第13話 蒼に啼く 四
ナギは湯呑に緑茶を注いだ。茶托の上に湯気が立つ。並べられた四客の湯呑の前に、それぞれが座った。
心の底から申し訳なさそうなミソラ、バツが悪そうなセイラン、切り分けられた羊羹に目が奪われている五津海、そして不機嫌なナギ。
「いいですか、セイラン」
ナギは向かいに座るセイランを見遣った。
「あなたにどんな事情があるのか、それを問い質すのは野暮というものです。ですが、外に出る方法が分かっていないというのに、新たに被害者を増やすとはどういうことですか」
どうやらナギ君のほうが上の立場にあるらしいぞ、と五津海は羊羹を口に運びながらナギを見た。
「ごめんなさい、ナギさん」
ミソラが消え入りそうな声で謝る。
「あなたが謝ることではありません、そうですね、セイラン?」
「……だって」
不貞腐れたセイランがナギから目を逸らす。ナギは机の下でセイランの足を蹴り飛ばした。
「見れば分かるだろう、反省しているよ」
苛立ちを抑えきれずにセイランが机に拳を叩きつけて立ち上がった。衝撃で湯呑が茶托から跳ね上がり、緑茶が零れた。
「お前たちなんか巻き込まなければよかったって!」
「そこに直りなさい、その減らず口、羊羹を詰め込んで塞ぎますよ!」
「ナギ君」
五津海が割って入る。
「君は怒っても迫力がないね」
その言葉にナギは五津海を振り返った。五津海は緑茶を冷ましていた。
「宗貴さんはもっと怒ってもいいのですよ」
「そうは言われても、宗一郎君ならどうにかしてくれるだろうと僕は信じているからね。ここから出られないということと、誰も助けに来ないということとは、別物だろう。セイランと宗一郎君のどちらを信じるかと尋ねられたならば、僕は迷うことなく宗一郎君と答えるよ。もし閉じ込められたのが宗一郎君ならば、僕は地の果てまで君を追いかけてその首を刎ね飛ばすけれどね」
五津海は湯呑を傾けて緑茶を啜ったが、まだ熱かったようだ。肩を震わせた。
「僕もただの馬鹿じゃないんだよ。僕なりに色々と調べたし、予防線も張ってきた。それがどれほど有効なのかはさておき、何もせずに巻き込まれたわけじゃない」
座りなよ、と五津海は顎でセイランに指図した。セイランは渋々席に着く。
「ここから出る方法は宗一郎君たちに託そう。ここで過ごすことよりも、むしろ無事に出られた時のほうが問題だ。この屋敷が放つ妖異の気配、すなわち妖気に中てられた鬼たちが大挙して押し寄せるだろう。それをどう切り抜けるのか」
五津海は緑茶を一口飲んで続ける。
「これは僕の勝手な見立てだが、セイラン。君は妖術の類は得意とするものの、肉弾戦は不得手だね。君を戦力としては勘定できない。ミソラさん、勿論あなたも同じだ。ふたりは自分の身の安全を最優先してくれ。向こう側へ帰る時、鬼は僕とナギ君でどうにかしよう」
そして五津海は緑茶を一息に飲み干すと席を立った。そのまま黙って居間を出て行った五津海をナギが追いかけた。
「宗貴さん」
ナギが呼び掛けても五津海は振り向くことなく歩いていく。二人分の足音が廊下に響く。
「待ってください、宗貴さん」
しかし、どれほど呼んでも五津海は歩調を緩めない。階段を上り、五津海はようやくミソラの部屋の前で足を止めた。
「僕は、矢橋にはなれない」
五津海はそう言った。
「万里のように博識でもないし、渡会のように冷徹にはなれない、近衛のように武器の扱いに長けているわけでもない。榊のように丈夫なわけでもない」
固く握られた拳が扉に叩き付けられた。
「宗一郎君のように覚悟を決めることも出来ない」
食いしばった歯がギリギリと軋む。
「斬るだけしか能のない男だ。滅ぼすことしか出来ない刀だ。鬼を還すという使命からは程遠い。僕は、ただの出来損ないだ。だが、それでも僕はオニカエシだ」
五津海の瞳に炎が宿る。秘めた闘志が叫び声を上げる。
「こんなところで茶を飲んで待っているだけなんて、とても我慢ならない。ナギ君、下がりなさい」
