第8話 月と遊ぶ 五

 志麻は荒れ狂う水の中から顔を出した。流れが速く、逆らうことが出来ない。サチを肩で担ぐように抱き上げて、呼吸を確保する。

 ふたりは川を流されていた。あの古井戸の水は川の水源と同じだったらしい。強い雨が叩き付けるように降っている。少し離れたところにぼんやりとした橙色の灯りが並んでいる。あれは、恐らく宿場町の憲兵たちだろう。あそこまで辿り着けば、どうにかなる。

「大丈夫か、サチ」

「平気です」

「強い子だ、もう暫くの辛抱だぞ。しっかり掴まっていろ」

 志麻は上手く流れに乗り、時に全身で逆らいながら、なんとか岸辺へと辿り着いた。疲労感が体中に回り始めてきた。冷たい体で精一杯に土手を這い上がり、堤防の上に立ってようやく息を吐いた。サチを抱き直すと、憲兵たちのほうへと歩みを進める。サチの小さな体もすっかりと冷え、小刻みに震えている。あれだけ水に浸っていたにもかかわらず、角灯の鬼火は何事もなかったかのようにユラユラと揺れている。

「ひとまず、宿にでも戻って、体を温めてもらえ」

「だめよ、宿はだめ。お姉ちゃんに迷惑をかけられないもの」

「カヨのことは一旦忘れて、今は自分の心配をしたらどうだ。お前がこのまま凍え死ねば、さすがにカヨだって困るんじゃないか」

「……きっと、よろこぶよ」

「カヨがどう思っているかは知らないが、俺は困る。夢見が悪い。まあ、人間いつかは死ぬんだ、別に今ここで死に急ぐ必要はないだろう」

 ふたりの姿に気が付いた憲兵たちが走り寄って来た。すでに堤防の一部が崩れ始め、徐々に水が町の方へと流れているらしい。土嚢を積み上げて対処をしていたが、それもこの雨の中では大きな役目を果たしてはいない。おまけに風も強く吹き始めた。本格的な嵐になる。

「この子をよろしく頼む。目が悪いんだ、手助けしてやってくれ。そうだ、サチ」

 サチを憲兵に託しながら、志麻はサチに言った。

「お前たちの母親は、お前たちのことを愛していたと思うぞ。ああ、賭けても良い。山菜蕎麦の一杯くらいならな」

「それは……」

「さて、俺はもう行く。そろそろ蛇が俺を追いかけてくる頃だろう。あんな小刀一本で、どうこう出来る器でもないさ」

 そう言うと志麻は廃寺へと走った。雨戸が締め切られた夜の町を駆け抜ける。ナギの鬼火だけが頼りだ。行き場を無くした雨水は既に踝ほどまで溜まっている。冷えた体は足を止めれば震え始めるだろう。時折、突風とともに強い雨が叩き付けてくる。ずるずると、這いずる音が遠く背後から迫り来る。志麻は走った。


 町を抜け、田畑の脇を通り、森の道を抜ける。何やら廃寺の方角が騒がしい。

 志麻が廃寺に辿り着くと、その門前に立っていたはずの門番たちが地面に伸びていた。目立った外傷はない。気を失ってはいるものの、呼吸はある。周囲の警備は手薄になり、建物の内部が慌ただしい。侵入者を許したのだ。

 さて、と志麻は荒れた石庭から内部の様子を窺った。もはや隠れるつもりなどない。ただ、どのあたりが渦の中心なのかあらかじめ確認しておきたかっただけだ。ナギと榊はどこにいるのだろうか。それに、カヨだ。

 都合良く、刀を片手に持った破落戸の男が目前の縁側を通った。それを呼び止める。

「ちょっと尋ねたいんだが、色男がどこにいるか知らないか。それと、妙な男児だ、あれもどこにいる」

「曲者!」

 男が刀を振り上げて襲い掛かってきた。志麻はそれをゆるりと捌き、地面に組み伏せた。宙に舞った刀を掴み、男の首筋に当てる。

「俺が曲者とは心外だな」

「待て、待ってくれ、命だけは!」

「やかましい、質問に答えろ」

「あの色男なら金堂に向かっている。子供たちは鐘楼の地下だ」

「そうか」

 志麻は拳を振り下ろして男を気絶させた。ひとまず居場所は分かった。安物だが刀も手に入った。鬼火はまだ燃えている。ナギは後回しだ。先に榊の無事を確かめたい。

 なるほど鬼火とは、これほどまでに便利なものだったか。手を差し伸べるべき順番が分かって良い。行く先を迷わずに済む。

 鐘楼はすぐに分かった。寺で本堂以外に高い建物といえば、鐘楼と塔だ。鐘楼の周りにも人はいない。皆、ナギの相手をしているのだろう。廃寺のほうをよろしく頼むとは言ったが、ここまで派手に動いてくれると、陽動としても十分というものだ。だが、慢心することも出来ない。ナギは人間を好む鬼だ、戦闘に向いた鬼ではない。人間を引き裂いた鬼と対峙した時、果たしてナギは無事だろうか。

