第11話 蒼に啼く 二

 千草晴啓のもとに縁談が舞い込んだのは春のぬくもりを感じ始めた頃だった。唐突な話には訳があった。ミソラの祖父が倒れたのだ。病を患った祖父は孫娘の将来を案じ、自分が生きているうちに孫娘を託す者を決めようとしたのだった。

「美空さんは早くにご両親を亡くし、おじい様だけが親類だったそうです。美空さんの世話係だった者たちは皆、おじい様が選りすぐった者たちばかりだったと聞きます。彼女は、それはもう深窓の令嬢という言葉そのもののです。俺が彼女のことを知らなかったのも、屋敷で大切に育てられた箱入り娘だったからなのです」

 柔和な青年は、けれども自分を俺と呼ぶのだ、そのあたりの強い意志だろうか。志麻はなんとはなしにそう思った。

「その祖父は今どこに?」

「おじい様は京にある病院で療養なさっていらっしゃいます。それであの屋敷には美空さんと、彼女が幼い頃から世話を任されてきた数名だけが残されていました」

 本人たちの意志を確認する暇もなく縁談は纏められた。ふたりが会って言葉を交わしたのはたったの二度だという。

 婚約者のことを何も知らないのだと晴啓はそう言った。知る時間も与えられなかった。婚約が決まってからひと月も経たずに、ミソラの様子がおかしくなった。より正しく表すならば、ミソラはいつもと変わらず、けれどもその周囲に歪みが生じ始めた。

「美空さんは幼少の頃から見えない何かと話すことがあったそうです。世話係たちに聞きました。自室にひとりでいるはずなのに、他にも誰かがいるような感覚が、確かに気配があったのだそうです」

 晴啓の顔にかかる杉の影が風に揺れる。雀が芝生を跳ね、蝶が花々の間を舞う。穏やかな昼下がりだった。まるで問題など何もないかのような、平凡な午後だった。

「その気配が美空さんに害を加えるようなことはなかったそうです。けれども、ふた月ほど前から、時折、美空さんが消えるようになりました」

「消える?」

「あの出窓の向こう。そこに彼女は確かに佇んでいるのに、屋敷の中から彼女を見つけることは出来ないんです。しばらくすると、彼女は屋敷の中に戻っていて、どこにいたのか尋ねても、ずっと部屋に居たと答えるのだそうです。それが、週に一度、三日に一度と増え、そしてとうとう、彼女はあの出窓の向こう側から出てこなくなりました」

 出窓を見上げていた晴啓は視線を落とした。

「この木に登ってみても、美空さんは俺に気が付かない。石を投げ入れてみたこともあります。ですが、投げ入れたはずの石は美空さんのいない部屋に転がっていました。彼女、一体どこにいるのでしょうか。何が何やら、もう分からないのです」

 その声色には疲れがあった。同情する。それと同時に、呆れもする。さほど知りもしない女性を婚約者という理由だけで探しているのならば。お人好しなのか、使命感か、それとも単に逃れられないだけなのか。だが、そのどれもが、晴啓の本心ではないように思えた。梅雨前の空は青い。晴啓の声は晴天に吸い込まれてしまいそうなほど心許無かった。

「幼い頃にミソラが見ていたというものが、今回と同じものであるという可能性は?」

「分かりません。その存在を実際に目にした者は美空さんのほかにはいないので……」

「ひとまず、彼女に危害を加えようとはしていないということだけが、せめてもの救いだな。そうは言っても、いつまでもこのままの状態が続けば、やがて彼女にも悪い影響を与えかねない」

 志麻は髪を掻き上げて軍帽を被り直した。

「言うまでもなく、この屋敷は不自然な状態にある。不自然な存在というのは鬼だけでなく他の物の怪たちにとっても好物だ。俺たちが警戒しなければならないのは、屋敷の中ではなく、屋敷に誘われてやって来る他の怪異たちだろう。外の世界と切り離されている今のミソラは屋敷に守られているとも言えるが、その安全はいつか必ず崩れる。脆く危ういものだ」

