第六章 『怠惰』ベルフェゴール

13 夢の中へ

 着いてこいと言わんばかりにベルフェゴールは先を歩いていく。静かな廊下には他に誰もいなくて、コンパスの長い彼の歩幅に着いていくのに、私は知らず知らずのうちに小走りになる。ベルフェゴール、こんなにきびきび動けたのか。

「あの、ベルフェゴール……。どこ行くの?」

 私の問い掛けにも彼は返事をしない。ベルフェゴールが喋ったとこなんて見たことがなかった。もしかして喋れない?

 聞いちゃいけなかったかなと私はおずおず顔を上げると、彼はいつの間にか立ち止まっていて、危うくぶつかりそうになった。

 ベルフェゴールは黙ったまま、扉を開ける。そして私を見てじっとしていた。入れってこと?

 部屋の中は薄明かりに照らされていた。薄暗くはあるんだけど真っ暗っていうわけじゃなくて、間接照明がちゃんと問題なく部屋の中を歩けるようにさせていた。

 鼻先をくすぐるのはオレンジの爽やかな香りだ。アロマキャンドルとかかな? その香りに私は知らず知らず肩の力が抜けていく。

 そして部屋の中央に鎮座するのは、何サイズというのだろう。キングサイズより大きいんじゃないかというベッドだった。キングサイズのベッド見たことないけど。

 天蓋付きのそのベッドはここからはちょっとしか見えないけど、クッションがたくさん置かれ、肌触りの良さそうなシーツとふかふかの羽毛布団が敷かれている。

「白雪、最近疲れてるみたいだから」

 いつの間にか後ろにベルフェゴールが立っていた。君、喋れたんか。低く響くその声は、聞いていて何だか安心した。

「おいで」

 彼は私の手を引いてベッドへと歩んでいく。ここってベルフェゴールの部屋なのかな? 万全の快眠グッズで納得だ。

 ベルフェゴールは先にベッドにごろんとなって、隣をぺしぺしと叩く。一緒に寝ろってことだよね……?

 アスモデウスに勝手にベッドに進入されたことはあるけど、やっぱり寝入りから男の人と一緒というのは抵抗がある。

 だけどその時の私は疲れてたんだ。レヴィアタンにあんなに嫌われてしまって、やっぱり参っていた。

 柔らかなシーツに吸い込まれるように横になると、私はベルフェゴールの腕の中ですっと眠りに落ちてしまった。


   *


 鳥の鳴き声がする。あぁ、なんで魔界なのに爽やかな朝なんだ……。私はぱっちりと目を開けた。

「…………」

 目の前にあるのはベルフェゴールの顔である。整ったその顔立ちは目を閉じていても変わらず、銀の髪が顔に掛かって色気をかもし出していた。女の私より色っぽいんじゃないだろうか……。

 その目がうっすらと開いた。

「白雪……朝……?」

 ぼんやりとした瞳が私を映す。あぁもう目を開けても美しいなぁ。

「そうだよ。おはよう。起きる?」

 私はいまだベルフェゴールの腕に抱かれたままだった。寝たときもこの体勢だったから、寝てる間にベルフェゴールに何かされたということはなさそうだ。たぶん。

「うーん……もうちょっと寝る……」

 この『怠惰』っぷりだしね。でもおかげで久しぶりによく眠れた。

「うん、じゃあ私先に起きるね」

 もう瞼を閉じてしまったベルフェゴールに言うと、私はするりとベッドを抜け出した。まず部屋に戻って着替えなきゃな。

「白雪」

 扉に手を掛けたときだった。ベッドの方から声を掛けられて、私は振り返る。

 横になったまま、ベルフェゴールはその綺麗な碧い目でまっすぐに見ていた。

「今夜も来ていいよ」

 それは甘い誘いだった。

 私はごくりと喉を鳴らしたことに気付かれないように頷くと、部屋を後にした。


   *


 夜の帳は完全に落ちて、豪奢な廊下にはぽつぽつとした灯りが揺らめいている。

 私はベルフェゴールの部屋の前に立つと、静かにコンコンコンと三回ノックした。「はい……」とぼんやりとした声が返ってくる。私は深呼吸をひとつすると、ドアを開けた。

 今日はラベンダーの香りで満たされている。なんていうか、ベルフェゴールは休むためには努力を惜しまないんだなぁ。私はその矛盾がおかしくて、思わずくすっと笑ってしまった。

「なにか面白いことでもあったの?」

 キングサイズのベッドまで歩いていくと、ベルフェゴールは寝ぼけ眼で私を見上げながらそう聞いてきた。

「ううん、なんでもない」

 ベルフェゴールはちょっと眉根を寄せたけど、眠かったからか私の答えが不満だったからか分からない。そして昨日と同じように、シーツをぽふぽふと叩いた。

 お言葉に甘えて私はベッドへ入り込む。昨日と同じように、ベルフェゴールの抱きまくらにされる。

 昨日は緊張していて気付かなかったけど、意外とベルフェゴールってがっしりとしてる。線の細そうな美人の見てくれなのに、その意外性にちょっとドキドキする。

 ちらりとベルフェゴールの顔見ると、彼はもうすやすやと寝息を立てていた。意識してるのは私だけかい!

 そのままじっと睨みつけていると、それに気付いたのかうっすらと瞼を開けた。

「……なに?」

「いや、なんでもないけど……。ベルフェゴールって綺麗な顔してるね」

「……自分は白雪の方が美人だと思うよ」

 なんかこういうのって、女子の会話でよくあるよな。


『○○ちゃんって可愛いよねー』

『えー? ××ちゃんの方が可愛いよー』


 みたいな。

 美人なベルフェゴールに言われてもな……って思ったけど、私を見つめる彼の目は真剣で、耐えられなくなって私はふいっと目を逸らしてしまう。本気なら本気でやめてほしいものだな!

「なんで目、逸らすの」

 あなたが美人すぎるからです。

 なんて言葉は真剣な表情のベルフェゴールを前に出てこなくて、私はその目に吸い込まれてしまった。

「ベルフェゴールはたぶん、本音しか話さないよね。私にはそれができないから……」

 本当は、一人でがんばれないときもあった。授業参観のときとか運動会のときとか、周りの子たちはお父さんやお母さんにがんばったねって言ってもらってた。

 誰も見ててくれなくて、でもがんばらなかったらその可能性すらなくなりそうで、寂しいなんて言えなかった。

「白雪の言いたいことは、見てれば分かるよ」

 その言葉に私はぷっと吹き出してしまう。あなたいつも寝てるじゃない。

「いつ見てたの」

「ずっとだよ」

 その真剣な言葉にまた赤くなってしまう。天然だから手に負えない……。

「じゃ、じゃあ、今なに考えてるか分かる?」

 ベルフェゴールはうーんと唸った。

「白雪はがんばり屋さんだから、自分ら従者が傷付かない道を選ぼうとしている。でもここにいる間はそんなこと考えなくていいんだよ」

 ベルフェゴールはいつも寝てばかりいるようで、でも本当はちゃんと周りのことを見てたんだなぁ。ベルフェゴールは優しいから、私の欲しい言葉をくれる。

 だけどそれじゃ駄目だと思いながら、私は眠りに落ちていった。

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