こころの灯火
「ウタ」
食事をとったあと、和希はウタの名を呼んだ。
すこし、緊張した面持ちだった。
「今日のことだが、ああは言ったが、よかったのか?」
「うん。僕は、いまのままがいい。本当の、血がつながった両親がいても、今の家族がいい」
「そうか……。けど、また来るって言っていたな」
安堵したように和希は肩をさげる。
「父さん。あのひとと、どんな関係だったの? 知ってるみたいだったけど」
「ああ、前に勤めていた会社のお偉いさんだったんだよ。今は辞めているところだから、どうとでも言えるが……」
「――そうだったんだ」
「大丈夫よ。ウタ。あなたがもし、本当の両親のほうがいいっていうなら別だけど、私たちの家がいいと言ってくれるなら、私たちがあなたを守ってみせるわ」
「ありがとう……」
皿洗いを手伝って、二階へむかう。
勇魚は、不思議と無口だった。
自分の部屋に戻ろうとしたウタの手首をつかまれる。
「勇魚?」
「……あのさ。俺も、おまえを守れる、かな」
「どういうこと?」
「俺はまだおとなみたいな、守るための力がない。でも、俺はおまえを……」
「十分だよ。だって、僕のこころを守ってくれた。そばにいるって言ってくれた。それだけで、じゅうぶん」
「そっか……」
ほっとした表情をした勇魚に笑いかけて、今度こそ自室にもどる。
自室にもどり、そっと息をついた。
せっかくのクリスマスだというのに、こころが重たい。すこし、疲弊しているのだと思う。
ベッドの上にすわりこむ。
課題のための、まだ筆をつけていないカンバスがイーゼルにのっている。
空間。
そこにはまだ、当たり前だがなにも描かれていない。
今のこころの状態のままでは、きっといい絵は描けないだろう。
今日はやめておく。
そばにいる、と言ってくれた。
いちばんそばに、と。
うれしかった。
けど、そばにいるということは、いつか別れがくるということ。
それがいつになるかわからないけれど、だからこそ――大切にしなければならないとおもう。
ひとつひとつのことを。
勇魚との思い出を。
そっと、勇魚のなまえを呼ぶ。
当たり前だけど、応えはない。
でも、それでもよかった。その名前がたからものだ。
それだけで心に風がふくように、軽くなる。
そっと目を閉じた。
両親のことをおもいだす。
幼いころのことは、あまり覚えていない。
けれど、施設の先生たちはみな優しかった。けれど、どこかおとなが怖い、という思いがあったのは、その微かな記憶があったからかもしれない。
両親がこわかったのだ。
恐ろしかったのだ。おとなという存在が。
けれど、自分も大人になっている。
いつまでも、甘えているわけにはいかない。
守られているばかりではいけない。
ぎゅっと手を握りしめる。
自分のことばで、じぶんを守らなければ。
次の日、和希は仕事に行き、のぞみと蛍は今年最後のフラワーアレンジメントの教室に行った。
ふたりきりだ。
「ウタ」
こんこん、という扉をノックする音が聞こえて、すぐに答える。
「どうぞ。入って」
勇魚がそっと、まるで未知の場所に足を踏み入れるように、おそるおそる入ってきた。
「どうしたの? 勇魚」
「ああ、うん……」
ベッドに座りこんだ勇魚は目を伏せて、口を閉ざしている。
カンバスの前に立っていたウタは、勇魚のとなりに座った。
「ちょっと、夢見悪くてさ」
「そっか……」
「絵、描いてるのに邪魔したな」
「いいよ。課題の提出日はずっと先だし」
勇魚の手が、さ迷うようにウタの手にふれる。そして、握りしめた。
あたたかな体温に、ほっとする。
「行かないよな?」
「うん。きみの、そばにいる。いちばん、そばに」
お別れがくるそのときまで。
そのことばは呟かなかった。今いうことではないし、そういうことは、心のなかにしまっておくものだ。
勇魚は顔をあげて、そっと笑った。
安堵したように。
「何言ってんだろうな。昨日、何度も言ったのに」
「そういうことは、何度言ってもいいものなんじゃないかな」
「そういうもんか」
「うん。僕は、そうおもう」
勇魚のぬくもり。
イヴのことをおもいだす。耳のあたりが、かっと熱を帯びた気がした。
おもわず視線を下におとしてしまったところを、勇魚に目ざとく見つけられてしまった。
「顔、赤い」
「な、なんでもない」
「おとといのこと、思い出した?」
「ん……」
勇魚が、そっとウタにキスをする。
悪い夢を拭いさるように。
「もう大丈夫。ウタは絵、描いてろよ。俺、見てるから」
「うん」
赤くなった顔をそのままに、ウタはそっと立ち上がる。
そして、机の上に置かれたレプリカのフルーツの輪郭を描き始めた。
その手は迷いがない。
まだ色はついていないが、勇魚の目からみれば、みずみずしい果物が見えた。そこに。
そして、恐れていたことがおきた。
玄関の、インターホンが鳴ったのだ。
のぞみや和希なら、鍵を持っている。
「宅配ならいいんだけどな……」
「……僕がでるよ」
おそらくだが、ウタの両親だろう。
昨日着て、今日も来ると言っていた。
ウタの足取りはどこか重たい。彼をひとりにしてはだめだ。
勇魚もあとにつづく。
ドアのむこう。
ドアのとなりに設置されているテレホンの画面には、やはり――あの男女がいた。
今日はどちらも仕立てのいいスーツを着ている。
ウタの手がふるえている。
「だいじょうぶか? ウタ」
「平気。だいじょうぶだよ」
そしてドアノブをひねり――ふたたび対面した。
つめたい目をした、両親に。
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