申し訳ありません、少々手間取りました」
志麻はナギの腕の中にしっかりと受け止められていた。その反動は大きかったはずだが、ナギは物ともせずに立っていた。
「無事とは言い難い有様ですが聞いてもよろしいですか、大丈夫ですか?」
ナギの問いかけに、志麻は答えることが出来なかった。口を開こうにも言葉が出てこない。何より、目が回って焦点が合わない。
「ひどく頭を打ったのですね、少し安静にしておきましょう」
ナギは志麻を庭の隅に寝かせた。失血が気になるものの、応急処置をする暇さえなさそうだ。そしてナギは袖を襷掛けにしてまとめると後ろを向き直った。他の鬼を蹴散らしながら大鬼が近寄って来る。なるほど、とナギは目を細めた。確かに大きな鬼だ。あんなものに殴られたならば、人間の身体では一溜りもないだろう。だがあの憤りから察するに、一方的な勝負だったというわけでもなさそうだ。
「あなたが休んでいる間に、私があれを片付けておきますので。処置はそれからです」
繰り出される拳をひらりとかわしつつ、ナギは大鬼を観察する。この妖気に中てられて、どうやら戦うという一点しか考えられなくなっている。恐らくこの大鬼はナギが鬼だとは認識していない。
ナギが避けた拳は地面に叩き付けられる。その腕を駆け上がり、ナギは大鬼の顔面を蹴り飛ばした。手応えはある。だが、予想よりも頑丈だ。大鬼は僅かによろめいただけだった。
その後も攻撃を加えるものの、致命的な一撃とはならない。これが妖気を浴びた鬼の力なのかと、ナギは少しばかり感心していた。だが悠長に構えてはいられない。早く治療を行わなければ。
ナギは片膝をついて地面に両手を伏せた。大地の底から迫り上げてくる力。感覚を研ぎ澄ます。
大鬼はナギの行動に何のためらいもなく突進してきた。
ナギは両手で地面をグッと押し込んだ。
突如として地面から太い木の根が何本も飛び出した。大鬼の足を絡め、腕を縛り、身体の自由を奪う。大鬼がいくら足掻こうとも根はびくともしない。立派な杉の木があって助かった。時間が稼げるならば、それがほんの一瞬であっても構わない。
「少しの間くらい、じっとしていてください」
そう言うとナギは飛び上がり、体を旋回させて大鬼の頭を目掛けて確実に蹴りを喰らわせた。大鬼が失神したのを確認すると、ナギは志麻の元に戻った。
「志麻さん、ご気分は?」
ナギは懐から包帯を取り出すと志麻の頭の傷を止血した。上着を脱がせて折れた右腕の処置に移る。ひとまず手頃な木の枝で腕を固定する。
出血が多いためか、志麻の顔が青褪めている。内臓にも損傷があるはずだ。呼吸は浅く、時折、ヒューヒューと風が抜けるような音が聞こえる。だが志麻は口を開くと戦況を尋ねた。
「……い、五津海は?」
「まだ屋敷の中ですが、全員がこちら側に戻っています」
「榊は?」
ナギは辺りを見渡した。
「榊さんは玄関先です、見えるところにいらっしゃいます」
「……北だ、榊を、北に」
「分かりました。私たちは一度、屋敷の中に戻りましょう。ここは危険です」
そう言うとナギは志麻を慎重に抱え上げた。大鬼の動きが封じられたことで、他の鬼たちは積極性を失った。無暗に行動するのは得策ではないと、さすがに鬼たちも慎重になっている。ナギは細心の注意を払って庭を抜け、玄関の前で交戦する榊に北へ向かうよう伝える。
「志麻さんは」
「大丈夫ですよ、私が看ます」
榊とはそこで別れ、ナギは屋敷に入った。ひとまず扉を固く閉ざす。五津海から与えられた呪符を貼って鬼の侵入を拒む。
「美空さん!」
ナギが大きな声で呼ぶと、慌てた様子の美空が二階の吹き抜けから顔を出した。続いて五津海も顔を覗かせた。
「至急、お湯をご用意いただけますか。それから、まな板も頂戴したいのですが」
「は、はい!」
ナギに抱えられた志麻の様子に事情を察した美空は急ぎ足で台所へ向かった。疲弊した表情の五津海は、それでも志麻を見ると階段を駆け下りた。ナギの腕の中の志麻は意識を保ってはいるものの、もはや言葉を発することが出来ないほどに衰弱していた。僅かに開いたままの口から溢れ出た血が青白い肌を伝う。
「宗一郎君。こんな、酷い……一体何が……」
「外に大鬼が現れました。私も少々手合せをしましたが、あれは厄介です。刃も銃弾も弾くようですし、私の蹴りも有効ではありません。今は気を失わせて動きを止めていますが、いつまでも捕縛しておくことなど出来ません」
五津海に外の状況を伝えながらナギは廊下を進み、客間と思われる寝室に志麻を寝かせた。
「今はまだ鬼たちの意識はこの屋敷に向いていますが、外の鬼たちがいつ街を襲うとも知れません。籠城が許されるのも束の間です。その僅かな時間で志麻さんを治療し、セイランを起こし、外へ出なければなりません」
