第6話 月と遊ぶ 三

 翌朝、志麻が目覚めると、ナギはすでに身支度を終えていた。窓を開け、穏やかな朝日と春風が志麻の髪を掠めた。眩しさに目が覚めたのか、いまだ残る一筋の冷たい風に起こされたのか、志麻には不確かだったが、窓から身を乗り出しているナギの後姿からして、恐らくはその両方だろうと思った。そのまま暫く、ナギを見ていた。右手を窓枠に添え、左手は外へと伸ばされている。その手の先に、どうやら小鳥が止まっているらしい。

 この鬼は、何をしている?

 志麻は上体を起こした。被った覚えのない掛け布団がはらりと床に落ち、その音に驚いたのか、小鳥は飛び立っていった。

「おはようございます、志麻さん」

 ナギは振り返って朝の挨拶をした。

「ああ、おはよう。早いな、先生」

「伊達に年を取ってはいませんからね」

 志麻は欠伸を噛み殺した。

「私が言うのも可笑しいですけれど、よく鬼の隣で眠ることが出来ますよね」

「寝首を掻きたきゃ、好きにすればいいさ」

「嫌ですよ、手が汚れます」

「手といえば、いつのまに小鳥を飼い馴らしていたんだ?」

 ナギは自分の手を見た。

「私の本質は桜の木ですからね。鳥や虫には、それが分かるのでしょう。鳥たちとの戯れは、楽しいですよ。色々と、教えてくれますし」

「囀りも理解出来るのか、たいしたものだな」

「分かろうとしなければやがて、失われる力ですよ」

 そう言うとナギは窓を閉じた。

「さて、志麻さん。今日はどうしましょうか。夜は再び廃寺と井戸を訪れるとして、それまで出来ることは沢山あると思うのですが」

「確かに沢山あるだろうな。だが、まずはサチの無事を教えてやるとするか。俺が朝風呂に向かえば廊下で質問攻めになる。そんな予感が俺にはある」

 志麻は部屋の扉を見遣った。つられてナギもそちらを見る。扉の向こうの廊下からは人が行き交う音が聞こえる。

「それから、先生にはそうだな、廃寺のことを聞き込みしてもらおう。俺は、姿を消した子供たちの家を訪ねてみよう。どこかで縄も手に入れておく」

「廃寺のどういったことを知りたいのですか?」

「何故、廃寺になったのか。あの井戸が廃寺のものなのか。それに、あそこにいる連中がどういう連中なのかも重要だ。遠慮なく押し入っても、何も問題がなければ良いんだがな」

 志麻は軍服を手に持った。脱いでいた軍靴も履き直す。それを見ていたナギが尋ねる。

「その服装で出掛けるのですか。噂になってしまいますよ」

「軍人が調べている、そのことを分からせる必要がある」

「命を狙われる危険が高まるのではないのですか」

「これは威嚇でもあるし、牽制でもある。軍人の登場で、場は少なからず混乱するだろう。その一瞬の焦りを俺たちは狙っている。逃げようが、足掻こうが、構わないさ。要はオニカエシが来たのだと知らしめるために、俺たちは軍服を着ているんだよ。まあ、そこは先生が真似するべきところじゃないさ」

 ナギは腕を広げて自分の服を見た。今日は、和装だ。洋装のシャツは洗って干してある。

「私は、むしろ目立たないようにしたほうが良いのでしょうか。少しでも人間の中に溶け込めていれば、志麻さんのお邪魔にもなりませんし」

「アンタはその顔だからな、どんな服を着てもすぐに分かる。通りの向こうから歩いてきても、見つけられるさ。人から覚えられるのも、はやいだろうなぁ」

 志麻は喉で笑った。ナギは両手を頬に当てた。

「仕方がありませんよ。花を愛でる人の心が、私の容姿をこのようにしたのですから。恐れる心からは、恐ろしい鬼が生まれます。悪しき者は、悪しき鬼を呼ぶ。それが人と鬼の理というものです」