軍刀に手を掛けた五津海が扉に向かって構える。ナギは後退した。五津海は呼吸を整えて、何かを待っている。その何かは、ナギには分からない。けれども五津海は扉をじっと見据えて、居合の構えのまま、静かな呼吸を繰り返していた。
「ならば私は、世界が開かれたとき、不躾な来客を迎え撃ちましょう」
「頼もしい限りだよ、ナギ君」
五津海の答えを待って、ナギは五津海を残して走った。階段を一息に飛び降りる。一階の吹き抜けまで戻ると、玄関扉を大きく開け放った。
屋敷の前に志麻と榊、それから晴啓の三人はいた。志麻は壁に背を預け、榊は門に背を向け、晴啓はやり場のない視線を自分の影に落としていた。
晴啓はゆっくりと白状した。
「まだ幼い頃、この街の他の子たちと同じように、俺も美空さんのおじい様、南条先生の元で学んでいました。俺は、おじい様が語られる民話が好きで、この屋敷に通い詰めていました。その時に仲良くなったのが、同じ年頃の少年でした」
三人の頭上で烏が一鳴きした。
「実際に彼がいたのは、ひと月ほどの僅かな期間でした。それでも俺たちはまるで生まれた頃からの友人のように仲良く過ごしていたのです。ですが、彼は、忽然と姿を消しました。誰に聞いても行方は分からない、それどころか、彼の存在を知らないという答えのほうが多かったのです。俺にしか見えていない少年だったのではないか。今になって思えば、俺は彼のことを名前しか知らなかったのです」
晴啓は息を継いだ。
「成長するにつれて、次第に彼のことを思い出す時間も減り、やがては忘れてしまいました。ようやく彼のことを思い出したのは、美空さんと初めて話をした時でした。美空さんは俺に、自分だけに見える友達の話をしてくれました。俺が気味悪がることを彼女は望んでいたのかもしれません、ですが、俺には彼女の中に、切実な思いを感じたのです」
いつか、晴啓さんにも会ってくれるといいのだけれど。
その時のミソラの様子を思い出すように、晴啓はそう言って言葉を続けた。
「彼女が閉じ込められるまで、数えるほどしか話をしていませんが、俺は彼女に惹かれていました。美空さんと話をする時に、どこか懐かしさを感じていました。彼女が戻らなくなる前日になってようやく俺はその感覚の正体を思い知りました」
晴啓は顔を上げて屋敷を見上げた。蔦が絡まる煉瓦造りの洋館。そこに未だ残る幼き日の影を探すように。
風が吹き、屋根の上の烏が飛び立った。
「晴嵐」
懐かしむように、悔いるように、晴啓は名前を呼んだ。
「それがこの屋敷を閉ざした者の名前、俺と彼女の、友人です」
そう言うと晴啓は項垂れた。志麻は静かに口を開いた。
「何故、黙っていた」
「……恐ろしくなったんです。晴嵐のことを忘れた俺を、彼は怒っているのではないか。今回の縁談は、彼から美空さんという友人を奪うことになるのではないか。俺はまた晴嵐を忘れるのではないか。破談になれば千草屋が潰れてしまうのではないか。屋敷に閉じ込められたままのほうが、ふたりにとっては幸福なのではないか。考えれば考えるほど、答えは分からなくなりました」
壁にもたれていた志麻は晴啓に歩み寄った。
「ひとつ、はっきりさせておこう」
志麻は怒りもせず、嘆きもせず、ただ晴啓を真っ直ぐ捉えて尋ねた。
「お前が守りたいものは、何だ。ミソラか、セイランか、千草屋か。それともお前自身なのか?」
その言葉に、晴啓は何も返せなかった。言い淀んだ視線が彷徨う。その様子に志麻は溜息をついた。
「守りたいものが分からないのなら、それでもいい。だが、惚れた女も救いたい、幼い頃の友人も大切で、育った家も捨てられない。どれほど欲深いんだ、お前は。腹を括れずに今までやってきて、その結果がこれだろう。お前は一体、何を守ったんだ」
黙ったままの晴啓に、志麻は銃を突き出した。単発式の古いマスケット。
「これをお前に預けよう。銃弾は一発だ。精度は高くない、命中させたいのなら狙って撃て。たった一度、引き金を引くだけ。それだけでいい」