そう言いながら、ナギは懐からいくつもの小袋を取り出した。片手に白い鬼火を乗せ、薄い紙で出来た袋を照らす。
「……ナギ君。いくつか聞いてもいいかな」
「はい、どうぞ」
五津海は壁にもたれて腕を組んだ。
「セイランの結界が破れたことで、その結界を保っていた多くの妖気が放出されている。外にいる鬼たちはどれも狂気に満たされている。それなのに何故、ナギ君は平気な顔をしているんだ」
その問いに、ナギは五津海を振り返った。
「この屋敷の扉や窓には鬼除けの呪符を貼ってある。ナギ君に渡したのも、そのひとつだ。けれどもナギ君。君はまるで呪符など一切ないかのように振る舞っているだろう」
「……私を疑っているのですね」
「疑っているわけじゃないさ。手を出すなと宗一郎君に言われた以上、僕は君に危害を加えるつもりはない、ナギ君に危険が迫っていたら手を貸す心積もりはある。なにより、宗一郎君が信用し、信頼しているんだ。だからこそ、はっきりとさせておきたいんだよ」
声に怒りも嘆きも含ませず、五津海は静かに言った。感情を隠すかのようなその声色に、ナギはやや思案してから答えた。
「私は鬼ですよ」
ナギは目線を五津海から小袋に視線を戻す。小袋から針と糸を取り出すと、横たわる志麻の隣に並べる。
「薬師を語りはしないし、医師を名乗ることもしません。ただ少しばかり知識があるだけの鬼です」
「ただの鬼、そんな答えで僕が満足するとは思っていないよね」
「ええ、そうでしょうね」
美空が湯の入った鍋とまな板を抱えて部屋に入ってきた。五津海がそれらを受け取り、ナギの隣に置く。志麻の様子を見遣った美空の顔に悲痛が広がる。
「私が至らないばっかりに、皆さんをこんなに危ない目に巻き込んでしまって」
「あなたには何の非もないと言えば嘘になりますが、すべてがあなたの責任だとも言えませんよ。ただ、協力していただけるのでしたら、セイランのことを叩き起こしていただけると非常に助かります」
恐縮しきりの美空にナギはニコリと微笑んでそう告げた。美空は一礼するとパタパタと慌てて部屋を出て行った。ナギはまな板を拳で軽く叩いた。木目の美しい一枚板だ。しかし両端を手で持つと、ナギは何の躊躇いもなく板を二つに割った。力を込めたようにはとても見えない。さらにそれを志麻の腕に宛がうため、程良い大きさに割る。
「すみませんが、そちら側から志麻さんの体を支えてください。では話を戻しましょうか」
五津海はナギの指示通りに動く。
「人間にも様々な個性があるように、鬼もまた、当然のことながら、個体によって得手不得手があります。寒さに強い人間がいるように、私はこの妖気に耐えられる、そういうことです。更に言えば、どうやらセイランよりも私の方が、強い気を持っているようですね」
ナギは五津海の問いかけに答えながらも、手を止めることはない。手早く志麻の頭の傷を縫合していく。
「呪符のことならば簡単です。宗貴さんは私を縛り付けようとする意志をお持ちではない。宗貴さんが封じたいと思う鬼の中に私が含まれていないということです。そもそも呪符とは式と意志と言霊があってこそ効力を発揮するものですからね。申し訳ない、そちらの袋を取っていただけますか」
「まあ、僕にはナギ君をどうにかしようという意志はないね、それは認めよう。けれどもナギ君。君は特異だよ。他のどんな鬼とも違う。只者ではないのだろう」
「何を以てして普通と呼ぶのかはさておき、確かに今となっては、私は珍しい類の鬼です」
五津海が渡した袋を開けて、ナギは中身を鍋の湯に混ぜる。薬の粉末が入っていたらしい、湯の色が深緑に濁る。少し粘り気のある濃い緑茶のようだと五津海はぼんやり思った。
「鬼がどのようにして生まれるのか、ご存知でしょう。私の本質は古い山桜です。愛でられることこそ本懐、結ばれる言の葉が歓びです。今でこそ珍しいものとなってしまいましたが、かつては同じような鬼は、少なくはなかったのですよ」
「知っているよ、花には妖艶な女の鬼が宿っていると、古くからそう詠まれてきただろう」
深緑の湯に手拭いを浸す。縫い合わせた傷をその手拭いで押さえると、湯が染みるのか志麻は唇を噛んだ。
「容姿こそ若い男ですが、私は存外に古い鬼です。外に集う鬼たちとは重ねた歳月が違います。あのように、妖気に容易く振り回されるほど青臭くはありません。志麻さん、少々あちこちを触りますので痛みがあれば知らせてくださいね」
ナギは志麻の上着を捲ると体に触れて見えない怪我の具合を確かめる。肺の辺りに触れた時、志麻の口から血が溢れた。右の脇腹に触れてみても、酷く顔を歪めた。