「俺としては、先生がその見た目でよかったと思うよ。ともに旅をするのなら、出来れば見目は麗しい方が良い。まあ、女なら尚のこと好かったんだがな。いや、それはそれで面倒か」

 そう言うと志麻はナギを残して部屋を出た。朝の宿は朝食や掃除など、何かと忙しい。あちらの部屋からこちらの部屋へと、息を吐く間もなく動き回る女中たちの中に、カヨの姿を見つけた。志麻に気が付いて、カヨは布団を抱えたまま、話す機会をうかがっている。

「はやいな、カヨ。悪いが、話はお前の仕事が落ち着いてからだ。俺は風呂に入る」

「あ、湯屋は三軒隣です!」

 小さな体が大きな布団で隠れた。志麻は足早に湯屋へと向かった。


 湯を浴びて戻ると、部屋にはもうナギの姿がなかった。女将に尋ねると、お連れ様なら入れ替わりで外出されましたよ、と返事があった。カヨのことを尋ねると、裏庭で洗濯物を干している頃ですよ、と教えてくれた。

 志麻は裏庭を訪れた。四方を家屋に囲まれているが、十分な広さのある開放的な箱庭だ。庭には井戸と木々、それから小さな畑と物干し場があった。畑には春の野菜が実っている。志麻は膨らみ始めた豆のツタを横目に、カヨを探した。小さなカヨは大きく広げて干された敷布団の向こう側にいた。

「よぉ、カヨ。朝から大変だな」

「旦那様」

 カヨは慌てて頭を下げた。

「サチは元気にしていたぞ。連れ去られて元気と言うのも、語弊があるか。まあ、そうだな、無事だ」

「本当ですか」

 途端にカヨの表情が晴れやかになる。目に見えて分かる、これは安堵だ。

「よかった……生きているのですね」

「話を聞く限りでは、少なくとも衣食住に困っているという様子はなかったな。とは言うものの、まだ救い出すところまでは辿り着いていない。救出だけならば不可能ではないのだが、サチひとりを助けた腹いせに他の子供たちが皆殺しになっても、困るだろう?」

 志麻の言葉にカヨの顔が曇る。これは不安や恐れだ。不幸な結末を想像したのだろう。妹を助けたいという思いはあっても、それはサチさえ無事ならば他はどうなっても構わないという排他的な願いではない。祈りは欲深く、すべての子供の無事が最善の結末だ。

「今のところ、サチは無事だということしか分かっていない。だがそれもいつまで続くか分からんな。他の子供たちの様子もまだ不確かだ。何より、奴等の狙いが見えない。目的がはっきりしない以上、不利なのはこちら側だ」

「つまり、いなくなった子たちの共通点が分かれば、先へ進めるのですね」

「ああ、そうだな。聡くて助かる。仮に同じ理由から彼らを攫ったのだとすれば、それさえ分かれば、こちらにも分がある。何か思い当たる節はないか?」

「そうですね……」

 カヨは困った表情で敷布団の端を握りしめた。そのまま暫くの間、考え込む。志麻は庭を見回した。雀が数羽、地面を飛び跳ねている。

「年齢も、家も……分かりません、みんな、違うんです」

「家はまあ、そうだろな。俺たちのような余所者も被害に遭っている。いや待て、カヨ。誰がいなくなったのか、全員のことを把握しているのか?」

 志麻が尋ねると、カヨは曖昧に頷いた。サチのことがあってから少し調べたのだと言っていた。カヨのことだ。あちらこちらに行って、頭を下げたのだろう。だが、問題はその先にある。

