第9話 月と遊ぶ 六(終)

 止まない雨の下で、母娘が泣いていた。切望した再会を喜び、互いの不幸を嘆き、罪の深さを悔いていた。

 その隣で志麻は影に突き立てた刀をさらに深く押し込んだ。雷を帯びた刀身が青白く弾ける光を纏っている。

「挨拶がまだだったな。俺の名は志麻。オニカエシだ」

 影がうぞうぞと揺れる。実体を失い、影という曖昧な形なった鬼が、掠れた声を返す。

「妖の扱いに手馴れていると思ったわ。どこへ還してくれるの?」

 そう言った鬼に、志麻は冷えた視線を向けた。

「鬼をあるべき場所へ還すのが俺たちの仕事だが、それは還す場所がある鬼、還るべき場所がある鬼だけだ。救いようのない鬼は、還せない。いや、お前の場合、還すわけにはいかない」

 志麻は刀をぐりぐりと捻じり込む。雨で柔らかくなった地面に刀が吸い込まれるように沈む。

「いくつの肉体を奪った。どれだけの命を騙した。どれほどの罪を犯してきた。それでも還されると思っているのなら、おめでたいことだな。お前を救う理由など、どこにある」

 影が逃げ出そうと蠢くが、志麻は逃がさない。

「オニカエシが救済者だとでも聞いていたのか? 正義の下にある者たちとでも? 笑わせるな。俺たちは裁定者であり調停者だ。救い甲斐のない鬼をそれでも救うような博愛に溢れた者たちではない」

「待って、救って、お願いよ」

「いいや、これがお前の報いであり、救いだよ。お前に還るべき場所があるならば、そうだな、冥府の奥底だろうな」

 志麻は目を細め、穏やかな笑みを浮かべた。

「さあこれで、さようならだ」

 別れの言葉を掛け、志麻は地面から刀を引き抜いた。言葉にならない悲鳴を上げて鬼の影が刀の抜かれた穴に吸い込まれる。断末魔が消える頃、刀もまた柄から朽ち果てるように崩れ落ちた。あとには欠片ひとつ残らなかった。

 しばらくの間、志麻は地面の穴を見詰めていたが、やがて足で地面を均し、その穴を埋めた。

「さて、と。町に戻るぞ」

 榊が母娘を促した。志麻は榊に角灯を渡すと先に行かせた。志麻とナギがその場に残される。三人の姿を見送り、奇妙な沈黙の後にナギが口を開いた。

「私も、あれのように還さなくて良かったのですか」

 志麻は横目でナギを見た。ナギは表情もなく、ぼんやりと闇の奥を見ていた。

「俺が、先生を?」

「鬼の力を人間に使ったのですよ。私だってもはや、鬼と呼ばれても良い存在なのか、はたして分からないのです」

「先生は鬼だ。情の深い鬼だ。里の連中を使役していたのなら話は別だが、少なくとも先生は慕われていた。良い鬼と悪い鬼の違いというのは明確ではないが、あれと一緒にされるのは先生だって本意でないだろう?」

「不愉快ですよ……ですが」

 ナギは今にも泣きだしそうな表情で言葉を紡いだ。

「志麻さんが私を還してくださろうとすればするほど、私の罪が赦されてゆくような気がして、つらいのです。罪の薄れゆくことが、私は怖い」

 そう言うと、ナギは震える唇を噛んだ。つくづく、人間味のある鬼だ。志麻は半ば呆れた気持ちでナギを見遣った。こんなにも心深い鬼と出会う機会など、もう二度とは訪れないだろう。

「他に縋りつくものがないのなら、罪として一生、背負って歩けば良い。だがあの時、燈火が言っていただろう、幸せだったと。それがすべてだ。たとえ先生がいつか還ることを拒んだとしても、その時は燈火のために先生を還す。それだけのことだ」

 罪の記憶に縋って生きたって構わない。志麻はそう思う。いつの日か、その先に進むことが出来るのならば。永遠に埋まることのない空白を、いつまでも抱き続ける。愚かなことだ。だが、喪失感と罪悪感に苛まれながらも生き続けることは、容易く耐えられることではない。背負い切れないほどの自戒の念の中で足掻き続ける日々など、いつ投げ出したとしてもおかしくはないのだ。