「肺に刺さっている骨はどうにかしましょう。痛み止めの薬も用意します」
「どうにかするって、どうするのさ」
「こうするのです」
そう言うとナギは掌の上に赤い鬼火を灯した。その鬼火を志麻の胸に押し当てた。五津海が止める暇もなく、鬼火は志麻の体の中へ溶けるようにして吸い込まれた。
「ナギ君!」
「苦情なら後ほど聞きます。残りの治療は街の診療所に駆け込んでください。ですが、無事に朝を迎えたいのならば、多少の荒業には目を瞑っていただきたい」
血の滲む切り傷には深緑の湯を染み込ませる。ナギは次に折れた右腕の処置に取り掛かった。
「外の大鬼は、纏った妖気さえ晴らすことが出来れば還すのは容易いでしょう。問題は、私たちが妖気を鎮めるのが先か、大鬼が呪符を突破するのが先かというところです。あの大鬼の侵入を許せば、あなた方に勝ち目はありません」
ナギは志麻の腕を割ったまな板で固定していく。
「言い切ってくれたね」
「殺さず還す、その信条を貫くという意味ですよ」
「……ああ、ナギ君の言う通りかもしれない」
「ですが、鬼ならばどんな者であっても、殺されるよりも還されたいと、本心ではそう願います。私だって還されたいのです」
手際よく骨折の処置を終えると、ナギは志麻の胸に手を置いた。苦しんでいた志麻の表情は随分と穏やかになっていた。呼吸も落ち着いている。
「どうしてそこまでして僕たちに、いや、宗一郎君に肩入れ出来るんだ。ナギ君ほどの鬼ならば自分であるべき場所へと還ることも出来るだろう」
「無論、私ひとりで京へ還ることなど造作もありませんね」
それまで表情ひとつ変えずに処置に当たっていたナギだったが、ようやく五津海の目を見据えた。
「宗貴さん。あなたが亡き友の影を追うように、私もまた、かつて仕えた友の幻を追っているのです」
そう言ったナギの瞳に一握の憂いが沈む。
「私は衝動のままに幼子の命を捻じ曲げました。その罪を赦すことなく、けれども志麻さんは私のことを見捨てはしなかった。たったそれだけのことと、人間は思うかもしれません。ですが、私はたったそれだけで充分です」
ナギは志麻の胸に置いた手に力を込めた。ググッと押された志麻の肌から、赤黒い光が滲み出てくる。その光は先程ナギが込めた赤い鬼火だと五津海は咄嗟に判断した。どす黒く濁った鬼火がユラユラと禍々しく蠢きながらナギの腕を這い上がっていく。それはナギの腕を蝕む刺青のようにも見えた。
「咲き誇る花を愛でくれる者がいなければ困ります。芽吹く葉が人々を癒さなければ、厳しい冬を忍ぶことなど出来ません。私は、誰かを救える者になりたい。たとえ鬼に生まれ落ちたとしても、私はこの命の意味を全うしたいのです」
白い紙に落とされた墨汁が広がるように、赤黒い光はナギの腕を這い上がった。やがて袖の下に見えなくなる。しかし、苦悶の表情を浮かべるナギを見ずとも分かる。これは危険な行為だ。
「肺の損傷は私が引き受けます。志麻さんが目覚めたら、反撃に出ましょう」
ナギは志麻から手を離した。そのままその手を自分の胸に当てる。まるで痛みを我慢するかのように、胸元を握りしめた手に力が込められている。
「宗一郎君の負傷をナギ君に移したのか」
「お気になさらず、傷の治りは早いので」
「そういうことを言っているんじゃないんだよ」
深く息を吸い込んで、長く吐き出す。ナギは無言のまま散らばった針や糸を片付けた。五津海はナギの腕を掴んだ。
「痛いですよ」
「確かに僕たちは君たち鬼と比べるまでもなく脆い。鬼ならばすぐに癒える傷も、僕たちには時間が必要だ。けれども君に無茶をさせて、それでよかったのだと僕たちが笑えるとでも思っているのか。君の自己犠牲や献身を当然のことと受け止めるとでも?」
ナギの腕を握る五津海の手に力が入る。
「僕は怒っている、酷く怒っている。だけどそれ以上に、悲しいんだよ」
ギリギリとナギの腕を締め付ける五津海は、今にも泣きだしそうな顔をしてナギを睨んでいた。
「守ってくれなんて言った覚えはない。勝手に庇われて、目の前で傷付かれて、それでいて命拾いして良かったと、心の底から安寧に浸るとでも想像していたのか。君に何が分かる」
「いいえ、宗貴さん」
ナギは五津海の手の上に自分の手をそっと重ねた。
「あなたは卑怯者でもなければ、臆病者でもありません。矢橋さんがあなたを庇って倒れたとしても、それをあなたが望んでいなかったとしても、心無い言葉で誰かがあなたを傷付けることになったとしても。宗貴さんにも分かるはずです。矢橋さんの死が無駄だったなどと言われて良いはずがありません」
五津海の手がゆっくりとナギの腕から解かれる。
堪え切れずに涙が一粒、静かに落ちた。
