第3話 春を乞う 三(終)
太陽は山の向こうに沈んだ。ナギは里の皆に篝火の道の外へ出ているように指示をした。家の中に隠れる者、芽吹きを待つ田畑に伏せている者もいた。志麻は道の中央で仁王立ちしてその時を待っていた。
まだか、いや、もう来る。
唐突に一陣の風が道を吹き抜けた。枯草がざわめき、木々が揺れ、山が低く唸る。天を仰げば雲が流れ、澄んだ空に星が瞬いていた。ああ、なんと美しい星空なんだ。志麻は目を細めた。突風に篝火が大きく揺らいだ。だが消えることはない。
来る。闇に紛れた鬼の気配が風に乗って急速に近付いてくる。大地が震えている。
今こそ、決着の時だ。
志麻は腰の刀に手を掛け、一気に引き抜いた。虚空を斬り裂いたはずの刃は硬いものに当たって弾かれた。ガチンという鈍い音が里に響き渡る。刀を握る手が痺れる。あの桜の、芳醇で妖艶な濃い花の香りがした。
「腕節は、なぁ、からきしじゃあなかったのかい、先生?」
志麻の前、間合いの外にナギが立っていた。左の手足を前に出し、右の手足を後ろに引く。組み手の構えのようだが、どうにも違う。まるで舞踊のようなしなやかさが凛と伸ばされた手足から感じられた。
「ええ、腕には自信がありません」
ナギは左足を上げ、勢いよく踏み下ろした。地面が地鳴りのように激しく揺れた。ナギは踏み込んだ勢いのまま志麻の懐に入った。回されたナギの右足が志麻の左の脇腹を的確に蹴り飛ばした。
「ああ畜生、痛いな。脚には自信があるみたいで、何より」
志麻は刀を握り直した。
「いつから気が付いていました?」
「はじめから、だな」
志麻の一閃をナギはひらりと身を翻して避けた。志麻が追撃を繰り出すも、ナギは身をかわす。その姿は踊っているようにも見える。
「動かないでくれよ、先生。斬れないだろう」
「申し訳ありませんね。ですが、まだ斬られるわけにはいかないので」
ナギは志麻の刀を蹴り上げた。志麻の手を離れた刀は地面に突き刺さった。だが志麻は楽しげに口元を緩めた。
「けれども、志麻さん。あなただってまさかこれで本気というわけではありませんよね」
「ああ、まだ斬るわけにはいかないからな」
刀には見向きもせず、志麻はナギが繰り出す蹴りを片手で捌いた。体勢を崩したナギはすかさず地面に手を付いたが、その手を志麻が足で払った。ナギは勢いよく俯せに倒れた。
「悪いな先生、これでも俺は軍人でね。そこらの人間より少しは心得がある。逃げてしまっても構わなかったんだ、先生。俺からすれば里に春が戻れば、それで任務は終わりなんだからな。鬼の行方はまた今度ってな具合に」
志麻は刀を引き抜いて鞘に納めた。ナギは仰向けになって答えた。
「もうこれ以上は逃げられないと、私だって分かりますよ。私にだって、それくらいの諦めと覚悟はあるのです」
「それならどうして別れ難くなるような日々を送っていたんだ。里の連中は皆、お前のことを慕っている」
「あれもこれも、すべてトウカのために決まっているではありませんか。あの子が穏やかな日々を過ごせるように、私のすべてを捧げてきたのです。だから」
そこまで言いかけたナギは勢いよく起き上がると志麻の顔面を思い切り蹴り飛ばした。
「まだ終わるわけにはいかないのですよ」
ナギの脚を防ぐことの出来なかった志麻の鼻から血が流れる。それを手で拭って志麻は血が混ざった唾を吐いた。ナギは再び構えている。先程よりも瞳の力が強い。これ以上、攻撃を喰らうのはさすがに危険だ。そう判断した志麻はナギと向き合った。
「言い訳は考えていたのかい?」
「……言い訳、ですか」
「里の連中の信用や信頼をどうするつもりだと聞いている。ほら、皆が俺たちのことを見ているぞ」
志麻が視線を篝火の外に投げると、ナギもそちらを見た。里の者達が身を伏せたまま息を潜めて志麻たちの様子を窺っていた。何が起こっているのか、理解が追い付いていないのだろう。ナギの登場に戸惑いを隠せないままでいるようだ。
「先生」
そう呼んだのはイスケだった。イスケは畑から這い出して篝火の傍に立った。
「先生、どういうことだよ。どうしてオニカエシの兄ちゃんと戦っているんだよ」
「イスケ。私には、やらなければならないことがあるのです」
「鬼なのか?」
イスケの声が震えていた。その幼い脚も腕も震えている。小さな体が、それでも篝火に照らされて立っている。
「先生は鬼なのか?」
ナギは構えていた両腕を下ろした。
「イスケ。私が鬼に見えますか?」
山から緩い風が吹いていた。焚かれた火が空を焦がす。炎が里を橙色に染めていた。ナギの声は優しさを保っていたが、イスケは震えたままだった。否定することも肯定することも出来ず、けれども目を逸らすことも厭われた。ナギと過ごした二年間が、現実を否定しているのだ。
「ずるいよ、先生。答えてよ。先生は鬼なのか、そうじゃないのか」
「自分の目で確かめてみるか?」
志麻は素早くナギの懐に入り込み、襟を掴んで組み伏せた。ナギは顔面から地面に叩き付けられるようにして倒れたが、志麻は気にする様子もなく馬乗りになり、すかさず上着の中から札を取り出して、後ろに回したナギの腕に貼って動きを封じた。