 それでも、先生は歩き続けるだろう。志麻はそう思う。この鬼はあまりにも優しすぎる。たとえどれほど厳しい道程となっても、先生ならば最後まで辿り着けるだろう、と。

 だからナギを還す。ナギが燈火に与えた救いにはそれだけの価値があるはずだ。

「さあ俺たちも戻ろう。京の都はまだまだ遠いんだ」

 志麻はナギの背中を押した。すべてが溶けて無くなるような暗闇の中、雨に打たれながらふたりは町へと歩いた。


 子供たちとミヅキが帰って来たと、噂はあっという間に宿場町を駆け巡った。男たちは土嚢で川から流れ込む水を防ぎながらミヅキの話をしていた。女たちは帰って来た子供たちの世話をしていた。慌ただしさの中に、かつての平穏が戻りつつあった。廃寺のならず者たちも憲兵たちに捕らえられ、詰所に押し込まれていた。もっとも、廃寺で見た光景が忘れられないのか、皆、怯え切り、大人しく縄に掛かっていた。

 夜が明ける頃には嵐も収まり、小雨だけがぐずぐずと残る程度になっていた。

 志麻は布団の中に居た。

「うぇっきしゅ!」

 変な声のそれは、くしゃみだった。熱と寒気。体中がだるく、寝返りを打つのも億劫なほどだ。

「あれほど雨に打たれていれば、風邪も引くでしょうね」

 盆に乗せた煎じ薬と白湯を、ナギは横になる志麻の枕元に置いた。

「う、ぐしょい! 井戸から川に流されたことも、一因か」

 鼻をすすりながら志麻は上体を起こし、薬を流し込んだ。あまりの苦味に顔をしかめる。

「志麻さんでも風邪を引くのですね、安心しました」

「失礼だな、俺のことを何だと思っているんだ、いっきし!」

 町に辿り着く頃から酷い頭痛が始まり、すぐに熱が出た。おかげで川の様子も分からなければ、ミヅキたちがどこにいるのかも分からない。子供たちも全員が無事に帰って来たのかどうかも確認できていない。本来ならば宿の女将にも色々と問い質したいところだが、それらはもう憲兵に任せる。もう動き回る気力もない。

「俺は寝る」

「はい、もう寝てください」

「寝首を掻くときは、一思いにやってくれよ」

「寝なさい」

 志麻は布団をかぶった。目を閉じる。疲労感を熱の気だるさが上回る。やがて志麻は眠りに落ちた。

 ナギは暫くの間、無言のまま志麻を見詰めていた。苦しそうな寝息だけが不規則に繰り返される。その寝顔は起きている時の言動よりも随分と幼く見える。妖異と対峙するという過酷な役目を担っているが、軍服の下はただの青年だ。迷いも怖れも、十分に感じているはずだ。だがあくまでも強く振る舞う。オニカエシであることに誇りを抱いている。その心の内に、どれほどの闇を抱えているだろう。