「残された者の痛みを考えていないわけではありません。けれども、あなたが生き延びてくれて嬉しい。あなたが今日も生きている、そのことがたまらなく嬉しいのです。それこそ、自分の命を擲つ意味のある名誉です」
五津海の手がだらりと力なく垂れ下がる。俯いた顔は見えない。
「鬼を斬ることしか能のない男だと笑って」
「笑いません」
「仲間に庇われて、それでも軍人なのかと叱ってよ」
「叱りません」
「それでも縋り付く僕を無様に思ってくれ」
「思いません」
ナギは宥めるように言った。
「どうしようもなく救いようのない人だとあなたのことを見限っているのならば、志麻さんはこんなにボロボロになるまで戦うことなどしませんよ」
僅かに外を気にするように窓を見て、そして五津海は志麻を見た。
「宗貴さん。あなた、オニカエシでしょう?」
「……ああ、そうだとも。僕はオニカエシだ」
五津海は腰から下げた軍刀に手を置いて、呼吸を整えた。顔を上げた五津海の表情は普段と何ら変わりなく、華のある美青年だった。その手の中に収まっている刀がよもや妖刀だとは誰にも想像できないだろう。
「ところで宗一郎君の銃はどこへ?」
はて、とナギは首を傾げた。
それからしばらくして志麻はゆっくりと目を開けた。
ナギは志麻の枕元に立って襷を掛け直していた。目覚めた志麻に気が付くと、様子を尋ねた。
「ご気分は?」
「……最悪だ」
志麻は無事な左手で胸の辺りを押さえた。
「胸の痛みが消えている」
「それは私が貰い受けました。他の負傷は診療所で診ていただくようお願いします。ひとまず痛み止めをどうぞ」
ナギは粉末の薬と白湯を志麻に差し出した。志麻は慎重に上体を起こすと薬を流し込み、ふう、と息を吐いた。
「状況は?」
「今は屋敷に籠城しています。夜明けまでは今しばらくというところですね。榊さんはまだ帰っていません」
「セイランは?」
「外に出る支度をさせて……セイランをご存知なのですか」
ナギは驚いた顔で志麻を見た。
「ハルノブから聞いた、ミソラのことはセイランの仕業だと。その正体も把握している。だからこそ、セイランにどう動いてもらうべきか決めかねている」
志麻は首から吊られた右腕を眺めた。
「まったくもって動かないな」
「元通りになるまで、しばらく時間が必要かと思います」
「片手が動けばどうにかなる」
志麻は立ち上がった。痛みはまだ全身に残っている。だが、動ける、戦わなくてはならない。
「銃はありませんけれどね。私が志麻さんを受け止めた時にはすでにお持ちではなかったようですが」
「弾き飛ばされた。銃身が曲がっていないか心配だな」
全身を動かして怪我の具合を確かめる。屈伸は平気だ。足の痛みは無視できる。体を捻じると脇腹が鈍く痛んだ。なるほど、この動きは駄目か。
「後で軍帽も回収しなければならないな」
いつのまになくなったのか覚えがない。志麻は前髪を掻き上げた。
「あまり無理をしないでください。縫い合わせましたが、激しく動けば傷が開きますよ」
「善処する」
志麻はナギに向き合った。
「この恩はいずれかならず返す」
「……いいえ、志麻さん。それは私が言うべき言葉です。春を乞うていたのは私のほうです」
「俺は……」
「本当は少し、ほんの少し怖いのです。このまま還っても許されるものなのか、私にはまだ還るべき場所が残っているのか。私は不安なのです」
ナギは一瞬だけ視線を落としたが、すぐに志麻を見た。
「もうひとりでは還ることが出来ません」
思わず志麻は驚いたような顔をした。乾いた笑いが零れた。
「約束は守るよ、必ず還す」
そう答えて部屋を出た志麻の横顔は、オニカエシの顔をしていたが、僅かな哀しみが潜んでいた。
まだ青く若い、こんな人間が、その身を滅ぼしながら戦っている。手を貸さないわけにはいかないとナギは思う。オニカエシが鬼を救い、人間を護るのならば、誰がオニカエシに報いるのか。誰かがオニカエシに応えなければならない。
そうでなければあまりにも寂しい話だ。
「五津海」
志麻は五津海を呼んだ。五津海は階段に腰を下ろして軍刀を手入れしていた。手の中に収まる闇。その妖刀を見るたびに、心が奥底からじわじわと凍り付いていくような感覚に襲われる。具合を尋ねた五津海に、もう平気だと志麻は答えたが、うまく笑えただろうか。
正直に言ってしまえば、刀を握った五津海が志麻は恐ろしい。
「セイランの結界を斬ったからね、手入れをしておかないと鬼を斬れないだろう」
五津海はそう言いながら刀身に打粉を叩いた。薄暗闇に舞い上がった白い粉が僅かな光を反射した。鼻歌混じりの五津海の口元は弧を描いている。