 鐘楼の入り口の扉を開けると、中には鐘へと上がる階段のほかに、地下へと続く梯子があった。その梯子を志麻はゆっくりと降りた。湿った空気が重くのしかかってくる。こんな場所に子供を閉じ込めておくとは。

 地下は土の地層が剥き出しになった通路が続いていた。いくらか板で補強されているが、強度は怪しい。あちこちから雨水が染み出してきている。この嵐に耐えられるだろうか。早いところ子供たちを避難させるのが優先だ。だが、そんなにうまく子供たちを逃がせるだろうか。榊と合流したら、一度ナギを町に戻して憲兵を連れてくるべきか。あるいは、このまま廃寺を制圧するほうが早いだろうか。いずれにしても、榊が必要だ。

「志麻さん」

 暗闇の奥から榊の声が聞こえた。声の方向へと進むと、そこには牢があった。狭い牢の中で子供たちがうずくまっている。志麻の登場に怯え切っているようだ。

「志麻さん、こっちです」

 子供たちが入れられている牢の隣に、もうひとつ小さな牢があった。

「遅くなったな、榊」

 榊の姿がそこにはあった。志麻は牢の柵の隙間から手を入れて、榊の頬を撫でた。

「怪我は……なさそうだな」

「はい、榊は無事です。ただ、お腹が空いて、何も出来ません」

 榊の後ろに、見覚えのある影があった。

「カヨも、元気そうでなによりだ」

「私のことなんて、放っておいて」

「ああ、そうする」

 隅で不貞腐れているカヨのことはさておき、志麻は榊に向き直った。

「さて、榊。お前の力ならこの牢くらい壊せるだろうが、そうすればこの地下の空間ごと崩れるだろうな。ここは、あまりに脆い」

「はい、脱走を考えましたが、ここの形を保ったまま抜け出せる自信がありませんでした」

「賢明な判断だよ。では、ここから出る方法を考えようか。とは言っても、この錠を開けてしまえば、話は早い」

 志麻は自分の服のあちらこちらを弄ると、細い針を一本取り出した。その針を錠前に差し込んでガチャガチャと動かす。錠前はすぐに外れた。続いて、子供たちの牢も開錠する。子供たちは恐る恐る志麻に近付いて来た。

「ほらこれで全員自由の身だ。町まで連れて帰ってやりたいが、そんなことをしている時間もない。各自、仲良く協力して帰りたまえ」

 志麻がそう言った次の瞬間、大きな揺れが地下を襲った。パラパラと砂や小石が降って来る。

「な、時間がないだろう。地上までは一緒に行ってやるから、そう悲観するんじゃない」

 小さな体を引っ張り上げながら、数えた子供は十三人だった。あとの五人は、もはや諦めるしかない。榊に続いて、カヨも出てきた。

「私が、この子達を町まで送るから。それでいいでしょう」

「別にそれでも構わないが、会わなくても良いのか?」

「どんな顔をしてサチに会えばいいのか、もう、分からない」

「いや、サチは町に戻っている。俺が聞きたいのは、この廃寺を取り仕切り、一連の神隠しを企てた奴のほうだよ。俺の仕事の邪魔さえしなければ、俺は気にも留めない。好きにしろ」

 そう言い残して志麻は榊を連れて鐘楼の外に出た。雨は一層強まり、吼えるような雷鳴が轟いている。その嵐の中に、再び大蛇の姿があった。子供たちが一斉に逃げ出していく。しかし、大蛇は子供たちには見向きもせず、とぐろを巻いて志麻を睨む。

「我を愚弄する脆き者よ」

 大蛇の声が雨を揺らす。

「志麻さん、これは?」

「古井戸の奥に封じられていた、神様の成れの果てだ。失った信仰を求めて、子供を食い、町を大水で飲み込もうとしている、質の悪い、神様、だったもの。今は俺に神の座を奪われかけんとしている蛇だ」

