第12話 蒼に啼く 三
夜が明けきる前に、志麻たちはミソラの屋敷へと向かった。薄い霞みに包まれた街はまだ眠りの中で、通りには人影ひとつ見当たらない。志麻は軍帽を深く被り、外套を羽織った。ナギの鬼火を携えて、朝冷えの中を歩いた。
「流石に、この有様か」
屋敷は明らかに昨日とは異なる様相だった。幾羽もの烏が屋根の上から訪れた志麻たちを見下ろしている。静寂はより一層濃く纏わりつき、のしかかるような威圧感さえも漂っている。オニカエシが三人いても、気を抜けば次の一歩を躊躇してしまいそうなほどだ。
「実のところ、ナギ君は僕たちが思っているよりも高位の鬼ではないだろうか。あれほど巧みに化ける鬼を見たことはない」
「機会があれば聞いておく」
志麻が空へ銃口を向ければ、烏たちは一斉に飛び去った。黒い羽根がはらりはらりと舞い落ちた。
三人はまず屋敷の周りを歩いた。景色に変化はなかったが、庭の芝生を歩けば時折、透明な何かを踏みつける感覚があった。靴の底が抵抗を受けて芝に着く。ぬかるんだ地面に足を入れた時のようだった。その感覚はミソラの部屋の下の辺りが一番強く、志麻はそこで一度足を止めた。
志麻は持参していた粉を地面に撒いた。赤や金色の粉は明け方の僅かな光を反射してきらきらと光った。
「宗一郎君、それは?」
「原料は辰砂、雲母、石灰に天狗や人魚の骨らしいが、詳しいことは万里に聞いてくれ」
万里とは志麻たちと同期のオニカエシのひとりである。学者気質な博識の男で、薬品にも詳しい。鬼を追う際に役立つ調合物を送ってくることがあり、志麻はそれを試した結果を万里に送り返している。
「贔屓だ、万里は僕にこんなものを寄越したことなんて一度もない」
「お前が普段は明らかに鬼だと分かっている案件へと回されているからだろう。俺たちは派遣されて行くことよりも、遭遇することのほうが多いからな」
巻かれた粉は芝生には落ちず二寸ほど浮いていた。やはり目には見えない層があるらしい。やがて、波に流されるようにして粉は広がって光の筋が出来た。何本もの筋はあちらこちらの窓へと伸びていたが、一番太い筋は壁を伝ってミソラの部屋へ続いていた。
「これで何が分かるんだい」
五津海が尋ねる。その意図は分かる。ミソラの部屋に異常があることは既に判明していることだと言いたいのだ。
「あまり期待はしてくれるな、これは気配を辿るだけであって、原因に直接作用してくれるわけではない。この粉で分かることは大きく二つある。ひとつは最も大きな脅威がどこにあるのか。金色の筋はミソラの部屋へと続いているだろう」
そう言われて榊と五津海は金色の筋を目で辿った。いつのまにか光の筋は金と赤の二色に分かれていた。
「もうひとつは?」
五津海が空へと伸びていく赤い筋を仰ぎながら尋ねた。
「この屋敷の異変が外に影響を及ぼす可能性の範囲、とでも言えば分かるか」
すでに屋敷の上空は赤に覆い尽くされ、さらには周囲へと広がっていた。
「現時点でこの程度なら、今夜には魅せられた鬼が押し寄せてくるだろう。あれらは鼻が利く。お前が逃した鬼はどんな顔をして現れるだろうな」
「万里の便利な調合品で、正体を暴いてはくれないんだね」
「あまり万里を高く評価するなよ、思い上がるぞ。だがこれで、脅威が目に見えるようになった。歪みも探しやすくなるだろう」
三人は屋敷の正面に戻った。今一度、この屋敷に巣食う怪異と対峙する。玄関扉を大きく開け放ち、三人は静寂の屋敷へと足を踏み入れた。
どこか懐かしい香りに、ナギはゆっくりと目を開けた。体が重く、感覚が鈍い。意識が朦朧として視界がぼやけ焦点が定まらない。酷い吐き気がする。内臓がひっくり返ったようだ。この香りは、何だったか。
ナギは項垂れていた頭を上げた。体を動かそうにも微塵にも動かない。頭痛を堪えながら体を見れば、麻縄で縛られていた。どうやら椅子に座らされたまま縛り付けられているらしい。