「銃を撃ったことなどありません」
「俺だってこんな怪異は初めてだ」
志麻は晴啓の手の中に銃を無理矢理に握らせた。晴啓は強張った表情のまま志麻と銃を交互に見た。溜息混じりに志麻は言った。
「……今でもまだ自分の考えを信じ切ることなど出来ないが、正体は分かった」
その言葉に、晴啓はハッと志麻を見た。しかし、志麻は決して喜ばしい表情はしておらず、むしろ不安を抱えているように見えた。
「晴嵐は何者なのです」
「知ったところで何になる。あれは俺たちでは到底及ばないようなものだ。セイランの正体を知って、それでお前はどうするつもりだ。誰を救う、何を守る」
低い声で志麻は尋ねた。晴啓は狼狽え、俯いた。
「責めてはいない、迷って当然だ、そういうものだろう。守るべきものが多いということは、それだけお前が愛されている証だからな。捨て去れとは言わない。だが、優先すべきものを決めてくれなければ、こちらも動けない」
項垂れた晴啓に志麻の言葉が降り注ぐ。
「夜になれば鬼が集まってくるだろう。そうすれば濃い妖気に、屋敷を包むセイランの結界が揺るぐ。その僅かな歪みを五津海が破るはずだ。五津海なら成し遂げるだろう。日が沈む頃ここで会おう。その時、俺はお前にもう一度、お前が守りたいものを尋ねよう。そして、その答えのために俺たちは命を懸けて鬼と対峙しよう」
志麻に促された晴啓は千草屋へと帰って行った。志麻と榊は晴啓の背中を見送る。燕が低く飛ぶ。風に揺られて庭の杉の枝葉がざわめいていた。
晴啓の姿が見えなくなった頃、榊が尋ねた。
「志麻さん。セイランという人の正体が分かったというのは本当ですか」
「ああ、本当だとも」
志麻と榊は杉の木陰に腰を下ろした。
「さすが志麻さんです。でも、どうやって」
「答えは屋敷の中にあった」
屋敷を見上げたが、美空の部屋の窓には誰の姿もない。そこにいるはずの四人の無事はここからは見えない。いまだ煌々と燃える鬼火だけが、ナギの無事を告げていた。
「ミソラの祖父の蔵書の中に手掛かりがあった。恐らくは、祖父ではなく、セイラン自身が残した助言だろう」
「犯人なのに助言を与えるなんて、どういうつもりなのでしょう」
「簡単なことさ、榊。セイランは待っているんだ」
空を覆う赤が濃くなっていた。遠くから風に乗って鬼の気配が漂ってくる。鬼の狙いはこの屋敷が纏う、セイランが生み出した結界を形作る上質な妖気だ。微細な力の人間には興味などないだろうが、屋敷を見張るオニカエシは邪魔になるに違いない。
ここで待っていれば、鬼が向こうからやって来る。それらを追い返して、いつまで耐えられるだろうか。襲来を退けたところで、街に入った鬼たちは五津海の結界に阻まれて街の外に逃げ出すことが出来ないだろう。五津海の結界を破らなければ攻防に終わりが見えない。
「セイランとて、何も望んでこんなことをしているわけではないだろう。ミソラを連れ去ってやろうと心底そう考えているのならば、こうして周りに希望を抱かせるようなやり方など選ばずに、黙って遠くへ逃げてしまえばいいだけのこと。それをわざわざ、先生や五津海を招き入れているとなれば、分かるだろう、どうやらセイランも相当困っているらしい」
「そうでしょうか。榊にはただセイランが遊んでいるようにしか思えません」
「ああ、五津海もハルノブも、散々弄ばれていただろう。だがそれは言い換えるならば、本気ではなかったということだ。そんな中で、先生を内側に入れてしまった。あの時、明らかにセイランの縄張りが揺らいだ。先生の介入によって結界が組み変わった。今ではもうセイランは自分自身で作った結界を解除出来なくなっているはずだ」
「大変なことじゃないですか。作った本人の手に負えない結界なんて、どうやって破るのですか」