 志麻の言葉に晴啓の視線は更に落ちる。分かっています、と呟くように答えた。

「分かっているのなら話は早い。それでは聞かせてもらおうか。晴啓。お前たちはどうしてミソラを取り戻すことが出来ないと諦めたんだ」

「諦めてなんか!」

 晴啓は勢いよく頭を上げたが、すぐに唇を噛んだ。

 オニカエシを頼ったのは、自分たちの力ではミソラを救い出せないと思い知ったからだ。もはや手の届かないところにいるのだと諦めなければ、オニカエシなど呼べるはずもない。

「何も、責め立てようとしているわけではない。だが、オニカエシを頼った理由を知りたい。俺たちオニカエシは、人非ざる者共と戦うためにある。お前が見てきたミソラの、そのどこに、オニカエシでなければならない理由があるのか、その理由こそ、俺たちが打ち破らなければならないものの正体だろう」

 志麻はそれ以上何も言わずに晴啓の答えを待った。芝を跳ねていた雀が飛び立った頃、ようやく晴啓は口を開いた。

「……彼女が、言ったんです」

 晴啓は両手で悔しさの滲む顔を覆った。苛立ったように髪をかき上げ、歯を食いしばる。

「美空さんが俺に言ったんです。巻き込みたくはないから、これ以上来ないでほしい、何かあった時、俺を無事に帰す方法が分からない、と。俺はそれでも構わなかったのに。一緒に閉じ込められたって、よかったのに」

 深い嘆きの息が漏れた。己の無力さを恨むような晴啓に志麻は顔色ひとつ変えずに言った。

「まるでミソラはこうなることが分かっていたような口ぶりだな。それならやはり、ミソラが幼い頃から見ていたものと、今回のものは同じだと考えるべきだろう。もしこれが違うものの所為ならば、彼女の反応も変わっていたはずだ」

 そう落ち込むな、と志麻は屈んで晴啓と目線を合わせた。

「まずは彼女の過去から知るところから始めよう。ひとりくらい、頼れる者は居るのだろう?」

「家の者達には暇を出したので、おじい様のところへ向かったはずですが……いえ、ひとり」

 晴啓の瞳にようやく一筋の光が宿った。それを見た志麻の口元が弧を描く。

「彼女の乳母が近くに住んでいると聞きました。彼女が十二になるまで世話をしていた人だと」

「乳母か、いいぞ、幼少期をよく知る人物だ。これで真相に一歩近付くだろう。今はとにかく情報が欲しい。たとえそれが些細なものであったとしても、だ。そうと決まれば早速、その乳母を訪ねよう」

 志麻は晴啓に手を差し出した。晴啓はその手を掴んで立ち上がった。


 結論から言ってしまえば、乳母に尋ねてみても、美空が見ていたものの正体は分からなかった。だが、些細な情報ならいくつか手に入った。

 街の反対側に住んでいる乳母の家からの帰り道、志麻たちは乳母から聞いた話を整理しながら歩いていた。夕暮れ時の往来は忙しなく、少し肌寒い夜風が吹き始めていた。灯りの少ない道を、角灯にナギの鬼火を灯して歩いていく。道行く人々は青白い炎を珍しげに横目で見ていたが、別段、何かを言うわけでもなかった。そういうものもあるのだといった風な印象だ。

「相手は子供の形を成すものらしい」

「それで正体が分かりますか?」

「断言は出来ないな、厄介な相手だということは分かったものの、全体像はまだ見えない。おおよそ、物の怪の類というのは、どんなものでも巨大な姿を映し出すことが出来る。実体が大きくなるわけではない。そういったよくある物の怪ならば、話は早い。だが、姿かたちを小さく変えることの出来るものは大抵、一筋縄ではいかない連中だ」

 乳母の話によれば、それは小柄な男の子の姿をしていたのだという。見た目の年齢は七つほど、その時の美空と同じ年頃だったと乳母は言った。

 ちょうどそんな年頃の少年たちが志麻たちの横を走り抜けていく。魚釣りに夢中だったのだろう。釣竿を片手に家路を急いでいる。

「千草屋まで送っていこう」

「ありがとうございます。ですが、その前に美空さんの屋敷の戸締りをしておかないと」

 聞けば晴啓は毎朝、あの屋敷の窓を開け、毎夜、窓を閉めて回っているのだという。誰に言われたわけでもないが、あの家の平常を保っておくのが自分の役目だと思っているらしい。律儀か、頑固か、あるいは、執着か。いずれにしても毎日のこととなれば、負担にもなってくるだろう。肉体的な苦しみではなく、精神的な痛みだ。このままの日々が続けば、やがて晴啓の心は鬼たちの付け入る闇となるだろう。