その様子を楽しそうにと形容するのは間違っている。これは怒りだ、底のない心の闇だ。志麻は五津海が握る漆黒の刀に目線を落とした。
初めて出会った時に持っていたのは、ただの刀だった。確かに鬼を斬ることの出来る、鬼切の刀ではあったものの、このような禍々しい刀ではなかった。
矢橋を失ってから徐々に黒く染まっていった刀身は、二年後には真っ黒になった。闇夜よりも深い黒い刀は、鞘に納まっていても得体の知れない不気味さがあった。それが五津海の心の闇だと志麻は思う。抑えきれない憎しみ、やり場のない悲しみ、自分自身への怒り、そういった感情が五津海から溢れ出して染め上げられた刀だ。
オニカエシでありながら、鬼を滅す刀を振るう。五津海は人格を切り離すことで、その矛盾さえも斬り捨てた。
温厚で、時に調子良く軽口を叩き、志麻に固執する者。
薄らと笑みを浮かべ、好戦的で、鬼に容赦をしない者。
その雰囲気は、全くの別人だった。普段の五津海を知る者たちは、戦う様を初めて目の当たりにした時、誰もが口を揃えて同じことを尋ねる。あれは一体、誰なのか。長く共に高め合ってきた志麻たち同期でさえ、その変貌には愕然とした。鬼に憑かれたのではないかと疑ったほどに、精神が異なっていたのだ。あの日、斬ることを躊躇した五津海の面影はどこにもなかった。成長とは別の形で、五津海は答えを出したのだ。
どちらも、五津海だ。間違いなく五津海宗貴という男だ。
志麻にはそのことがどうしようもなく悔しく思えて仕方がなかった。
「策を練る」
待っていましたとばかりに五津海が刀から顔を上げた。志麻は外を心配するような素振りで視線を逸らした。
「ナギ君が言うことには、外にいる大鬼は妖気を引き剥がせば良いらしい」
「言うだけなら容易いだろう。妖気だけを斬れと言われてお前は出来るのか?」
「無理だね、鬼まで斬っても構わないのなら話は早い」
「それなら策を練るまでもないだろう」
志麻は五津海を咎めるような視線を向けたが、何が可笑しいのか五津海はニタニタと笑っていた。窘めようと口を開いた志麻だったが、言葉を発するよりも先にダンッと大きな音が響いた。玄関扉を破壊しようと外から体当たりしているらしい。重厚な扉で良かったと志麻は思ったが、悠長にしている時間はなかった。
「陣を張って捕縛しようか。僕が大鬼を相手取る間、宗一郎君は庭に陣を巡らせられるかい?」
「やってみる価値はあるだろう」
「その腕で?」
五津海は揶揄するような言い方をした。さすがに志麻もムッと口を閉じた。五津海は階段に座ったまま、まるで手持無沙汰かのように、左手に握っていた刀をグルグルと回した。
「ひとり、妖術が得意な奴を知っているよ」
使い物になるか不安だけどね、と五津海は笑い飛ばしたが、知ってか知らずか、五津海の上から、緊張した面持ちの晴嵐が階段を降りてきた。志麻は初対面だったが、現れた青年が晴嵐であるという確信があった。
「セイラン、君の蒔いた種なのだから。そろそろ手伝ったらどうだ」
五津海は振り返ることもなくそう言った。晴嵐は五津海を避けるように階段の隅を通った。賢明な判断だと志麻は思った。志麻の背後の玄関扉がけたたましく叩かれた。その勢いは先程よりも強まっている。小さな地鳴りのように屋敷が揺れた。
「ああ、宗一郎君。これがセイランだよ」
晴嵐は口を真一文字に結んだまま五津海の横をすり抜け、志麻の隣に立った。玄関扉に手を付けてしばらくの間、眼を閉じていた。
「この身を以て戦うのはあまり得意ではないから助言してほしい」
静かな口調で晴嵐はそう頼んだ。追い詰められている状況に取り乱すわけでもなく、あくまでも淡々としていた。晴嵐とて覚悟を決めてきたのだ。
そこへナギも現れたが、階段に座る五津海から距離を取って立った。
「まずは大鬼を弱体化することだな、あの妖気を祓わなければ埒が明かない」
「大鬼の注意を引きつけておくだけでしたら、私が適任かと思いますが、いかがでしょう」
ナギはそう進言した。志麻と五津海は納得したように頷いたが、晴嵐は疑いの目を向けた。
「お前に出来るのか」
「少なくともあなたよりは鬼の扱いに慣れているという自負はありますよ」
ですが、とナギは続ける。
「方陣のような妖術は体術ほど心得ているわけではありませんので、そちらはセイランに任せます」
「お前がそう言うなら……」
満更でもなさそうに晴嵐が請け負った。
「では、巡らせる陣については後で指示する。五津海は」
志麻は五津海を見た。抜き身の刀を左手に握りしめたままクスクスと笑っている。こうなった五津海は志麻でも上手く扱えない。
「お前はまず刀を仕舞え。それから北へ向かわせた榊を迎えに行ってくれ。さすがにまだ帰っていないというのは不可解だ」