ようやく思考がはっきりしてきた。この景色には見覚えがある。あの屋敷の一室だ。窓の外はまだ薄暗く、外の様子はよく見えない。身をよじれば麻縄が体に食い込んだ。この気分の悪さはどうにもいけない。普段ならこんな縄など簡単に解けるが、今は全身に力が入らない。それにしてもこの香りは、一体。
ナギは記憶を辿るのを止めた。部屋の外の廊下を歩く足音が近づいてくる。足音の主は部屋の扉を静かに開けて入って来た。
「ようやくお目覚めか」
入って来た青年に見覚えはない。だが、青年が纏う気配はこの屋敷を取り囲む気配そのものだった。青年は不機嫌そうにナギの前に立った。具合が悪いのはこの青年も同じらしい。やや青褪めた顔色をしている。よほど気分が優れないのか、青年はすぐに床に敷かれた絨毯の上に座り込んでしまった。
「それで、お前は?」
ナギは青年の問いに答えようとしたが、せり上がる吐き気を押さえるのに精いっぱいだった。青年もそれを察してか、ナギの返事を待たずに話を続けた。
「まあ、お前が何だって構わないが、ここから出られないとはどういうことだ。お前のことを玄関から放り出してみたが、向こう側に戻りもしない。仕方がないからこうして、もてなしている、丁重にな」
丁重にという言葉を青年は強調した。生きているだけ運が良かったと捉えるべきなのだろうが、青年からは敵意を感じられない。その言葉の通り、仕方がないからナギを捕えているだけだ。
「今はまだミソラに影響はなさそうだが、それもいつまでか分からない。早々に、お引き取り願いたいんだが、おぉい、聞いているのか」
ナギは青年の言葉を聞き流して目を細めた。この青年は、ナギの正体が鬼であるとは看破していないらしい。怪しんでいるが、それだけだ。ナギもまた青年の正体が分からずにいる。分が悪いのは拘束されているナギのほうか。
「駄目みたいだな。大人しくしておけよ、暴れられるわけもないだろうけれどな。お前を向こう側に戻す方法はどうにか考えてやる。だから大人しくしておけよ、いいか、ミソラには手を出すなよ」
青年は床を這うように部屋を出ていった。
部屋にひとり残されたナギは深く息を吐いた。縛り付けられているから体勢が崩れずに済んでいるのかもしれない。青年が去ってしばらくすると、気分の悪さもいくらか和らいできた。いつまでもこうしてはいられない。朝になれば志麻たちが再び屋敷にやって来るだろう。自分には見えない屋敷の外側がどうなっているのか。早く戻らなければ。
ナギは腕に力を込めて縄を引き千切ろうとしたが、その瞬間に部屋の扉が静かに開いた。ナギは力を抜いて扉を見遣った。身を屈めて部屋へ入って来たのは、ミソラだった。音をたてないようにと慎重にミソラは扉を閉めた。
「おはようございます」
ミソラは薄紅色の洋服を着ていた。手に持った包丁でナギを縛る縄を切っていく。
「急がないと、セイランが戻ってきてしまうわ。なんだかとても具合が悪そうだったけれど、それはあなたも同じみたい」
「彼の名前はセイランというのですか」
「あら、私ったらてっきり、ふたりはお友達だとばかり」
ミソラは目を瞬かせ、それから呆れたように言った。
「セイランったら、知らない人を巻き込んだのね。悪い子。あとでしっかり言い聞かせておかなくちゃ」
その様子はとても屋敷に監禁されているとは思えないほど朗らかで、ナギはしばらく呆気に取られていた。不器用に縄を断ち切ったミソラは大きく息を吐き出した。
「はい、終わりです」
ミソラはナギの腕を掴んで立たせると、ぐいぐいと引っ張ろうとする。
「さあ、どうぞ。玄関はあちらです。セイランが戻る前に、こっそりと抜け出してください」
