第7話 月と遊ぶ 四

 その端正な顔をしかめてナギは息を吐いた。山菜蕎麦から立ち込める湯気が揺れた。

「それで、そのままカヨを行かせたのですか」

「止める義理もないだろう」

 ナギの向かいに座る志麻は掛け蕎麦をすすっていた。夕刻、雨の中を帰って来たナギを連れて、志麻は通りにある蕎麦屋に入った。この雨の中だ。出歩く人の影もまばらで、蕎麦屋も空いていた。

「あなたという人は……。鬼よりも鬼のようなことを言いますね。夕食を宿で取らないのも、どうせ騒ぎに巻き込まれたくはないからでしょう」

「酷い言い方だ、実に心外だな」

「カヨがいなくなったと、宿の者達が慌てふためいていましたよ」

「そんな慌ただしい宿に食事を出せとは言えないだろう」

 ナギは机の下で志麻の足を蹴飛ばした。

「あなたの言い分にも、一理ありますけれど」

「俺の足を蹴る必要はあったのか」

「廃寺に行ってみると一言伝えておけば、宿の者達もこの雨の中を探し回らずに済むのではないかと、私は思いますよ。今夜は嵐です。無用な外出は控えるべきですよ」

「いいや、探し回ってもらわなければ。迎えが来たなら、カヨも戻る。カヨの話はもう充分だろう、廃寺のことを教えてくれ」

 志麻が促すと、ナギは蕎麦を少しすすってから答えた。

「昔といっても、町のご老人もそういう話を聞いたことがあるという程度にしか知らない程の昔ですが。あの寺が廃れてしまったのは、跡継ぎがいなくなったことが理由のようです」

「それだけか?」

「いえ、この話の興味深いところは、跡を継ぐものがいなくなったそもそもの理由です。こんな嵐の夜のことだったそうですよ」

 そう言うとナギは箸を置いた。

「一夜にして寺の者がすべて姿を消したそうです。住職も小僧も、旅の修験者も。その夜、あの寺に居た者は皆、消えてしまった。そんな寺を継ぐ者が余所から来るわけもなく、そのまま廃寺と化したそうです」

「確かに興味深い話だ」

「まるで、神隠しだ。ご老人たちはそう言っていましたが、寺で神隠しとは、何とも」

「自分たちではどうすることも出来ない事柄は神仏の成せることだと人は思うだろうな。仏も神も鬼も、人間ではないという点においては等しく同じだぜ?」

 俺も、先生も。志麻は怪しい笑みを浮かべてそう言った。

「あの川は古くから暴れ川として知られていたようです。近年は随分と大人しくなったようですが、それでも時々、こうして町を脅かしているみたいですね」

「なるほど、おおよその話は読めてきたな」

「それは頼もしい限りです。私はさっぱりですので、説明していただけると有難いですね」

「先生は随分と辛辣になってきたな」

 そう言いながらも志麻は自分の見立てをナギに説明した。

「憲兵たちから聞いてみたが、廃寺にいるのは鬼やその類で間違いないだろう。憲兵から犠牲者が出ていたらしい。当初は憲兵たちも、自分たちの職務を果たそうとしていたようだな。まあ、とにかく廃寺に向かった憲兵がひとり、無惨な姿で見つかった。斬られたわけではない。引き裂かれたようだったらしい」