「道中出会った鬼は?」
「斬るな、お前がその刀を振るう程の鬼などいない。無暗に斬ったならば、今回の件に関して始末書には一切手を貸さないからな、そう心しておけよ」
そう言った志麻が脅すと五津海は肩をすくめてみせたが、何を考えているのか読めない。
「大鬼は捕縛したのち送還する。他の鬼たちは棲み処の野山に散るだろう。セイラン、ひとつ聞いておくが、結界から放たれたこの妖気は自分自身で回収出来るのか?」
「都合の良いことを言ってくれるが、それが出来るのなら、言われずともやっている」
「なるほど、それもそうか。ではこの妖気をどうしようとも、お前には影響しないのだな」
「そうなるな」
晴嵐は自慢げに答えた。
「五津海、やはり榊が必要だ。この扉を開け放ったら、お前は迷わず榊の元へ向かってくれ」
「僕だけ別行動だなんて寂しいじゃないか」
「頼りにしている」
志麻がすかさずそう言うと、五津海は満足したらしい。怪しい笑みを浮かべたままではあるものの、刀を鞘に納めた。再び屋敷が揺れた。玄関扉の限界も近いだろう。
「榊と五津海が戻り次第、妖気を榊に回収させる。大鬼を捕縛出来ずとも、それまで持ち堪えれば充分だ。優先すべきは大鬼のみ、他の鬼を深追いする必要はない。覚悟は出来たか」
五津海は立ち上がり、つかつかと一直線に玄関扉の前まで歩み寄った。変わらず口角を歪に上げてはいるが、その眼は笑ってなどいない。酷く冷たい視線が扉の向こうに待ち受ける大鬼を見通しているようだった。そんな五津海にナギが声を掛けた。
「宗貴さん」
ナギは五津海を押し留めるように腕を出した。襷掛けされた袖口から伸びる腕は細く白い。だが、五津海に嫌とは言わせない圧があった。
「最初の一撃は私が引き受けます。隙を狙って抜け出してください」
「おやおや、随分と勇ましいね」
からかうようにそう言った五津海だが、ナギの中に何かを感じたのか、道を譲った。志麻と五津海、それぞれが扉に手を掛ける。晴嵐は志麻の傍に移動した。ナギは一度だけ深く息を吐き出して、顔の前で両腕を交差させた。
「開けてください」
その言葉を合図に、志麻と五津海は玄関扉を勢いよく開け放った。重い扉を封じていた呪符が千切れて舞い上がる。紙切れが落ちぬうちに大鬼の大きな拳が宙を引き裂いた。
だがその一撃をナギは交差した両腕で受け止めた。
人間ならば腕が粉々になって当然の拳だった。しかし、ナギは僅か一尺ほど後ろに押されただけで、仰け反ることさえなかった。
大鬼が追撃を繰り出すより先にナギが動いた。
突き出された右の手刀が大鬼の太い腕を払い、大きく回された左の腕が大鬼の手首を掴んで捻り上げた。大きな体が宙を回転したが、地面に叩き付けられる直前でナギの脚が大鬼を蹴り飛ばした。無理矢理に体の向きを変えられた大鬼は地面を抉るように転がった。
その一連の動きは、まるで舞い踊るかのようだった。
「駄目ですね」
ナギはそう言いながら表に出た。言葉とは裏腹に焦る様子もなく倒れた大鬼の元へと近寄る。五津海はナギには目もくれずに外へ走り出た。北を目指す。志麻と晴嵐は周囲を警戒しつつナギの元へ向かう。
「まるで手応えがありません。やはり妖気を取り除かなければ根本的な解決にはならないようです」
「充分に効いているように見えるが」
「いいえ、これはただ蹴ったから倒れたというだけのことです。傷付いてなどいませんし、ましてや鬼の力は全くもって消耗していません。すぐに起き上がりますよ」
倒れた大鬼を蹴り上げて、庭へと動かす。普段のナギの振る舞いからは想像もつかないほど乱暴だった。
「私の無事はお気になさらず。ですが、私もそちらに気に掛ける余裕がないかと思いますので、どうぞお気をつけて」
そう言うとナギは背後から襲い掛かってきた小鬼を振り返ることもなく肘で打って撃退した。晴嵐が息をヒュッと飲んだ。
志麻と晴嵐は大鬼をナギに任せて庭の隅に移動した。茂みの陰に身を隠し、描くべき陣を考える。
「あの大鬼をひと所に留まらせるというのは難しいだろう。接近するのも得策ではない。なるべく広い陣でこちらの身の安全を確保する必要がある。広いということは、脆いということだ」
ああでもない、こうでもないと言い合いながら、ふたりで地面に様々な術式を描いて最適な陣の形を模索する。晴嵐の知識や思考は長けており、この屋敷をいとも容易く封じていたことに何ら不思議はない。
これはそういう妖しなのだ。他者に幻を見せ、それでいて、その存在もまた、幻。
「セイラン。書庫の蔵書を隠したのはお前だろう」
志麻は地面に目を向けたまま尋ねた。晴嵐が返事をするまでに一瞬の間があった。言葉を聞かずとも、その間が答えだった。