「で、他に誰か、子供等を探している者はいないか?」

 それはこの少女がひとりで調べたということだ。志麻の予想通り、カヨは頭を横に振った。

「諦めたんです。もちろん、廃寺に行った人もいました。でも……戻ってこなかった。だから、どうにもできないって諦めてしまったんです」

「憲兵も当てにならないと言ったな。では、憲兵を訪ねよう」

「え、でも」

「つまり、憲兵は何が起こっているのか知っているということだ。多少の危険は承知の上。だが、まどろっこしいことは嫌いでね。僅かでも事情を知っているのなら、そいつから聞き出すだけだな」

 不安を隠し切れないカヨの眉が下がる。カヨは感情が眉に出るらしい。よく動く眉だ。これはこれで分かり易い。

「俺は、同期の中では気が長いほうだぜ。戦うのも出来れば避けたい性分だ。まあ、嫌いなものくらいは幾つかある。たとえば、職務を全うしない阿呆。人々の暮らしを守るべき憲兵が訝しい事件に絡んでいるうえに、何ひとつとして善を尽くしていないとは、聞いて呆れる。同じ軍属でも、憲兵より俺のほうが階級は上だからな、安心しろ」

 志麻の言葉に、カヨは期待に満ちた瞳を取り戻した。廃寺に出入りしている憲兵たちが問い質されると思ったのだろうか。これで前進出来ると思ったのだろうか。そうはいかないだろうな、と志麻の頭は冷静だった。憲兵が容易く口を割るとは思えない。返り討ちの危険もある。何より、あの廃寺で手を引いている何者かが、志麻の手には負えない可能性だってあるのだ。進むにはまだ不十分だ。志麻は言葉を続けた。

「それで、カヨ。ひとつ頼みを聞いてくれないか。分かる限り詳しく知りたいのだが、行方不明の子供たちについて書き留めてほしい。たとえば名前、家の場所、家族構成、年齢や消えた時期、あとは……まあ、思いつくままに書いてくれ。それを憲兵たちの証言と照らし合わせる」

「私の知っていることなんて、旦那様のお役には立ちませんよ」

「いや、少なくとも俺は信じるに足る情報だと思っている」

 志麻は屈み、カヨの華奢な手に自分の手を重ねた。小さな傷が散らばり、日々の水仕事に荒れた、およそ年頃の少女のものとは思えない手だ。だが、これは生きようとしている手だ。

「いま暫くの寂しさを我慢出来るな?」

 カヨは大きく頷いた。よし、それで良い。志麻はカヨの肩をポンポンと叩くと、その場を後にした。

 庭を出て宿を抜け、そのまま目抜き通りを歩く。昨日よりもやや強く吹くのは、南西の風だ。今夜は雨になるかもしれない。雨の夜に森を歩くのは気が滅入る。だからと言って、宿に閉じ籠って夜明けを待つわけにもいかない。

 道行く人々は志麻の姿をちらりと見るが、別段、興味を持って話し掛けてくる様子もない。何も知らないふりをしているのか、本当に何も知らないのか。いなくなった子供たちは、この宿場町にとってどのような存在だったのだろうか。

 ナギのように、人間の生活に馴染んでいる鬼というのは案外、珍しい存在だ。鬼の多くはその力を使って闇夜に紛れようとする。昼間から往来を歩き、人々と交流する鬼は、害の少ないもの、若しくは巧みに化けるもの、両極端だ。普段は廃寺に留まっているのだとすれば、あの廃寺にいるだろう鬼は、さほど強くもない。よくある種類の鬼だ。

 そこにいるのが、鬼だけならば。

 志麻は歩きながら、今回の異変について考えていた。廃寺に居を構えるものと、井戸の底に潜むものは、別の種類の妖異だろう。井戸の主をサチはお稚児さんと呼んだが、あれはきっと妖異のことを指しているわけではない。サチ自身が稚児、もとい生贄なのだ。

 いずれにせよ少なくとも二種の妖異によって引き起こされているのが、今回の事件だ。その二種の関係性は今の段階では分からないが、同時にふたりを相手取ることになれば、少々厄介だ。出来る限り早く榊と合流したい。しかし、榊は戦力として無事だろうか。榊に万一のことがあれば。

