第10話 蒼に啼く 一
「志麻 宗一郎様
困っている。
僕は酷く困っている。
これを受け取ったらどうか僕を助けに来てほしい。
どうやら屋敷に閉じ込められてしまったらしい。
地図の場所に居る。
そういうわけだから、僕を助けてくれ。
待っているよ。
五津海 宗貴
追伸
くれぐれも龍澤さんには内密に頼む」
五津海というのは、と言って志麻は話し始めた。
「したたか、と言えば聞こえはいいものの、自覚も悪意もなく他人を巻き込むことに関して、あれの右に出る者はいないだろう」
志麻と榊、そしてナギの三人は大通りを歩いていた。この街は古くから商いで栄えてきたが、近頃では異国との貿易を通じて、より一層の賑わいをみせている。ここではナギの洋装も目立たない。大通りには古くからの町屋と異国の建築が混在しているが、道を一本入ればそこには伝統的な建物が今でも軒を連ねている、継ぎ接ぎのような街並みだった。
「俺も、毎度のことなのだから五津海の文など無視を決め込むべきかもしれないが、同期の縁を無下にも出来ないからな。それに、大きくなる前に被害は防がなければならない。五津海の安否はともかく、だ」
石畳を三人は歩く。この街は潤っている。人々の暮らしは安定しているのだろう。道行く人々は和装の者も洋装の者も、皆一様に高価な装いに身を包んでいる。金回りが良く、経済が動いている証拠だ。街路樹は新緑が芽吹き、陽光を反射して鮮やかに光り輝いている。
こんな街のどこにオニカエシを悩ませるほどの怪異が存在しているのだろうか。
「五津海によれば、この辺りのはずだが」
志麻は懐から文を取り出して地図を確認した。大雑把に描かれたこの地図を信用するならば、もうそろそろ目的地に着いてもよさそうなものだ。志麻が広げた地図をナギが横から覗き込んだ。
「志麻さんにも、名前があったのですね。これは、シュウですか、それともソウですか」
宗一郎と書かれた文字のことをナギは言っているのだろう。志麻はちらりとナギを見た。
「これで、ソウイチロウと読む。当然のことながら偽名だ」
「オニカエシは皆さん、仮初の名前なのですか?」
「そうだな、本名を名乗る者のほうが少ない。戸籍も偽りだ。自分だけではなく、家族や隣人まで危険にさらしかねないからな」
ソウイチロウ、とナギは小さく繰り返した。
「本名といえば、五津海だな、あれでいて本名だ」
「おや、あまりにも珍しいので、てっきり偽名なのだとばかり思っていましたが。それはそうと」
ナギは通りの向こう側を指差した。煉瓦造りの洋館の隣に、古い長屋が建つ。その隣は木造の洋館だ。ちぐはぐな街並みだが、これがこの街の特徴なのだ。
「呼ばれていませんか、ソウイチロウさん」
志麻はナギが指示した方向を見た。三軒続きの長屋のうち、一軒が定食屋のようだ。その暖簾から若い男が顔を出していた。ナギ程ではないが、よく整った顔をしている。しいて言えば、ナギのような上品さではなく、華やかさのある顔だ。社交界で映えるだろうその顔には嫌というほど見覚えがあった。右手には茶碗を、左手に箸を持った、軍服を身に纏う左利きの男こそが、五津海宗貴であった。
「あ、五津海さんですよ」
おーい、と榊が手を振った。
「あの野郎……」
志麻は怒りを抑えながら五津海を睨んだ。
「どうやら、元気そうですね」
ナギは驚いたような、呆れたような、なんとも複雑な声でそう言った。
三人は通りを渡り、店に入った。昼時の定食屋は混み合っており、五津海は一番入り口に近い席に座っていた。呑気に昼食を取っている五津海は爽やかな笑顔で三人を出迎えた。
「五津海」
