第5話 月と遊ぶ 二
その夜、目立たぬようにと着替えを済ませ、志麻はナギとともに宿を出た。向かうのは外れにある廃寺だ。夜も更け、通りを歩く人影はない。灯りは置いてきた。夜目が利くのはナギも同じらしい。羨ましいものだと志麻は思う。こちらは夜目を鍛えたというのに、鬼には最初から夜の闇に紛れる力が備わっている。それはすなわち、闇で生きねばならないという鬼の宿命でもあるが、それにしても便利なものだ。
どこかでフクロウが鳴いている。半月が西に傾いている。雲が流れる風の強い夜だった。
「この調子だと京の都に辿り着けるのは、いつになるか分からんな」
「私ひとりでも上洛くらい出来ますよ」
「先生に任せていると、すぐ厄介事に首を突っ込むから駄目だな。先生が巻き起こした面倒は、どうせ俺たちが片付けねばならない。それなら最初から行動を共にしておくよ」
「悪かったですね、お節介で」
ナギは拗ねた子供のようにそう言った。
やがて、廃寺が見えてきた。入口の門には提灯の灯りが掲げられている。見張りをする者の影が塀に映っていた。志麻とナギは木々の間に気配を潜めて廃寺の様子を窺った。
「何故こうも分かりやすく怪しさを示してくれるのだろうな」
呆れる志麻の横で、ナギは目を細めている。提灯の周りに蛾が集まっていた。
「先生、何か分かりそうかい?」
「あなたも少しはご自分の目で確かめたらどうです?」
志麻は欠伸を噛み殺した。
「人間は専門外だぞ、俺は。鬼なら話は早いが」
「志麻さんだって人間ではありませんか」
「先生には俺が人間に見えるのかい」
「私、人間のことは好きですが、あなたのような人間は好みではありませんよ」
無駄口はもうたくさんです、とナギは志麻の足を軽く踏んだ。志麻は廃寺を見遣った。見張りの男たちは見たところ妖異の類ではないだろう。ただの破落戸だ。彼らの守る門の向こうからは、確かに妖異の気配が漂っていた。
「残念だな、先生。間違いなくこの廃寺には鬼がいるよ」
志麻の言葉に、ナギは横目で志麻を見た。その視線は根拠を求めている。
「隠そうともせずに、鬼の気配が漂っている。一連の騒動がその鬼の仕業ではないにしても、相手方に鬼がいる。賭けても良い」
だが、ナギは眉間に皺を寄せた。
「これは鬼の気配ではありませんよ。いえ、正確に言えば、私たちはこの気配を鬼とは呼びません」
ナギの整った顔に、明らかな嫌悪が浮かぶ。
「鬼と人間が交わって生まれたもの、あるいは、人間の皮を被る鬼。そういった命の名前を私たちは知らぬが故に、呼ぶこともしません」
「俺たちはそれらも鬼と呼ぶがね」
「それは」
志麻を一瞥した後、ナギは顔を背けた。
「到底、それらを人間と呼ぶことが出来ないからですよ」
そう言ったナギの声は冷たい。しばらくの間、二人は押し黙ったまま廃寺を見ていた。
月がさらに傾き、木々の向こう側に見えなくなる頃、それまで閉ざされていた門が不意に開いた。二人は現れるものを注意深く見た。
ひとりの少女が、何か箱のようなものを抱えて出てきた。箱が重いのか、その足取りは覚束ない。少女はフラフラと森の中へ入ってゆく。志麻とナギは顔を見合わせた。
「俺が彼女を尾行しよう。先生はもう暫く、ここを頼む。夜が明けるまでに俺が戻らなければ、宿で落ち合おう」
志麻がそう言うと、ナギは黙って頷いた。志麻は足音に気を配りながら少女を追いかけた。
少女は灯りも持たずに森の中を歩いて行く。揺れるように、地面を確かめるように、少女はゆっくりと歩みを進める。たとえ歩き慣れた道だとしても、こんな夜中に子供がひとりで迷わずに歩けるような場所ではない。振り向いても廃寺の灯りはすでに見えない。闇が広がっている。木々の間から月と星が僅かに見えるだけだ。