「外側から結界を押し破ろうとする力、つまり鬼たちの襲来によって、セイランの結界が歪む。たとえその歪みがほんの僅かな隙間だったとしても、五津海にはそれが分かるだろう。まあそのあたり、万里の薬を信じるしかない」
「大丈夫でしょうか。セイランには到底及ばないって」
「ああ、言ったな、確かに言った」
志麻はあっけらかんと答えた。
「到底及ばない、それは本当だ。だがセイランそのものを打ち破る必要などない。必要なのはその結界を破り、妖気を祓うことだ」
「セイランとは、何者なのですか」
「ハルノブも同じことを聞いたが、ハルノブは知らずのうちにその答えを口にしていたさ。聞くよりも、見たほうが早い。セイランをこちら側へ引き摺り出せば、嫌でもその姿をさらすだろう」
そう言うと志麻は立ち上がった。
「夕刻までまだ時間がある。ハルノブとここで落ち合う前に、腹ごなしをしよう」
それから、と志麻は続ける。榊はその慎重な声に注意深く耳を傾ける。
「鬼を間違いなくこの屋敷で迎え撃つために、道を作っておかなければならない。セイランの結界を鬼に攻撃させることがこの計画のすべてだ」
はい、と榊は元気よく返した。
志麻と榊は屋敷を後にした。
手際よく鬼を退けながら辻に薬を撒く。商売の街は今日も忙しない。誰も志麻たちに見向きもせずに通り過ぎてゆく。あるいは見て見ぬふりをしているだけか。そちらのほうが志麻たちにとっては好都合だった。
街中で手筈を整えた志麻たちが屋敷に戻ってきたのは夕刻で、晴啓はすでに玄関先で待っていた。その表情は強張っていたが、どこか決意を固めた顔にも見えた。
「決まったか」
志麻は晴啓に尋ねた。晴啓は無言のまま頷いた。そんな晴啓に志麻は告げる。
「戦いに臨む者としてひとつ、忠告しておこう。これから先は何が起こるか俺にも分からない。だが、確かなことは、お前のその決意を揺るがすようなことがやって来るということだ。お前は嫌でも選択を迫られるだろう。どれほどその心に固く誓っていたとしても、だ」
静かに、低く、志麻は言葉を紡ぐ。
「もし即座にお前が、ふたつのものを守りたいと願ったならば、そのどちらか片方を諦める必要などない。お前に守り切れない片方は、俺たちが守ろう。だが、三つ目の願いは叶わない、そう心得ておけ」
志麻の神妙な面持ち、その切なる言葉に、晴啓は少しの間をおいて尋ねた。
「あなたは三つ目に何を願ったのですか」
その問いに、志麻は顔色ひとつ変えることなく答えた。
「友の命だ」
思ってもいなかった答えに、晴啓はすみません、とただ小さく返しただけだった。榊は軍帽を目深に被り直した。
「では、そろそろ今夜の計画を話そうか。まずはハルノブ、お前はミソラの部屋で待機していろ。繋がるならば、あの部屋だ」
志麻がそう言うと、榊と晴啓は屋敷を見上げた。相も変わらず屋敷は静まり返ったままだったが、どこか空気が淀んでいる。夕陽に映える外壁は明るい橙色に輝き、絡まる蔦は深みを増す。暮れる空には星がひとつ光っていた。
「俺と榊は屋敷の周りを守る。セイランの結界が破れた時には、頃合いを見て、榊は街の北へと走れ。そして今度は五津海が巡らせている結界を解く」
「どうして北側なのですか」
「鬼が北を好むというのもあるが、街の外周を見て回った。鬼が逃げるには、北側の地形が最も適しているだろう」
それで、と志麻は続ける。
「先生や五津海と合流したら、あとは集まった鬼たちを退かせるだけだ。夜通し応戦すれば、朝には元通りだろう」
すでに街の中には多くの鬼が入り込んでいる。被害は今のところ確認されていないが、夜になれば鬼たちは真っ直ぐにこの屋敷を目指すだろう。
ふたりと合流出来るまで、どれほど持ち堪えられるだろうか。不安要素は残る。鬼の攻撃を晴嵐の結界に向けつつ、けれども自分たちへの攻撃は防がなければならない。
こんな時、矢橋がいれば。
志麻は唇を噛んだ。矢橋ならば人員をうまく配置し、適切な指示を出してくれる。それぞれが持ち場で己の力を最大限に発揮し、最低限の被害で朝を迎えられるだろう。