「宗一郎君なら必ず来てくれると僕は信じていたよ。困っていると文を書けば、君は欠かさず何度でも僕を助けに来てくれる。やはりこれも運命の成せる業だろうね。ふふふ、顔が怖いよ、宗一郎君」
五津海がそう言うと、志麻はその手から箸と茶碗を取り上げて机の上に置いた。そのまま五津海の首根っこを掴むと、ズルズルと店の外へと引き摺って行った。ゴツンと鈍い音が聴こえたかと思うと、冷めた表情の志麻と、頬を腫らした五津海が戻って来た。
「酷いと思わないかい、榊」
赤く腫れた頬を押さえながら五津海が榊に尋ねた。榊は視線を逸らして答える。
「問答無用で殴る志麻さんも悪いですけれど、五津海さんも悪いと思いますよ。五津海さんの一大事だと、それなりに心配していましたし、なにより志麻さんは引いた風邪も治らないうちに発ちましたからね」
「そういうことは逐一報告してくれと言ってあるだろう、榊。宗一郎君の異変は事細かに手紙を送ってくれと。それで何だって、宗一郎君が風邪を?」
「榊、要らないことは言わなくていい。嵐の中を走り回っただけだ」
「そうと分かっていたら、この依頼など一時休戦して、宗一郎君の看病に駆け付けたものを。惜しいことをしたなぁ。弱っている宗一郎君を献身的に介抱したかったのに」
五津海は半分ほど残っていた魚の干物を一飲みにし、味噌汁で麦飯を流し込んだ。空になった膳の隣に代金を置いて立ち上がった。机の上に置いてあった軍帽を被る。
「さて、と。それでは宗一郎君にも見てもらおうかな。本当にね、困っている。宗一郎君の手助けを求めているのは本当だ」
五津海の隣に志麻が並び、その後ろに榊とナギが続いた。五津海は軽快な足取りで石畳を歩いて行く。志麻のほうが体格は良いが、五津海も軍人である。捲った袖から覗く腕にはしなやかな筋肉が付いている。五津海は体半分だけ捻り、ナギを見返った。
「それにしても宗一郎君。これまた見目麗しい同行者だね。僕が幾度も君と組むことを提案しても突き返してきたというのに。龍澤さんも駄目だと言うし。君はこういう顔が好みなのかい?」
「お前の所為で生まれたあらぬ誤解の数々、俺は死んでも忘れないからな」
「死して尚この僕のことを想ってくれるなんて至極光栄だなぁ。ああそうだ、僕の名前は五津海宗貴だ、よろしく。宗一郎君とは同期でね。宗一郎君は、いい奴だろう? 口では色々と文句を言っておきながら、結局のところ、いつだって困っている人を放ってはおけないんだ」
ナギのことを振り返りながら五津海が笑う。ナギの顔には困惑が滲んでいる。
「私はナギと申します」
「僕のことは遠慮なく宗貴と呼んでくれ。五津海よりも余程親しみがあるだろう? 僕は君のことをナギ君と呼んでもいいかな」
「ええ、ご自由に」
「ナギ君のことは後ほど尋ねるとして、今は先に、僕が抱えている案件について説明するべきか。屋敷があるのは事実だし、閉じ込められているのも事実だ。そこに閉じ込められているのが僕ではないというだけのことだよ。あと宗一郎君を困らせたいというのも本当のことだ」
ケラケラと高らかに笑いながら、五津海は角を曲がった。大通りは賑わっていたが、道を一本入ると閑静な住宅地が広がっていた。この辺りもやはり和洋折衷といった街並みだが、大通りよりは幾分か落ち着いている。
五津海は一軒の洋館の前で立ち止まった。志麻は洋館を見上げた。三階建ての煉瓦造りの家だ。裕福な家庭なのだろう。立派な建物だ。屋根を超える高さの大きな木が家の裏手に見えていた。杉の木のようだが、ここからでは分からない。橙色が混ざった色の煉瓦に、深い緑色の蔦が這っている。白い木枠の窓の殆どは開け放たれているが、中の様子は伺えない。
「ここが、件の屋敷だ」
「鬼の気配はないが」