 嫌なことを考えるのは駄目だ。ひとまずは情報を集めよう。それから観測と経験に基づいて、採るべき手段を講じよう。

 憲兵の詰所までの道中、志麻は縄と灯りを買った。万屋の若い店主は、先にある川の心配をしていた。そもそも、川には橋が架かっていた。それが豪雨で渡し舟とともに流されてしまったがために、人の流れも物の流れも滞ってしまっているのだ。

「船頭連中が嘆いているんだ、今夜あたりからまた雨になるってさ。橋や舟だけなら、また元に戻せる。だが、川が氾濫して町に大水が流れ込んできてみろ。オレはうまく生き延びる自信がないね」

 志麻は縄を肩に掛けて歩いた。詰所は町の中央よりも少し東側にあった。詰所の前には憲兵が一人、背筋を伸ばして立っている。志麻の姿が視界に入ると、その背筋はさらにピンと伸ばされた。

 志麻は一言も声を掛けずに詰所に入った。中は広い土間があり、机がいくつか並べられていた。二階へと続く急な階段も見える。奥には座敷もあるようだが、志麻は近くにあった椅子に座った。怠惰に過ごしていた二人の憲兵たちが、一瞬の呆けた表情のあと、手に持っていた花札を投げ出さんばかりの勢いで直立した。

「あ、いえ、今は、あ、休憩中でありまして!」

「戯言は要らない。端的に状況を報告しろ」

 肩に掛けていた縄と灯りを志麻は机の上に置いた。二階から滑り落ちるように、もう一人憲兵が現れた。彼もまた同じように直立不動の姿勢をとる。

「子供がいなくなっているそうだな? ひとり、ふたりではない。かれこれ二十人ほど姿を消したそうだが、この件について何も手を打っていないとは言わないだろうな」

 鋭い視線を憲兵たちへと投げつける。これが、階級の差だ。外に立つ者も含め、ここにいる四人の憲兵は、誰一人として志麻が何者であるのかを分かってはいない。だが、この軍服が自分たちよりも上の立場にある者だということを嫌というほどに示している。これが、志麻たちオニカエシが常に軍服を身に纏う意味のひとつだ。

「あの、神隠しに遭った子供の詳細、詳細については、こちらに」

 憲兵のひとりが、棚から一冊の記録を取り出して志麻に渡した。志麻はそれをぱらぱらと捲った。一応、形だけでも調べてあるらしい。これは借りて帰ることにしよう。

「それで? まさかこれで対処したとでも言うのか? 調べただけ、まとめただけ。そんなもの子供にだって出来る。俺は報告しろと言ったんだ。何故こうなるまで放っておいた」

 志麻の静かな声が詰所の中に響く。往来の賑わいが聞こえてきても、部屋は冷たい。暫くの沈黙が続いたあと、ひとりが呟くように言った。

「貴方は、あれを知らないから」

「ほぉ、あれとは?」

 大袈裟に尋ねてみると、憲兵たちがポツリポツリと答えた。

「外れにある廃寺に、あれがいます。どこから集まったのか、ならず者たちを従えて」

「子供たちが廃寺に囚われていることは分かっています。けれど、手出しなど出来ません」

「あれは、我々には対処できません。せめて機嫌を損ねないようにするだけで精一杯なのです。こうして町が平穏なのは、あれの機嫌が良いからです」

 つまり、と志麻は憲兵たちの言葉を遮った。

「身寄りのない子供や、愛されていない子供。そういった頼るべき存在を知らない子供たちという犠牲を払って、この町は守られている。つまり、そういうことか?」

 憲兵たちは顔を見合わせた。志麻は綴られた記録を片手に取った。

「平穏だと言ったな。お前たちはこれを、平穏だと言ったんだ。今でもまだ子供たちの帰りを待つ人がいる。原因がそこにある。けれどもお前たちはこの町が平穏だと言った。笑わせるな!」