「確かに、怪力となれば私たちの特徴でもありますけれど」

「漂う気配からして、鬼の類だろうさ。そういえば井戸のほうは何か分かったか?」

「いえ、森の中に井戸があることさえ知られていないようですね」

「なるほど。それで、先生。井戸のことも知りたいかい?」

「もったいぶるほどのことですか」

 ナギは髪を耳に掛けて蕎麦をすすった。

「そりゃあ、ね。俺の予想通りならば、俺も先生も、あの井戸のものには敵わないだろうからな」

「……人間も鬼も凌駕するもの。まさか、神……?」

「勿論、信じなくとも良い。だが俺の予想は、辻占いよりも当たるぜ。だから言っただろう、先生。これは神隠しだと」

 険しい表情に変わったナギは、口元に手を当てて少し考えてからその口を開いた。

「井戸に潜るつもりなのですね」

「当たり前だろう。さすがに憶測だけでは動けない。この目で確かめなければ納得は出来ないな。先生は廃寺のほうをよろしく頼む」

「危険を冒してまで、確かめなくてはならないのですか」

「いいや、それは違うよ、先生。危険だからこそ確かめる必要があるのさ」

 そう言うと志麻は蕎麦の出汁を飲み干した。それを見たナギも慌てて残りの蕎麦を流し込むように飲み込んだ。志麻は調理場の竈に火をくべる蕎麦屋の主人に声を掛けた。

「大将、釣りは不要だ。美味かったよ。今夜は雨戸をしっかりと閉じておいたほうが良い」

 縄と灯りを持って外に出ると、志麻は灯りを点けた。雨に煙る通りはすでに闇深く、家々から漏れる僅かな灯りだけが、そこに人々の暮らしがあるのだと語っていた。

「腹ごしらえも済ませたことだ、そろそろ向かおうか」

「志麻さん」

 ナギが灯りを不思議そうに覗き込む。

「これは西洋の提灯ですか」

「おや、意外だな。これを見るのは初めてか。これはランタンという」

「らんたん」

「角の灯と書いて、角灯とも呼ぶ。こうして、金属の枠と硝子で囲っている。あの西洋風な宿があるのだから、どこかに扱っている店があるだろうと思っていたんだ。紙の灯りよりも丈夫だ。あまり見詰めると、目がやられるぞ」

「私も持ってみたいです」

「どうぞご自由に」

 角灯を手に持ったナギが雨の中を駆けていく。春を乞う里を駆けていた少女の姿が重なる。志麻はナギを追った。傘も差さずにふたり、春の冷たい夜を歩いた。水を吸った衣服が重く体に纏わりつく。

 やがてナギは足を止めた。

「まずは井戸でしょう。私も、その井戸の場所を知っておきたいのです」

「それもそうだな。よし、灯りの番は交代だ。ここからは俺が先を歩こう」

 ふたりは森の中へと入っていった。

 雨の森は静かに、けれども憂鬱な湿気を含んでいた。頭上に広がる木々の枝が雨脚を弱めている。苔生した地面は滑りやすい。足元に気を配りながら、ふたりは進んでいく。

 蕎麦で温めた体も、すっかりと冷えていた。

 吐息が白い。指先が悴む。何よりも、足を踏み入れるほど強くなる禍々しい気配が、全身に突き刺さる。サチを追って訪れた時には、こんな気配は感じられなかった。目が覚めたのか。

「あれだ」

 古井戸は、異様な気配が漂う中にあった。空気がギシギシと軋むような、噛み合わない歯車を無理矢理に回すような、そんな歪な気配が周囲を覆っていた。隣に立ったナギの顔が引きつる。

「志麻さん、これは……」

「酷い有様だな。昨夜はただの怪しい古井戸だったはずだが」

「ここに潜るつもりですか。いえ、止めても無駄なのは承知ですけれど、私、助けには行けませんよ」

「その時はその時だろう。俺たちは全員、廃寺の奴等も宿場町の人間も、揃いも揃って神隠しさ。誰も、俺たちの無事を祈ることさえ出来ずに、さよならだ」

 志麻は灯りをナギに渡し、縄を手頃な木の幹に固く結んだ。反対の端を自分に結ぶ。角灯は辺りをゆらゆらと曖昧に照らす。薄い影が闇に飲み込まれる。ナギは井戸の中を照らしたが、深い底は見えなかった。

「志麻さん、私」

 ナギは角灯の硝子窓を開くと、その火を吹き消した。真っ暗な夜が広がる。

「鬼火くらい出せますよ」

 暗闇にそんな声が聞こえたかと思うと、青白い炎が角灯の中に点いた。ナギは硝子窓を閉じると角灯を志麻に返した。

「綺麗な色をしている」

「その炎が消えたら、私のことはもう忘れてください。しかし、それでも、榊さんのことは諦めないでくださいね」

 ナギは真っ直ぐな瞳で志麻を見詰めた。その瞳の中に炎が揺れている。志麻は角灯を腰帯に結んだ。

「先生を還すと、あの里の者達に約束したからな。誓ってしまった以上、俺はアンタを諦めないよ。先生も榊も、俺の手の届く世界にいる。それだけだ」

 志麻は古井戸の縁に足を掛けた。冷えた手で縄を掴む。僅かにその手が震えているのは、寒さからか、もしくはこれが恐怖というものか。

「昼になっても俺が宿に戻らなければ、自力で京の都を目指してくれ。まあ、お人好しのアンタに一人旅をさせる気なんて更々ないのだが。では、先生。榊を頼んだよ。俺を、子を捨てた連中を同じにはしないでくれ」