志麻はそう言った。屋敷どころか、周囲のどこにも鬼の気配がない。五津海は肩をすくめた。
「そう、鬼ではないのさ。だから僕にはお手上げ。色々と調べてはみたのだけれど、まだ相手の正体すら掴めていないんだ。分かっているのは、鬼ではない何かのせいで屋敷に閉じ込められているということくらいだね」
「だから誰が閉じ込められているんだ」
志麻の問いに、五津海は手招きをして一行を裏庭へと案内した。背の低い草と色とりどりの花が植えられた裏には、表から見えていた木が植わっていた。杉の巨木だ。樹齢は何十年というものではないだろう。
「あの窓をご覧よ、三階の右から四番目の出窓だ」
五津海に言われて志麻は窓を見上げた。丁度、木の正面にある窓だ。そこに人影が見えた。
若い女性が窓際に座っている。恐らくは張り出した部分に座っているのだろう。華奢な女性だ。束髪にした黒髪が肌の白さを際立たせている。目も鼻も口も小さく、愛らしさを感じさせる。年のころは二十歳になっているかどうかといった辺りだろう。明けの空に似た、僅かな赤を含んだ薄青の着物が印象的だった。そんな女性が開けた窓の外を眺めながらコロコロと笑っている。
「彼女は、ミソラさんという。この家の一人娘だ。あらかじめ告げておくけれど、彼女は実在している。彼女のことをよく覚えておいてほしい。それでは入ろうか」
そう言うと五津海は家の表へと回った。硝子がはめられた扉を開き、一行は屋敷の中に足を踏み入れた。
瞬間、妙な浮遊感があった。志麻はその場で立ち止まる。足元の床は別段異常は見られない。数歩先で五津海が含みのある笑みを浮かべて志麻を見ていた。左右には扉、前には二階へと続く大きな階段がある。調度品も建具もすべてが重厚で、先程見たミソラの印象とはまるで違う。ミソラを護る砦のようだ。
「家の者は避難させたのか?」
「まあ、まずは三階をご覧よ」
大階段を進む。吹き抜けになった玄関に靴音が反響した。やけに静かだ。
三階へ上がる階段はちょうど玄関の右斜め上の位置にあった。吹き抜けから階下を覗けば、玄関扉の硝子を通した光が虹色になって床を照らしていた。五津海に従って三階へと上がる。
ミソラの部屋は、すぐにそれと分かった。部屋の扉に木製の花輪が掛けられていた。花々は空色に塗られていた。五津海は取手に手を掛けた。
「待て、五津海。女性の部屋だ、勝手に入るのは不躾だろう」
「心配は無用だよ、宗一郎君。僕はもう何度も試しているから」
志麻が止めるのも聞かずに五津海は扉を勢いよく開けた。僅かばかりの風が吹いた。
部屋は無人だった。開け放たれた正面の出窓から杉の木が見える。よく晴れた日だ。壁紙は優しい色合いの花柄で、机や洋服箪笥といった家具は白色だ。少女のために造られた部屋だということは間違いない。
「宗一郎君、これで状況が説明出来ていればいいのだけれど、分かってもらえただろうか」
志麻は躊躇しながら部屋に足を踏み入れた。ミソラの姿はない。ここにいただろうという気配もない。志麻は出窓から身を乗り出した。下には先程この部屋を見上げた庭が見える。
「僕がここに残るから、宗一郎君はもう一度、庭からこの部屋を見るかい?」
「……いや、おおよそのことは理解した。閉じ込められているのがミソラだとは分かったが、果たして彼女はどこにいる」
「仮説はある。僕なりに考えてみた。この屋敷は今、外から見た屋敷の内側と、実際に入ってみた内側が食い違っているだろう。ひとつは、どちらかが幻だという可能性だ。僕たちが観ているのはミソラさんがここにいるという幻覚、あるいはミソラさんがここにはいないという幻覚だ。つまり、無いはずのものを認識しているのか、あるはずのものを認識出来ていないのかということだよ」
