極月の涙

 クリスマスイヴが近づくにつれて、どこか緊張している自分にわらう。

 言ったのは、ウタが頷くようにうながしたのは、自分だ。


 夕食時に隣にすわったウタの手に、ふいに触れてしまったとき、どこか混乱してしまったのも、最近ウタの部屋に行かなくなったのも、きっと緊張しているせいだ。

 笑ってしまう。強引だねとウタが言ったことに対して勇魚は笑ったくせに。

 「その日」がおわりではないと分かっているのに。


 手がふるえる。


 ベッドのなかで丸くなるも、眠気はおとずれなかった。




 ため息をつく。

 ヴェネツィアの風景画はあとすこしで完成する。

 ――ずいぶんと、時間がかかった。


「勇魚の、せい……?」


 勇魚は、ずっと見ていた。

 ウタの帰りがどれほど遅くなっても、勇魚は待っていた。

 そして絵筆をとる自分を、ずっと見ていた。


 それを知っていたから。

 見ていたから。


 手がふるえるほどに嬉しくて、それでもどこか、戸惑った。

 勇魚が見ている、というだけで。

 すべてを見透かされているようで、絵筆を何度落としそうになっただろう。


 今まで感じたことのない、感情。こころ。意識。

 どうすればいいのか分からない。

 どうすれば、勇魚は喜ぶのだろう?

 どうすれば勇魚は幸せになれるのだろう。今は分からない。けれど、いつか分かる日がくるのだろうか?


 最近、勇魚の様子がおかしいことには気づいていた。

 でも、どうすればいいのか分からなかった。


 月が出ている。

 銀色の月。あの日、前の家で見た月よりも小さくて、色もちがう。

 怖くはなかった。

 ただ、不安が押し寄せてきた。海辺に打ち寄せる、ちいさな波のように。

 もう、夜の12時になっていた。

 はだしのまま、階段をおりる。ひやりとした木の階段が、背筋をたたくように冷たさを感じさせた。


 そっと、電気をつけないでドアを開く。

 外に出る。


 空は、満天の星がちらちらと輝いていた。

 冬は空気が澄んでいるというのはほんとうだったんだ、と今更おもう。


 足と手はかんじかんで、痛む。

 でも、もうすこしだけ。

 

「きれいだな……」


 ずっと下をむいていたから。絵ばかりを、見ていたから。


「ウタ」


 うしろから声が聞こえた。勇魚の声だった。


「……勇魚? まだおきてたの」

「眠れなかっただけだ」

「そうなんだ。ねえ、勇魚。ヴェネツィアの絵、もうすこしで完成するよ。明日にも」


 勇魚は、ウタのとなりに立った。

 彼を見上げると、黒いパーカーのフードをかぶっていた。表情は分からなかった。


「見届けてくれる?」

「……約束しただろ。見届けるって」

「うん。そうだね」


 手の甲がふれあう。勇魚の手が、びくりとふるえる。


「勇魚、寒いなら、中入ろう」

「ちがう」

「……?」

「あと、もう少しだな。クリスマスイヴまで」

「そうだね」


 彼はきっと、怖いのかもしれない。

 そうだ。

 彼はまだ、高校2年生なのだ。けれど、今まで付き合ってきたひとと、そういうことをしたことがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。

 ウタは、どちらでもよかった。

 でも、勇魚がこころを決めるまで待つつもりでもいる。


「ねえ、勇魚。僕、待てるよ。きみのこころが凪ぐまで」

「……俺が待てない。待つつもりもない」

「――そう」

「おまえは、余裕があるのか?」


 フードの中から、黒い瞳が見えた。

 切れ長の、するどい目。

 ウタはほ勇魚の手をそっと握りしめた。その手のなかで、勇魚の手がふるえていた。


「僕はそういうこと、したことないから分からない。余裕があるのかないのかって言われたら……ないのかもしれない」

「そうか……」


 勇魚はかすかに安堵したように、息をついた。

 白いもやが、口のまわりを漂った。


「俺ばっかりがっついても、かっこ悪いだけだって思ってた。けど、急にこわくなった。おまえが壊れるんじゃないかって」


 濃い、濃い藍色。

 その宇宙に、銀色の月と星が散っている。

 勇魚はフードをかぶったまま、星を見上げた。


「大丈夫だよ。僕は硝子でできているわけじゃないし」

「でも、怖くなった」

「そう……」


 握りしめた手に力をいれて、勇魚をだきしめた。いつものぬくもりは、外気にさらされて冷たくなっていた。

 ここが外でも、構わなかった。

 ただ、安心させたかった。それだけだ。


 息をのむ音が聞こえる。


「こわくないよ。こわくない」


 背中をとんとんと叩く。できるだけ、やわらかく。

 わずかな、鼻をすする音が聞こえた。

 勇魚の腕が、ウタの背中にのびる。まるで迷子のこどもが親を見つけた時のように、背中にしがみついていた。

 それでも、その腕はどこまでもやさしい。


 それから10秒ほどたっただろうか。勇魚は腕をほどいた。


「へんなとこ、見せたな」

「へんじゃないよ」


 まだフードをかぶったままの勇魚の目じりは、すこしだけ赤くなっていた。ウタはそれを気づかないふりをして、ほほえんだ。


「だから? 最近、僕の部屋にこなかったの」

「ああ……まあ、そうだな」

「そうなんだ。僕が絵を描いているところをきみが見ていてくれたとき、うそはつけないって思った。絵に対して。絵は、僕のこころを映す鏡だっておもった。だから、すこし戸惑ったのも確か。けど嬉しかったのも、ほんとう」

「……向き合ったんだな。ウタは」

「そうかもしれないね。でもそれは、きみがいなかったらできなかったことだよ。わすれないで」


 勇魚はちいさくうなずいた。まだ幼いこどものように。

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