 つまり、と志麻は水が滴る前髪を手櫛で後ろへと流した。

「食っても良いぞ、榊」

 志麻のその言葉に、榊は幼い顔を輝かせた。

「本当ですか、久しぶりですよ」

「少し格は落ちているが、腹の足しにはなるだろうさ」

 榊は弾む足取りで大蛇に近付いて行く。その怯むことのない軽快な様子にさすがの大蛇も躊躇っている。本来は恐れ敬われるべき存在の神に挑もうとする少年。その愚かで場違いで、けれどもその純粋な瞳が、神に恐怖を与えている。もはや榊を得体の知れない存在と捉えてしまっている。恐れたほうが負ける。これは、そういう世界の話だ。

「待て、寄るな、我に近寄るな」

 焦りを隠しもせずにそう言うと、大蛇は身をよじらせて逃げた。

「追うぞ、榊」

「あ、鬼追いなら得意ですよ」

「あれが逃げる先は、親玉の居場所だろう」

 ふたりは逃げる大蛇を余裕のある足取りで追った。榊など鼻歌混じりに歩いて、やけに上機嫌だ。廃寺の破落戸たちは皆、志麻たちに対峙することも忘れて逃げ出していく。廊下は水浸しになり、大蛇の通った跡が残る。横殴りの雨が降り込んでも、その水の筋は紛れることもなかった。

「話が違うではないか!」

 奥の方から大蛇の怒声が聞こえてきた。冷静さを欠いた声だ。

「まだ足りぬ、まだ足りぬ! 我の力はこの程度ではない」

 廃寺の本堂に収まりきらない大蛇の尾が見えた。何度も床に叩き付けられる尾と戸口の隙間から、ナギが転がるように出てきた。やはり無事だったようだ。

「志麻さん!」

 ナギは安堵と焦りが入り混じった妙な顔をしていた。だが、怪我はない。いくらナギが山桜から生まれたとはいえ、寄せ集めの集団など、鬼の敵ではなかった。

「これが古井戸の?」

「ああ、この辺りの水神の、成れの果てだな。幾人か人間を食ったものの、かつてのような力を取り戻すという願いは叶わなかったらしい。口の中ならただの小刀も突き刺さる。さあ、先生、後ろに退いていたほうが良い」

 志麻はそう促してナギを自分の後ろに立たせた。ふたりの横を榊が悠々と歩いていく。右手を左肩に乗せ、ぐるぐると左腕を回す。夜の寒さとは異なる冷たさが漂ってきた。それは研ぎ澄まされた刃よりも鋭く冷徹で、圧倒的な力だった。今まで感じたことのない異質な力に、ナギは無意識のうちに志麻の背に隠れた。

「あれが何かと尋ねられても、俺はその正しい答えを持っていない。だが、確かなことはひとつある。だからこそ俺は、そう名付けたんだ」

 榊は左手をゆっくりと天高く突き上げた。異様な気配に大蛇が振り返り、本堂の奥へと後退さる。しかし、その巨体に逃げ場などない。

「やめろ、来るな! 何者だ! それ以上、我に近付くな!」

 大蛇が喚く。その様子は、かつては信仰を集めていただろう水神とは思えない。身に迫る危険をどうすることも出来ないただの小さな蛇のようだった。

 榊が大きく円を描くように左腕を下ろし、その拳を胸に当て、少しばかり前屈みになった。志麻の陰でナギが息を飲んだ。

「その名に神を冠する者、榊と」

 瞬間、榊は床を蹴り、大蛇を目掛けて勢いよく飛び出した。そして見えない刀で虚空を斬り裂くように、すべての音さえも斬り裂くように、力強く左腕を薙ぎ払った。閃光が辺りを雷光のように照らして消えた。一瞬の光が消える頃、ボトリと大蛇の首が床に落ちた。

 本堂の中に血の雨が降る。赤黒い血を浴びながら、榊は何の表情もなく立っていた。

 呆気に取られたナギが、志麻の後ろで言葉を失っている。瞬く間に大蛇の骸が腐るように溶けて消えた。残されたのは、むせ返るような血の匂いだけだった。

「う……ぐ」

 堪え切れずにナギが吐いた。だが志麻は涼しい顔で榊と、その奥に居る者を見ていた。

「どうだった、榊」

 志麻は榊に声を掛けた。榊は血を滴らせながら振り返った。

「味が薄いです」

「仕方がないさ、現役の神様ではないからな」

 榊は袖口で顔を拭った。

「さて、と」

 志麻は榊の隣に立つと、かつては立派な仏像が安置されていただろう場所に佇む者を見遣った。そこにはひとりの女がいた。美しい女だ。乱れた髪は艶めかしく、着崩した鮮やかな赤い着物からは色気が漂う。この世の者とは思えない程だ。

