宵闇色のあやめ
となりに、ウタがいる。
疲れ切って眠っている姿が、どこか幼く見えた。
そっと、髪をなでてみる。ひやりとした温度の髪の毛は、手からたやすく零れおちた。
「……ウタ」
なまえを呼んでも、彼は目覚めない。呼吸音だけがひびく。
ウタの手を握りしめて、目をふせる。
もうじき、朝になる。
朝になったら、握りしめている手が雪のようにとけてしまうのではないか、と馬鹿な妄想をいだいた。
そんなわけがない。
ウタは確かにここにいるのだから。
もうあと3時間は眠れる。
明日の朝、おはようと笑えるように眠っておこう、と目を閉じた。
夢をみた。
またあの夢だ。
桜の木の下で、きれいな着物をきてたたずんでいる、寂しいゆめ。
顔は分からない。ただ、黒い髪の毛が風でゆれているのが分かる。
夢だと理解している。
だから、これは過去だ。
見たことがある、とおもう。
薄い色の着物。あやめ。そのあやめが、うつくしく咲き誇っている。
これは、幼いころ見た記憶。
僕の記憶だ――。
はっと目をあける。
目の前には、勇魚がいた。目をうすく開いている。笑っていた。
「おはよう」
「お、はよう……」
なんとなく、目をまっすぐ見ることができない。
昨日の夜のことが、どこか夢のようだ。
けれど、それは儚くない。
たしかにあった。勇魚の体温。呼吸の音。
すべてが、ウタの記憶のなかにあった。
「実母」の夢のように、あやふやなものではない。
「着替えようぜ。そろそろ下行かないと母さん乗り込んでくるぞ」
「う、うん」
風呂場で体を洗って、そのまま眠ったからか、いつもの部屋着を着ていた。
「じゃあ僕、部屋にもどるね……」
「ウタ」
ふいに呼び止められる。
腕をとられて、かすめるようにくちづけられた。
「……夢だとおもった」
「夢じゃないよ。勇魚」
笑ってみせると、勇魚も安心したようにほほえんだ。
勇魚の部屋を出ると、のぞみが階段を上ってきたところだった。危うく、見られるところだった。
「あら。おはよう、ウタ」
「お……はよう」
「? 声、すこし枯れていない? 風邪かしら」
「だ、だいじょうぶ」
「そう? ならいいんだけど。着替えて下にいらっしゃい。朝ごはん、できているから」
ぎこちなくうなずいて、自室にもどる。
おそらく、彼女はトイレに行っていたのだと思ったのだろう。
自室には、できあがったヴェネツィアの絵があった。
おもいだす。
最後の一筆を終えたときに、勇魚はそばにいてくれた。約束をまもってくれた。
シャツをきて、ジーンズをはく。
部屋から早々にでると、勇魚もちょうど部屋を出たところだった。
「ったく、早く起きろってうるさいんだよなぁ……。もうガキじゃねぇっての」
「一緒に朝ごはん、食べたいんだよ。きっと」
「そういうもんか?」
呆れたように笑う勇魚は、昨日の面影を否応なしに思いおこされる。
耳があつい気がした。
「顔、赤いけど大丈夫か?」
「えっ、あ、だいじょうぶ。……のぞみさんにも言われた。――親子、だね」
「そりゃ、誰だって心配になるだろ」
「そういうの、無償の愛っていうんだろうな」
ぽつりとつぶやく。
不思議そうに勇魚は首をかたむけた。
なんでもない、とかぶりを振って、階段をおりる。
やさしい、卵をやいたにおいがした。
「おはよう」
「おはよー、ウタお兄ちゃん!」
和希は笑っていた。蛍も、のぞみも――勇魚も。
幸福だと、おもった。
昼すぎ。
そう、クリスマスの料理の買い出しから帰ったときだった。
「あ――」
ウタの、かすれた声。
家の前に、着物をきた男女がいた。
「ウタ……?」
ウタの顔が青白い。この男女がなんだというのだろうか。
和希の客でも、のぞみの客でもないようだった。かと言って勇魚の知り合いでもない。
つ、と女がこちらに向きなおった。
「こんにちは」
「こんにちは。お見掛けしない顔ですね? うちになにか?」
のぞみが不思議そうにたずねると、女は視線をあげた。
「私、朝霞桜子と申します。こちらは、私の夫の
「かあ、さん……?」
ウタのふるえる声。
そして、すこしだけおびえたように足を一歩、引いた。
「――ウタの母は私です。月宮和希と、月宮のぞみの子どもです」
凛として、のぞみは言い放った。
ウタを守るようにして、のぞみはウタの前に立った。
「いまさら――あんたたちは何を?」
和希はあまり驚いてはいないようだった。おそらく、知った顔だったのだろう。
灰鼠の着流しと黒い羽織を羽織った司は、和希の様子を気にもとめないように、ふん、と虫けらでも見るような目で和希とウタを見下ろした。
「私たちは、ウタを迎えに来た。それだけだ」
「……司さん。あんたという人は……」
「明日――月曜日にでも、引き取りにくる」
「勝手なことを言わないで。ウタの親は私たちです。あなたたちじゃない」
「ウタを産んだのは、私」
「あっ」
おっとりとした、けれど冷たい目をした桜子は、のぞみの肩を突き飛ばすように強く押した。
のぞみの肩を支えたのは、ウタだった。
おびえた目をしていたウタは、それでもふたりを静かに見ていた。
「僕を産んだのは、たしかにあなたかもしれない……。手紙、くれましたよね。でも、僕は読んでません。僕の家族は、このひとたちだから」
「ウタ。怒っているの? 私たちがあなたを捨てたから?」
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