 美空の屋敷に戻ってくると、美空の部屋の窓だけが閉じていた。人のいない家はあまりにも静かだった。気温の低下とは別物の寒気がした。まだ玄関に入ってもいないが、明らかに、何かの気配が漏れている。その気配に志麻たちは身構えたが、晴啓だけは何も感じていないのか、動じることなく玄関扉に手を掛けた。

「坊っちゃん、止せ!」

 扉を開けた晴啓に無数の黒い手が伸びた。志麻たちが動くより先に、ナギが晴啓の首根っこを掴んで引き剥がした。そのまま片手で放り投げるように、ナギは志麻へと晴啓を渡した。志麻は晴啓を抱えて安全な場所まで後退する。獲物を失った黒い手たちはナギへと伸ばされ、がっしりと捕まえた。

「斬るな、五津海、斬るな!」

 軍刀に手を掛けた五津海を志麻が止める。五津海へと伸びてきた手を榊が蹴落とした。

「榊、先生を掴め!」

 ナギはこちらへと手を伸ばしたが、その腕もすぐに黒い手に捕まれ、引きずり込まれていく。榊は伸ばされた手を掴んだが、弾かれるようにその手を離した。

 ナギは真っ黒な闇の中に飲み込まれた。勢いよく扉が閉まる。榊がすぐに扉を開けたが、そこには静寂だけが広がっていた。

「ナギ君?」

 五津海は軍刀に手を掛けたまま屋敷の中へと入り、辺りを見回した。物音ひとつ聞こえない。気配もなくなっている。

「やられたね、宗一郎君」

 ようやく五津海は軍刀から手を離して腕を組んだ。

「だが、これで分かったことがある」

 志麻は晴啓を地面に座らせると、玄関扉の横に突っ立っている榊の手を取った。

「これはオニカエシの領分ではない」

 榊の手は赤黒く爛れていた。志麻は痛みを想像して顔を顰めたが、両手でそっと榊の手を包んだ。

「大丈夫だ、すぐに治る。明日には元通りだ」

 こくこくと榊は小さく頷いた。榊と晴啓を玄関先に残して志麻は屋敷に入り、五津海とともに家中の窓を閉めて回った。どの部屋も人はおらず、美空はもとより先生の姿もなかった。

「随分と、冷静だね、宗一郎君。ナギ君のことをそんなにも信頼しているのかい」

「この角灯が消えない限り、先生の心配は無用だ。少なくとも、お前よりはずっと信頼出来る」

「妬けるね、僕と宗一郎君の仲だというのに。宗貴と宗一郎、どちらも宗の字が入っているんだ。それだけで僕たちは特別な間柄だよ。女学生たちが頬を染める、運命とかいうやつさ」

「俺は偽名だ」

 それより、と志麻は五津海を横目で睨んだ。

「お前、とりあえず斬ろうとするその癖をどうにかしろ。何度言えば分かる」

「ついうっかり」

「斬るのは簡単だが、こちら側とあちら側を断ち切ってしまえば俺たちには元に戻せないだろう。ミソラを置き去りにする事態になりかねない。それはさすがに助けられないぞ。それにあれは確実に先生まで巻き込んでいた。先生を還すのは俺の役目だ。はやくその癖をどうにかしてくれ」

 五津海は何も言い返さなかった。すべての戸締りを確認して、ふたりは屋敷を出た。榊と晴啓は門の外で話をしていた。ナギの角灯がふたりを青白く照らす。

「ナギ君のことは坊っちゃんが気にすることじゃないよ、あれは僕たちの過失だ。坊っちゃんはまず自分のことを心配したほうがいい。あの黒い手たちは坊っちゃんを狙っていたのだから」

 五津海の言葉に晴啓の表情が曇る。

「そんな顔をしても、今はまだ僕たちに出来ることはほんの僅かだ。とにもかくにも前へと進みたいのなら、ミソラさんのことを何でもいいから思い出してくれないかな。後悔している場合じゃない。坊っちゃんだけが頼りなんだから」