 そう言い残して、志麻は手を緩め、足を離した。体が闇の中に落ちていく。上から覗き込んでいたナギの姿もすぐに見えなくなった。自分を飲み込もうと暗闇がその手を伸ばしてくるが、青白い光が柔らかに闇を遠ざける。古びた黴の匂いに、微かな花の香りが残る。

 遠く、遠くに雨音が聞こえていた。


 張り詰めた縄を小刀で切った。自由になった体は虚空を落ちたが、なんとか両足で着地した。足元に水が張られている。浅い水辺にいるようだ。志麻は角灯を掲げてみたが、落ちてきた古井戸の穴さえもどこにあるのか分からない。志麻は周囲を見渡した。

 月が昇っていた。

 いや、違う。

 月が囚われていた。

 少し離れた水面に満月が映っていた。志麻は天を仰いだが、月はどこにも見えない。だが、視線を落とせば、その水面には確かに月が昇っているのだ。月明かりに気が付けば、闇にも目が慣れ、少しばかりの光源で辺りの様子が分かってきた。

 夜の世界。静かに広がる水面。水はせいぜい志麻の踝あたりまでしかない。海とも呼べず、池とも呼べず、この広い水溜りを何と呼べば良いのか。

 月が浮かぶ水面の近くに、社のような建物があった。だが、無惨なほどに廃れている。地上の廃寺のほうが、よほど手入れが行き届いているだろう。よく見れば、鳥居の残骸にも見えるものが水の中に傾いている。志麻はその社へと歩みを進めた。水が跳ね、波が広がる。

「其処なる者よ」

 不意に、凛とした声が響いた。

「これより先は、我の領域。踏み入れるのならば、その名を告げよ」

 声は社の奥から聞こえてくる。見れば暗がりに金色の光が浮かんでいる。あれは、眼か。志麻はもう一度周囲を見渡してから、社に向き直った。

「それならこれ以上進むのは止そう」

 志麻の答えに、金色の瞳は明らかに動揺した。僅かに水面が揺れた。

「……よかろう。名も無き者よ、汝は何故、ここに来た」

「毎夜、食事が投げ入れられるだろう? 俺はその食事を運んでいる者に用事があるだけだ」

「我にその身を捧げる心算でないと申すか」

「自惚れるなよ」

 金色の瞳の言葉を志麻は一蹴した。嘲笑うように目を細め、口を歪める。

「信仰を失ったお前など、興味もない。暴れ川には人身供物が付き物だが、この様子だと、随分と飢えているようだな。それで廃寺の連中を利用しているわけか」

 朽ちた社、傾いた鳥居、堕ちた月。

 これはかつて「神様」と崇められた存在の、成れの果てだ。

「どんな手を使ったかは知らないが、廃寺の連中を唆して、生贄となる子供たちを集めさせたのだろう。どうせ、願いを叶えてやるとか、そういった陳腐な言葉だろうな。幼子は神のもの。力を蓄えるには都合が良い」