「この男が、ただの怪しい優男か、それとも里の春を遠ざけた鬼か。自分の目で確かめれば納得するだろう」
ナギが呻く。志麻は鞘に仕舞ったまま刀をナギの顔の傍に突き立てた。
「やめてよ!」
イスケが悲鳴を上げた。
「先生をいじめないでよ! 鬼でも何でもいいよ、先生は先生だよ! 母ちゃんの病気を治してくれたし、みんなの怪我も病気も、みんな先生が治してくれたんだよ!」
「そうか、それはよかったな。健やかに暮らせて万々歳じゃないか」
志麻はスラリと刀を抜いた。
「人非ざる者ならば、この程度の刃で落ちる首でもなかろうに。試してみようか、なあ先生」
刃が赤く光る。周りの田畑から里の者達の声が飛んでくるが、志麻は敢えてそれを無視した。誰も篝火の道の中には入ってこない。この道は、人非ざる者の道だ。踏み外す覚悟などこの里の誰にもありはしない。そんな必要など無い。
志麻は刀を振り上げた。
だが、その刀が振り下ろされることはなかった。
乾いた音が響き、刀身の半分が志麻とナギの前方の地面にざっくりと突き刺さっている。志麻の手の中には半分に折れた刀があった。志麻は振り向きもせずにゆっくりと言った。
「お見事。良い腕だ」
そして折れた刀を鞘に戻し、ようやく振り返った。
「だが、狙いが悪い、全くもって駄目だな。ちゃんと俺を狙えよ。心の臓を」
ふたりの斜め後ろでミヤマが猟銃を構えていた。銃口からまだうっすらと煙が上がっている。道の外から志麻の刀を的確に狙い撃ったらしい。その腕前は素直に感心するが、けれども覚悟が足りない。
「次は狙うさ」
「ああ、是非そうしてくれ。頭でも心臓でも、撃ち抜いてみせてくれよ」
志麻はナギの上から降りた。ナギは腕を背中に回したまま動かず、低く唸っただけだった。まるで嗚咽を我慢しているようだった。志麻は天を仰いだ。もう夜だ。そろそろ月が昇る頃だろう。志麻はナギの傍らに屈んだ。
「どうするんだよ、先生。この日が来ることくらい、分かっていたはずだろう? 今更、何を躊躇う必要があるんだ」
「……こんなこと、言いたくはありませんけれど、あなたには分かるはずもありませんよ」
ナギは鋭い瞳で志麻を睨んだ。やれやれ、と志麻は肩をすくめた。背後から榊が駆けてくる軽快な足音が聞こえてきた。これで二対一だ。
「志麻さん、風は吹きましたか?」
榊は志麻の後ろに控えた。
「ああ、見ての通りさ。ご苦労だったな」
「捕縛しても?」
「いいや、もう少し待ってくれ」
待ってくれ、と志麻は繰り返した。緩い風が生温かくなる。木々のざわめきが大きくなり、雲の流れが速まる。榊はぐるぐると辺りを見回した。
「志麻さん、これは?」
「……春の嵐というやつさ」
そう言うと志麻は折れた刀を再び鞘から抜き、風を斬った。瞬間、篝火の炎が緑に色を変えて一斉に揺らめいた。倒れたままのナギの背に片足を乗せて、志麻は次の一閃を放った。今度は一気に風が押し寄せてきた。強い向かい風に志麻の軍服が大きくはためいた。志麻は後ろの榊に覆い被さるように上半身を捻った。榊の軍帽が飛ばされていく。田畑に伏せて様子を窺っていた里の者達は飛ばされまいと更に姿勢を低くして耐えていた。イスケも大人たちに抱えられるように茂みの中に伏せていた。
唸るように、吠えるように、嵐が近付いてくる。それは乱れた季節が廻りはじめる音でもあったし、鬼の叫び声でもあった。里の者達の悲鳴が掻き消される。
「兄さん」
旋風の中から掠れた弱々しい声が、けれども、しっかりと聞こえた。
志麻は身を翻し、ナギの後ろ首を掴んですぐさま数歩後退した。次の瞬間、それまでナギが倒れていた場所に木の大きな枝が吹き飛ばされてきた。折れた枝葉が志麻の顔の辺りまで弾けるように掠めた。
「後生よ、志麻。兄さんを責めないで」
「トウカ!」
ナギが叫ぶように名前を呼んだ。
「来てはいけません、トウカ。戻りなさい、戻りなさい!」
けれどもトウカは笑ってそう言いながら炎の道の内側に入って来た。境界を超える一瞬、トウカの体が緑の炎に包まれた。顔の大部分は包帯に隠されて素顔は見えないが、トウカは笑ったのだと志麻は感じた。その瞳が、炎の光を反射して輝く。
「ねえ、志麻。分かっているのでしょう?」
「……何のことだか」
志麻がそう返すと、トウカは志麻たちに背を向けた。
「みんな、聞いて」
トウカのその声に嵐が静まる。そよ風がさやさやと里を抜けた。里の者達は心配そうに田畑から顔を上げた。
「鬼は、わたし。この里から春を奪ったのも、山から生き物がいなくなったのも、すべてわたしの所為なのよ。だから、兄さんを責めたりしないで」
里の者達は互いに顔を見合わせた。トウカが何を言い出したのか、理解しかねている。
「トウカが鬼だなんて、信じないぞ!」
茂みの中からイスケが飛び出した。他の者達も次々と這い出して道の向こう側に並ぶ。
「オニカエシめ、鬼が見つからないから先生たちの仕業に仕立て上げるつもりだな」
「騙されんぞ!」