 四人は千草屋へと夜道を急いだ。千草屋の前は夜も明るく、人の出入りが絶えない。晴啓の姿を目にすると、皆一様に頭を下げて会釈しただけだった。

「ひとまず、明日はまた屋敷を調べてみる。先程の名残も探してみなければならないしね。だが夜は、怪異の領域だ。何の準備もなく踏み込めない。坊っちゃんも、今日は色々とありがとう。早く休みなよ」

 店の中へ押し込むようにして晴啓と別れた後、志麻と榊は五津海が泊まっているという宿へと向かった。賑やかな歓楽街の中にその宿はあった。

「五津海さんはこんな場所によく寝泊まり出来ますね」

 榊は志麻の腰にしがみ付くようにして歩いている。客引きに怯えているようだ。その様子を見た五津海は怪しげに笑う。

「旅の醍醐味は酒と女と飯だからね、榊にもそのうち分かるだろう」

「お前は飯だけだろう。酒も女遊びも興味がないくせに」

「付け加えると、賭博にも興味はないよ。安心してくれ、宗一郎君。僕は真面目で一途な男だ」

「はやく相手を見つけて身を固めてくれ」

 着物を着崩して妖艶に微笑む女に触れられて、榊は小さな悲鳴を上げた。志麻は榊を抱き上げた。親子みたいだねぇと五津海は明るく笑った。

 五津海が二人の追加を頼んでも、宿の女将は快く引き受けた。はじめから一人で泊まるには広すぎる部屋だったのだ。もとより、五津海は長く泊っている客で、身元も軍人とはっきりしている。宿にとって良い客なのだ。

「軍人さん、御夕飯はどうしましょうか?」

「ああそうだね、三人分、よろしく頼む」

 志麻たちは五津海に案内されて二階の一室に入った。二間続きの和室は質素だが清潔に保たれている。五津海の荷物は奥の部屋にまとめて置かれていた。五津海は奥の障子を開けた。格子窓の向こう側に、歓楽街の賑わいが見える。

「地味だけど、いい宿だよ。食事も悪くない。榊、おいで」

 五津海と榊は窓の欄干にもたれて往来を見下ろす。

「鬼が紛れているのは分かるかい、榊」

「一応は……」

「あちらの赤い暖簾の店から、向こうの派手な店まで、数えてごらん。気付かれても困るからね、ごく自然に通りを眺めているだけのような素振りが好ましいかな」

 志麻は銃と角灯を机の上に置き、軍服の上着だけを脱いで畳に寝転んだ。

「宗一郎君。休むなら先に湯に行くかい? ああ、それとも後で僕と一緒に入るかい?」

 寝転んだ志麻はすぐに起き上がった。五津海とは目も合わせずに部屋を出た。

「行っちゃった、残念」

 五津海はつまらなさそうに口を尖らせた。

「めげないですね」

 榊が呆れて言った。

「そうだよ、僕は諦めが悪い男だ。宗一郎君が死んだとしても、追いかけ続けるだろうね。たとえば宗一郎君が鬼に喰われたら、僕はその鬼を斬り刻んで、欠片ひとつ残さずその身を喰らうだろう」

「それは……怖いです」

「僕は存外、執着するタチらしい。鬼の勘定は終わったかい」

 五津海と榊は通りへと視線を戻した。

「三体、ですか。あの紺色の着流しの男性に、若草色の着物の女性、それから灰色の羽織の老人」

「成長したね、榊。でもまだだ。あの店先を掃いている男も鬼だ」

「……分かりません」

「こら、あまりじっと見るのはよせ、気付かれる」

 五津海は榊を諫めると、机の上に置かれた手帳を広げた。

「昼間は分からずとも夜になるとこうして分かるようになる。鬼は着実に増えている。まったく、日中はどこに隠れているのか。今のところ被害は確認されていないが、このまま増え続けられるのも厄介だ。ナギ君のように化けるのが得意ならばまだしも、通りにいる連中は鬼の気配を隠しもしない。そういう鬼は面倒だ」

 ナギの鬼火が五津海の手帳を照らす。五津海は手帳に今日の調査を書き留めていく。榊は窓枠に腰掛け、背中を欄干に預けた。

「これでも僕は仕事熱心だからね、日々の記録は怠らないんだよ。あとで宗一郎君に出来るだけ誇張して伝えておくれ、僕は仕事も真面目に取り組む男だと」

「お断りします。虚偽報告はいけません」

 でも、と榊は付け加えた。

「志麻さんへの執着心を除けば、五津海さんのことは尊敬していますよ。きっとそれは、志麻さんも同じです。五津海さんのことを信じていなければ、こうして何度も駆けつけたりしませんよ」

