底知れない、つめたいため息
「父と母はいません」
きっぱりと、ウタが言った。
「あなたの母親は私でしょう? ウタ」
桜子が表向きに戸惑ったように首をかしげた。
けれど、ウタはかぶりを振った。
「違います。たしかにあなたは僕を産んだけど、あなたは僕の母じゃない」
「何が望みだ。ウタ」
押し黙っていた司がとうと、ウタはただかぶりを振った。
なにもない、と。
「何も望みなんてありません。僕は、この家族と一緒にいたいだけです。産みの両親より、月宮の家の人たちのほうがよっぽど好きです」
「……あんたたち、ウタを育てるのを放棄したんだろ。後継ぎだって分かっていたんなら、最初からウタを育てなかったんだよ」
「子供に答えても分からない問題だ」
「そうやって逃げるんだな。ウタから」
吐き捨てるようにつぶやく。
子供には関係ないといって、ウタを取り上げる。
それこそ、大人のすることではない。
「何回問われても同じです。あなたたちは僕を捨てた。捨てたのに、必要となったら、また取り返す。それじゃ、子どものすることと全く同じことじゃないですか。僕の家族はあなたたちじゃない」
「ウタ。捨てたことは謝るわ。けど、あなたが必要なの。私たちには、あなたが必要なのよ。ウタ。だから帰ってきて。お願い」
今にもくずれおちそうな桜子を、ウタは冷めた目で見ていた。
見たこともない、冷たい目だった。
「何度問われても同じだって言ったでしょう。帰ってください。それに、必要なのは僕という存在じゃない。後継ぎという存在でしょう」
「ウタ!」
司が、手をあげた。
勇魚はウタをかばおうと足を踏み出したが、おそかった。
ばん、という皮膚を殴打する音が、まだ静かな住宅街に響く。
「黙って聞いていれば、実の親に言う言葉か!」
「……実の親が、図星をつかれて殴るなんて、それこそガキのすることだ。親のすることじゃない。ウタ、家に入ろうぜ。こいつらと話してても埒が明かない」
「――うん」
「待て。ウタは残れ」
「それ以上付きまとえば、警察呼ぶけど」
ウタの腕をとったまま、呟く。
ちっ、と舌打ちをした司は、そのまま背中をむけた。
革靴がコンクリートを鳴らす。
姿が見えなくなる前に、家のなかに入る。
ウタのほおは、赤く腫れていた。
「大丈夫か? いま、タオル持ってくるから」
「だいじょうぶ。平気だよ。勇魚。そのうち、腫れもひく」
「……そっか」
しずかに、ソファにすわった。勇魚も倣ってとなりにすわる。
ウタは、そっとため息をついた。
すこし、疲れているようだった。
「僕は、ここがいい。この家がいい。あたたかくて、心地のいい家。……勇魚」
「ん?」
「ありがとう。そばにいてくれて」
「……言っただろ。ずっとそばにいるって」
「うん」
肩がふれあう。
手を握りしめる。
それだけで、先刻までの不快なきもちが安らぐ気がした。
ソファの上に、ウタを押し倒す。
翡翠のような目が、勇魚を見上げていた。すこしだけ、戸惑ったような色をしている。
「勇魚」
「うん」
体をしずめて、ウタにそっとキスをする。
ぎし、とソファがきしむ音が、どこか遠くで聞こえた。
「ま、まって、勇魚」
「最後までなんてしない」
「それは、分かってる、けど」
白い首筋に、顔をうめる。
ひっ、と、息をのむ声が聞こえた。
「ウタ」
「な、なに?」
「跡、のこしていい?」
「え? だ、だめっ!」
「えー……。どうせ冬休みだろ? 誰かに見せるわけじゃないし」
ウタは、自分のものだと、そのあかしがほしい。
いちばんそばにいるのは、勇魚なのだと。
「でも、父さんたちに見られたら」
「首、隠せる服着ればいいんじゃないか」
「……どうしてそんなに……」
「俺、結構独占欲強くて、自分勝手な性格なんだ」
ウタは呆気にとられたような顔をしてから、ふっとほほえんだ。
勇魚の背中に、彼のほそい腕が絡まる。
「なんとなくね、分かってたよ」
「……そっか」
「でも、それが何だかうれしい。僕が、きみのものになれたみたいで」
それを了承の意ととって、首筋にくちびるを寄せる。
すこしだけ強く吸って、あとを残す。
背中に、やわらかく爪をたてられたが、痛みはなかった。
「諦めてくれたらいいのに……」
思いだしたかのように、ソファに寝そべったまま、ウタは呟いた。ソファを背もたれがわりにしている勇魚は、「そうだな」と答える。
「これでしまい、ってわけじゃなさそうだからな」
「うん……」
冷たい目をしたウタの実の親には、決して渡せない。
なにより、そばにいると約束をしたのだ。
「でも、無理やり、なんて許されないだろ」
「そうだね。僕も、ここにいたい。……勇魚のそばにいたい」
勇魚はずるずると立ちあがって、ウタをみおろす。かすかな欲望をふくんだ目で。
「――したくなってきた」
「だ、だめだよ。母さんたち、帰ってくるから」
「分かってるって。まあ、冗談、じゃなかったんだけどさ」
「……だめだよ」
「まだちょっと早いけど、姫はじめってのも、いいかもな? それまで、とっておく」
「う、うん……」
ウタが神妙な表情でうなずいたからか、勇魚はすこしだけ笑ってしまった。
あの冷たい目をした両親のことなど、忘れてしまったかのようだ。
くじらの歌 イヲ @iwo000
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