出窓の縁に座り、志麻は五津海を見た。
「そしてもうひとつ、仮説がある。幻ではないという可能性だ。ミソラさんはこの部屋にいるし、僕たちもこの部屋にいる。けれども、それぞれの部屋が、全く別の空間にあるという場合の話だ」
「別の空間?」
榊が首を傾げた。
「そうとも。僕たちは知らずのうちに、ミソラさんがいる屋敷とは別の屋敷にいるのかもしれない。確かにどちらも間違いなくこの屋敷なのだけれど、ミソラさんがいる場所だけが、切り離されているのさ」
榊はさらに首を傾げた。
「そんな顔をしないでおくれ。僕もうまくは説明できない。なにせ、とても感覚的な話だからさ」
「どちらにせよ、俺たちは何者かに騙されていて、ミソラは閉じ込められているということだ」
なるほどなるほど、と榊は頷いた。その隣で今度はナギが首を傾げている。
「どうした、先生」
ナギは思案に耽りながら部屋中を歩き始めた。
「何か……この感覚を知っているような気がするのですが……どうにも思い出せないのです」
そう言いながらナギは志麻の肩に手を置いて、出窓から大きく身を乗り出した。
「私はこれに、会ったことがあるはずなのです」
青く澄んだ空を燕たちが風を切って飛ぶ。
依頼主に会ってみるかい。
五津海がそう言ったので、志麻たちは今回の怪異をオニカエシに依頼した張本人と会うことにした。
屋敷を出て、再び大通りを歩く。
「怪異の原因が鬼であっても、鬼ではなくとも、オニカエシは依頼を断らない。これでも僕たちは私兵ではなく軍人だからね。だからこうして時折、オニカエシの管轄外のものも紛れ込んでくる。そうなると僕には難しい」
「五津海は鬼に特化しているからな。俺の同期の中でも、鬼以外の依頼で助けを求めてくるのはこいつくらいだ」
志麻がそう言うと、五津海は何故か嬉しそうに笑った。
「数少ない同期のひとり、でしたか」
「ああ。同じようにオニカエシを志した者は何人もいたが、結局のところオニカエシとなったのは俺を含めてたったの六人だ。そのうち二人は既に殉職した。残っているのはこの五津海と、あとは二人だ」
「残念ですね」
「ナギ君、それは違う。これは本望だ」
笑顔のままで五津海は言った。
「殉職もさせてもらえないなんて、ただの徒死だ。オニカエシとして死ねるのなら、最期としてはこの上なく名誉な死だ」
その笑顔が不気味に思えたナギは自然な素振りで視線を逸らした。
「それで、依頼主というのはミソラさんのご両親ですか?」
「いや、彼女はまだ幼い頃に両親と死別している。彼女を育てたのは父方の祖父だ。けれどもその祖父も半年ほど前に重い病を患って今も入院している」
「では、お屋敷の方々でしょうか」
「ところがね、使用人でもない。さて、依頼主の正体を明かす前に、着いたよ」
五津海は大通りに面した一軒の店を指差した。店構えからして貿易商らしい。大通りでもとりわけ立派な店だ。古くからの町屋と、隣に建つ洋館のどちらも、その店のもののようだ。千草屋という屋号を掲げた一枚板が店の軒先に堂々と飾られている。
「ミソラさんを助けてほしいと頼んできたのは、ハルノブという青年だ。ここの貿易商の跡取り息子であり、彼女の婚約者だ」
そう言うと、五津海は町屋の暖簾をくぐった。
「ごきげんよう。坊っちゃんは?」
「ああ、五津海さん。お世話になっております。坊っちゃんならば別館のほうですよ」
番頭の男が洋館の方を指差した。ありがとうと礼を言って五津海は一旦店を出た。