 榊の言葉に、五津海は筆を止めて誇らしげに笑った。

「そうだろう? これでいて僕は優秀だからね、斬れる鬼に対しては。滅しても構わないのなら、僕の右に出る者はいないさ。けれども、榊、間違っているよ」

「間違っている?」

「僕が呼びつけるたびに宗一郎君が来るのは、僕のことを信じているからなんて、そんな理由じゃないのさ。弱みを握られて逆らえないだけのことだ。宗一郎君が僕の執着心に応える必要なんてない」

 淡々とそう言いながら、五津海は角灯を持ち上げ、澄んだその炎を愛しげに眺める。

「宗一郎君が大切にしているものを僕も大切にしたいと思う。宗一郎君が愛するものは、僕にとっても愛すべきものだ。オニカエシとしての矜持も、果たすべき約束も、平穏も、仲間も。勿論、榊、君のことだって大切だし、ナギ君のことも大切だろう。宗一郎君が守りたいと思っているものは、ひとつ残らず僕が守ってあげたいとも思う」

 五津海は角灯を元の位置に戻し、今度は銃を手に取った。

「銃に縋る脆い肉体も、漂い続ける魂も、永遠に満たされることのない心も、すべてが愛しくて仕方がないよ。榊にはまだ分からないだろうけれど、いつか分かる日が来るだろう」

「そんな日が来るのでしょうか?」

「ああきっと、必ず。僕が言うのだから間違いはない。榊も心の底から、こう思うはずだ。この男に殺されたいってね。まあ、榊が死ねるのかどうか怪しいところではあるが。けれど、榊だって察してはいるだろう、志麻宗一郎という男の、存在の奇異さ。有り得たかもしれない、だが決して有り得ることのない、あの命に」

「志麻さんの悪口は止してください」

 はは、と五津海は一蹴した。

「これは悪口ではないよ。僕の愛情の根拠だ」

「五津海さんは、変な人です」

「ああ、僕の愛はどうやら狂っているらしい」

 銃を置くと、ゆっくりと手帳を閉じ、五津海は自分の軍刀を手に取った。榊は雨戸を閉めた。

「さてと、夕飯前に軽く運動でもしておくとしよう」

 五津海はゆったりとした動作で立ち上がり、二部屋を仕切る襖の前に立った。閉じられた襖の向こうから、明確な殺意が滲み出ている。その殺意を物ともせず、五津海は欠伸をひとつ、それから首を回した。榊は五津海の荷物の陰へと身を隠した。

「宗一郎君を先に湯へ行かせて正解だったね。こんなところ、とても見せられないよ」

 五津海が乾いた声で笑った次の瞬間、その顔を目掛け襖を勢いよく突き抜けた鬼の手が飛び出した。しかし、五津海はその手をひらりと躱し、間髪入れずに鞘に納まったままの軍刀を振り下ろして鬼の手を叩き落とした。襖ごと鬼が倒れ込んでくる。

「あーあ、襖が台無しだ」

 倒れた鬼の顔を蹴り上げ、宙に浮いたその顔を鞘で強襲する。起き上がることの出来ない鬼の奥にはまだ二体の鬼がいた。まさか反撃されると想像もしていなかった二体の鬼は五津海に一瞬後れを取った。倒れた鬼を踏みつけて五津海は飛び上がり、片方の鬼の顎に膝蹴りを入れた。的確に入れられたその一撃に鬼は尻餅を着くように倒れかけたが、その右足を五津海は掴み、もう一体の鬼へと叩き付けた。

「殺意はいい、実に心地がいいものだよ。生きていると実感出来るだろう」

 折り重なって倒れた鬼たちを五津海は追撃する。どの流派のものとも知れない体術で鬼たちの急所や関節に拳を叩きこむ。時には脚で、時には鞘に入ったままの刀で、鬼たちの心を折っていく。