 志麻は記録帳を机に叩き付けた。

「軍学校で習わなかったのか? 人間の手に負えない時に呼ぶべき部隊を、その名と役割を」

 その言葉に、怯えていた憲兵たちの表情が驚きに変わる。

「まさか」

「まさかそんなものが存在するなんて、とでも? 存在しない部隊を教え込むほど軍も暇ではない」

「では、貴方は」

 オニカエシ。

 誰ともなくそう言った。そこに含まれる期待と畏敬、そして確かな畏怖。人間であって、人間ではない。御伽噺のような存在。

「俺は、志麻という。所属はオニカエシ。以後、俺のことは志麻と呼べ。では廃寺と、蔓延る妖異について報告しろ。分かっている限り、詳細を」

 志麻の言葉に、憲兵たちは大きく頷いた。


 詰所を出る頃には昼を過ぎていた。宿に荷物を置いてから腹ごしらえをしようと道を歩いていると、妙な気配を感じた。空気が慌ただしく揺れている。鬼の気配だ。だが、何かがおかしい。

 志麻は神経を研ぎ澄ませ、気配を探った。人々の足音の中に、呼吸の向こう側に、雑踏のその先に。

 見つけた。

 志麻は急ぎ足でその気配を追いかけた。行き交う人々の間を縫って、微かな気配を追う。気配は廃寺のほうへと移動している。町の喧騒を抜ける頃、その気配の正体が見えた。

 子供がひとり、ふらつく足取りで歩いている。自分の意志で歩いている様子ではない。その後姿はまるで絡繰人形だ。違和感の正体も今なら分かる。これは、鬼の気配を纏っているだけの、ただの子供だ。歳の頃は五つほどだろうか。深い青色の着物、男の子だろう。

 助けるべきか、否、助けられない。憑依している鬼の気配を祓うことは出来ないだろう。この手の術は、中途半端に解けば必ず奥に根を残す。その根を完全に消し去ることは出来ない。この子供を助けるには、根が育ってから引き抜くほかに方法がない。今はただ、その頼りない背を見送ることしか出来ない。

 収穫はあった。この方法で子供を攫っているのなら、誰にもその手口が分からなくとも当然だ。鬼の気配を纏っている者を、人間は人間として認識することが難しくなる。気配を感じ取る力を持つ者ならば、少しは分かるかもしれない。だが、鬼とも人間とも言えないこの気配は、子供を攫うには十分過ぎる。

 志麻は道を戻り、宿へ向かった。夕刻には先程の子供がいなくなったと、騒ぎになっているかもしれない。しかし、妙だ。カヨの話では、子供が消えるのはふた月に一度くらいの頻度だったはずだ。それが、昨日今日と立て続けになっている。

 焦っているのか?

 志麻は首を傾げた。もしや、榊がただの子供ではないと悟られたか。むしろ、そのほうが少しは都合が良いかもしれない。榊が目覚めているならば、放っておいても自力で脱出出来るだろう。逃げ出していないということは、逃げられる状況にないということだ。あれでもオニカエシ、ならず者くらいどうということはない。

 宿に戻ると女将から手紙を渡された。カヨからだという。予定変更だ。志麻は女将に軽い昼食を頼むと部屋に戻った。ちらりと覗いた庭の洗濯物は片付けられている。まだナギは戻っていないらしい。縄や灯りを机に置き、志麻は窓際の椅子に腰かけて手紙を開いた。

 拙い字のそれは、消えた子供たちの情報だった。情報量は十分だ。これをもとに子供たちの家々を訪ねて歩けるだろう。消えた子供は、十七人。榊と、先程の子供を含めれば十九人になる。この広さの宿場町にしては多いと言えるだろう。カヨの手紙を憲兵の記録帳と比べる。本当に知りたかったのは、この情報の差だ。憲兵と一般人という差ではない。

