第八章 『憤怒』サタン
17 厄介な恋心
私はずずっと紅茶をすすりながら、文庫本のページをぱらりとめくった。ソファに体育座りして、である。行儀悪いにも程がある。
それもこれもサタンのせいだ。
あの謝罪騒動の後から私は変なのだ。ヤツの新たな一面が見れたなとか、あの小物入れは誰かから貰ったものなのかなとか、笑顔が頭の中でぐるぐるしてるなとか、とにかくいつもの私じゃない。
なんとなく、この感情の名前が分かっている。だけどまだ気付きたくない。気付いてしまったらもう戻れない。私はごまかすようにチョコを摘まんで紅茶をすすって読書に勤しんでいた。完全に身に入っていないが。
「マモンさん、マモンさん。アレってさぁ……」
「えぇ、完璧そうですね」
「えっなになにー?」
ベル君たちがボソボソと何か話していた。なんだろう?
私がちらりと目を向けたとき、マモンさんとベル君がアスモデウスに指指して言った。
「恋わずらい」
二人の重なった声に私は思わずカップを手落とした。
「はぁぁぁぁ!?」
アスモデウスが叫んでるがそれどころではない。あぁぁあっつい! タオルタオル! 私としたことが!
「白雪さん僕は認めないからね!?」
アスモデウスちょっと待って! 状況を見て!
ガクガクと肩を揺さぶるアスモデウスに私は成すすべもない。
するとすっと後ろに肩を引かれた。むすっとした目をしているレヴィアタンだった。その手にはタオルが握られている。
「火傷してない?」
「あ、うん。かかったのちょっとだったから」
カップも割れてなくて良かった。高そうだもんな……。
念のため、とマモンさんから濡らしたタオルを手渡された。みんな過保護だなぁ、もう……。
「でさ、白雪さんは恋わずらいなの……?」
マモンさんに紅茶を淹れ直してもらって、なぜだかお茶会が始まってしまった。初めて会ったときには考えられない光景だ。
ソファに正座をしたアスモデウスが、私の隣で真剣な表情で聞いてくる。
「あははなに言ってるの? アスモデウス。私が鯉なんてするわけないじゃん」
「白雪ちゃん落ち着いて! 紅茶零れてる! あと今の『こい』は魚の鯉の発音だったよね!?」
慌てて言う割りには冷静なツッコミをするなぁ、ベル君は。抜かりないマモンさんが再び零した私の紅茶を拭いてくれた。
アスモデウスはムンクの叫びのような顔をしたあと、ふらふらとベルフェゴールの眠るソファまで行くと、ぱたりと倒れてしまった。もう放置しておこう……。
「それで?」
マモンさんが、メガネの奥の瞳を楽しそうに細めた。
「問われて浮かんだ顔は誰なんです?」
マモンさんがいたい質問をしてくる。ベル君まできらきらして目で見てきている。この人たち絶対楽しんでるよー……。悪魔だー。
私はふたりに囲まれて逃げることができない。うぅぅ降参だ……。私は大きく息を吐いた。
「あのですね……。私は安定した暮らしを送りたいんですよ……」
ベルくんとマモンさんが揃って「うん?」という表情をした。
「魔界での生活なんてもっての外! ここで暮らしているあなたたちには悪いけど、私にはあっちの暮らしが普通なんです!」
よーし、レヴィアタンのときと同じ轍は踏まないぞ。こことあっちは違うことを強調強調。
でも視線を上げると、二人とも眉根を寄せている。……またミスった?
「白雪ちゃん……」
不憫そうな表情で口を開くベル君の肩にぽんと手を置いて、マモンさんはふるふると首を振った。
「白雪さん、さっき恋わずらいと聞いたとき、誰の顔が浮かびましたか?」
マモンさんは落ち着いた声で問いかけてくる。私は口を噤んだ。
「白雪さんが向こうで落ち着いた生活をしたいというのはよく分かっています。ずっとひとりで頑張ってきたんですよね。でも、私たちは白雪さんの味方です。白雪さんの歩む道を守っていきたいと思っています。浮かんだ人と共に歩んでいく道は、本当に不可能なものですか?」
マモンさんは頭の切れる人だ。たぶん誰よりも冷静にこの状況を見ているんだろう。
ずっと、ひとりでいることが当たり前だった。自分を守れるのは自分だけだって思ってた。こんな私だけど、誰かを頼ってもいいんだろうか……?
「大丈夫、サタンは白雪さんの全てを受け止めてくれますよ」
その一言が決定打だった。
「私! サタンだなんて言ってません!」
逃げ道を奪わないでー!
耐えられなくなってその場を走り去る私の後ろで、ベル君とマモンさんが肩を竦めたのを私は知らない。
*
気付いてしまったら厄介なのが恋心である。
私は書庫から本を持って自分の部屋へと向かっていた。角を曲がったところで、その先にサタンの姿が見えた。
はい、回れ右。
自分でもダメだと思うけど、なにせ初恋だ。意識しまくりなのは仕方がない!
早足になる後ろで、足音がしていることに気が付いた。恐る恐る振り返ると、追いかけてきているのはやはりサタンである。怖っ! 無表情で追いかけてくる悪魔怖っ!
「なっ、なんで追いかけてくるのー!」
私はダッシュに切り替える。いやでもこれ、確実に掴まんない?
「お前が逃げるからだろう」
あっやばい、こっち行き止まりだ……!
ダンッとすごい音がして、私はサタンに追い込まれていた。息が上がってしまっていて、振り返ることができないまま、サタンの腕に阻まれて逃げることもできない。
「……どうして逃げるんだ」
意外にもその声は、弱々しいものだった。私はちらりと後ろを振り返った。
サタンの金の瞳と目が合う。その瞳はどうしてだか、悲しげな色をしていた。私はその目から目を離すことができない。
どうして、そんなに寂しそうなの……?
「ユキ?」
呼ばれてはっとした。私はなにをしようとした? 伸ばしかけた手を慌てて引っ込める。
「なっ、なんでもないよ! それより手、離して」
サタンは気まずそうに壁から手を離した。微妙な空気がふたりの間に流れる。
「その、なんだ。顔を見るなり逃げ出されるのは地味に傷付く。……悪魔でも」
困りきった顔でサタンはそんなことを言ってくる。あれですか、デレ期ですか。出会ったときは、こんなサタンが見れるなんて思いもしなかった。
「ふふっ、ごめんね」
私が思わず笑いを零すと、サタンは苦虫を潰したような顔であさっての方向を向いてしまった。あれ? これって……。
「なんか、前にもこんなことあった?」
デジャブってやつか。こんなやりとりを、サタンと前にもしたような気がした。んー? いろいろあって記憶が混乱してる?
だけどサタンはいきなりはっとしたような顔になった。
「いや、気のせいだろ」
それだけ言うと、さっと背を向けて立ち去ってしまった。
いや明らかにそれ嘘でしょ。
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