急に立ち上がることとなったナギは眩暈に目を瞑った。ミソラに促されるまま、ふらつく足元で引っ張られていく。角を曲がる度に体が壁にぶつかる。ついに覚束ない足は階段を踏み外し、目を丸くするミソラを階段の上に残したまま、ナギは階段を滑り落ちた。確かに、誰かがナギの背を押したのだ。ひと息に下まで落ちると、仰向けになったまま動けずに、唸り声が滲み出た。
あまりの痛みが言葉にならない。ナギは回る視界の中にミソラの姿を探した。
「セイラン! セイラン!」
取り乱したミソラがセイランを呼びながら、今にも泣きだしそうな顔で階段を駆け下りてきた。
駆け寄るミソラの足音に紛れて、鳥の羽音が聞こえたような気がした。階段から落ちた衝撃で、ナギは昔のことを思い出していた。ずっと引っ掛かっていた、この感覚。知っている、会ったことがある。ナギは底に眠る古い記憶を掘り起こしていた。
いつのまにか傍らにセイランが屈んでいた。
「ざまぁみろ」
ナギにだけ聞こえる程度の声でセイランはそう吐き捨てた。だが顔を近づけたその一瞬をナギは逃さなかった。素早くセイランの胸倉を掴み、ナギもまたセイランにだけ聞こえる程度の声量で、セイランの正体を告げた。
途端にセイランの顔が青褪めた。
志麻は書庫の扉を開けた。三人が泊まっている宿の部屋よりも広い室内には、壁一面に書物が収められている。窓から差し込む朝日が部屋を柔らかに照らしていた。
書庫は屋敷の中でもとりわけ静かな空間であるように感じた。それは、この膨大な蔵書の本来の持ち主であるミソラの祖父が長らく家を留守にしているからだろう。どれほど掃除が行き届いていたとしても、愛着を持って接する者がいなくなれば、本は眠る。
志麻は両手に白手袋をはめて、棚に並んだ本の背表紙を指でなぞりながら歩いた。書物の種類は多種多様だが、やけに民俗学の本が目立つ。オニカエシの修行時代に読んだ本も多い。
「五津海、ちょっと来い」
志麻は別室を調べている五津海を呼び寄せた。五津海はすぐに来た。
「ミソラの祖父は民俗学の学者か?」
「それは単なる趣味らしい。病に倒れる前には街の子供たちに学問を教えていたそうだけど、収集した民話は子供たちを喜ばせるためのものだったみたいだ。それだけでこれほどの蔵書になるのか、僕も甚だ疑問ではあるけれどね」
五津海の声は書庫の中に冷たく響いた。
「その子供たちの中に、晴啓は?」
「宗一郎君は坊っちゃんのことを疑っているのかい?」
やけに楽しそうな笑みを浮かべ、五津海が尋ねた。志麻は手を止めた。
「お前も」
銃を背負い直し、志麻は五津海と向き合った。
「最初から怪しんでいただろう」
「白と黒なら、黒じゃないか。でも、探ってみたけれど、僕には答えが分からなかった。だから宗一郎君を呼んだ」
「この正体は知らずとも、原因に心当たりがあるはずだ。俺は千草屋に戻る」
「それなら僕は留守番をしているよ。紛れ込む鬼がいるかもしれないからね。榊を借りていても?」
「好きにしろ」
そう言うと志麻は書庫を出た。
「あ、宗一郎君、千草屋に行くならついでに」
五津海は志麻を追いかけて書庫から出た。しかし、廊下が静まり返っている。まだ屋敷から出ていないはずの志麻の足音が聞こえない。どこかにいる榊の気配もない。
「おやおや」
腰の軍刀にそっと手を掛けて、五津海は息を吸い込んだ。
廊下を歩けば、五津海の軍靴の足音だけがコツコツと響く。神経を研ぎ澄ませて周囲を探る。階段まで出たところで、五津海は軍刀から手を下ろした。
「ナギ君」
階下から上がって来るナギの姿があった。
「五津海さん」
声を掛けると、険しい顔をしていたナギはハッとした表情に変わり、駆け上がって来た。
「どうされたのですか」
「僕のことは気さくに宗貴と呼んでくれよ。ナギ君は元気そうだね、なによりだ」
五津海は階段の手摺に体を預けた。
「気が付いたらここにいた。宗一郎君と榊は来ていないみたいだ」
