歯車のかわりにダイアモンドを胸につつむ

 ポストに、白い封筒が入っていた。

 ウタはその封筒をそっとポストから取り出した。

 滅多にポストには触れないし、開けないけれど、今日はなぜか開かなければならない、と感じた。

 差出人は、「朝霞あさか桜子」と書いてある。

 当たり前だが、知らない名前だ。

 リビングの机の上に置こうと裏返すと、宛名に「月宮ウタ様」と書かれていた。


「え……」


 知らないひとの名前。きっと、女のひと。

 口の中で、その名をよぶ。

 どこか、なつかしい思いになる。それと同時に、全身が冷えていくのを感じた。

 冬の湖のなかに沈められたかのような。


「僕……この、ひと……」


 知っている、気がする。



 どれほどリビングでじっとしていただろう。

 ドアを開ける音が聞こえて我に返った。手に持っていた封筒を、さっと鞄のなかに入れる。


「ただいま。あら、ウタくん。帰っていたのね」

「あ、はい」

「どうしたの? 暖房もつけないで。寒いでしょう? 今、つけるわ」


 エアコンの静かな音が聞こえる。

 リビングから、二階の自室にむかおうとのぞみに背を向けたあと、ふいに彼女に名前を呼ばれた。


「ウタくん……。いえ、ウタ。私のこと、まだお母さんって呼べないの、分かるけど……。敬語はやめてほしいな」

「……あ……えっと……うん。わかった」


 ほとんど声になっていなかったと思う。けれど、のぞみは嬉しそうに、まるで満開の花のように笑ってくれた。

 

 そうだ。

 ここに、「家族」がある。

 この封筒は開けないでおこう。頭にかすめた「実母」という単語を、消そう。

 関係ない。

 もう。

 そう、関係なんて、ない。


 (僕は、このひとたちの家族だ。)


「ウタ、帰ってたのか」


 和希が玄関から出てきた。おそらく、のぞみとどこかに行っていたのだろう。


「うん。……何時くらいに、出ていくの?」

「レストランには、6時に予約してあるから、5時くらいには出る。行きに買い物したいからな」

「わかった」


 うなずいて、白い封筒が入った鞄を肩にかけたまま、階段をのぼった。

 手が、知らず知らずのうちにふるえていた。

 それを無視して、ベッドの上に横になる。朝霞桜子、という名前を忘れようとするのに、こころにこびりついて離れない。



 夢をみた。

 桜の木のしたで、誰かが笑っている姿を。

 ウタは、そこにいなかった。

 ただ、さみしい夢だった。


「ウタ」


 誰かが呼んでいる。頭がだるい。


「ウタ」


 はっと、目を開く。目の前に、勇魚の顔があった。もう、部屋は暗い。

 何時なのかわからないほどだ。


「勇魚……。ごめん。僕、寝てた」

「いいよ」


 暗い部屋。

 そこに、勇魚が床にひざをついてウタをのぞき込んでいる。


「……俺の部屋、くるか」

「う、うん」


 その意味を、ぼんやりとしか理解できないウタは、手をひかれて隣の部屋にむかう。

 勇魚の手はとてもあたたかい。

 湖の底に沈んだような、あんな冷たさはどこにもなかった。


 いざなわれるようにベッドにすわる。

 ぎし、と二人ぶんの体重に、ベッドがきしむ。


「もう、母さんたちはいない」

「うん……」


 おそるおそる、勇魚の手がウタのほおをすべる。

 かわいそうなほどに冷たいそこに顔をよせて、そっとくちづける。


「勇魚……」


 くちびるにもキスをして、そうっと息をはく。その息さえものみこもうと勇魚は強く、ウタを抱きしめた。

 そのまま、ベッドに押し倒す。


「ほんとうにいいんだな」

「約束した、でしょう」


 耳朶にふれる声に、ウタの肩がわななく。そのまま、首筋に甘噛みした。歯のあとがつかないように。

 暗い部屋。

 ベッド脇にあるライトをつけようかと問うと、ウタはぶんぶんと頭を振った。


「い、いい……。はず、かしい……」

「……りょーかい」


 暗闇に目が慣れてきた。ウタの顔がちゃんと見える。

 それでよしとしよう、と勇魚は自分が着ているカーディガンを脱ぐ。

 そのままそれを床に落とした。乾いた音が他人事のように聞こえる。


「ウタ?」


 勇魚のことを見ているようで、見ていないような目。

 どこか、不安になる。


「どうかしたのか?」

「……ううん。なんでもない」


 ウタの腕が、そっと首にまわった。受け入れてくれるのだ、と知る。

 でも、彼の目はどこかさみしい。一緒にいるのに、そばにいないような感覚。


「何でもない、ってわけでもなさそうだな」

「……今は関係ないこと」

「教えろよ」


 そっとほおを撫でる。ウタは、言おうか迷っているようだった。そしてその翡翠のような目は、暗い色をおとしている。


「僕の実母から、手紙がきた」

「……え」

「中はみてない。みない。僕は……いまの家族がたいせつだから」

「――そっか」

「僕は、きみのそばにいたい……」


 ウタの目がにじむ。泣くのかと思った。けれど、ウタは泣かなかった。首にまわした手が、すこしだけ強まっただけだ。

 泣いてしまえばいいのに、とおもう。

 そう思いを込めて、目じりにキスをする。

 

「ん」


 くすぐったそうに笑うウタの、痛んでいない髪の毛をそっと梳く。

 指の間から髪の毛の束が落ちていった。


「勇魚。好きだよ。僕に、こころをくれたきみが」


 勇魚の喉が鳴る。

 頭が、じんとしびれるような感覚におちいった。


 ウタの両腕を掴んで、かみつくようなキスをした。

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