やがて、少女は歩みを止めた。少女の前に古井戸がある。今にも朽ちそうな釣瓶が井戸の中に垂れているようだが、志麻のところからはハッキリとは見えない。
「お稚児さん、お稚児さん」
少女は震える声でそう言った。静寂の森に、少女の声だけが広がる。
「ご飯を、お持ちしましたよ」
手で探るように釣瓶の紐を手繰り寄せ、持ってきた箱を縛った。そしてその箱を井戸の中に落とした。
しかし、釣瓶の紐は少女の足元に絡まっていたらしく、一瞬にして少女の華奢な体が宙を舞った。志麻は咄嗟に胸元から小刀を取り出し、その紐を切った。少女の体は志麻の腕の中に収まり、紐だけが井戸の中に消えた。少女は小さな歯をガチガチと鳴らして震えていた。
「どうか大きな声は出してくれるなよ」
志麻は出来る限り優しくそう言った。少女は憐れなほどに震えている。
「お嬢ちゃん。お前もしかして、サチという名ではないか?」
少女の肩が大きく揺れた。思った通りだ。志麻はサチの頭を撫でた。
「カヨに頼まれて、お前を探しに来たんだ。何も怖がる必要はない」
この暗闇の中を灯りもなしに歩けるのは、闇に慣れている者だけだ。視力の弱いサチならば、道を知っていれば歩けるだろう。箱を投げ入れる一連の動作からは、ここに来るのが初めてだという印象を受けなかった。去年の梅雨の頃から、一年弱、幾度となくこの道を通っているのだろう。
「お姉ちゃんに……?」
サチの震えが止まった。ああ、と志麻は答えた。
「まだ、お姉ちゃん、サチのことを探してくれているの……?」
「ああ。お前の帰りを待っている」
「……嘘よ」
サチは首を振った。
「お姉ちゃんがサチを待っているわけがない。サチなんて、いないほうが良いんだわ。サチがいなければ、お姉ちゃんはお父さんたちと帝都にだって行けたのに」
そう言うとサチの瞳から涙が零れた。
「まあ、そのあたりのことは本人に聞いて確かめるのが一番早いだろう。兎にも角にも、俺はカヨからお前のことを頼まれたし、何より俺の連れも巻き込まれているからな、首を突っ込まないわけにはいかない」
志麻はサチを立たせると、古井戸を覗き込んだ。底は暗く、水があるのかどうかも分からない。微かに、風が通る音が聞こえる。
「この井戸は?」
志麻は振り返ってサチに尋ねた。
「お稚児さんが、いるの」
そう答えたサチの声には恐怖が滲んでいる。
「サチの仕事は、毎晩、お稚児さんにご飯を運ぶこと」
「お稚児さんというのは?」
「分からない……」
なるほど、と志麻は再び井戸の底を見た。目が殆ど見えないサチには適任だろう。お稚児さんとやらの姿を確認することもなく、森を通り抜けて逃げ出す心配もない。
「他の子供等は?」
「みんな、昼間は山の中で、夜になるとお寺に帰ってくる。山で何をしているかは分からない。でも帰ってこない子もいる。その子たちがどうなったのか、怖くて聞けない」
「昼頃、新しい子が来なかったか?」
「……変な子が、来た」
サチは日中のことを思い出すように、首を少し傾けた。
「あの子、なんだか……不思議な匂いがした」
「匂い?」
「あなたは花の香りがする」
そう言われた志麻は、自分の袖のあたりを嗅いでみたが、香りは分からなかった。おおかた、ナギが纏う香りだろう。男の移り香とは少々癪だが、今はむしろ都合が良い。その香りを覚えておけ、と志麻はサチに言った。
「お嬢ちゃん、鼻が良く利くらしいな。そうなると、耳も良いほうかい?」
「耳は……分からない。でも、お姉ちゃんが帰って来る足音は分かる」
「なるほど」
志麻は息を吸い込んで周囲の匂いを嗅いでみたが、森の匂いだけだ。
