紫苑のかたりべ
――捨てた。
ウタの頭のなかが真っ白になる。
施設の先生は、両親はお金の都合で仕方なく手放した、と言っていた。
けれど、実母はこんなにきれいな着物を着て、お金に困っているというようには見えない。
「あのときは、どうかしていたの」
「……お金で……困って……、って」
「金に困る? そんなことあるわけがない」
司が不審そうに眉をよせる。
「じゃあ、なんでウタを施設に渡したんだよ」
「……ウタが邪魔になったんだ。この夫婦は、育てることを放棄したんだよ。勇魚」
どこか憎しみをおびた声でつぶやいたのは、和希だった。
こぶしを握り締め、かすかにふるえている。
「今回だって、司さん。あんたがウタを取り戻すのは、世間体のためだろう。まわりに、子どもがいたことがばれたんだ」
「ふん……。お前は昔と変わらんな。その安っぽい考え方は」
「違うとでもいうのか?」
「私の会社は巨大になった。そのためには跡取りが必要だ。お前は朝霞家の長男なのだから、継ぐのは当たり前だろう?」
なんて、身勝手なのだろう。
そう思えるほど、実の両親を他人におもえた。
「どうぞ、お引き取りください。あんたたちにウタは渡さない。ウタは、俺たちの家族だ」
「今日のところは帰るが、また明日、来る」
「ウタ……」
「きなさい、桜子」
どこか病んだ眼をしている桜子の腕をとり、彼らは去って行った。
ふかく、ふかく息をついたのは和希だった。
疲れたように頭に手をあててから、そっとウタを見下ろす。
「……僕、ここにいていいの?」
「もちろんよ。ウタ。あなたは私たちの家族だもの」
ウタは安心したように、そっとほほえんだ。
彼らは、きっとウタの手を洗えという。汚すなという。
汚れた手のままでいい、と言ってくれる。
そのままのウタを受け入れてくれた。
それがいまの、月宮の家族だ。
「さあ、なかに入りましょう」
意味が分からずにぼうっとしていた蛍の背中をそっと押して、ドアを開けた。
部屋のなかはあたたかくて、ウタはあのふたりが帰ってから、はじめて呼吸をした思いになった。
「さあ、これから夕食をつくるわよ。楽しみにしていて。クリスマスの夜はとくべつだから」
「ウタ、部屋行こうぜ」
「うん……」
ウタは、階段をしずかに、ゆっくりとのぼった。まるで、のぼりきったそこが終わりだとでもいうかのように。
そして、勇魚はウタの部屋に入りこんだ。
彼は、すこしだけ戸惑っているようだった。
「勇魚……?」
「……おまえの、ほんとうの両親、見てたらさ……」
勇魚はウタのベッドの上にすわりこんで、床を見下ろした。
うなだれるように。
「なんか、すごく、腹がたった。おまえを産んでくれたことは感謝してるけど。でも、あれじゃ、おまえを道具にしか見てないみたいでさ」
「……勇魚」
「行くなよ。ウタ」
「僕がここにいていいなら、勇魚のそばにいるよ」
ウタも、勇魚のとなりにすわる。
そっと、肩を寄せた。勇魚のわずかな体温を感じた。
「そんなこと、聞くな。ここにいていいか、なんて聞くなよ」
「うん。ごめんね。でもね、僕はすこし、すっきりしたよ。本当の両親はどんな人かなって、ほんとはずっと考えてた。でも、今日会って、ああ、そっか。僕は捨てられたんだ。そして、彼らは愛さなかったんだ。そう、分かってよかった。だって、僕がここにいていい理由になるから」
「……そんなの、理由にならねぇ。おまえが、ここにいたいって思わなくちゃだめなんだよ」
「手紙を読まなかったことが、答えだよ、勇魚」
勇魚の手にふれる。
かすかにふるえたその手を、そっと握りしめる。
「僕もきみのそばにいたい。ずっと、なんていわないから、いまだけ、でも……」
自分の声がかすれていることに、すこしだけ笑う。
泣くなんて、格好わるいところ見せられない。
「ずっとそばにいる」
勇魚は否定した。
ずっと、と。
そんな不確かなこと。
それでも、と思ってしまう。
「ずっと」がかなうなら。
「いちばん、そばにいる」
「――うん」
「だから泣くな」
「うん……」
知らないうちに、涙を流していたことに自分でも驚く。
乱暴に目をこすって、勇魚に笑いかけた。
勇魚の腕がのびる。
そっと、ウタのほおにふれた。
つめたい、と勇魚はわらう。ウタも、ほほえんだ。
「ありがとう、勇魚……」
それから1時間ほどたっただろうか。
のぞみがふたりを呼ぶ声が聞こえた。
勇魚は立ち上がって、ウタに手をさしのべた。
迷わずその手をとって、立ち上がる。
階段をおりて、キッチンへむかった。
「いいにおい」
「だろ?」
勇魚は自慢げに笑ってみせた。
彼の笑った顔が好きだ。
切れ長の目も。
黒い髪の毛も。
好きだというきもちが、こんなに苦しくて、尊いなんて。
(ああ、きみを好きになれてよかった。)
(ほんとうだよ。)
(きみがいなければ、僕はひとりで生きていた。ほんとうの世界を、理由を、知らないままだった。)
けれど、ひとはひとりで生きて、死んでいくものだ。
勇魚がいなくても、それは変わらない。
(でもね、勇魚。人の生はひとりきりだけど、こころはひとりぼっちじゃないんだね。きみといっしょにいる。どうやって生きたか、生きたいのか、そう考えることが本当の「いきてる」ってことなんだ。)
「さあ、そろったわね。いただきましょう」
チキン、マルゲリータピザに、のぞみ手製のドレッシングがかかった、アボガドのサラダ。そして、チョコレート・ケーキ。
(ねえ、勇魚。きみがぼくにくれたものは、形にはないけれど、それでいいんだね。)
(だからきれいで、尊いんだ。)
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