「俺の見立てを聞いてくれよ」

 女は誘うような流し目で志麻を見た。

「川に流されたのは落とされたからだと、俺は踏んでいる。帝都に行けば稼げるというありきたりな言葉に、安易に乗ったのは、治療費のためだったと」

 志麻のその言葉に、女の表情が幾分か曇った。

「その器、真の名はミヅキ。お前は器を都合よく手に入れた悪鬼だ」

 女はニンマリと笑った。乱れ髪を掻き上げると、額から二本の角が生えていた。

「ふぅん、勘の冴える男ね。それに、よく見れば良い男じゃないの」

「鬼に褒められたところで嬉しくはないな。ああ、だが、お前のような存在を鬼とは呼ばないのだったかな。確かに屍を操る鬼はいる、姿を模してその者に取って代わる鬼もいる。それらは総じて鬼と呼ばれるが、お前は違うだろう」

 稲光が本堂を照らし、遅れて雷鳴が轟いた。壁に大きな影が映った。

「その器はまだ生きている」

 志麻がそう言うと、女は甲高い声で笑った。耳障りな声が反響する。

「そうよ、ええ、そうですとも! 屍なんてすぐに腐る、けれど生きている肉体ならば腐ることはない。こんなに見目麗しい人間の肉体なんて、そうそう手に入るものではないわ。うまく使わなくちゃならないでしょう?」

「志麻さん」

 後ろから顔色の悪いナギがふらふらと歩いてきて志麻を通り越した。

「私に任せてくださいませんか」

「先生、そんな覚束ない足取りで大丈夫か」

「……平気なわけがないですよ。不快です、虫唾が走ります。生者の肉体に乗り移るなど、鬼として赦されない」

 ナギの声には激しい嫌悪が現れていた。志麻はナギの後姿を黙って見ていた。

「鬼がその肉体から脱け出る時、本来そこにあるべき人間の魂も器から引き剥がされます。一度鬼に憑依された人間は、そう容易く元に戻ることなど出来ません。多くの場合、二度とは戻らない。けれども鬼は、何食わぬ顔で生きてゆけるのです」

「その通り。この肉体が老いさらばえたなら、また新しい肉体を見つけるの。それの繰り返し。そうやって今までやってきたのよ。楽しいわ、とても。若くて美しい人間には、誰もがひれ伏すの。金と男に囲まれて、美酒に酔って。欲は全て満たされるのよ」

「あなた、それでも……!」

「まあまあ、先生」

 食って掛かろうとしたナギを志麻が制する。何故止めるのだと言いたげにナギは非難の目で志麻を見たが、志麻は首を振った。

「先生が手を汚す必要はない。そういうのは、俺の仕事だぜ。それに」

 落ちてきた前髪を再び総髪にし、志麻はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。

「肉体が生きているということは幸いだ。乗っ取られている魂を覚醒させれば鬼だけを分離させることも出来るかもしれない」

「無理よぉ、この肉体の魂はもう返事もしないもの。もう抵抗もしないわ」

 女はせせら笑った。だが志麻も笑みを崩さない。笑いながらも、瞳だけは強い意志を保っている。まだ間に合う、その自信が志麻にはあった。

「いいや、ミヅキは必ず起きる。賭けても良いぜ。山菜蕎麦はもう賭けたからな、ここは甘味処の団子でも賭けておくか」

 かなり近いところで雷が鳴った。ビリビリと建物が揺れた。そのうちどこかに落ちるだろう。勝算と呼ぶには大層だが、変化は必ずあるはずだ。そういう算段でここまで来た。何の考えもなしに妖異を相手取るほど無謀ではない。こちらに武器がないことも承知の上だ。だからこそ、好機を待つ。