「そうですか、おふたりがまだあちら側に残っていることは、不幸中の幸いですね。なにしろ、どうにも戻り方が分からないそうなのです」
「そうなのです、ということは、当事者には会えたんだね」
「ええ、原因は分かりました。訳があって今は寝込んでいますけれど。こちらも色々、そう、色々とあったのです」
「ミソラさんも無事?」
「まあ、そうですね。心身ともに健康ですが、いつまでもこのままというわけにはいかないでしょう」
溜息に似た息をナギは吐いた。
「僕はまだ正体が分かっていないから、答えを明かさないでほしいんだけれど、手掛かりは欲しいな。原因は、僕も知っている妖異かい?」
五津海の問いに、はて、と考えてからナギは答えた。
「ご存知、かもしれませんが、会ったことはないかと思います」
「それは僕だけかな、それとも宗一郎君も?」
「志麻さんも、そうですね、書物で知識はあったとしても、実際に会ったことはないのではないでしょうか。私でさえ、あの種の妖異にはもう随分と久しく会っていませんでしたので」
「それは困ったな。まるで御伽草子に出てくる妖異じゃないか」
そう言った五津海は、ふと黙り込んだ。口元に手を当てて思案する。
「どうされました?」
「いや、ね。多くのことが繋がってしまったような気がして。けれども宗一郎君ならば大丈夫、きっとうまくやり遂げてくれるだろう」
「宗貴さんは、随分と志麻さんのことを信頼されているのですね」
「信頼しているというのとは、また別の感情だよ、これは。傾倒とか、心酔とか、そういうものに近いだろう。僕は宗一郎君に殺されたい。あの銃で、あの眼差しで、撃ち殺されたい」
「自覚があるのですね」
「ああ」
五津海は体の向きを変え、手摺に頬杖をついた。
「昔の話をしようか。同期でオニカエシになったのは、僕も含めて六人。そのうち二人は殉職した。そう話をしただろう?」
「ええ、殉職は本望だとも」
「そうさ、僕たちオニカエシにとって、何よりも優先されるのは、自分の命ではない、仲間の命でもない、実のところ、民間人の命でもない。あるべきところへ鬼を還す。それこそがオニカエシの存在理由であって、それだけが存在意義だ」
実際にさ、と五津海はどこか詰まらなさそうに続けた。
「鬼を殺すだけならば、オニカエシではなくとも務まる。あの胡散臭い陰陽寮の連中だって鬼を使役出来るし、鬼に勝利する人間だっているわけだ。けれど、鬼を還そうとするのは、僕たちオニカエシだけだ」
「それならば、鬼を還す者と鬼を殺す者、その違いはあるのですか」
「ああ、あるよ。僕はそう信じている、信じたいだけなのかもしれないけれどね」
五津海の声は吹き抜けによく響いた。
「僕たちの同期にさ、矢橋という男がいた。矢橋直紹。明朗な男でね、公正で、人望もあった。同期を統率していたし、上司や他部隊からも頼りにされていた。僕たちが矢橋の指揮に従うことを厭わなかったのは、あの男の誠実さに応えたかったからだろうな。あの時だってそう、一筋縄ではいかない高位の鬼を還すことになって、僕たち六人が派遣された」
「今はもう……」
「死んだよ」
ナギのことを見もせず、五津海は呟くように言った。
「宗一郎君が殺した」
一瞬、ナギの言葉が詰まった。五津海はようやく横目でナギを見遣った。
「そうは見えない、どうしてそんなことを、そんなことを考えているのかい」
「……ええ、そうですね。何かどうすることも出来ない理由があったのだと」
「勿論。宗一郎君は鬼を還したし、矢橋の誇りを守り抜いた。僕のことも。あの時、僕には度胸も覚悟もなかった。ただ見ていることしか出来なかった。情けない話だ。今でも自分に腹が立って仕方がない」
自虐的に笑うと、五津海は鞘に仕舞ったままの軍刀をナギに向けた。