「……本を隠す理由なんてない」
拗ねたような口調が嘘を吐いていると物語っていた。晴嵐は地面に描いた陣を消して苛立ったように新しい陣を描いた。志麻は茂みから顔を出してナギの姿を確認した。
綺麗だと思った。素直に、そう思う。人間の愛する花がそのまま鬼となって、風に舞い散る花弁のように、踊るように、遊ぶように戦っている。この世のものとは思えない、その姿は確かに鬼だった。
だが、見惚れている場合ではない。ナギは劣勢に立たされているわけではなかったが、かといって優勢というわけでもない。志麻の見立てでは鬼としての力も戦闘の才能も、ナギのほうが優れている。だが大鬼を還す以上、その力を存分に発揮することは出来ないのだ。手加減は絶妙だが、だからこそナギの消耗は激しい。ナギの集中力が、この作戦の鍵を握っている。
「決めた」
晴嵐が手を止めた。志麻は晴嵐が地面に描いた陣を見た。少し目を離した隙に複雑な文様が出来上がっていた。
「内側を五恒の上天紋、令は除き、外側を黎明の金切りを結び封じで張る」
そう早口で告げると晴嵐は立ち上がった。志麻が晴嵐の言葉を頭の中で反芻している間に、晴嵐は庭に転がり出た。
晴嵐は呪文を口にしながら庭を駆けた。ナギと大鬼を避けつつも間違いなく式を張り巡らせて陣を作っていく。危険だ。あまりにも無謀だ。晴嵐が飛び出したことで、それまで周囲をうろついていただけの鬼たちが庭に集まり始めた。晴嵐は近付いてくる鬼たちにまだ気が付いていないらしい。志麻は服のあちこちを弄って、ようやく呪符を見つけた。破れたからと上着を置いてきたのが痛手だった。数は少ないが、それでも気休め程度にはなるだろう。志麻は晴嵐とは逆方向に飛び出した。
その時だった。ナギが相手をしているはずの大鬼の狙いが志麻に向けられた。志麻は飛んできた植木を間一髪で避けたが、片腕では体勢が保てず、勢い余って地面を転がった。イチイの木は煉瓦の外壁を僅かに砕いて落ちた。続けざまに何本もイチイが飛んできたが、狙いが定まっておらず、志麻は地面に伏せて木々の雨が止むのを待った。最後に飛んできたのはナギだった。ナギはひらりと巧みに着地すると、伏せたままの志麻に手を差し出した。
「すみません、私の認識不足です。志麻さんが出てきた途端、急に目標を変えたようですね」
「あれは随分と俺が気に入ったらしいな。そういうのは五津海だけで勘弁してほしいが」
「そうですね」
手を掴んで立ち上がった志麻をそのまま肩に抱え上げて、ナギは大鬼が投げつけてきた小鬼を避けた。不憫な小鬼は壁に激突して伸びてしまった。ナギは志麻を地面に降ろした。
「大鬼の意識が俺や先生に向けられているのなら、それで都合が良い。だが、セイランのほうに向けられることだけは避けたい」
「承知しています。それにしても、あれは上天紋ですか、見事ですね。あれには掛かりたくありません」
大鬼は庭を駆けまわる晴嵐には見向きもせずに志麻たちを目掛けて手当たり次第に鬼を投げつけてくる。それらを足技で叩き落とすナギも見事だった。
「志麻さんはどうしてセイランの正体が分かったのですか」
「書庫に収められていたはずの蔵書が何冊か欠けていた。揃いのうち、途中の一冊だけが足りないというものが幾つかあった。抜き取ったのはセイランだろう」
「たった、それだけで?」
攻撃を弾くナギに苛立ったのか、大鬼は身を屈めてふたりへ向かって突進してきた。
「それだけと言えば、それだけのことだな。だが、それらのすべてに共通する妖怪の名前はただひとつだ」
大鬼はナギではなく明らかに志麻を狙っていた。ナギは壁を蹴り上がって体を捻り旋回させた脚を大鬼に向かって勢いよく振り下ろした。ゴッと鈍い音が響いた。それはおよそ人間に出せる音ではなかった。堅い木の音だ。夜に漂う山桜の透き通るような香り。鬼だ。桜に棲む鬼だ。
さらにナギは大鬼の腕に手を付いて体を捻り、その頭を両足で挟むと勢いを利用して大鬼を投げ飛ばした。
「あなたの相手は私ですよ」
さすがの大鬼も不可解だろう。志麻を追うことはせずにナギを睨んだ。ナギが何者なのか、その本質を見極めようとするように、低く唸る。志麻はふたりから距離を取った。
晴嵐のほうは外側の陣を描き切り、内側へと移っていた。大鬼に投げられたことで晴嵐を狙う鬼たちの数は減っていた。だがまだ安全ではない。志麻は呪符を片手に残っている鬼を牽制した。鬼たちも無謀な真似は選ばず、遠巻きになっていった。
「そいつを寄越せ!」
夜の闇を晴嵐の声が動かした。志麻が振り返ると晴嵐は大きく腕を広げて待ち構えていた。
「先生!」