だが、矢橋はもうどこにもいない。この手で葬った。どれほど望んだところで、三つ目の願いは叶わない。
今、志麻に出来ることは、矢橋から学んだすべてを活かすことだけだ。
志麻は大きく息を吸い込んだ。
榊を玄関先に残し、志麻と晴啓は屋敷に入った。無人の室内には重苦しい空気が漂っていた。さすがに晴啓も薄気味悪さを感じているらしい。足音ひとつさえ、この先に待ち受ける苦難を暗示しているかのように響いた。
「晴嵐がいなくなってしまった時、本当に悲しかったんですよ」
美空の部屋の窓を開くと、夕暮れの冷たい風が入り込んできた。日は随分と落ち、大きな杉の木は黄昏の中に溶けていた。橙に染まっていた空も紫を帯び、東の端から夜が迫っていた。
窓辺にもたれた晴啓は独り言のように言った。
「あの頃は俺もまだまだ子供で、商いのことなど、どうしてこんなものを学ばなければならないのかと、不貞腐れていたのです。金のことばかり考えなければならないのなら、大人にはなりたくない、なんて。だから、晴嵐と過ごす時間は俺にとって、子供の時間そのものでした」
志麻は笹野の言葉を思い返していた。商家に生まれていなければ、学者になっていただろう。つくづく晴啓は商売からは程遠い性質で、だからこそ自分が千草屋を守らなければならないと、責任を感じていたのだろう。
「この庭、晴嵐と駆け回りました。この杉の木は何故だか酷く恐ろしくて俺には登れなかった。するするといとも容易く登っていく晴嵐を俺は地面に残されたまま見上げていました。あの時、この窓に美空さんの姿もあったのかもしれません」
千草屋の跡継ぎという役目、周囲からの期待、それに応えられない自分、心を許せる友人。幼い晴啓の揺れ動く感情は当然のものだ。
「セイランが消えた心当たりはないのか。今になって戻って来たことも」
「……晴嵐は本当に、消えたのでしょうか」
「というのは?」
「いえ、ただ、晴嵐がいなくなる前夜、両親と喧嘩をしたことは憶えています。もっと晴嵐と遊びたい、商売なんてやりたくない、そんな我儘ばかり。翌日、いくら待てども晴嵐は現れませんでした。それで俺には千草屋しかないんだと思い知らされました」
果たして本当にそうだろうか、と志麻は思ったが、過ぎ去った思い出を語る晴啓の横顔は寂しげで、口を挟むのが憚られた。
「それでもあの時、俺が晴嵐を選んでいたならば、今頃は別の道を進んでいたかもしれません……あるいは俺は何も変わることなど出来ずにいるのかもしれない」
志麻は晴啓の言葉には何も言わず、窓から身を乗り出した。上下を確認すると、外に背を向けて桟の上に立った。
「屋敷の様子が変わるまで、この部屋から出るんじゃないぞ。戸締りはしっかりと、窓もだ。たとえ窓の外に何が見えようとも、開けるんじゃない。それはお前を惑わせようとする鬼の影だ」
「俺に区別出来るでしょうか」
「お前しか知らないようなことを尋ねてみろ、そうして正しく答えるようならば、それは人間かもしれないな」
そう言いながら志麻は窓の上の僅かな出っ張りを指先で掴み、軽々とその身を屋根に上げた。下を見れば晴啓がこちらを見上げていた。
「呼べば速やかに駆けつけるさ」
志麻は背中に回した銃を下ろし、手に持った。晴啓が何か言おうと口を開いたが、志麻は構える間もなく引き金に指を掛けて撃った。弾丸は屋敷の塀を乗り越えようとしていた鬼の右腕を貫いた。
「話はまたあとで聞こう」
晴啓はすぐに部屋の中に引っ込んだ。
さて、と志麻はようやく銃を構えた。
下は榊に任せておけば問題はない。屋根に上った志麻の役目は、鬼の数を調整することだ。晴嵐の結界を乱しながらも、結界が破れた時に押し返すことの出来る数。放出される妖気を浴びた鬼たちは凶暴になるだろう。鬼を牽制しつつ、利用する。
銃はこの作戦にとって好都合な武器だ。志麻は屋根に伏せた。