 これは、子供と大人の世界の違いだ。視野も違えば、視線の高さも違う。見ている世界が違うのだ。窓を開けると湿った風が入って来た。この風も、広がる景色も、子供と大人では違って見えているのだ。

 しばらくして、女将が握り飯を持ってきた。

「すみませんね、カヨが無理を言ったみたいで」

「いや、助かっているよ」

 湿った風を頬に感じながら、志麻は女将に向き直った。

「ひとつ、確かめておきたいことがある。カヨとサチの両親は帝都に逃げたと言っていたが、本当に帝都で暮らしている証拠はあるのか?」

 女将の表情が翳った。

「逃げ出したというのは本当のことだが、帝都に行ったというのは嘘ではないのか? 嘘とまでは言わずとも、そんな確証はない。そうだな、行方不明、いや、消えた。そう、消えたというのが実際のところ、アンタたちが知っているすべてだろう」

 志麻の言葉に、女将は深い息を吐き出した。

「とても、言えなかったんです。あの子たちの母親が、酷い女だったのは本当ですよ。それでもどんな母親だったとしても、あの子たちにとって、母親はあの女だけだった。言えなかったんです。子供を捨てて逃げ出した挙句、行方が分からなくなったなんて」

 女将は窓の外、遠くを見詰めて言った。

「あの夜も、川の水かさが増えて、行商人たちが足止めされていて。誰も渡ろうとはしない川を、ふたりで渡ろうとしていて。アタシはふたりを引き留めきれませんでした」

 空には雲が広がり始めていた。西の空が暗い。聞こえてくる喧噪の中に少しばかりの気怠さが漂う。

「心のどこかで、ほっとしていました。これであの子たちは自由なんだって。だから、引き摺ってまで連れ戻そうとはしなかったのです。アタシ、なんてひどいことを考えたの。どうしてふたりを見逃したの」

「手紙を送り続けているのは罪悪感か。アンタの選択が間違っていたと非難するつもりはない。心に秘めておくということも理解出来る。だが、いつか真実を話さなければならない日が来るだろうな」

「ええ、覚悟はしています」

 志麻は握り飯を片手に往来を見下ろした。どれほど急いだところで川を渡ることが出来ないのは誰もが分かり切っているため、予定にない滞在を楽しもうと決め込んでいるらしい。

「明日の朝、俺たちが帰らずとも心配は無用だ。一晩で片が付くとも思っていないからな。川の流れには注意したほうが良いだろう。今夜の雨次第では氾濫する恐れがある。俺たちなら、大丈夫だ」

 志麻は視線を女将に戻した。

「今は、どう思う。あの姉妹の両親が生きていればと願うか?」

「それは……」

「意地の悪いことを聞いたな、忘れてくれ。アンタはよくやっているよ。義理人情で他人の子供の面倒を見ているんだ。立派なもんさ」

 そう言われた女将の顔は、今にも泣きだしそうだった。宿の女将として、客の前で涙を流すことは出来ない。けれども、ひた隠しにしてきた罪悪感が溶け始めていた。

「さて、と。これを食べたらまた出掛けるとするか」

 志麻は握り飯を口の中に放り込んだ。


 いなくなった子供たちの家々を回り終える頃、雨が降り始めた。道行く人々は皆、家路を急ぐ。志麻は民家の軒先で雨宿りをしながら、人々の姿を目で追っていた。春の雨は冷たく降り注ぐ。