「こちらを殺す気で来たのなら、当然、殺される覚悟だってあるんだろう、なぁ」

 もはや抵抗する力もない鬼たちは息も絶え絶えに逃げようと手を伸ばしたが、五津海は逃走を許さない。釘を打つように、刀の柄を鬼の手に振り下ろした。

「おいおい、逃げ出すなんて無様にも程がある。情けないなぁ、情けない。少しは一矢報いてごらんよ、それでも鬼か? たった三体でどうにかなると高を括ったなんて、随分と余裕だな。いや、それでこそ高慢な鬼というものか」

 襖の下敷きになった鬼が顔面を血塗れにしながら、何とか言葉を紡ごうと咳き込む。

「綺麗な若草色の着物も、臆病者の血で台無しだ。大人しく客の男を貪っておけばよかったものを。そこらの男では物足りなかったか?」

 五津海の言葉の通り、その鬼は若草色の着物を着ていた。それは通りにいた女だった。倒れるあと二体の鬼も、榊が答えた鬼たちだった。

「あともう一体はどうした? まあ、雑魚が増えたところで、雑魚は雑魚だがなぁ」

 ヒヒヒと五津海は壊れたように笑った。

「さあ、首か角か腕か、どこから切り落とされたい? 死に方くらい選ばせてあげよう。僕は優しいからね。さあ、選べよ」

 五津海は胸の前に両手を突き出して刀身を抜いた。ゆっくりと刀身が姿を現す。それはただただ黒い刀だった。光を反射せず、まるで刀身の形をした闇が浮かんでいるようだ。底知れぬ闇だ。

「残念、夕飯の時間だ」

 一瞬の光を閃光と言うのならば、この太刀筋は閃闇とでも呼ぶべきか。五津海がただ刀を胸の高さから足元へと振り下ろしただけで、三体の鬼の首が落ちた。ボトリと畳に落ちた首たちはどれも恐怖に顔を引きつらせていたが、それも束の間で、鬼の首は身体もろとも、その切り口から色が漆黒へと変化し、やがて完全な黒に染まった。

 五津海は刀を鞘に納めた。カチンという音とともに、鬼の体は跡形もなく消え去った。残ったのは見るも無残な姿となった襖だけだった。五津海は襖を壁に立てかけた。つかつかと窓へと歩み寄り、雨戸を開け放った。通りを見下ろす。店先を掃いていた男の姿はない。五津海は舌打ちした。

「雑魚が一匹、戦いもせずに逃げたか。もう出ておいで、榊」

 五津海は荷物に紛れて小さくなっている榊に声を掛けた。榊は恐る恐る辺りを見渡した。

「刀を握ると性格が変わるの、どうにかなりませんか」

「それも僕の魅力だろう。ほら、宗一郎君が戻るまでに、部屋を片付けよう。その机は中央に持ってきてくれ。僕は少々、女将に謝ってくる」

 そう言うと、五津海は部屋を出て行った。榊は机を移動させ、乱雑に散らばった座布団や部屋の装飾品を元に戻す。

 榊は掌を見た。明日には治るだろうと志麻は言ったが、すでに傷は塞がっている。志麻の見立てよりも治りが早いことは、榊には嬉しく感じられた。あとで志麻に褒めてもらおう。榊は部屋の掃除に精を出した。

 先に帰ってきたのは志麻のほうだった。掃除を終えた榊が窓際で外を眺めながら呆けていると、志麻が戻ってきた。湯上りの志麻は浴衣を身に纏い、黒い髪はまだ濡れている。丸めて片手で抱えていた軍服を丁寧に畳んで部屋の隅に寄せた。

「五津海は広間で何をしているんだ」

 壁に立てかけられた襖を怪訝な顔で見ながら志麻が尋ねる。

「女将さんのところへ行くと言っていましたけれど」

「この襖、どうした。派手に破れているが」

「五津海さんのせいです。夕飯が来ないので、元気が出ません。あ、でも、見てください。掌はもう塞がりましたよ」

 榊は嬉しそうに両手を志麻に見せた。志麻はその手を取って確認する。

「痛くはないか?」

「んー、少しかゆいです」

「上々だ。明日も痒みが続くのなら、軟膏を買い求めよう。先生に頼むのが早いんだが、致し方ない」

 手拭いで髪を拭きながら、志麻は榊の隣に座った。夜風が湯上りの体を冷やす。

「鬼が来たか」

「はい。夜になると鬼たちが出てくるそうです。その数は夜ごとに増えているらしく、襲ってきたのは三体です。すべて五津海さんが斬りました」

「それで、この襖か」

「ただ、前の通りにいたもう一体の鬼は、襲い掛かって来ることなく姿を隠しました」

「それはいくらか厄介だが、いずれにしてもこのままいけば、あの屋敷に引き寄せられて鬼たちが集まるだろう。理性をすぐに失う程度の低い鬼だが、集まればそれなりの脅威にはなる」