「坊っちゃんは何かと忙しい男でね、跡取りとして学ぶことが山ほどあるのだろう。修行時代の僕たちと同じさ。修行時代の宗一郎君と言えば、それはもう同期の憧れでさ。先輩のことを片腕でねじ伏せた時なんて、皆で祝杯……いやあれはただの蕎麦茶だったかな。当時の宗一郎君は」
何も尋ねてはいないが五津海はべらべらと喋った。信じられない光景を目の当たりにしていると言わんばかりの顔でナギは志麻を見遣った。
「志麻さん……」
「分かってくれたか、先生。根から悪い奴ではないんだが、いけ好かない奴なんだ、これは」
「いけ好かないと言いますか、何と言いますか。私はてっきり、もっと嫌味な方なのだとばかり思っていましたが。少々行き過ぎているだけで、感じは悪くありませんからね。余程、志麻さんのことを気にかけていらっしゃるようで」
「自分のことではないからそう悠長に構えていられるんだ。これがどれほど厄介な奴か」
呆れたように志麻が言った。視線の先に五津海がいる。五津海は別館と呼ばれた洋館の中を覗き込んで依頼主を呼んでいる。しばらくすると、洋装の若い男が出てきた。
「僕ひとりでは埒が明かない。同期を連れて来た。こっちの志麻と榊は僕と同じオニカエシ、それでこっちは助手のナギ君だ」
「千草晴啓と申します」
そう名乗ると、晴啓は深く頭を下げた。物腰の柔らかそうな青年だ。
「さて、坊っちゃん。今一度、あの屋敷とミソラ嬢について話してくれるかい。三人寄れば何とやら、だ。少しくらいは前進出来るだろう」
「はい」
生成りのシャツの袖は捲られて、腕には灰色の埃が付いている。顔にも汚れが付いている。貿易商の跡取り息子と五津海は言ったが、華やかな仕事ではないらしい。晴啓は手で汗を拭った。汚れが薄く長く伸びた。
「美空さんとの縁談の話をいただいたのは、三ヶ月ほど前になります。恥ずかしながらそれまでは、彼女のことを知りませんでした」
物腰柔らかだが、どこか気の弱そうな印象も受ける。誠実な人柄なのだろうが、頼り甲斐という点においてはいまひとつだろう。それは店の者達の様子からも窺い知ることが出来る。店の奥から志麻たちの会話に聞き耳を立てている。信用はしているが、信頼はしていない。そういう者たちの好奇心だ。
「場所を変えて話そう。ここでは気が散るだろう」
志麻は晴啓を連れてミソラの屋敷へ行くよう、片手で榊に指示を出した。
「俺たちは少し寄り道をしてから行く。現場で待っていろ」
榊について行こうとしたナギの襟首を掴んで引き戻すと、ナギは困惑の目を向けた。
「はい、それでは裏庭あたりで待っていますね」
そう言うと榊は晴啓の手を引いてミソラの元へと向かった。この子供と一緒で大丈夫なのかと晴啓が不安そうに振り返ったが、志麻はひらひらと手を振っただけだった。
「さて、宗一郎君。寄り道とは何のことかな。甘味かな、鰻もいいな、あるいは女性か。君も隅に置けないね」
「残念だが私事ではない」
志麻は溜息をひとつ、それから首の後ろに手を当て、頭を左右に倒した。ポキッという軽快な音が鳴った。
「武器を調達しておきたい」
「ああ、宗一郎君は刀をすぐに折ることで有名だからね。だけど、刀鍛冶はこの辺りでは見かけていないな」
「お前がいるのだから、刀は要らないだろう。それよりも銃が手に入れば助かる」
「そういうことならば君の真後ろだね」
五津海の言葉に志麻は振り返った。目に入るのは千草屋の文字だ。
「この貿易商は西洋の武器も扱っている。数は少ないけれどね。軍にも多少の口利きがあるようだし。まあだからこそ、憲兵や他の軍人よりも真っ先に、オニカエシなんてものを呼べたのだろうけれど」
そう言いながら五津海は白手袋を取り出して両手に嵌めた。
「寄り道はそれだけかい?」