「矢橋の采配は完璧だった。計画が崩れたのは、僕が刀を抜けなかったからだ。圧倒的な力を持つ鬼を前にして、刀を持つ手が震えた。こんな鬼など還せないと僕の心は逃げた。矢橋が庇ってくれなければ、僕の首はあそこで刎ね落とされていただろう」
五津海は空いた左手で自分の首を触った。
「……その鬼は、矢橋さんの体を奪ったのですね」
「矢橋の体に鬼が入り込む様を目の前で見ていたよ。体を内側から蝕まれる苦痛に矢橋が叫んでいた。その声が徐々に矢橋のものじゃなくなっていったのも。今でも鼓膜の奥に留まっている。矢橋の体だった、矢橋の顔をしていた、けれども、もう矢橋じゃなかった。刀を抜けと頭の中で叫んでいた、でも、出来なかった」
ナギに向けられた軍刀が震えていた。ナギは真っ直ぐに五津海を見詰めていた。
「宗一郎君は撃った。同期の誰もが動けない中で、ただ、宗一郎君だけが。一発、二発と、確実に急所に撃ち込んでいった。その横顔があまりにも悲痛で、あまりにも精悍だったから、思わず見惚れていた。そのあとは、矢橋の体から鬼を引き摺り出して、銃身と拳で殴り続けていたよ。後にも先にも、鬼の角を素手で折った人は、宗一郎君しか知らない。あれじゃもはやどちらが鬼なのか分からなかった」
「宗貴さん」
ナギは目を逸らさなかった。
「あなたが殺されたいと願うのは、救いを求めているからなのですね。あの日、刀を抜くことが出来ず志麻さんに止めを刺させたことへの許しを、矢橋さんに守られて生き延びた自分への罰を請うているのですね」
「そうかもしれない、ああ、きっとそうだ」
五津海は刀を下ろして腰に刺した。長い息を吐いて天井を見上げる。
「軽蔑してくれ、醜く浅ましいだろう?」
「いいえ、私も同じです。私も志麻さんに還されることを望む、身勝手で愚かな鬼です」
ナギの声は吹き抜けに反響し、やがて消えた。
千草屋の暖簾をくぐった志麻は、使いから帰ってきたばかりの少年を捕まえ、丸眼鏡の男性を呼び出させた。
すぐに丸眼鏡が店の奥から出てきて、店の応接間に志麻を通した。ふっくらとした座布団に座る。
「坊っちゃんは外回りでまだしばらく帰りませんよ」
「今日は晴啓に用事はない。本人に聞いたところで話が進むとは思えないんでな。見たところ、アンタはこの店の古株だろう」
丸眼鏡は笹野と名乗った。志麻の向かい側に座った。志麻の見立て通り、千草屋に入ってもう二十年近くになるという。
「率直な意見を聞かせてくれ。ミソラの件に関して、晴啓の関与を疑っているだろう」
「いいえ、疑ってなどはいませんよ」
笹野は眼鏡の奥から鋭い眼差しで志麻を見た。
「確信していますから」
「なるほど、それは話が早い」
志麻は胡坐をかいた。
「晴啓の話と、いくつか事実の確認をしておきたい。まずは、ミソラと晴啓は縁談があるまで知り合いではなかったというのは、事実だな」
「ええ、我々が知る限り、お嬢様に直接お会いしたのは縁談の日が初めてのはずです。話を聞いたことはあったとしても、お顔までは、我々でも知りませんでしたから」
「では次だ。ミソラの祖父は近所の子供を集めて講座を開いていたと聞くが、それに晴啓も参加していたのではないかと俺は考えている。その点に関して晴啓は何ひとつ言わなかったが」
「あなたの予想の通りです。この街は商いで成り立つ街です。子供の多くは家で商いのイロハを学びながら、教養は南条の翁のもとで教わったものです。今の時代、算盤だけでは生き残れません。他の土地のことを学ぶというのは、とても大切なことです」
「晴啓が何故そのことを隠しているのか、真相は本人だけが知っているとして、だ。俺ならば核心に迫ることは隠したいと思うだろうな、それが自分や、自分の大切な人にとって不都合なことならば。何か、思い当たる節は?」
志麻の言葉に笹野は考え込んだ。心当たりがないか、記憶を辿っているのだろう。