「そうよ、信じないわ!」
口々にそう言いながら、中には石を投げてくる者もいた。志麻はそれを避けようとはせず、ただ黙って見ていた。頃合いか、志麻は目を瞑り、深く息を吐いた。このまま鬼を守り里が滅びる道を選ぶならば、それもひとつの選択だろう。けれども、そんなことはもう、終わりにしよう。志麻が目を開いたその時だった。
「もう良いから!」
足元に座り込んでいたナギが突然声を張り上げた。里の者達は口を噤み、トウカはナギを振り返った。瞳は驚きに見開かれている。ナギは志麻が貼った札を裂き、その両手で顔を覆い、今度は呟くように繰り返した。
「……もう、十分ですから」
諦めた声が静まり返った里に響いた。
ナギはゆっくりと立ち上がり、顔を上げた。
その額には、二本の角があった。
「鬼は、この私です」
里の者達が息を飲み込むのが分かった。額から生えるその角は、否定のしようがない。人非ざる者、その証なのだ。
「志麻さん、お手間を取らせて申し訳ありません。ですが、これで良いのです」
そう言った声は、いつものナギのものよりも低く響いた。
「罰するならば、私を、責めるならば、他の誰でもなくこの私を。トウカが何と言おうとも、私がこの状況を招いたのです」
ナギは膝を折り、額を地面に着けた。
「……先生」
「里の皆さんを巻き込んだこと、ここにお詫び申し上げます。信頼を裏切ったことも、正体を偽っていたことも、全て、どれほどの罪でしょうか、償い切ることなど出来ないとは承知の上です」
「先生、顔を上げてくれよ」
ざわめきが波紋のように里の者達の間に広がった。
「皆さんが私たちを受け入れ、トウカに変わらぬ愛情を注いでくださったこと、感謝の気持ちは言葉で表し尽せないほどです。今日という日まで本当に、本当にありがとうございました」
「何を言っているのさ、先生。そんなの、当たり前のことじゃないか」
「その当たり前が、私にとっては何よりも欲しかったものなのですから。……トウカは」
ナギは一度深く息を吸ってゆっくりと吐き出し、言葉を紡いだ。
「トウカはご存知のように見目が良くありませんから、行く先々で化け物と罵られました。そればかりは私の知識ではどうすることも出来ず、自らを情けなく思う一方で、おおよそ人との交わりは叶うことのない夢だと覚悟をしながら旅をしておりました」
「何を言っているのさ、先生。少しくらい見た目がどうこう、関係のないことだろ」
「そうよ、先生」
里の者達はそんな言葉を口々に掛けたが、ナギは首を振ってそれを否定した。
志麻は後ろ手で榊に指示を出す。いつでも動ける準備をしておけ。
「信じないぞ! オレは信じない。トウカも先生も鬼なんかじゃない! 絶対に信じない」
イスケはそう声を上げると、道の内側に飛び出し、トウカの手を引いて身を翻した。緑のない畑をふたりは走り去る。志麻はふたりを追いかけるよう、背後の榊に手で指示を送る。しかし、榊が駆け出した瞬間、乾いた銃声が里に響いた。
一瞬の間があった。世界がゆっくりと動くような感覚に襲われる。膝から崩れた榊を志麻は両手で支えた。
「榊」
胸を押さえた榊の顔が苦しげに歪む。呼吸が荒い。田畑を見やれば、ミヤマの猟銃から煙が出ていた。お見事、志麻は口角を少し上げた。
「先生、こっちだ!」
イスケの行動に、里の者達は心を決めたらしい。オニカエシは敵だ、と。イスケとトウカを助けるために駆け出す。そんな喧噪の中、ナギは里の者達と倒れた榊を何度も見比べ、躊躇した末に榊の傍らに膝を立てて座った。
「何をしているんだ、先生。早く逃げろ!」
里の者達がナギの逃亡を助けようと道を作り手招きをして待っている。だが、ナギは頭を振った。
「私のことはもう良いのです。どうかトウカをよろしくお願いします」
「でも、先生」
「この子を置いて逃げれば、私はただの鬼でしかありません。私はまだ、ただの鬼にはなりたくありませんから」
そう言うとナギは袖をたくし上げた。
「弾は貫通していますか?」
「先生」
志麻は小声で話し掛けた。
「お気になさらず。体を起こしますよ」
「いや、先生、違うんだ」
手当てを施そうとするナギを志麻は手で制した。ナギが怪訝な顔で志麻を見る。志麻は榊の傷を手で押さえた。流れる血がその手を染める。
「榊、聞こえているな。衝撃は強いが、たいした傷ではない」
「志麻さん、あなた何を言っているのです」
「繰り返す。衝撃は強いが、たいした傷ではない。傷口はすぐに塞がる。お前は立てる。お前なら出来る。ほら、目を開けろ」
志麻の声に、榊はゆっくりと目を開けた。その瞳は暗い。
「そうだ、良い子だ。ふたりは北西へ逃げた。意識は問わないが、どちらも欠損なく捕縛しろ。特に片方はただの子供だ。力加減に注意しろ」
虚ろな瞳も瞬きをすれば再び光を宿す。榊は地面に手を付いて立ち上がった。ふらつく足元はすぐに力強く地面を踏んだ。その様子をナギも、そして里の者達も呆然と眺めているだけだった。ただ志麻の口だけは怪しく弧を描いていた。
「さて、榊。ふたりを頼めるか?」