「いや、もうひとつある。先生についても少しばかりの説明が必要だろうと思うが、興味がないと言うのなら別に構わない。だが、お前のことは先生に説明する必要がある」
「僕も知りたいよ。宗一郎君が先生と呼んで行動を共にする人だ。何者なのか興味関心は尽きないよ。邪魔者でなければいいんだけど。場合によっては僕もまあ色々と。まずは銃だね」
不穏な言葉を口にしながら五津海は千草屋別館に入った。志麻とナギもそれに続いた。
店内には異国の骨董品や美術品、調度品などが所狭しと並べられていた。食料品も扱っているらしい。手広い商売のようだ。
「やあ、銃はあるかな」
五津海は丸眼鏡の男に声を掛けた。
「銃、ですか。どういったものをお探しで?」
「何でもいいよ、とりあえず良さそうなものを見せてもらえるかな。あと飾りじゃないからさ、弾薬なり弾丸なりも揃って売っているものだね」
丸眼鏡は店の奥へと引っ込んだ。彼の帰りを待つ間、五津海は深紅の布が貼られた長椅子に腰掛けた。足を組んで座る。志麻は五津海の隣にナギを座らせ、自分は五津海の前に立った。店の者たちは軍人の雰囲気に押されたのか、そそくさと店のどこかへと姿を消した。
「それで、僕とナギ君、どちらが先?」
「先生のことを伝えておこう。斬られても困る」
はて、と五津海は首を傾げた。志麻は腕を組んだ。
「鬼だからな」
その言葉に五津海は隣に座るナギを勢いよく見返った。
「素敵な冗談だね」
「ではないな」
「嘘だろ、こんなに。こんなにも巧みに化ける鬼がいるのか」
五津海はナギの顔を両手で撫で回した。額も念入りに確かめる。
「妙にいい香りのする上品な優男だと思ってけれど、はあ、なるほど。そう言われてみれば若干のずれがあるようにも感じる、いや殆ど人間だろうこれは」
「その辺にしておいてくれ、五津海。俺はまだこれから先生を還さなければならない」
志麻が止めると五津海はナギから手を離した。ナギの頬が赤みを帯びている。余程強い力を込めていたらしい。
「だから先生を斬らないでくれよ」
「宗一郎君がそう言うのだから、うん、斬らない」
五津海は両手を膝の上に置いた。
「それで、先生。今後、怪異の正体と戦うことになると思うが、その時には五津海の間合いに入ってくれるなよ。必ずだ」
「邪魔をするつもりはありませんが」
ナギは五津海の軍刀に視線を落とした。右腰から下げられている軍刀は一般的なものに見える。
「五津海は本名だと言っただろう。それはこいつが鬼に対して、絶対的な力を持っているからだ。こいつは鬼を還すことよりも、鬼を殺すことに特化している。オニカエシとしては矛盾した存在だが、だからこそ、五津海でなければならないと指名された任務は、手に負えない鬼ばかりだ」
「私たちを圧倒する力……」
五津海は横目でナギを見た。その瞳はまるで悪戯を思いついた子供のようだ。
「軍刀を模してはいるが、その刀身は妖刀だ。オニカエシの中で唯一、鬼を殺すための刀を擁しているのがこの五津海だ」
「あまり脅さないでくれよ、宗一郎君。僕はナギ君と仲良くやっていきたいんだ。それに、僕はこれでもオニカエシだ。むやみやたらに鬼を斬るような男ではないんだよ。そのあたりの自負と矜持は大切にしておきたい。おや、銃が出てきたようだ」
丸眼鏡の男が髭面の男と二人がかりで大きな箱を抱えて帰って来た。
「我々には武器としての銃の良し悪しは分かりかねますから、どうぞ手に取ってご覧ください」
箱の中には様々な銃が収められている。志麻が品定めをしている間、後ろで五津海とナギは他愛もない話をしていた。
「ナギ君は宗一郎君が戦う姿を見たことがあるかい?」
「ええ、鬼と戦う姿を見たことがありますし、一度手合せしていただきました」