ひとつは音。宵闇の中に銃声は遠くまで響く。民間人ならば危険を察知して下手に野次馬が増えることなどない。一方で鬼に対してはこちらの居場所を知らせる意味がある。一発目の銃声で鬼たちをここまで誘き寄せられる。
もうひとつは眼。遠くから、陰から、上から。仲間とは異なる目線で状況を見張る。鬼の動きも、味方の劣勢も、酷く冷静に見詰める眼。
『宗一郎は良い眼を持っている』
いつか矢橋が志麻の背中を押した。矢橋がいなければ、志麻が銃を構えることもなかっただろう。冷静さと冷徹さを。
退ける鬼、迎え入れる鬼。今はまだ泳がせる。志麻は呼吸を整えて迫る夜を待った。
空気が変わったのは真夜中だった。塀の向こう側に蠢きこちらの様子を窺っていた鬼たちが何を合図にしたのか一挙に雪崩れ込んできた。志麻は銃を構えたが撃たずに待った。鬼たちも個々で掛かっては埒が明かないと判断したのか、あるいは。
志麻が撃たなかったことで、榊も手出し不要と判断した。素早く身を翻して屋敷の中に身を隠す。次の銃声が反撃の合図だ。
月明かりの下に夜目は冴えて、鬼たちの動きがハッキリと見える。晴嵐の結界を攻撃している。しかし、存外に強固な結界らしく、鬼たちが苛立っているのが分かった。
屋根に這い上ってきた鬼の角を掴んで放り投げる。引き金を引くのは今ではない。志麻はその時を待った。
まだだ。
赤く染まった夜空には風がない。雲は動かずに留まっていた。雲間の月は白々と清く光る。
もう少し。
ギリギリと軋む音が聞こえてくる。それは鬼の歯軋りか、結界の悲鳴か。志麻は銃をしっかりと握った。
突如、ドスンと地鳴りが響き、屋敷が大きく縦に揺れた。思いもよらず強い揺れに志麻の体は瞬間宙に浮いた。
割れた、破れた、崩れた。
鬼たちの歓喜の声が響き渡る。志麻は屋根に伏せたまま鬼たちの様子を窺った。目に見えるほど純度の高い妖気が満ち溢れている。まるで酒宴のような賑わいで、鬼たちは騒ぎ立てていた。
さあ、反撃だ。
狙い澄ませた一発は妖気を裂くように飛び出した。銃声の方向を見上げる間も与えずに、放たれた銃弾は大柄な鬼の角を折った。
「次」
屋根の上の志麻へと狙いを定めた鬼たちが狂ったように壁をよじ登ってくる。先頭の鬼の腕を狙って一発、続けざまに反対側の腕に一発。腕を貫通した二発目が後続の鬼たちを襲う。腕力を失った鬼が地面に落ちる。巻き込まれた他の鬼たちも落ちていく。
反撃の合図に、屋敷の中に隠れていた榊も外に出てきた。その怪力で次々と鬼を薙ぎ倒していく。
撃っては弾を込める。間に合わなければ銃身で殴る。足場の悪い屋根の上まで来られると、志麻には分が悪い。連射は銃の負担になる。現に熱を持ち始めている。このままいつまでも屋根の上では戦えない。
ふたりはまだか。
この混乱の中に戻らなければ、いよいよ向こう側から救い出す手立てがない。
志麻は銃を背負って短剣を構えた。飛び掛かってくる鬼をかわし、腕を振り下ろす鬼の足を払う。そうして鬼たちから屋根の上を守りながら、志麻はナギと五津海の気配を探した。
視界の隅に大鬼の姿を見た。志麻は目の前の鬼を相手取りながら、咄嗟に短剣を大鬼目掛けて投げた。しかし、大鬼の腕は短剣を弾き飛ばした。すぐさま大振りの腕が志麻へと振り下ろされる。その一撃は避けて別の鬼に当てさせる。肉弾戦になれば志麻には勝ち目がない。うまく立ち回らなければ。大鬼の一撃は志麻が相手をしていた鬼など簡単に弾き飛ばし、勢い余って屋根瓦に叩き付けられた。
「宗一郎」
欠けた瓦が宙を飛び散る。大鬼は志麻の方へと向き直った。背後から声が聞こえる。志麻の名前を呼ぶこの声。志麻は拳を構えた。大鬼の背丈は志麻の二倍はある。全身が筋肉で出来ているかのように屈強な身体。燃えるような赤い瞳は妖気の影響だ。
「冷静になりなさい、宗一郎。刃を弾く鬼の腕に、君の細腕が敵うわけもない」
大鬼の大きな動きの隙間を縫って志麻は懐に入り込み、蹴りを入れた。だが、大鬼は痛がる素振りもみせず、むしろ蹴った志麻の脚がミシミシと悲鳴を上げた。振り回される腕を飛んで避ける。着地した足が痛む。