榊が志麻を振り返った。軍服の胸元が深紅に染まっている。榊はニッと歯を見せて笑う。
「もちろん、榊に任せてください。鬼追いは得意ですからね!」
そう言うと榊は軽やかに駆け出した。志麻は立ち上がると、軍服の衣嚢から白い手袋を取り出して両手にはめた。右手だけが赤くなるが志麻は気にも留めず、膝に付いた土埃を払った。辺りを見回す。里の者達の表情が畏怖に染まってゆくのが分かった。
「……それで、まだ俺の邪魔をするつもりか?」
そう言いながら、志麻は刻んだアザミの葉を近くの篝火に放り込んだ。篝火は緑色の大きな火柱を上げて、すぐに元の橙色の炎に戻った。背後でナギが力なく座り込むのが分かった。
「もう仕舞いかい、先生?」
「御冗談を。私は強い鬼ではありませんから。本来ならこの結界の中など、立っていられるはずもないのです」
ナギは地面に寝転がった。整った顔も、二本の角も土で汚れる。
「ああ、二年。たったの二年。人間として生きた日々、矢のごとく過ぎ去った日々でした」
楽しかったなぁ。ナギはそう呟いて、深く息を吸い込んだ。里の者達は長の指示で、長とフジを残し、皆それぞれの家に渋々帰っていった。緩い風の吹く静かな夜が訪れた。
しばらくして榊が帰って来た。トウカを背負い、イスケの手を引いている。フジが走り寄った。イスケは疲れ切った様子でフジにしがみ付いた。トウカは榊の背でぐったりとしている。ナギもまた、志麻の横にぐったりと倒れたまま動かず、わずかに浅い呼吸を繰り返している。
「ただいま戻りました」
「ありがとう、手間取らせたな。しばらく休んでくれ」
志麻がそう告げると、榊はトウカを志麻に預け、少し離れたところに座った。トウカは起きていた。腕の中のトウカは酷く軽い。本当に腕の中にいるのか、その存在が不確かになる。
「気分はどうだ?」
「もう疲れたわ。体が重くてうまく動かないし、目もあまり見えない。でもどうしてかしら。とてもすがすがしいのよ」
トウカは視線を志麻に投げかけた。
「あーあ、わたし、鬼追いには自信があったのに」
「榊は優秀だからな」
「わたしが元気だったら、きっと勝てた」
「さぁて、それはどうだろう」
志麻がそう言って笑うと、トウカは少し頬を膨らませた。そして小さな溜息をひとつ、それから顔の包帯に手を掛けた。
「わたし、ずっと覚悟はしていた。日に日に体力が落ちていく、具合が悪くなっていく。もう長くはないんだって知っていたわ」
几帳面に巻かれた包帯の下にあったのは、目を背けたくなる程に酷く爛れた皮膚だった。とても美しいとは言えない。赤黒い痣や腫れが広がり、あまりにも痛々しい。
「ねえ、化け物みたいでしょう?」
「どうだろう。仕事柄、化け物のようなものはよく見る。お前は、まあ、そう悪くはないぞ」
「志麻はずるいのね」
細めた目の片方は白く濁っていた。トウカの言う通り恐らくはもうほとんど見えていないだろう。
「兄さんは、大丈夫だと言ってくれるけれど、それはわたしのために嘘をついているだけよ。いつも笑顔を繕っているの。本当はね、少し嫌なの。兄さんが嘘つきになってしまう」
トウカはそう言って、困ったように笑った。
「ねえ、志麻。兄さんは悪いことをしたの?」
「これは善悪という話じゃない。赦してはいけない、ただそれだけのことだ」
「そう……」
トウカは視線を遠くに投げた。ふと見れば、篝火のほうから長がこちらの様子を窺っていた。
「志麻さん」
「ああ、里長。顛末を見届けてくれるのかい?」
「里の者達に伝えねばなりませんから」
「そうだな、そうしてくれると有難い。俺たちは夜明け前にこの里を発つだろうから」
「里の異変は一体、何だったのでしょうか?」
志麻は少しだけ考えてから口を開いた。
「鬼というのは、人間とは異なる生き物でね。生きていく方法も違えば、身体の仕組みも異なる。そして大きな違いは、妖の力を持つということだ。空を飛び、傷を癒し、幻を見せ、嵐を呼ぶ。その力の限度をどれだけ信じるかは、まあ別としてな」
一度言葉を切ってから志麻は続けた。
「里に春が来なくなったのは、この一帯の山から生命力が奪われたからだ。山の生命力というのは、芽吹き伸びようとする植物本来の成長の力とでも理解してくれて構わない」
「しかし、それではなぜ季節まで止まったままだったのでしょう?」
「それには別の理由がある。実際には、止まっていたというわけではないんだ。ただ、あまりにも時間がゆっくりと流れていたために、止まっていると認識していただけのことだ。生命力を奪い、変化を緩やかにする。それらはすべて鬼の為せる技さ。なあ、先生?」
志麻は横になったままのナギに声を掛けた。ナギは億劫そうに頭を上げたが、すぐに再びぐったりと地面に頭をつけた。余程、結界が堪えるのだろう。
「……里を囲う山々の活力をトウカに流し、時を遅らせました。そうすることでトウカが一日でも長く生きられる、それが何よりも幸せなことだと思っていました」
ナギの言葉に、トウカが志麻を見た。その瞳は輝きを失いつつある。