 むしろ、と志麻は続けた。

「纏まっているほうが、五津海も相手がしやすいだろう。こちらも巻き込まれずに済む。斬る範囲が決まっていれば、余計なものを斬ることも少ないだろう。斬り捨てるのは本望ではないが、先生やミソラが戻れなくなる事態だけは避けなければならないからな」

「確かに、そうですね、一網打尽にする戦況のほうが五津海さんに向いています」

「その五津海は何をしているんだ。俺たちの夕飯はどうなる」

「志麻さん」

 榊は真っ直ぐな瞳で志麻を見詰めた。

「志麻さんは、仕方なく五津海さんを助けるわけじゃありませんよね」

 榊の言葉が僅かに志麻を動揺させた。

「脅されているから、怖いから、他にどうしようもないから、五津海さんに呼ばれるたびに、わざわざ赴いているわけなんかじゃありませんよね」

「……お前には、俺がそう見えていたのか」

「違います。五津海さんが言ったんです。志麻さんは弱みを握られていて逆らえないから、五津海さんの呼び出しに応じるんだって。でも、あれは、違う」

「何が違うんだ?」

 言葉を探して榊の目が泳いだ。しかし、すぐにまた志麻をしっかりと見た。

「五津海さんは自分自身に言っているんです。無理矢理に呼びつけているだけだって、自分に言い聞かせているだけです。距離を測っているのは五津海さんのほうです」

 驚いた表情をした志麻は、ははっと情けない声で笑った。

「それを本人には言ってやるなよ」

「言いませんよ、あの人に口で勝てるわけがありません」

「仕方がないから、五津海を呼びに行くとしよう」

 志麻に促されて榊は一緒に五津海を呼びに行くことになった。酒も飲んでいないのに広間で酔っ払いたちと踊る五津海を連れ戻し、ようやく志麻たちは夕飯にありついた。五津海は終始、上機嫌だった。それはまるで、鬼を斬った冷酷さの反動にも思えた。

「屋敷を調べると言ったものの、明日はどうするべきかな」

 宿の料理は別段手の込んだものではなかったが、安心出来る味だった。

「どこかに歪がないか確認するのが先決だろう。先生を引き摺り込むほどの力が動いたんだ。鬼という異物を飲み込んだ以上、どれほど小さくとも変化があるはずだ。こちら側から見ている屋敷との僅かな誤差が生まれているだろう」

「つまり、だ。ナギ君が連れ去られたことは痛手ではあるものの、好機でもあるということだね。分かるよ、僕ならばすぐにでも斬ってしまうだろうから」

 五津海は根菜の煮付けが入った小鉢を榊の膳へと移した。

「それから、鬼が街に蔓延るのを防ぐ術を考えるべきだろう」

「ああ、僕もそれは考えていた。敢えて屋敷へと集めようかと、ね。街のあちらこちらに隠れられるよりも、正々堂々と大人数でやって来てくれたほうが僕も楽だ」

「斬り捨てる前提で話すのもどうかとは思うが」

 志麻は空になった榊の茶碗と、まだ白米の残る自分の茶碗を取り換えた。

「放っておいても、あの屋敷へは鬼が集いそうだけどね。そのあたりは歪んでいる場所を調べてから策を練るのが正解かな。ナギ君のことは?」

「どうしようもないだろう。鬼火を見れば無事は分かるが、それ以上のことは現状、難しい。だがあの優男でも、通りを行き交う雑多な鬼よりも格が上だ。自力で打破することを願いたい。なにより、殺すつもりならあの時、始末出来たはずだ。それを生かしたまま連れて行ったのだから、拒絶の意志は強くとも、危害を加えるつもりではないらしい」