 そしてその機会が今、近付いている。

「……あなたは」

 女と対峙する三人の後ろから、今にも消え入りそうな弱々しい声が聞こえた。それは思わず零れた溜息のような声だった。

「お母さん……?」

 隣に立つナギと榊は振り向いたが、志麻は前を見据えていた。こうなるように仕向けたのだから。振り返らずとも声で分かる。カヨだ。

「お母さん、お母さんでしょう?」

 ふらふらとカヨが歩み寄る。他には何も目に入らない。女の姿だけを見ている。変わり果てたその姿に、確かに母親の面影を見ているのだ。

「カヨ、それはお前の母親、だったものだ」

「嘘よ」

「嘘などではないさ。見た目はお前の母親であっても、中身は別物だ。お前の知っている母親ではない」

「旦那様は意地が悪いから、私のことを騙そうとしているのね!」

 カヨは感情的にそう叫んだ。やれやれと、志麻は溜息を吐いた。

「お前の母親に、角などあったか?」

「それは」

「何を信じても、何を疑っても、そんなものお前の勝手だ。だがひとつ真実を話しておこう。その鬼は子供たちを攫っていた張本人だ。鬼の力で子供を攫い、選別し、そして生贄にしていた。お前の母親の見た目をしているとしても、それは、ただの悪党だ」

 志麻の言葉にカヨは歩みを止めた。

「……それが何だと言うの」

 カヨの華奢な肩が震える。

「私がどれほど、お母さんに会える日を夢見ていたか、分からないでしょうね。自分たちが捨てられたなんて、サチに言えるわけもない。毎月、お金だけが送られてきて、でも顔のひとつも見せずに。一緒に過ごした日々は、酷いこともあったわ。でも、でも私」

 拳を握りしめて、何度も振り上げては降ろす。何度も、何度も。

「それでも、もう一度、お母さんに抱き締めてほしい。ああ、旦那様。私、もうどうすればいいのでしょう。私の知っているお母さんは、どこにいってしまったの」

 カヨは膝から崩れ落ちた。目の前にいるそれが、もはや母親ではないことなど、とうに分かっているのだ。けれどもどうか母親であってほしいと、生きていてほしいと、孤独に耐えてきた心が叫ぶ。何かの間違いであれ、と。

「いいぜ、その願い、確かに聞き届けた」

 志麻はカヨを庇うように、その前に立った。察したナギがカヨを連れて離れる。

「言ったはずだ、お前のその心の闇が俺の前に立ちはだかった時には、俺はお前を救うと。今がその時だろうな」

 そう言うと志麻は刀の切っ先を女に向けた。女が耳に触る高い声で笑う。

「なまくら一本で、鬼退治とでも? そっちの坊やの力は確かに危険だけれど、アンタたちの狙いはこの肉体を無事に取り戻すこと。それなら坊やには任せられないわよねぇ」

「そうか。お前には、これがただの刀に見えるんだな。そして榊は、ただ破壊するだけの者だと」

 雷が轟く。刀が雷光を反射して光った。それを合図に志麻は身を翻して走った。榊がそれに続く。水飛沫を上げて嵐の中を走る。広い場所へと志麻は走り、廃寺の前庭に出た。ここならば、志麻は刀を構えて追ってくる女を待った。

「場所を変えたところで、何も変わらないでしょう?」

 女がゆったりとした動きで現れた。だが、通りすがりにあった木造の倉庫に手を当てると、ミシミシと音を立てて倉庫は崩れた。太い柱が折れている。その怪力で憲兵の身体も引き裂いたのだろう。

 だがこちらには榊がいる。怪力だけならば劣りはしない。女が投げた木材を榊は拳で叩き落とした。木は粉々に砕け散った。木屑が水溜りに沈む。

「坊や、本当に何者なのよ。アンタもこっち側じゃないの、そんな人間に従うなんて窮屈なことやめて、こっちに来なさいよ」

「俺の部下を勝手に口説くな。そう易々とは靡かないぜ、これは」

 志麻の言葉に榊は誇らしげな様子で鼻を鳴らした。

「さてと、そろそろ年貢の納め時という奴じゃないか。言い残したことがあるなら聞いておく」

「うるさいわね。いい気にならないで」

 女は再び丸太を手に取った。

「榊、一気に片を付ける」

「はい、志麻さん」

 志麻の指示に従って榊が動く。二手に分かれて女の攻撃をかわしながら好機を窺う。女は随分と榊を恐れているらしい。あの光景を見れば仕方のないことだ。榊を牽制しつつ、標的は志麻へと向けられる。