「それならお嬢ちゃん、ここへはどうやって来るんだ? 音かい、匂いかい、それともその両方の足がもうこの道程を覚えてしまっているのかい」
「声」
サチはそう短く答えて、一度息を深く吸い込んで、長く吐き出した。
「お稚児さんの、声が聞こえるの。こっちへおいで、と呼ぶ声が」
「へえ、それは」
難儀な。志麻は最後の言葉を飲み込んだ。
「もう少し、尋ねても良いかな。それとも戻らなければならない時間かい?」
「……戻らなきゃ」
廃寺の方向を振り返ったサチが答えた。
「ちなみに、帰り道はどうやって?」
「それも、声。別の声。戻っておいで、と。今も、聞こえている」
サチの答えに、志麻の顔が歪む。しかし、サチは志麻の表情の変化には気が付かないだろう。
「そうかい、気を付けて帰りな。もし、誰かに今夜のことを尋ねられたならば、妙な男に会ったと答えておけば良いだろう。また会おう、サチ」
志麻はサチを森の中に送り出した。その小さな背中がやがて闇の中に見えなくなり、静寂が訪れた。
「お稚児さん、ねぇ……」
古井戸の淵に腰掛けて、志麻は井戸の底を覗き込んだ。足元に残っていた紐を投げ入れてみたが、返ってくる音はない。明日は灯りと縄を持ってこなければ。志麻は古井戸の森を後にした。
廃寺まで戻ってくると、ナギはまだ木々の間にいた。
「収穫は、先生?」
ナギは黙って首を振った。
「志麻さんのほうは、いかがでしたか? 少し前にあの女の子が戻ってきましたよ」
「あれがサチだ。初日に安否が分かるなんて幸先が良いぞ」
そう言った志麻が宿場町のほうへと踵を返して歩き始めたので、ナギはそれに従った。
「もう良いのですか」
「そりゃあね、先生。知りたいことは色々とある、調べたいこともあれこれとある。だが、睡眠は大事だぜ。夜は眠るものさ」
志麻は早足で先を行く。ナギは言いたいことがまだあるようだったが、黙って付いて来た。月はもう見えない。ただ朝の訪れを待つ静かな時間だ。
宿に戻ると、番頭は眠りこけていた。部屋はナギのおかげで整然としていた。汚れた布団が替えられている。志麻は窓際の椅子に座り、ナギは壁際の椅子に座った。
「さて、先生。明日の夜は丈夫な縄と灯りを持って森の中に行く。生憎、俺はあの森を迷わず歩ける自信がないからな、サチを尾行する」
「森の中に、何かあるのですか?」
「古い井戸がある。その中に、何かがいる」
「井戸ですか。それは気になりますね」
ナギは興味を持ったようだ。
「正体はまだ分からない。暗くて見えないからな。サチが言うには、お稚児さんというものが井戸の底にいるらしい。今の段階では言い切ることなど出来ないが、恐らく、あの井戸はそれを封じるために掘られたものだろう」
「水を得るための井戸ではない、と」
お稚児さんですか、と呟き、ナギは少し考えるように視線を逸らした。
「……心当たりが、あります」
ナギは口元に手を当てた。その表情は険しい。
「どこに伝わる因習なのか知りませんが、昔、知り合いの鬼から聞いたことがあります。人間と鬼の狭間にいる子供を、簡単には出られない場所に閉じ込めておくのだそうです。たとえば重い扉に閉ざされた蔵の中。深い谷底。見放された坑道。塞いだ木箱。最低限の食事だけを与え、様子を見るのだと」
薄暗い部屋の中にナギの声が響く。
「子供は、七つまでは神のものなのだそうですね。人間の信仰は分かりかねますが、そう聞きました。だから、自分の力ではどうすることも出来ない状況に閉じ込めるのだそうです」
「つまり?」
「そこから出られずに果てれば、それは人の子、神の子です」
「出ることが出来たならば、それは鬼の子と? 逆ではないのか。生還こそが神の子の証では?」