往来の賑わいが聞こえてくる。ミソラの祖父、南条の翁は、この街の発展にどれほど貢献しただろうか。
「質問を変えよう。幼少期、晴啓にとって大きな出来事はなかったか。今の晴啓という男の性格や考えを決定付けるような出来事が」
「……それなら」
考え込んでいた笹野は顔を上げて志麻を見た。
「千草屋にさえ生まれていなければ、今頃坊っちゃんは学者になっていたでしょう。商いよりも学問に興味があることを我々は皆、気が付いていました。けれども、他に誰が跡を継ぐのか、坊っちゃんも分かっていたはずです」
「確かにあれは商売には向いていないだろうな」
「ええ、商いのことを学んでいる時よりも、翁の元で学んでいる時のほうが、ずっと子供らしい顔をしていました。少ないながらも友人に恵まれていました。けれども家へ帰れば大人に囲まれ、口を開けば金の話ばかり。坊っちゃんもつらかったでしょう」
「その友人たちは?」
「皆さん、どこかの商家の子ですからね。この街に残っている子もいれば、帝都や大坂に修行に出ている子もいますが、それぞれ商いの道に進んでいますよ。ああ……そういえば」
大事なことを思い出したらしい。笹野の眉が動いた。
「あの子、ええと……。ひとり、とても仲の良い子がいたのですが、どこで何をしているのやら、いつのまにか行方知れずになった子がいたはずです。うんと仲の良い子だったのですが、報せもなくいなくなってしまったので、坊っちゃんはひどく落ち込んで。南条の翁の遠縁だと聞いたことはありますが、申し訳ない、名前までは」
「……ありがとう、とても参考になった。仕事の手を止めさせて悪かったな。あとは本人に確かめよう」
「志麻さん」
立ち上がった志麻を笹野が引き留めた。
「家のための縁談だと街の者達は言うでしょう。千草屋のために美空お嬢様が必要だなんて思ってはいません。坊っちゃんのために、お嬢様を助けていただきたいのです」
「……心得た」
笹野は深く頭を下げた。
千草屋を出た志麻は空を見上げた。今朝の赤い粉が薄雲に混ざっている。どこまで広がっているだろうか。志麻は街を歩いた。近代化の中に古くから紡がれてきた共同体としての在り方を感じさせる。
子供等が駆けてゆく。彼らもまた大人たちと同じように、商いと教養の両方を周囲に教えられて育ってゆくのだろう。
街の外れまで来た。風が吹いて雲が動いても、赤い粉は動かない。どうやらここが限界らしい。志麻は周囲を調べた。
道の脇で見放されている朽ちた小屋の跡に人知れず呪符が貼られていた。これはオニカエシが使う札だ。五津海のものだろう。
志麻は街の外周をぐるりと回るように、道なき道を進んだ。伸び始めたばかりの草は柔らかく、掻き分けて歩けば草の濃い香りが立ち込めた。夏を予感させる春の香りだった。
やはり、街を取り囲むように呪符が貼られている。志麻が訪れるまで、何の準備もしていなかったわけではない。五津海は分からないなりにもこうして呪符を貼り、結界を巡らせていたようだ。
これがあれば少しは鬼の襲来も抑えられるだろうが、範囲の広い結界はその分、薄くなる。現に、すでに鬼が街の中に入り込んでいる。五津海が昨夜逃がした鬼も、まだ街のどこかに潜んでいるだろう。
呪符を見て回った志麻は畑の畦道で足を止めた。雲雀が空高く飛び上がった。
いや、この結界は。
立ち止まった志麻の軍帽を強い風が吹き飛ばした。
この貼り方は侵入を拒むものではない。結界の内側から外へと逃げ出すことを許さない、捕縛のための貼り方だ。
飛ばされた帽子を拾い上げ、砂埃を払い落としてから目深に被り直す。志麻は五津海が巡らせた結界の意図を考えた。榊の言葉が頭の中に蘇る。
一網打尽にする戦況のほうが五津海さんに向いています。
そうだ、自分で言ったのだ。斬る範囲が決まっているほうが五津海にとって好都合だと。これは五津海の刀が届く範囲。ひとりたりとも逃しはしないという五津海の強い意志の表れだ。
