暗夜のなかの、ただひとつの光
「ウタ」
大学に行くために玄関で靴を履いていると、平日休みの和希はウタを呼び止めた。
「なに?」
「今日のクリスマスイヴ、本当に行かないんだな?」
「うん。課題があるし、やりたいこともあるから」
「そうか。分かった。そういえば、勇魚も行かないって言ってたな。クラスメイトとクリスマスパーティやるって」
和希は残念そうにしていたが、「高校生にもなればな」と納得したようだった。
「やっぱり、勇魚くらいの年になれば、家族より友達といたほうが楽しいのかもね」
できるだけ、平静をよそおって呟く。
靴を履き終え、玄関のドアを開いた。冷たい風がほおを叩く。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
ふと、足がとまる。
勇魚とどこかで見た少女が、ふたりで歩いていた。
すこしだけ茶色の髪の少女。
たしか、如月ゆか、と言っただろうか。
つきり、とした痛みが胸を通り過ぎた。
ふたりは、駅のほうに歩いていって、ウタの視線から消えた。
明日からは、冬休みに入る。そしてすぐに長い、春休みだ。
目をふせる。
勇魚はウタが休んでいる間、まだ学校だ。
いない。
誰もいない部屋。
心が、なにかを思い出そうとしていた。
和希は、できるだけウタのそばにいてくれた。
けれど、瞳の見舞いでいない日が続いていた。
寂しかったのかもしれない。
「忘れていたのにな……。どうして、今頃思い出すんだろう」
今日、という日。
夜。
ふせていた目をあげる。
約束していた日。
ダッフルコートごしに胸のあたりをつかむ。
どく、どく、と、鼓動が続いていた。
その鼓動の強さをふりきるように、ウタは勇魚が行く駅とは違う駅へむかった。
教授から、冬休みから春休みにかけての課題を出された。正月以外は、休みの間も大学はあいているので、アパートを借りている学生など、自宅で描けないものは自由に使っていい、との通達もあった。
休み前の大学は、半日でおわった。
持って帰らなければならない荷物はないので、鞄にペンケースをいれた時だった。
「真崎」
「はい……?」
声をかけてきたのは、ウタがこの美大に入るきっかけとなった教授だ。
「ああ、すまない。もう月宮と言ったほうがよかったか」
「あ……武内教授……」
「最近遅くまで残っているね。家では描かないのかい?」
「家では、別の絵を描いているので」
眼鏡の奥の聡明な目が細められた。
彼は60歳を超えているが、今も現役で絵を描いている。
ウタは教授を尊敬していた。
いつも、ウタが描いた絵を添削してくれる。だが、それを疎ましく思う学生もいることは確かだ。
特別扱いしている、と。
「そうか。あまり無理しないようにな」
「ありがとうございます。武内教授」
肩をぽん、と叩いた教授は教室を出ていった。
教室には誰ものこっていない。
海の底のようにしずかだ。
「今日は、早く帰ろう……」
コートを着て、鞄を肩にかけてから教室を出る。外は、かすかに雪が降っていた。
太陽に反射して、きらきらと輝いている。
どこか、ぼんやりとする。階段をおりて、エントランスに出る。
おおぜいの学生がエントランスに集まっていた。
何かがあるというわけではない。ただ休み前で、しかもクリスマスイヴだ。予定をたてているのかもしれない。
大勢の学生の間をぬうように歩いて、キャンバスをあるく。
すこし、寒かった。
ウールのコートに、雪の結晶がつく。
手袋なんてしていないから、袖を無意味に引っ張った。
駅のホームに、ひとり立つ。
雪はまだ降り続いていた。
夜まで続くのだろうか。電車がきて、吸い込まれるように足を踏み入れた。
中はとてもあたたかい。温度差に、すこし汗ばむ。
隣の席に高校生くらいの男女が、体をよせあって何かをささやいていた。
それからそっとキスをして、笑いあった。
とても純粋だと思った。
電車のなかは、男女のほかにウタしかいない。
公衆の面前で、というかもしれないけれど、それはとてもきれいなものに見えた。
愛や、恋といったもの。
そういうものは、きれいなだけではないということを知っている。
今朝。強くそう思った。勇魚が彼女と一緒にいただけで、胸の痛みを感じた。
それがのがれようのない理由だ。
電車からおり、駅から出る。
雪はまだ降っていた。降っているが、あまり曇ってはいない。
家について、ドアノブを引く。
けれど、鍵がかかっていた。出かけているのだろうか。合鍵はもっていたので、鍵穴に差し込んで回す。
当然のように開いた。
「ただいま……」
そっと、独り言のようにつぶやく。
誰もいないから、応えるものはいない。
あたりまえだ。
けれど、ひとりきりだ。呼吸をするものが、誰もいない。
――ぬくもりがない。
どこにも。
絵だけを見ていたころは、ひとりでもよかったのに。
それでも、気づいてしまった。
いや、最初から気づいていたが、気づかないふりをしていたのかもしれない。
ひとりは嫌だから。
ひとりは寂しいから。
でも、今はちがう。ひとりじゃない。
勇魚がいる。家族もできた。
ぬくもりが、そこにあった。
和希が悪いのではない。和希も仕事から帰ってから、できるだけ家にいてくれた。
どうして、自分には本当の両親がいないのだろう、と思った。はじめて、そう思った。
まさか二十歳でそんなことをおもうなんて。
でも、今更会いたいなんて思わない。
勇魚が、いちばんそばにいてくれるから。
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