志麻はナギを呼ぶ。ナギは大鬼の太い脚を払ったが、大鬼もただでは倒れない。ナギの腕を掴んで道連れにして倒れた。すぐさまナギは体勢を立て直したが、それは大鬼も同じだった。この期に及んで大鬼は更に多くの妖気を得ているようだった。恐らくは周囲の鬼の数が減ったことで取り分が増えたのだ。
今度はナギが投げ飛ばされる番だった。
ナギが激突した杉の大木は大きく揺れた。衝撃で木に登っていた鬼が落ちてきた。
「嘘だろ」
晴嵐の呆気に取られた呟きが志麻の耳にも届いた。即座に立ち上がることは出来ないが、ナギならば平気だろう。一瞬で視界の隅の晴嵐の無事を確認すると、志麻はナギが倒れている方向とは反対へと駆け出した。大鬼が志麻を狙って庭を一直線に突っ切って来る。
完全に見切ったと思った。避けたはずだった。だが、大鬼は容易く志麻を捕えた。大鬼は掴んだ志麻の左手を高く掲げた。抵抗しようにも脚が届かない。大鬼が巨大になっている。志麻の三倍はあるかもしれない。妖気を取り込んで更に強靭な肉体を手に入れていた。
大鬼はニンマリと下卑た笑みを浮かべると、大鬼は志麻を地面に振り落とした。顔面から落とされた志麻の顔は鼻血で真っ赤に染まる。志麻は呻いた。縫合したばかりの頭の傷も開いてしまった。ぐったりとした志麻を大鬼は再び掲げる。自分の何がそうさせているのか分からないが、大鬼は志麻に酷く執着していた。
「離せよ!」
晴嵐が大鬼の片足に掴み掛かったが、すぐに振り払われて尻餅を着く。だが晴嵐は諦めずに何度も大鬼に挑んだ。そうこうしているうちに煩わしくなったのか、大鬼は拳を振り上げた。
やめろ。
志麻の目には、大鬼の動きがゆっくりと見えた。ひとつひとつの動作が、纏う妖気が、何もかもが遅い。いよいよ不味い状況だと志麻はぼんやり考えた。声が遠い。感覚も鈍い。もうどうしようもないのか。
引き裂くような銃声が響いた。
想定外の襲撃に、大鬼はよろめいた。志麻は変わらず捕まったままだが、状況を把握することは出来た。
銃弾は三階の窓から放たれた。開け放たれた美空の部屋の窓に銃を構えた晴啓の姿があった。この、馬鹿。
「閉めろ、ハルノブ!」
力を振り絞って志麻は叫んだ。しかし、晴啓が窓を閉めるよりも先に、屋根の上にいた鬼たちが窓から部屋に侵入した。すぐさま美空の悲鳴が上がる。
美空を脇に抱えた鬼が窓辺に立った。志麻たちに覚えはないが、その鬼は宿の前の通りを掃いていた男だった。人質となった美空の顔は青褪めて震えていたが、瞳にはまだ光が残っていた。庭に緊張が走る。
「イイ女じゃねぇか、連れ帰って遊んでやろう」
鬼がそう言うと、美空が答えた。
「私のことは好きにしなさい、だから晴啓さんとセイランには手を出さないで」
「ハルノブ? ああ、この男のことか」
別の鬼が気を失っている晴啓を抱え上げると、そのまま窓の外に放り出した。
「やめて!」
美空が叫ぶ。
しかし、晴啓が地面に落ちるよりも先に、その体を空中で受け止めたのは晴嵐だった。
「ずっと、本当の姿を見せて嫌われることが怖かった」
晴嵐は宙に留まっていた。その背中には鳥のような褐色の翼があった。思いがけない展開に、鬼たちの動きが止まる。晴嵐はゆっくりと地面に晴啓を寝かせた。そして大きく羽ばたくと再び飛び上がった。そこからは一瞬の動きだった。
晴嵐は両手を上げた。赤い空に雲が渦巻く。同時に、庭に描かれた陣が金色に光り始める。ゴロゴロと雷鳴が近付いたかと思えば、突如として雷が空を引き裂き、陣に落ちた。二重に張り巡らされた陣の中に立っていた大鬼が雷鳴のような叫び声をあげる。大鬼が思わず手を離したことで志麻は解放された。地面に尻餅を着いたがすぐに立ち上がって駆け出す。
「先生!」
細い稲妻が杉の根元で倒れているナギに迫っていた。ナギも鬼だ。この陣に巻き込まれて無事でいられるはずがない。しかし、志麻がナギに辿り着くよりも先に、轟く雷鳴と眩い雷光が辺り一帯を包み込んだ。
何も見えない。
何も聞こえない。
やがて、辺りを白々と照らした光が収束する。麻痺した聴覚も戻ってゆく。
ヒョー。
物悲しい声が聞こえた。志麻は杉の木を見上げた。
ヒィー。
白み始めた明けの空によく通る声だった。まだ眠りの中にある街へ、寂しげな声は解けてゆく。
高く、ひとり、木の枝に佇むその生き物は、他のどんな命とも異なる姿をしていた。猿か、虎か、蛇か、それとも鶫か。何者でもないが故に、何者にもなれる。継ぎ接ぎのような歪な姿は、この街と似ていた。
何度か囀り、それは姿を消した。
それが晴嵐であると、志麻には分かっていた。
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