「軍人さん、行くアテがないのかい?」

 家の主人が戸口から志麻に声を掛けた。どうやらここは、船頭のひとりの家のようだ。

「すまない、勝手に軒先を借りている」

「それなら傘も借りていくかい?」

「いや、もう暫くすれば発つ。それまで少し、ここに居ても構わないだろうか」

「見張ってくれていると思うことにするよ。うちにも幼い娘がいてね、ここのところ、子供がいなくなっているだろう。親としても、心配なのさ」

 船頭は志麻の隣に並んだ。

「嫌だねぇ、雨は。気分が塞ぐ。悪いことが起こるんじゃないかと不安になるよ。子供等がいなくなりそうな気がしてさ」

「雨と子供に関係があるのか?」

「いつも決まって、というわけじゃねぇんだけどよ、雨が降る前にいなくなる子供が多いような気がするんだ。こんな、大雨になりそうな日や長雨の頃なんかに、な」

「そうか、なるほど。それは不安にもなるだろう」

 それは新しい視点だった。なかなか興味深い。雨と子供の失踪に関係があるのか、少し調べてみる必要がありそうだ。雨、あるいは、水か。古井戸が関係しているのであれば、水というのは重要な鍵になりそうだ。

「それで、軍人さん。人を待っているのかい?」

「まあ、そんなところだ」

 志麻は通りを見渡した。雨脚が強まってきた。見通しが悪くなっている。水溜りが広がる地面は足場が悪い。船頭と世間話をしていると、やがて雨で煙る通りの奥から走って来る人影が見えた。

「ああ、どうやら現れたらしい。俺はこれで失礼するよ、軒先をどうもありがとう」

 そう言うと志麻は通りに出た。途端に強い雨が全身を濡らす。軍服の色が変わるが、志麻は気にも留めない。泥水が足元に跳ね返ってくる。叩き付けるような雨が少しばかり痛い。

「カヨ」

 志麻が声を掛けると、走る人影は足を止めた。

「お前が廃寺に行ったところで、捕まる結末は目に見えているぞ。どうしてもと言うのなら止めはしないが」

 ずぶ濡れのカヨはゆっくりと志麻に近寄ってきた。

「旦那様」

「サチのことは、心配だろうな。だが、迎えに行くためじゃないだろう? 様子を見に行きたいわけでもない。お前は」

 カヨは暗い瞳で志麻を見上げる。

「妹を憎んでいるからな」

 その言葉にカヨは一瞬、視線を逸らした。

「両親の不在を目の悪い妹の所為にしたい気持ちは分からなくもない。自分だけが苦労を背負わなければならないと、僻む気持ちも理解出来る。お前にとって人生はさぞかし理不尽に見えているのだろうな。だが、それとこれとは話が別だ」

 カヨは唇を噛んだ。志麻は続ける。

「ある種の不幸が誘拐の基準となっているのなら、カヨの不幸は姉から愛されていないことだ。そういう家は、お前たちのところしかない。もう少し意地の悪い言い方に変えよう。両親が帝都に行ってしまったことがサチの所為ならば、サチが連れ去られたのはお前の所為だ。お前がサチを攫わせたんだ」

 カヨの瞳が動揺に揺れた。志麻は口元を歪めて笑った。

「救えと懇願しながら、再会を拒む。面白いな。サチがいなくなれば、お前は自由になれる。だが、サチがいなくなれば、お前は自分の不幸に酔いしれることも出来ない。廃寺に乗り込むのを止めはしないし、その心意気はなかなかのものだよ。だが俺たちはサチのことは助ける心算だが、もしもの時に、俺が、お前を助ける保証はどこにもないからな。そこのところは留めておけ」

「……旦那様は軍人なのに、そのように非道なことを言うのですね。私のような少女が危険な目に遭っても助けてはくれないなんて」

 カヨは苛立ちを含んだ言葉を投げて志麻を睨んだ。子供とはいえども、妹とふたりで生きてきた少女の眼差しは強い。だがそんなサチを志麻は残念、と一蹴した。

「義理も人情も、正義や倫理なんてものは、俺の管轄外でね。だが、もしお前の心に巣食う闇が俺の前に立ちはだかるのならば。その時、俺はお前を救うだろうな」

 それが俺の仕事だ。そう言うと志麻はカヨを残してその場を去った。より一層黒く染まった雲が西の空を覆っていた。

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