「トウカと出会ったのは、五年前の冬のことです。あの年は夏から天候が悪く秋の実りもない凶作の年でした。こちらの地方はそうでもありませんでしたからご存知ではないでしょうけれど、特に西の方は酷い有様だったのですよ。当時の私は山奥の廃れた社に間借りしていました」
あれは雪の降りしきる夕暮れのことでした。ナギはそう話し始めた。
山で食料を探していると社の方向から生き物の気配があった。獣が出たところでナギの相手ではないから警戒はしなかったが、近付くにつれてそれは不穏な気配に変わり始めた。獣と血の匂い。ナギが慌てて社に戻ると、そこには幼子の死体があった。凍える寒さの中、山で道を失ってここまでやって来たのか、動けずにいたところを、腹を空かせた獣に襲われたのだろう。珍しくもない。厳寒の中、どこもかしこも死が蔓延している。
柔い肌は引き裂かれ、無惨にも白い骨が覗いていた。血飛沫が白い境内を鮮やかな赤に染め上げ、そこだけが別の世界のように感じられた。身に着けていたであろう衣はどれも、あまりにも薄い。貧しい家の子供だったのだろう。ナギは辺りを見回した。履物がない。素足のままここまで来たとは考えにくい。口減らしだ、とナギは深く溜息を吐いた。ここに捨てられたのだ。帰ることの出来ないように、履物は与えられなかった。せめて弔ってやろうとナギは幼子の傍に身を屈めた。
死体がピクリと動いた。ナギは息を飲んだ。死んでいると思ったその子供は生きていたのだ。ナギは酷く狼狽した。処置の道具などこの社にはなく、最も近い医者までは山を三つも越えなければならない。とても止血すればそのうち治る程度の傷ではない。
「それで道を踏み外したのか?」
「当たり前でしょう、考えるまでもありませんよ。助ける方法は、ひとつしかない。鬼の力を使えば、この子は助かるのです」
「どうして助けた?」
志麻の言葉に、ナギは鋭い視線で志麻を睨んだ。
「まさか見殺しにしろと言うのですか?」
「俺は看取ってやるべきだったと思うがね」
「目の前で潰えようとしている命を助けることの何が悪いのです。名前さえ与えられず、呼ぶべき名も知らず、ひとり死んでいく命を、どんな方法を使ってでも助けようとするはずでしょう?」
「いいや、それは違う。確かに、その志は立派だ。共感は出来ないが理解は出来る。だが何故トウカに手を差し伸べた。何故トウカを化け物にした。もうトウカは人間として死ぬことなど出来ない。どうして人間として死なせてやらなかった!」
志麻はナギを見た。ナギは唇を噛んで耐えている。それは怒りなのか、悔しさなのか、あるいは嘆きなのか、志麻には分からない。
「先生。人間は人間として、鬼は鬼として、生まれ、生き、そして死ぬべきだ。その道筋を変えてはいけない。誰もが穏やかな日々が永遠に続くことを祈る。愛しい者達が健やかに永らえることを願う。だが、それは命の在り方を歪めてまで叶えられるべきものではない。分かるだろう、先生?」
「けれども、助けられるのに……救えるのに……そんなこと、あまりにも」
その先の言葉は紡がれることなく、ナギは両手で顔を覆った。肩が震えている。長は複雑な表情でナギを見ていた。
「でもね、志麻」
腕の中のトウカが志麻の軍服を引っ張った。
「幸せだったのよ、わたし。兄さんと過ごした日々は、とても楽しかった。読み書きも出来ないわたしのために、兄さんは毎日たくさんのことを教えてくれた。わたしの世界は、うんと広がって、この里の星空よりもずっと輝いていたのよ」
トウカがはにかむ。瞳は今にも涙に崩れそうだった。
「わがまま、たくさん叶えてくれた。髪を結ってくれた。かわいい着物も買ってくれた。友達がほしい、人間と暮らしてみたい、花見をしてみたい。ちゃちな願い事を兄さんは何でも聞いてくれた」
そう言うとトウカは激しく咳き込んだ。おおよそ人間の血液とは異なる黒い血を吐いた。だが、それでもトウカは言葉を紡ぎ続ける。
「兄さんがどれほど責められようとも、兄さんがわたしに与えてくれた時間は、いっとう幸せだったのよ。トウカという名前も、とてもほこらしく思っている。わたしのこの気持ちは誰にも否定できないはずだわ。もちろん、志麻にも」
志麻は片手にトウカを抱き、もう片方の手でナギを引っ張り起こした。そして、ナギの腕の中にトウカを返す。ナギの薄紅色の唇に血が滲み、眉間に深い皺が寄っている。それでもその顔は美しい。この世の者ではないかのように。
「トウカ。私は駄目な兄でしたね」
「ええ、そうね、兄さん。あなたは鬼の力を、わたしなんかのために使ってしまった。おかげでわたしは化け物になってしまったし、里のみんなも困ってしまったわ。春を待ちわびていたのに」
けれど、とトウカは言った。瞼が重そうに、鈍い瞬きをする。
「兄さんはわたしに、生きろと言ってくれた。そのことば、わたしがどれほど、うれしかったか」
ナギはトウカを強く抱き締めた。トウカのボロボロになった手がナギの背中に回された。
「わたし、もう、さびしくない」