「それは刀で戦っていた?」
「そうですね。どちらも刀と体術でしたよ」
「珍しいものを見たね、ナギ君。羨ましいな」
五津海は組んだ足に肘を乗せて頬杖をついた。
「宗一郎君は銃のほうが得意なんだよ。修行時代は先輩も上官も、誰も宗一郎君の腕には敵わなかった。けれど、僕たちオニカエシは単独行動が多いからね。遠くから狙う銃は、鬼と真っ向勝負では難しいものだ。相手が複数ならば尚更のこと。でも、機会があれば宗一郎君の銃の腕を見せてもらうといい。きっと惚れ惚れするだろうから」
志麻の背中を見遣って五津海は言う。
「いつかあの弾丸に撃ち抜かれて果てたい。僕はそう望んだ。あんなにも何かを強く願ったことなんて、なかったのに」
まるで愛を囁くように五津海はそう言った。志麻は肩越しに振り返っただけだった。
「この二丁をいただこう」
志麻は箱の中から二丁の銃を取り出して丸眼鏡の男に渡した。一丁は古く、もう一丁は比較的新しいものだ。丸眼鏡の男は銃を丁寧に確認すると帳簿を取り出した。
「お支払いはいかがいたしましょう」
「今ここで払っておいたほうがよければそうするが」
「では、こうしましょう。今はこちらの安いほうの一丁分だけお支払いください。弾はお付けします。美空お嬢様を無事に取り戻していただけたあかつきには、残り一丁のお代は結構です。ですが、万一のことがあった場合、お代は二丁分、陸軍に請求させていただきます。不幸をもたらす銃になれば、商品価値が下がりますからね。余分に頂かないと割に合わないのです」
「なるほど、心得た」
支払いを済ませ、志麻たちは店を後にした。先に行かせた榊と晴啓を追う。
「僕は銃には詳しくはないけれど、随分と古そうなものを買ったんだね」
「ああ、マスケットか。一発撃つのに時間がかかる、そのくせ命中精度は悪い。性能だけならばこれより良いものはいくらでもある。もう一丁のライフルのほうが今では一般的だな。だが違うものを二丁持つことに意味がある」
志麻はライフル銃を肩に担ぎ、マスケット銃は手で持っていた。弾を軍服のあちこちに仕舞う。
「武器は手に入れた。これで思う存分に怪異を相手取ることが出来るな。問題は、何も分かっちゃいないということだが、それはこれからどうにでもなるだろう」
「怪異だけが問題ならば、ね」
五津海が含みのある言い方をした。志麻は五津海の顔も見ずに尋ねる。
「晴啓のことが気にかかるのか」
「信用はしているけれど、信頼はしていない。宗一郎君、そんなふうに感じた?」
「千草屋の連中か? 晴啓のことは使い勝手の悪いお坊ちゃん程度にしか思っていないのだろうな」
「坊っちゃんは商売人としての欲深さが足りないからね。あれは書斎で筆を執っているほうが似合う。今の世は、貪欲に狡猾に商いを押し通していかなければ、すぐにでも埋もれてしまうだろう。坊っちゃんにとっては息苦しい実家だろうなあ」
大通りを行き交うのは、金を動かす者たちだ。生き残っていくためには、どんな手でも使わなければならないだろう。跡継ぎの周辺に良くない噂が広がる前に、その芽は摘んでおかなければならない。当人たちが望んでいる婚約ではないことは明らかだった。
榊と晴啓は屋敷の裏庭で待っていた。杉の木陰は心地良いのだろう。ふたりは木陰に座して何やら楽しげに語らっていた。志麻たちもその木陰に加わる。ミソラは相も変わらずそこにいたが、やはりこちらに気が付く様子はない。
「まずは、事の始まりを教えてもらえるだろうか」
志麻が促すと、晴啓はミソラが微笑む出窓を見上げて話し始めた。
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