 そうと分かれば容易い。戦いの経験が違う。好機はすぐに訪れた。

 飛んできた丸太を榊が受け止め、勢いよく地面に突き立てると、泥水が高く飛沫となった。女の視界が遮られる。すかさず志麻は女の足を払った。女は泥水に尻餅をついた。

「やるぞ、榊」

 榊が女を背後から羽交い絞めにして動きを封じる。志麻は下段に刀を構えた。

「そ、そんなこと、この肉体がどうなっても」

「唸れ、春雷よ。穢れなき者に慈悲を、愚かなる心に戒めを。数多の命に降る禍を嘆き、理のすべてを持って」

 必死に抵抗する女の声など無視をして、志麻は言の葉を続けた。

 雨粒が大きくなり、その雨を連れた風が志麻の方へと吹く。風が渦となり、渦が嵐となり、雲を、遥か天空の雷を呼ぶ。暑い雲に覆われていた空が鈍く光り始める。

「我はオニカエシの名のもとに命ず。愁いの魂を導く光芒あれ。今ひとたびの救いとなれ」

 そう唱えた志麻は上段に刀を構え直した。

 まるでその瞬間を待っていたかのように、空気を引き裂いた稲妻が志麻の刀に落ちた。視界が眩い閃光で覆われる。耳鳴りが止まない。

 真っ白な世界の中に、志麻は立っていた。

 目の前に女がしゃがみ込んでいる。髪に隠れた顔は見えない。だが、そこに居るのが鬼ではなく、ミヅキであることは分かる。纏う空気が、妖異のそれとは明らかに変わっている。白い世界に、志麻とミヅキ、ふたりだけだった。

「さぞかし無念だっただろう」

 志麻はミヅキに声を掛けた。音が反響することなく白に飲み込まれた。耳鳴りがまだ続いていた。

「娘たちに冷たく当たっていた理由は知らないが、その一方で愛情を注いでいたのも事実だろう。贅沢な暮らしのために帝都へ行こうとしたわけではない。サチの目を治したかったからだ」

 サチという名前を口にすれば、ミヅキがほんの僅かに反応した。志麻は続ける。

「なぜ帝都だったのか、それは金を稼げると聞いたからだ。そんな噂を誰から聞いたのか。あの宿の女将だろう。アンタは女将の言葉を信じた。そうして暴れる川に突き落とされた。なぜ突き落とされなければならなかったのか。それは女将にとってアンタが邪魔者だったからだ。その理由は?」

 ミヅキが少しばかり顔を上げた。虚ろな瞳が志麻の方を見ている。

「アンタの亭主を好いていたからだ。アンタがいなくなれば、自分のものになるとでも思ったんだろうな。だが、そう簡単にはいかないのが、人の心というものだ。肝心の亭主はアンタを助けるために川に飛び込み、そのまま行方知れず。女将も、こんなことになる算段ではなかったはずだ」

 瞬きひとつしないミヅキの瞳は、けれども確かに志麻に意識を向けている。志麻の声を聞いている。

「あとは鬼に乗っ取られて、今に至る。よくもまあ、今日まで生きていたものだ。普通ならとっくに諦めているだろうさ。それなのに今になってやめるつもりか?」

 志麻は屈んでミヅキと視線を合わせた。

「何を信じようが、いつ諦めようが、そんなものはアンタの勝手だ。俺が口出しすべきものじゃない。だが、俺は賭けている。山菜蕎麦と団子だ。勝てない賭けはしない主義でね。ここで負けるわけにはいかないんだよ。だから俺はアンタに事実を伝えておく」

 ミヅキの瞳にはっきりと志麻の姿が映る。

「カヨはあの宿で働いてサチを養っている。毎月届く帝都からの両親の手紙を楽しみにしている。妹のことを愛せないままに、自分のことさえ愛せないままに、あの娘は生きてゆくんだ」

 光が、ミヅキの瞳に戻りつつある。だが、耳鳴りもまた鎮まろうとしていた。もう時間がない。

「合わせる顔がなくても、そんなもの、なりふり構っていられるような状況じゃないだろう。待っているぞ、カヨとサチが。待っている。たったひとこと、たしかな愛情を知ることができればそれで。それだけで十分に報われるだろう」

 志麻はミヅキに手を差し出した。ミヅキがその手をじっと見つめる。

「このまま鬼に飲まれることを選んでも良い。俺の手を取っても良い。還せる機会は、もう二度とは来ない」

 耳鳴りが、消える。白い世界も、ぶつりと見えなくなる。天地を裂く稲光が見えた。雨の音、風の唸り声。嵐の夜が戻って来る。

 けれども雷は、天と地を結ぶものではないだろうか。

 志麻はミヅキの影に刀を突き立てた。

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