 金色の瞳がこちらを睨んでくる。しかし、暗がりから出てくる気配はない。志麻も踏み込むつもりはない。互いに相手を牽制しつつ、機会を待つ。

「それで、今度は町を丸ごと食らい尽す算段かい? 子供をちびちびと食うよりは手っ取り早いからな。とんだ雑食だ」

「口を慎め、脆き者よ」

 苛立ちを含んだ声で金色の瞳が強く言う。しかし、それで怯む志麻ではない。水面が少しずつ波打ち始めている。余程、志麻のことが気に食わないのだろう。

「暴れ狂う川となり、すべてを飲み込めば、それで満足か? そんなことで本当に、失った信仰が戻るとでも思っているのか? おめでたいことだな」

「黙れ!」

 怒号とともに水面が荒れる。それでも志麻は嘲る表情を崩さなかった。

「図星とは愉快だな。薄々は気が付いているだろう。いくら供物を得たところで、お前の力は戻らないよ。過去の栄光に縛られ続ける、哀れな存在だ」

「黙れ、黙れ、黙れ!」

 金色の瞳を光らせて暗がりから飛び出してきたそれは、大きな蛇の姿をしていた。これがお稚児さんとは笑わせる。やはり、お稚児さんというのは崇めるべき対象ではなく、供物を捧げる生贄自身のことを意味していたのだ。鈍色の鱗は月明かりと鬼火を怪しげに反射している。胴の太さは大人三人で手を広げて届くかどうかといったところだ。とぐろを巻いているので定かではないが、長さの程は十間を軽く超えているだろう。その体躯で絡みつかれたならば、ひとたまりもない。その巨大な顎は、子供くらいなら一飲みだ。

 さて、どうしたものか。

 志麻は角灯を再び腰帯に結んだ。素手で戦って勝てる相手ではない。小刀も役には立たないだろう。何しろ、相手はこれでも神だったものだ。勝算はない。だが、負ける訳にもいかない。大蛇との睨み合いが続く。足元に立つ小波だけがこの夜の世界で動くものだった。

 しかし、これでは埒が明かない。

 志麻は長い息を吐いて空を見上げた。上空は、空の果てがどこにあるのか見当も付かないほど深い闇に覆われている。空なのか、あるいは天井なのか。そこは水に映る月が帰る場所なのだろうか。

「ん?」

 ほんの僅かに、空気が揺れた。

「悪いが、お前との決闘は後回しだ」

 志麻は黒い空を見上げたまま、大蛇とは反対の方向へと走り出した。律儀なのか、ただの間抜けなのか、大蛇が襲い来る気配はない。志麻は大きく手を広げた。

 ドスッという衝撃が腕の中を上から下へと落ちる。弾みで少し前のめりになったが、すぐに体勢を立て直した。どれほどの高さから落ちてきたのか。放心している少女が志麻の腕の中にいた。

「おい、大丈夫か」

 志麻が声を掛けると、少女は怯え切った手で志麻の体に触れた。ぺたぺたと控えめに触れてようやく、少女は我に返ったらしい。

「あなたは、ゆうべの」

「また会ったな。どうやら俺の腕の中が相当お気に入りらしいな」

 サチは恥ずかしそうに頬を赤らめた。そんなサチを抱えたまま、志麻は大蛇に向き直った。

「そういうわけだから、俺はそろそろ行く」

 大蛇の反応が一瞬遅れた。大蛇はゆっくりと志麻とサチに這い寄って来た。

「我をどれほど虚仮にすれば気が済む」

 大きな舌をちらつかせながら、大蛇が志麻たちの周りを囲んだ。サチは志麻の胸に顔を押し当てるようにして震えている。無理もない。はっきりとは見えずとも、身に迫る危機を感じ取っているだろう。

「今ここで汝らを貪り食っても良いのだぞ。骨も残さずこの体に取り込んでしまおうか。我に身を捧げる誉に咽び泣くが良い」

「折角の申し出だが、俺はお前を信仰していないからな。俺にとってお前は、神様でも何でもない」

 ぐっと大きく開かれた大蛇の口が真上に迫る。

「ただの育ちすぎた蛇だ」

 志麻はそう言い切ると、小刀を大蛇の喉の奥へと投げ入れた。喉に突き刺さった小刀の痛みに、大蛇は悶え苦しむ。志麻はサチをしっかりと抱えて、うねる大蛇を飛び越えた。目指すのはあの朽ちた社だ。水飛沫を上げて大蛇が迫り来る。恨みが込められた叫び声が世界を大きく震わせた。

「俺は、この時を待っていた」

 沈む鳥居を潜り抜け、社に志麻は立った。

「怒りに駆られたお前が、この座を放り出す、瞬間を」

 のたうち回る大蛇の尾が世界を壊していく。月は乱れ、暗黒の空からは雨が降り落ちる。そして志麻は迷うことなく言い放った。

「ここより先は、神の領域。汝、その名を告げよ!」

 空を破って大水が一気に流れ込んでくる。荒れ狂う水が、大蛇も志麻たちも飲み込んでいく。サチを抱く手に志麻は力を込めた。

 鬼火の仄かな青の奥に、満ちた月の影を確かに見た。

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