 私がこの人ならば、耐えられるだろうか。

 この人ならば、私を救ってくれるだろうか。

 ナギは静かに寝息を聞いていた。


 志麻が目覚めると、日差しが戻っていた。太陽の高さからして昼頃だろう。よく寝たからか、それともナギの薬のおかげか、熱は随分と下がっているようだ。

 布団の中で横になったまま顔だけを動かすと、窓から身を乗り出しているナギの姿が見えた。昨日の朝もこんな光景を見た。

「先生」

 志麻が声を掛けるとナギは振り返った。その手には何かが握られている。ナギの後ろの空を鳥が飛び去って行く。

「おはようございます、志麻さん。具合はどうですか」

「ああ、おはよう。おかげさまで」

「そうですか、それは良かった。志麻さんにお手紙ですよ」

 どうやら先程の鳥が手紙を運んできたらしい。志麻は小さく折られた紙を受け取るとそれを広げ、無言で読んだ。読み終わってからナギに尋ねる。

「先生、榊は?」

「町の皆さんと一緒に川の堤の修復を。呼びに行きますよ?」

「そうしてくれると助かる。……参ったな」

「悪い知らせですか?」

 志麻は口元に手を当てて長い息を吐き出した。

「すまないが、京へ行く前に寄るところが出来た。熱に浮かされている場合ではないな」

 そう言いながら志麻は布団から抜け出した。立ち上がってはみたものの、まだ足元がふらつく。さすがに薬を飲んで寝ただけでは完治しないらしい。

「志麻さん、そんな覚束ない足取りで大丈夫ですか」

 なぜか笑いを堪えながらナギが尋ねた。本堂で志麻がナギに尋ねた言葉そのままだった。大丈夫じゃない、と志麻は小声で返す。

「腹が減った。粥か何か、いや蕎麦がいいな、貰ってくる。悪いが榊には、イツツウミから文が来たと伝えてくれ。それで分かる」

「イツツ、すみません、もう一度」

 立つことを諦めた志麻は床の上に足を投げ出して座った。

「数字の五に、津波の津に、海と書いてイツツウミだ。呼びづらい妙な名前だろう。いけ好かない男だが、俺の数少ない同期のひとりだな」

 そして、と志麻は続けた。

「俺を面倒事に巻き込む天才だ……いっくし!」

 志麻はずるずると這うように布団の中へと戻った。ああだめだぁと、布団の奥から気の抜けた声が漏れた。

「では、食後の薬はここに。榊さんを呼んできますね。温かくしておいてくださいね」

 ナギが扉を開けて出て行く音がした。志麻は布団に潜り込んでいたが、やがて息苦しさに顔を出した。

 嵐の過ぎ去った空が青い。何事もなかったかのような空だ。くしゃみをして、志麻は長い溜息を吐いた。

 つらいのです。

 そう言ったナギの顔が思い出された。鬼の力で燈火を生かしたことは、罪だ。まぎれもなく罪だ。あるべきではない命の形に歪曲させることは、あってはならないことなのだ。この幸福がいつまでも続いてほしいと、誰もが一度は永遠を望むだろう。だが、永遠が存在してはならない。すべてのものには始まりと終わりがある。それを消してはならない。

 けれど。

 その慈愛を、罪の一言で片付けたくはない。

「たかが罪、されど愛だろ」

 志麻は目を瞑った。閉じた瞼には何も映らない。

 思い出すべきことは、何ひとつも存在しない。オニカエシとなる道を選んだ時、すべてを捨てたのだ。戸籍も、名前も、そして過去も。自分を縛り付けるのは、鬼を還すという使命だけだ。縋り付けるものは、ない。

 ナギを還し、そしていつの日か、榊のことを還せるだろうか。

 志麻には分からない。いつかを想像することも出来ない。オニカエシだと名乗るのは、弱い自分を繕うため。強気な態度だって、冷静さを欠くことが恐ろしいからだ。こんなもの、ただの虚栄だ。

 本当はいつだってすべてが怖くて仕方がないというのに。

 志麻は深く息を吸い込んで布団に潜った。空腹感が煩わしい。むずむずとする鼻も不快だ。爽やかな春風も、清らかな日差しも、聞こえてくる町の賑わいも。何もかもが、鬱陶しい。

「つらい」

 声に出せば存外に脆い胸の内だった。風邪のひとつやふたつで弱音を吐く幼い心だった。自覚はしている。鬼と戦うには、この肉体はあまりにも弱い。鬼を救うには、この精神はあまりにも拙い。鬼を還すには、この存在はあまりにも軽い。