徐々にトウカの身体が緑色の炎に包まれる。それでもナギはトウカを離しはしなかった。腕の中の炎は弱く揺らいだ。淡い光が天へと昇ってゆく。
「先生」
志麻はナギを呼んだ。
「そろそろ、還そう」
志麻の言葉にナギは頷いた。
「トウカ、凪燈火、私の大切な妹」
名前を呼ぶ声に、抱き締める腕に、ナギはありったけの愛情を込める。トウカは幼い子供をあやすようにナギの背を撫でた。
「燈火」
「にいさんのこと、だいすきよ」
そう言ったトウカの声は笑っていた。その刹那、ナギの腕の中でトウカは燃え上がった。一瞬だけ里をまるで昼間のように明るく照らし、炎はすぐに消えた。時を同じくして、篝火の炎も燃え尽きた。あとには何も残らなかった。静かな宵闇だけが広がっていた。
静寂を破ったのは鬼の慟哭だった。山々に谺する獣の咆哮のようなその声は、けれども確かに泣いていた。
志麻は折れた刀の切っ先を回収し、軍服の上着を脱いで、寝息を立てている榊の肩に掛けた。春の夜風はまだ冷たい。
そうしてしばらく黙ってナギを待っていた志麻だったが、手持無沙汰に耐えかねて、嗚咽を漏らすナギに声を掛けた。
「先生、生まれは?」
うまく呼吸の出来ないナギは声を詰まらせながら答える。
「き、京の、に、西方の、や、山です」
「ほう、京の都か。山ということは、依り代は木か?」
「あ、う、や」
「先生、深く息を吸い込んでみろ。ゆっくりで構わない。先生のことを聞かせてくれ」
ナギは幾度か深呼吸を繰り返した。吸っては吐いて、吸っては吐いて。ようやく呼吸が整った頃には、表情もいくらか落ち着いていた。
「もう平気です、すみません」
これほど泣く鬼も珍しいものだと感心していた志麻は曖昧に頷いた。今まで相手にしてきた鬼のどれもナギほど感情豊かではなかった。角がなければ確かに人間との区別はつかない。
「私が依り代にしていたのは、一本の山桜です」
「やはり桜だったか。昔から桜には美しい鬼が憑くと言われているからなぁ。それで、どうして山から出てきたんだ」
「私は元来、人間が好きなようでして。花という、愛でられるものが依り代だったからなのでしょうか。いずれにせよ、人恋しさに都へと下りたのです。都でとある屋敷に拾われ、そこで学問や儀礼など、人間たちの中で生きていくすべを身に付けました。薬の知識もその時に教わったものです」
ナギは袖口で顔を拭った。
「名前も、その主から頂いたものです。ナギヤヒコ。静かな心を持てと、恥ずかしながらよくお叱りを受けたものですよ」
凪夜彦。ナギは地面にそう書いた。
「私の振る舞いは、うまく人間に溶け込めていましたか?」
ナギは振り返ると里長に尋ねた。
「先生には何か深い理由があるのだと察していましたが、まさか、鬼だったとは。どこか良家の御子息だとばかり」
「本当に申し訳ありません。ですが、良かった、私はうまくやれていたのですね」
安心したように笑うと、ナギは肩を落とした。
「私がもっとうまくやれていれば」
「トウカを蘇生する時に、恐らくはトウカを襲った獣の毛か何かが混ざったのだろう。獣や馬を喰ったのは、トウカだ。爪痕はどれも低い位置にあった。アンタはトウカのしたことを隠蔽しようとしただけで、手を下してはいない。違うか?」
志麻の言葉に、ナギはバツが悪そうな顔をした。
「どうしてそこまで分かるのですか」
「当り前さ、花から生まれた鬼は殺生を好まない。小屋の前の桜で都合良く誤魔化していたが、アンタはいつも花の香りを纏っていたからなぁ」
「私、そんなに匂いますか?」
ナギは不安げに服の匂いを嗅いだ。その様子を志麻は頬を緩ませながら見ていた。
「いいや、春めく良い香りだ」
「春を……」
そう言うとナギは自分の手を見詰めた。
「志麻さん。覚悟は出来ました」
ナギは志麻に向き合った。心を決めた瞳は月明かりを力強く映す。その真っ直ぐな瞳が志麻を捉えている。
「どうぞ、私をお斬りください」
志麻は夜空を仰いだ。
「……生憎」
月が出ている。薄雲が晴れるのを待ち望んでいたように青白い輝きを放っている。
「刀は折れてしまったんでね」
清い月明かりに志麻は目を細めた。
「それに、何度も言ったはずだ。オニカエシの仕事は、鬼をあるべき場所に還すことだ、と。斬るのは俺たちの仕事じゃない。斬られる覚悟があるのなら、この里を去る覚悟なんて、とうの昔に出来ているんだろう? それなら話は早い」
志麻は眠っている榊を軽々と担ぎ上げた。
「京まで送ろう。日が昇る前に発つ。別れなら夜のうちに済ませておけ」
「ですが、志麻さん」
「先生、どれだけ俺の仕事を邪魔すれば気が済むんだ」
「私が犯した罪はどうなるのです」
「そんなもの、生きて償え。アンタの中途半端な命ひとつでどうこうしようなんて甘い話はない。鬼として生き、鬼として死ね」
志麻はそう言い捨てるとその場を後にした。
月影の下、春を告げる風が吹く。これから四季が再び廻り始めるには、今しばらくの時間が必要だろう。しかし、月が欠けまた満ちる頃には、田畑に芽吹きが訪れているはずだ。春が来る。春がやって来る。雲を流し、緑炎を掻き消し、春雷を連れて。