「信じたいところだね」

 そう言うと五津海は漬物の小皿も榊の前に置いた。


 仕切りの襖がなくなったことで、布団を川の字に並んで敷けるようになった。不本意ではあるものの、宿の者達が折角敷いてくれたのだ、無下にするわけにもいかない。襖を破った罪悪感もあった。並びが決まるのは早かった。

「入り口に一番近いところが榊だね、宗一郎君よりもずっと頑丈だ」

「窓に近いところが五津海さんですよ、銃の志麻さんよりもすぐに応戦できます」

 夕飯の後、連れ立って湯に浸かった二人が志麻を挟むように陣取ったので、志麻は仕方なく真ん中の布団で眠ることになった。二人の言うことはもっともで反論することも出来ない。ナギの鬼火は部屋の隅に移された。他の灯りを消しても、青白い光は灯り続ける。眩しすぎず、暗すぎもしない。部屋を見守るように燃えていた。志麻と榊は布団に入った。

 二人は襲撃を気にしていたが、その心配はないだろうと志麻は思う。鬼たちの牽制は十分だ。逃げた鬼が仲間を連れて報復に来るならば、明日以降のはずだ。五津海の刀を前にして、すぐに襲撃するとは考えにくい。あの刀にはそれだけの抑止力がある。

 だが、焦りがないと言えば、それは嘘になる。ナギを取り込んだことで、ミソラの屋敷に現れる変化が、双方にとって危険なものかもしれない。取り返しのつかない結末が頭をよぎる。だが、策もなしに動けるほど簡単な相手ではない。じれったいが、今は朝を待つしかない。

 すぐに左から寝息が聞こえてくる。

「相変わらず、寝付きが早くて羨ましいな」

 横になりもせず、五津海が溜息混じりにそう言った。五津海の目は冴えているらしい。志麻はずり落ちた榊の布団を掛け直した。しばらくは起きない。

「お前も相変わらずだな」

 五津海は窓の縁に腰掛けた。

「宗一郎君。榊との旅にはもう慣れたかい?」

 夜空を背に、五津海は尋ねた。志麻は寝返りを打って五津海の方を向いた。

「もう何年になるんだったかな、五年ほど?」

 志麻は五津海の問いには答えず、じっと五津海を見ていた。

「榊はいい子だし、強くて宗一郎君の護衛を務めてくれるし、僕は榊のこと好きだから、いなくなってしまえなんて思わないけれど、それでも」

 その言葉の続きは、言われずとも分かる。志麻は上体だけを起こした。

「宗一郎君は本当に、榊のことを還せるのか?」

「迷いはない」

 志麻ははっきりとそう言い切った。いつか榊を還すことに迷いはない。それは本当だ。だが、還す意志と、還せる技量とは別物だった。

「正直に言ってね、僕は疑っているんだ。宗一郎君に与えられた時間で、榊のことを還せるのかどうか。榊を連れて旅に出てから、その背丈はどれほど伸びた?」

 五津海の声は、普段の様子とは全く異なる冷たい響きを含んでいた。志麻は起こしたばかりの上体を倒し、鼻先まで布団に潜った。

「寒い」

 志麻のくぐもった声に、五津海は窓を閉めた。

「お前の心配はもっともだが、だからと言って、俺がやるべきことは何ひとつ変わらない。俺のまま、一体どこまで辿り着けるのか今はまだ皆目見当も付かないが、その時が来たら俺はきっとオニカエシとしての使命を果たしたと思えるのだろう」

「還せなくとも?」

「ああ、還せなかったその時は、誰かに託す他ない。だが、俺は俺自身で榊を還すためにオニカエシとしての人生すべてを賭すつもりだ。結果がどうなったとしても、無責任に放棄するつもりなどない。試すような言い方はやめろ」

 志麻がそうきっぱり言い放つと、五津海は静かに目を閉じた。

「僕が見張っているから、宗一郎君はゆっくり休んでよ。朝日が昇る前に起きて、屋敷へ向かおう」

 五津海はそう言うと膝を抱えた。これ以上は何も言わないし、話を振っても答えない。志麻は寝返りを打った。それが孤独の合図であることを志麻は知っている。そっとしておいてほしい時には決まって膝を抱えるのが五津海の癖だ。

 ナギの鬼火が微かに揺らぐ。志麻は瞼を閉じた。

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