 微かに、扉を叩く音が聞こえた気がした。布団から顔だけを覗かせると、確かに誰かが扉を控えめに叩いていた。

「起きているよ」

 志麻は扉の向こうに声を掛けた。ゆっくりと扉が開き、遠慮がちにカヨが入ってきた。手には粥を乗せた盆を持っている。

「あの、すみません」

「右側に椅子があるだろう、そこに座れば良い」

 カヨは椅子にちょこんと腰かけた。

「いろいろと、ありがとうございました。あの、お粥なら食べられますか」

「ああ、ありがとう、貰うよ。ちょうど腹が減ってきたところだ」

 志麻はカヨから粥を受け取った。カヨはまた椅子に戻る。

「それで、その……」

 カヨは口ごもった。志麻は粥を冷ましながら続く言葉を待った。

「お母さんと、サチと。三人で帝都へ行きます。この町はもう、居辛くて。女将さんのことは、とても、残念です」

 ぽつりぽつりとカヨは呟くように告げた。

「女将さんの、お母さんを見た時のあの表情。人間はあんな顔も出来るんだなぁって。私たち今までずっと騙されてきたんだなぁって。でも、でもね、旦那様。私には女将さんのことを心から憎むことなんて出来ないんです。お金じゃない。罪悪感でもいい。女将さんがいなければ私たち姉妹は今頃、路頭に迷っていましたから」

 そう言うカヨの頬を涙が伝った。カヨは手の甲で涙を拭う。

「サチには酷いことばかり。ずっと我慢させてきて。どれだけ謝っても、許してくれても、私、なんてひどい姉だったの。あの子がいなければ、つらい日々を乗り越えることも出来なかったはずなのに。サチがいたから耐えられたのに」

 志麻は粥を一口食べ、泣きじゃくるカヨに声を掛けた。

「帝都で母娘三人、何をして生きていくか、もう決めたのか?」

 カヨは首を横に振った。

「ミヅキは鬼に憑依されていたからな、一度、専門の奴に見てもらったほうが良いだろう。帝都に着いたら陸軍省を訪ねなさい。そこで龍澤という男に会いなさい。立派な髭の、壮年の男だ。詳しい地図と、一筆したためておこう」

 志麻は身振り手振りで紙と筆を持ってくるようカヨに伝えた。カヨは机の隅に置かれた紙と万年筆を志麻に渡した。

「一度鬼に入られた肉体は再び鬼に付け入れられる危険が高い。安定するまでは、龍澤さんの言うことをよく聞きなさい。それから、龍澤さんに何か聞かれたら、給仕が出来ると答えなさい。そう答えておけば、当面の生活はどうにかなるだろう。ほら」

 したためた文を志麻はカヨに差し出した。だが、カヨは躊躇って受け取ろうとしない。

「今更、何を遠慮することがある。お前たち母娘が路頭に迷うなんて夢見が悪い。風邪も治らない。余計なことは考えずに受け取っておけば、損にはならないだろうさ。捨てる際には燃やしておけ。へぃっくしゅ!」

 戸惑いながらもカヨは文を受け取った。志麻は食事を再開した。

「お前は、よくやったと思うよ。俺に褒められたところで嬉しくはないだろうがな。はっくしゅ!」

 気を抜くとくしゃみが止まらなくなる。なんとも情けない。

「そういえば、女将とミヅキは詰所か?」

「はい、憲兵さんたちに事情を。あの……お母さんはどうなるのでしょう」

「あーそうだなぁ……まあ色々と聞かれるとは思うが、大きな罪に問われることはないだろう。そのあたり、うまく取り計らわれるだろうな。いっくし! 事実を揉み消すわけではないぞ。ミヅキもまた被害者だということだ。だから、帝都へ発てるのは、いましばらく先になるかもしれないな。帰ってきていない子供たちについても捜索されるだろう。手掛かりだけでも見つかれば良いんだが。そういうわけで、夏頃までは俺のような軍人が多く出入りすることになるだろうな」