「鉄の弾も意味がない」
声が志麻の思考を遮る。煩わしい。志麻は唇を噛んだ。この声を知っている。だからこそ振り向くことはない。そんなもので乱されるほど鬼との戦いに不慣れなわけでもない。だが、この大鬼に攻撃する術がない。屋根の上には大鬼と志麻を取り囲むように他の鬼たちが集まってきていた。それらを相手にする余裕などない。周囲を囲む鬼たちは下品な笑いを浮かべていた。どうやら志麻と大鬼の一騎打ちを楽しんでいるらしい。まるで闘鶏だ。
「宗一郎。ここで諦めたとて、誰も君を責めたりはしないよ」
ああ、なんて五月蠅い声なんだ。
大鬼を往なしつつ、志麻は隙を探った。あんな一撃をまともに貰えば、骨が折れるだけでは済まないだろう。
「宗一郎」
この声を忘れることなどない。これは矢橋の声だ。いや、矢橋を真似る鬼の声だ。人の心に巣食う鬼の類も集まっているのだろう。過去の思い出を連れ出して揺さぶりをかけてくる。心が折れるその時を待っているのだ。
だが、こんな矢橋の声などでは、志麻の心は諦めたりなどしない。その声を覚えている。だからこそ、絶対に違うと真っ向から否定できる。たとえどんなに劣勢に立たされたとしても、諦めてもいいなどという言葉を矢橋が口にするはずもない。そんな無責任な言葉を吐くはずがない。
大鬼の拳で割れた瓦の欠片が志麻の頬を切った。血が流れだしたのが分かる。だがそれを拭うこともせず、志麻は大鬼と向き合っていた。
銃の中に弾は装填してある。その機会が訪れるまで耐える。必ず勝機はあるはずだ。不利な状況に対して志麻は冷静だった。
志麻を仕留められないことに大鬼が苛立ち始めた。周りの鬼たちも囃し立てて大鬼をけしかける。志麻は見え透いた挑発には乗らない。
「宗一郎」
その声を合図に、志麻は大鬼目掛けて走った。待っていたとばかりに振り下ろされる拳を避けて、大きく広げられた大鬼の脚の間をすり抜ける。間髪を入れずに立ち上がり、志麻は背後を取った。だが、攻撃はしない。素早く背中の銃を前に回し、後ろに飛び下がりながら構える。激昂した大鬼が叫び声を上げながら志麻に迫り来る。
その一瞬を待っていた。
志麻は銃を撃った。放たれた弾丸は宙を焦がし、真っ直ぐに飛んだ。狙ったのは口の中。たとえ肉体がどれほど強固であったとしても、内側は外側ほど頑丈ではない。攻撃が通用するなら、そこしかない。大鬼が吼えるその時を志麻は狙っていた。
大鬼が崩れた。周囲の鬼たちは我先にと逃げ出す。志麻には敵わないと判断したのだ。
屋根の上が静かになる。幻聴ももう聞こえない。
志麻は弾を込めながら息を整えた。神経を研ぎ澄ませて様子を探る。榊は無事だ。ナギと五津海は。志麻は装填する手を止めた。
崩れたはずの大鬼が立ち上がっていた。
「いくらなんでも早すぎるだろう」
志麻の口の端が歪む。晴嵐の結界が蓄えていた妖気が多すぎた。この鬼は強化され過ぎている。鬼の誇りなどはなく、ただ本能のままに戦っている。この類は人間を喰う鬼だ。食糧としてではなく、ただの享楽として、人間を襲い貪る。そういう鬼の種類だ。言ってみれば、人間と戦うことに特化した鬼。志麻は銃口を大鬼に向けながら後ろに下がる。
どこを撃つ。
志麻の狙いが定まらない。銃弾が効く部位はあるのか。足の指の先を撃ってみたが、跳弾しただけだった。大鬼はじわじわと距離を詰めてくる。志麻をどうやって甚振ろうか考えているのか、品定めをするように志麻の全身をねっとりと見ていた。隠し持っていた武器は殆ど使い切った。弾はまだある。どこを狙えばいい。
これ以上は後退できない。志麻は足を止めた。地上に戻って榊と共闘するべきか。だが、榊とこの鬼は似たようなもの。互いの怪力がぶつかり合うだけでは終わりがない。
逃げ場のなくなった志麻は大鬼の拳を銃身で凌いだが、その力は凄まじく、弾みで銃が手から離れて飛ばされた。次の一撃は捌き切った。