木箱を取りに行くと、家の前にイスケが座っていた。不貞腐れたように、寂しげに俯いていた。志麻は木箱にもたれ掛かるようにして榊を座らせた。規則正しい寝息が聞こえてくる。
「イスケ」
志麻の声にイスケは顔を上げた。泣きはらした顔をしている。
「……トウカは?」
「かえったよ」
「春は?」
「もう来るさ」
「先生は?」
「故郷に戻る」
「兄ちゃんは?」
「鬼を還しに行く」
イスケは膝を抱えた。
「なんでだよ、先生が何をしたって言うんだよ。トウカが、どうしていなくなっちゃうんだよ」
膝を抱える手が震え、言葉を紡ぐ唇が震え、瞳からはボロボロと涙が零れ落ちた。
「こんなことなら、春なんて、要らない。こんな、何もなくなっちゃうなら、ずっとあのままで」
「お前は」
志麻はイスケの前に立った。月に照らされた影がイスケにかかる。
「この二年間、何をしていたんだ。お前たちは先生がいた二年間、先生の優しさにただ甘えていただけか?」
イスケは涙を溜めた瞳で志麻を見上げた。
「薬の作り方、薬草の育て方、傷の手当ての方法。お前たちは何も学ばなかったのか? 夜を駆けた日々、共に笑った思い出。いなくなれば消えるような友情しかなかったのか? 所詮、そんなものか」
「違う。そんなの違う!」
「それなら、立て。日が昇ればまた朝が来る。嵐を連れた風が過ぎ去れば田畑を耕し、種を蒔け」
そう言いながら志麻は屈んでイスケと目線を合わせた。
「いいか、イスケ。どれほどの年月をかけても良い。だから、道を拓け。道が繋がれば人や物が流れる。お前の代で無理ならば次の世代に託せ。容易なことではない。だが、いつか必ず答えが出るだろう。この里の二年間が、何ひとつとして無駄ではなかったということが」
志麻は左手でイスケの涙を拭った。
「本当に?」
「出来ない約束はしない主義でね」
そのままイスケの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「今夜はよく休め」
「眠れないよ」
「いいや、それでも眠れ。別離の夜は夢の中に会いに来るという。会いに行ってやれ」
志麻の言葉にイスケは頷いた。良い子だ、志麻はそう言うと立ち上がった。
「兄ちゃん」
鼻をすすりながらイスケが志麻を呼んだ。
「本当に、これでよかったんだよな?」
その問いに志麻は一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに答えた。
「ああ。今はまだ分からなくとも、いつか必ず分かる日が来る」
「トウカは、里で暮らして、しあわせだったかな。オレは楽しかったんだよ。いつかまた、会えるかな」
「さて、それは俺には分からないな」
「会えるといいなぁ」
曖昧に濁した答えをどう捉えたのかは分からないが、イスケは腫れた目をこすりながら満足気にそう呟き、家の中へ入っていった。
残された志麻は木箱に道具を仕舞い、帰り支度を始める。刀の切っ先も仕舞う。体のあちこちが痛むものの、どこも折れてはいないようだ。手加減されたのだ。本来、どのような鬼であっても腕の一本や二本くらい折れたところで不思議ではない。最悪の場合、敗れ去り、死に至ることもある。そういう同僚たちを何人も知っている。こちらに殺意がなかったとはいえども、手加減されるのは少々癪だ。
志麻がひと息ついていると、灯りを掲げたミヤマがやって来た。志麻は軽く手を挙げる。ミヤマは苦い顔をした。
「お前さんも人が悪い」
ミヤマはそう言った。視線の先からして、榊のことだろう。
「見事に撃ち抜いたじゃないか。子供相手に容赦もなく。俺の刀も折った。アンタのことを見直したよ、良い腕だ」
「ボウズには悪いことをした。本当に死んじゃあいないんだろうな?」
「もっと近寄れば分かる。寝息を立てている、少なくとも呼吸はしているということさ」
「……このボウズは」
鬼か、とミヤマは目で尋ねた。志麻はニヤリと口角を上げた。
「どうだろう、はてさて、それは俺にも分からん。なにせ、親兄弟でも何でもないんでね」
「お前さん、もう少し親身になってやれよ。こっちは確かに心臓を撃ち抜いたんだ」
「まあそうだな。一理ある。今回は少しばかり無茶をさせた。多少のことで失ったりはしないと分かっていれば、扱いも粗くなってしまって駄目だな。いつ壊れるとも知れない、そう心しておくべきか。いや、頼りすぎているんだな、俺は」
志麻は自嘲するように鼻で笑った。
「結局お前さんは鬼を還したな。何の間違いもなく、ためらいもなく」
「生憎、それが仕事でね」
木箱に肩肘を付いて、志麻は冷めた瞳で答えた。
「残念ながら俺だって心が痛む。あんな年端もいかない子供を返す時はいつだって浮世を嘆くものだ。鬼を還すということは、救いでも何でもないかもしれない。幸せになるとも限らない。絶対に正しいことなのだと、俺には言い切る自信などないが」
「それでもお前さんは鬼を還す」
ミヤマの言葉に志麻は肩をすくめた。
「ああ、そうさ。俺はオニカエシだからな。たとえそこに悲しみが生まれようとも、俺は鬼を還さなければならない」