 まあ、俺は今日にでも発つつもりだが。志麻がそう付け加えると、カヨは勢いよく顔を上げた。

「え、もう。まだ風邪が治っていないのに」

「なにぶん、忙しい身でね。次の行先が決まっている」

「だってまだ、解決していないことだって」

「悪いが、事後処理は俺の担当ではないんだよ。そういった後始末には、専属の部隊がいるんだ。名残惜しい気持ちも多少はあるが、俺も暇ではない。急ぎの案件が舞い込んだ」

「そんな……私、まだ何もお返し出来ていないのに」

 カヨが肩を落とした。志麻は粥を流し込むと意地の悪い笑みを浮かべた。

「帝都に戻った時にでも、団子を振る舞ってもらうとするかな。俺は賭けに勝っただろう?」

「またお会いできますか?」

「さてね、縁があれば会えるだろうな」

 志麻の答えに満足したのか、カヨは顔を綻ばせた。一礼すると、弾むように部屋を出て行った。入れ替わりにナギと榊が帰って来た。

「ただいま戻りました。志麻さん、お薬は飲みましたか?」

 榊が元気良く尋ねる。志麻は薬の包みを手に取って顔をしかめた。

「苦いんだよなぁ、これ」

「良薬は何とやら、です。さあ、はやく飲んで元気になってください。五津海さんからの依頼なのでしょう? 榊は張り切っていますよ」

 そう言うと榊は志麻の布団の上に寝転んだ。靴を脱ぎなさい、と志麻が注意する。榊は寝転んだまま靴を脱ぎ、放り投げるように床に置いた。

「榊は聞きましたよ、また刀を失ったそうで。今度は小刀ですか。志麻さんは物持ちが悪いですね。五津海さんのところへ行くならば、準備は念入りにしなければ、です」

 榊は足をバタバタと動かす。ナギは床に脱ぎ散らかされた榊の軍靴を揃えていた。志麻は薬を一気に飲み、眉間に皺を寄せた。

「お前は鍛冶屋で刀を見たいだけだろう」

「きれいだから好きです。いつも斬られたり貫かれたり、痛い思いばかりですけれど、榊は好きなのです」

「それは遠回しに俺を責めているのか」

「志麻さんはヒクツですね。それに志麻さんが斬られても元には戻りませんが、榊なら志麻さんの声で元通りですからね。適材適所というやつですよ」

「うっくしゅ! ぐしゅ! 俺だって自分のものは大事に扱おうとしていると言うのに」

「それなら自分の体も大事にしてくださいよ。ね、ナギ先生」

「ええ、そうですね。か弱いのですから、無理は禁物ですよ」

「お前たちが頑丈なだけだ。はっ……ぐしょい! ああ、鬱陶しいことこの上ない」

 志麻は八つ当たりに榊の髪をぐしゃぐしゃと乱した。

「腹ごしらえも済んだことだ、さっさと出よう。夕刻までには次の町に着けるだろう」

 志麻が起き上がろうとしたため、上に乗っている榊がぐるっと布団の上を転がった。

「もう一晩、休んだ方が良いのでは?」

「五津海が文を寄越さなければ、俺だってもう一泊するさ。だがアイツはいつだって、事態が悪化してから俺を巻き込む」

 ベッドの端に腰掛けて、志麻は軍靴を履いた。軍服を羽織れば自然と背筋は伸びる。軍帽を深く被ればオニカエシの顔つきに変わる。榊も支度をする。

「それで、五津海さんはどこで何をしていらっしゃるのですか?」

 衣装箪笥に仕舞っていた衣服を風呂敷で包むナギが尋ねた。志麻は木箱の中を確認しながら答えた。

「鬼を追っている途中だったが、屋敷の中から出られずにいるらしい。もとより、閉じ込められる危険は覚悟の上だったようだが。いずれにしても、自分が戻らなければ俺に届けるよう、あらかじめ文を用意していたと書いてあった。その文が届いたということは、そういうことだ。刀と塩を手に入れたいな。あとは拳銃があれば尚のこと良いのだが、贅沢は言えないな」

「五津海さんは鬼に捕まったと?」

「いや」

 榊が木箱を背負う手助けをしながら、志麻は首を振った。

「おそらく、鬼も屋敷に閉じ込められているだろう」

 榊に軍帽を被せ、志麻は部屋の扉を開けた。榊とナギが続く。志麻は支払いを済ませ、外に出た。

 澄み切った空に、春の終わりの陽光。目が眩む。町の人々は浸水の後片付けに勤しんでいた。往来を子供らが駆けていく。遠くの山に明るい緑が芽吹き始めている。

 歩き始めた志麻を風が追い越した。

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