だが、次の一撃は防ぎ切れなかった。志麻は自分の右腕がメリメリと音を立てるのを聞いた。屋根の上に叩き付けられる。一瞬、目の前で火花が弾けた。癇癪を起こした子供が玩具を地面に打ち付けるように、頭を掴まれ何度も繰り返し落とされる。屋根瓦が砕けて刺さる。最後に勢いよく叩き付けられて、志麻はようやく解放された。受け身を取ることも出来なかった志麻は咄嗟に動くことが出来ない。頭からは血が流れ、鼻血も止まらない。起き上がろうとしても、体は全く言うことを聞かない。腹を蹴り上げられて、志麻は倒れる。息苦しさに咳き込めば血がボタボタと口から溢れた。
動かなくなった志麻に、大鬼は嬉々として馬乗りになった。大鬼のゴツゴツとした手が志麻の口を塞いだ。息が苦しい。逃げなければならないのは分かっている。だが、体が動かない。あらぬ方向へと曲がった右腕の感覚はなく、大鬼の体重が志麻の胴体を押さえつけている。足先は痺れ思考が鈍る。
興奮している大鬼は雷のような声で吼えた。ビリビリと耳が痛い。息が出来ない志麻の意識が朦朧としはじめた。
まずい。
空気を求めて体をよじる力もない。こんなところで終わるのか。まだ何も成し遂げてなどいないのに。
大鬼の手が志麻の口から離れた。体は動かないままだったが、ようやく呼吸が出来る。だが安堵も束の間、大鬼の手は代わりに志麻の胸倉を掴んで引き寄せただけだった。大鬼は頻りに志麻の匂いを嗅いだ。何を思ったのか、大鬼は志麻に発情しているようだった。それは戦いの中の猛りかもしれなかったし、元来そういう性質なのかもしれなかったが、そんなことは志麻にとってどうでもいい。大鬼の手は志麻の体を弄る。力任せに引っ張られた軍服の上着の釦が弾け飛んだ。
一度でいい、この体が動けば。まだ小刀がある。
動けと志麻は念じた。動け、俺の体だろう。志麻は目を瞑った。
瞼の裏側に軍服姿の背が見える。白を基調とした夏の制服。後姿だけでそれが矢橋だと分かったのは、ずっと見てきた背中だったからだ。後方から狙撃する志麻は、同期を統率するその背を見ていた。誰よりも、何よりも、矢橋の一言が頼りになる。当然の信頼だった。何度も命を救われたのだから。
「宗一郎」
これもまた、幻聴か。
大鬼の手が志麻の体をギリギリと締め上げる。あちこちの骨が軋む。痛い。志麻は苦痛に顔を歪めた。
「君になら出来る」
都合の良い言葉が耳に届く。懐かしい声が心の傷を抉る。諦めるつもりは欠片もないが、自分に何が出来るのか分からない。志麻は唇を噛んだ。痛い。血の味がする。まだ、生きている。
「……なんて無責任な言葉は嫌いだからね」
幻聴が、そんなことを嘯いた。笑うのを我慢しているような声だった。矢橋らしい声だった。
ようやくそれが、矢橋の声に思えた。
「出来るかどうか、やってみせてくれよ」
血が流れる志麻の頬を大鬼はベロリと舐め上げた。
志麻は眼を開いた。やれる。左手で腰の小刀を抜くと、迷わずに大鬼の右目に突き立てた。その一連の動きは訓練で身に染み付いたものだった。考えるよりも先に体が動く。動かないはずの腕を動かしたのも、無意識のうちの執念だった。
すべての音を掻き消すほどの大きな咆哮を上げながら大鬼は痛みに悶え苦しんだ。志麻を放り出し、屋根の上をのたうち回る。
志麻には体勢を立て直す余力など少しもなかった。高く放り投げられたかと思えば、すぐに赤い空が遠くなる。屋根ではなく地面に向かって落ちているのだと理解していたが、もはやどうすることも出来なかった。
榊は無事か。
ほんの僅かな時間だったはずだが、多くのことが頭をよぎった。
先生を還す約束。五津海のこと。龍澤さん、万里、近衛、渡会。それに、矢橋。
志麻は訪れる衝撃を覚悟した。しかし、志麻の体が地面に落ちることはなかった。夜の闇に仄かな山桜の香りが漂っていた。
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