「何がお前さんをそこまで駆り立てるんだ?」
「さて、どうしてだろうなぁ」
志麻は夜空を見上げた。弱い風に僅かばかりの湿気が含まれ始めた。明日にでも雨が降るだろう。それまでには宿場町に辿り着いておきたい。もうしばらくすれば榊も目覚めるだろう。それから出発だ。
「そういえばアンタが刀を折ったあれは、なかなかどうして良い弾だったな。とてもじゃないが、アンタが撃ったとは思えない」
「褒めているつもりかい?」
「勿論さ。まさか折られるとは」
高く付く、そう志麻は笑った。ミヤマは渋い表情のまま志麻を見ていた。
「最後までお前さんのことはよく分からなかったな。オニカエシってのは皆、お前さんのような奴ばかりなのか?」
「まさか。俺ほど親切なオニカエシもいないぞ?」
そう言うと志麻は木箱を開けて、中から薬を取り出しミヤマに渡した。
「痛めた足が長く治らずにいるのは、少なからず鬼の影響を受けているからだ。これを毎夜、寝る前にでも一粒、そうだな、三晩も飲めば元に戻るだろう」
「こんなものを貰わずとも、先生の薬がある」
「それは足の怪我の薬だろう、こっちは鬼の気のための薬さ」
しばらく黙って薬を見詰めた後、ミヤマは呟くように言った。
「先生のことを、よろしく頼む」
ミヤマは一礼すると小屋の方へと夜道を去って行った。
志麻は榊の隣に座った。宵闇に慣れた瞳は眠ることを知らない。規則正しい寝息を聞きながら、志麻は闇を見詰めていた。風に乗って、微かに春の香りがした。
近付いてくる足音に、志麻は視線だけを動かしてそちらを見た。月明かりに照らされて見えてきたのはナギの姿だった。ナギは大きめの風呂敷包みをひとつだけ持っていた。疲れているがどこかすっきりとしたような表情。額に角はない。
「準備は出来たのかい?」
「はじめから、いつでも逃げられる準備はしていたのですよ。トウカにだって、こちらには来ずに山を逃げるよう言い聞かせていたのに、あの子ときたら」
「……荷はそれだけか?」
「ええ、必要なものは特にありませんからね。薬の材料や書物はすべてここに残すつもりです。役に立てば良いのですが」
「京は良いところだと聞く。昔のようにとは言えないが、穏やかに暮らせるだろう」
「そうですね……」
ナギは何か言いたげに志麻を見たが、志麻は敢えてその視線を無視した。隣の榊がもぞもぞと動き出した。
「起きたか、榊」
「おはようございます」
「まだ夜半だ」
呑気な欠伸をして、榊は立ち上がった。胸の傷を手で撫でてからポンポンと軽く叩いた。その様子を見ていた志麻は大きく伸びをした。
「さて、榊も目覚めたことだ、発つとするか。喜べ、榊。次に向かうは京の都だ」
「本当ですか!」
榊の声が思わず上擦る。両手を高く突き上げて、全身から喜びが溢れ出している。榊は急いで木箱を背負った。木箱にもたれていた志麻は大きく後ろに仰け反った。
「今すぐ、すぐにでも発ちましょう!」
「思っていたよりも元気そうで、何より。だがその前に、馬を弔ってやれ。向こうに丁度良い桜の古木がある」
志麻の言葉に榊は頷くと、木箱を背負ったまま馬の遺骸を包んだ袋を抱えて走り去った。やれやれと志麻は悠長に榊の後を追った。さらにナギが志麻に続く。
「彼は一体、何者なのです?」
「さて、そうだな、アンタには何に見える?」
「何と聞かれましても、ただの少年ですよ」
「それならそうなんだろう」
志麻の口が弧を描く。月明かりだけを頼りにして歩くには里の夜道は暗いが、闇に慣れた目には容易い。竹林の中からすでに風に運ばれた桜の香りが漂っていた。榊は木の根元を掘り返していた。さすがに木箱は降ろしているが、もう十分なほどの深さの穴が出来上がっていた。土で顔を汚した榊が穴の中から志麻を見上げた。
「このくらい掘れば、冥府に辿り着けますかね」
「知らん、俺は冥府に行ったことなんてないんでな。どうなんだ、先生?」
「私だって行ったことなどありませんよ」
榊は穴に馬を埋めて上から土を被せた。桜の花弁が土に混じり、斑な土の墓が出来上がる。榊は静かに手を合わせた。やがて榊は手を解き、志麻を振り返った。
「お待たせしました、参りましょう」
木箱を背負った榊の頭に志麻は軍帽を被せた。
「行こうか」
寝静まる夜明け前の里を三人は旅立った。
峠に立って振り向けば、里には灯りがいくつか見えた。山の稜線はいくらか白み始めた頃で、星が残る空には月が傾いていた。ここで過ごした二年の歳月を遠く懐かしむようにナギは息を吐いた。それだけだった。
高い草に埋もれそうな道を一歩ずつ踏みしめて進む。旧街道に出る頃には夜が明け始めていた。人通りはないが、先へと道が続いている。足元の春草が小さな花を咲かせていた。
「旅は道連れ、世は情けってな。向こうへ着いたらまずは刀匠だ。長い旅になる。気楽に行こう」
歩き始めた志麻に榊とナギが続く。
遠く春雷が聞こえる。
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