自分に執着する五津海の、その心の奥底に静かに燃える炎が、志麻は恐ろしい。抱える闇がいつか五津海の身を滅ぼすのではないかと不安になる。あれより先に死ぬわけにはいかないと、心に固く誓う。そうでなければ、いつか必ず堕ちる。
これ以上、仲間を失うわけにはいかない。
志麻は深呼吸をして心を落ち着かせた。
晴啓を見つけて、知っていることを全て話してもらわなければ。最後の、核心に迫る一歩が踏み出せない。
屋敷に戻ると、玄関前の階段に座っていた榊が狼狽えた様子で出迎えた。
「五津海さんがぁ」
今にも泣きだしそうな顔で榊が志麻の胸に顔を埋める。志麻は頭を撫でて榊を宥めた。年相応のところがあるのは、志麻にとっては喜ばしいことだった。こうした榊の脆い部分が上層部は気に入らないらしい。榊を道具としか見ていない連中のことだ。何度も危険な目に遭わせておきながら、自分が言えた口ではないが、それでも榊には自分なりに愛情を注いでいるつもりだった。
「まずは状況報告だ、榊」
「志麻さんが出て行ったあと、すぐに五津海さんが消えました。鬼の気配はなかったです。争った形跡もありません」
「続けて」
「屋敷の中を探し回りましたが、五津海さんの気配はありません。このままでは榊も危ないのではないかと思い、外で待機していました」
「なるほど、状況報告ご苦労。偉いぞ、榊、耳を塞げ!」
榊を抱え上げると、志麻はそのまま後ろに飛び退いた。今まで二人が立っていた場所に空から何本もの刃物が降り落ちてきた。
志麻は片手で榊を支え、もう片方の手で背中の銃を引き抜き空へ向かって撃った。すかさず追撃する。
一匹の小鬼が落ちてきた。それには目もくれず志麻は続けざまに引き金を引いた。火薬の匂いが鼻を掠める。
もう一匹、張り出した屋根にぶつかりながら落ちた。
さらに志麻は銃を背中に回し、抱えた榊の腰から短刀を引き抜くと、飛び掛かってきた小鬼に向かって投げた。短刀は小鬼の腕に刺さり、空中で体勢を崩した瞬間、銃身がこめかみを強打する。芝生に落ちた小鬼は伸びて動かない。
志麻はようやく榊を地面に下ろした。
「耳は大事ないか?」
「はい」
悪くはないな、と銃の性能を評価しながら志麻は弾を込めた。その間に落ちた三匹の小鬼を榊が回収する。
「随分と死に急いだな」
どの鬼も、三匹集まったところでオニカエシの相手にもならない、下位の鬼だった。野山で行き倒れた旅人の屍や食べたり、夜半に家畜を襲ったり、田畑の作物を盗むような、普段は人間の前に姿を見せない鬼の種類だ。
小鬼とはいえ、鬼は鬼。そう容易く命を奪うことはしない。志麻の弾丸はすべて小鬼の急所を外して撃たれていた。
「駄目です、志麻さん。気絶しています」
榊が小鬼の頬を軽く叩いているが、全く反応がない。刺さったままの短刀を引き抜いたとき、小鬼は痛そうに呻いただけだった。やりすぎたか、と僅かに内省しながら志麻は再び銃を背負った。
「街の周りを見てきたが、五津海の用意していた結界が、街に入り込んだ鬼が外に逃げ出すことを阻んでいるようだ。こいつらは恐らく、近くの山にでも住処があるのだろうな。不幸なことに、五津海の結界に巻き込まれて自棄を起こしたのだろう。一世一代の大勝負といったところか」
「あーあ、可哀想に」
近所の人たちが何事かと門の前まで寄ってきていたが、銃を背負う志麻の姿を見つけると、関わらないほうが身のためだと判断したのか、野次馬はすごすごと立ち去った。
残ったのは、晴啓だけだった。
「ああ、丁度いいところに来た」
志麻は軍服の袖を折って捲り上げた。
「話がある。何のことか、分かっているだろうな?」
晴啓の顔は強張ったまま、志麻を見ていた。
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