「井戸に落とされ、底から這い上がり、戻ってくる。それを人間は、鬼と呼ぶのでしょう?」
冷たい声が夜の静寂を揺らした。
これは、怒りだ。志麻はそう感じた。人間にも鬼にもなれない命を生み出す者たちへの怒りだ。自分への戒めだ。
「先生は良い。喜怒哀楽の分かりやすい鬼だ」
「褒めていませんよね」
頬を膨らませたナギを見て、志麻は笑った。
「いいや、俺なりの賛辞だよ。先生は分かり易い。その怒りも、嘆きも、喜びも、幸福も、先生の感情は、俺にだって理解出来るものだ。まるで人間と話をしているようだよ」
軍靴の紐を解きながら、志麻は続ける。
「榊をご覧よ、先生。あれは俺の手には負えない」
「まさか、見捨てるなんて、考えてはいませんよね」
「手には負えないが、あれを手放すつもりもない」
脱いだ軍靴を隅に並べる。
「……人のことを、あれなどと呼ぶのは感心しませんよ」
「それは対象が人だった場合だろう、先生。あれが人間に見えるとアンタは言ったな。ああ、その通りだろう。何に見えると問われたならば、人間に見えると俺だって答えるだろう」
軍服の上着を脱ぎ、肘掛に掛ける。シャツの首元を緩めて、志麻は立ち上がった。
「だが、正直なところ、あれの呼び名を俺は知らない。榊とは、俺が名付けた。ただの仮初の名に過ぎない。そのような訳の分からない存在を野放しにしておくつもりなどない。他の誰かに任せるつもりも、ない」
帯革や衣服の裏に隠し持っていた小さな武器を取り外し、近くの机の上に置いた。身軽になった志麻はベッドに飛び込んだ。西洋の寝具は、なかなかに寝心地が良い。
「俺は榊に対する責任を放棄するつもりなどない。その正体が何であっても、本質がどのようなものであっても。人間だろうが鬼だろうが、関係のないことだ。あれは、俺に預けられた名だ、俺が還すべき命だ」
柔らかな布団に顔を埋め、くぐもった声で、志麻はそう言った。
「たとえば先生が言うように、人と鬼の選別をあの井戸で行っているとして、それならば何故、子供たちが攫われたのだと思う?」
志麻は寝返りを打ち、仰向けになった。足元のほうに座るナギが動く気配を感じた。
「そうですね……。目ぼしい子供がそう何人もいたとは、考えられません。対象となる子供だけを攫ってしまえば、その傾向が分かってしまいます。ですから、理由を誤魔化すために関係のない子供も巻き込んだ、そのようには考えられませんか」
「なるほど、一理ある」
「志麻さんならば?」
「俺は、そうだな」
ナギに尋ねられて、志麻は苦笑した。
「我が子の友を、願うだろうか」
志麻は目を閉じた。ナギはそれ以上何も言わなかった。しばらくすれば夜も明けるだろう。朝になればまた、町中で話を聞かなければならない。カヨに妹の無事を知らせてやることも忘れてはいけない。果たしてナギの話は正しいだろうか。
目を瞑ったまま、志麻は深く息を吐いた。自分らしくもない、そう思う。焦りや不安を表に出したくはないが、榊に対する思いをナギには打ち明けた。平静を装って、見えないところでは存外に執着しているのだ。
ゆっくりと睡魔が思考を蝕む。朝が来たら、明るいうちに、もう一度、廃寺を見に行こうか。それとも。
「志麻さん」
思考の向こう側からナギの声がした。志麻は声を返さなかった。
「あなたはどうか、私とトウカのような結末だけは、迎えないでくださいね」
分かっている。志麻は頭の中で返事をした。そんなことくらい、俺にだって分かる。ナギの寂しい声が眠りの奥に沈んでいった。
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