6 初めてだったのに

 そんな疑問も杞憂だったようで、厨房には肉や魚、野菜に果物、調味料まできっちり揃っていた。考えてみたら普段の食事も人間界と同じものだったよね。魔王様が揃えてくれたのかな?

「ボクねー、ボクねー、チーズケーキが食べたい!」

 エプロンを付けた私の隣で、ベル君が興奮したように言った。もちろんこのエプロンも魔王様が用意してくれたものです。フリルいっぱいガーリーさ満載。もう突っ込まない。

「チーズケーキかぁ。何回かしか作ったことないんだよなぁ」

 レシピもうろ覚えだしできるかなぁと思っていたら、ベル君はささっと料理本を差し出してきた。なんですか、これも魔王の私物か。魔王は女子か。

「ベルゼブブ、あんまり我侭言うものではないですよ」

 マモンさんが入ってきた。その後にレヴィアタンも続く。そんなことを言いながらも二人ともケーキ待ち顔じゃないですかー。

「焼くのに時間掛かるんだから、ちょっと待っててよね」

 はーいと揃っていい返事をする。なんていうか、みんな可愛いよなぁ。悪魔じゃないみたい。並んで厨房を出て行く姿を私はくすっと笑いながら見ていた。

「で」

 私は低く言い放つ。

「で?」

「なんで出て行かないの、あなたは」

 キッチン台の隅には、アスモデウスが当然のように座っていた。

「別に見ててもいいんでしょー? 静かにしとくから」

 私は溜め息をひとつ吐く。まぁいいのはいいけど。私は泡立て器を手に取る。

「…………」

 計ったり混ぜたりしてきたけど、やがて私は手を止めた。

「アスモデウス」

「なーにー?」

「じっと見られてると集中できない」

「えー何それー? じゃあお話でもしとく?」

 まぁいいけど……。私はまた手を動かし始めた。

「アスモデウスたちって普段何してるの?」

「俺ら? 基本的には魔界の治安安定だねー。魔界は七つの州に分かれてんだけど、俺らは魔王様からそれぞれの州を任されてる」

「その州にいなくていいの?」

 最近はずっと魔王城にいるよね。仕事しなくていいんだろうか。

「優秀な部下たちがいるから。それに普段はいるよ。今は非常時だからね」

 その言い方に私は何だか複雑な気分になる。つまりは私のせいでみんなの部下の仕事が増えてるんだよね? いやいや悪いのは魔王だ……。

「白雪さんといることのが大事ー」

 にっこり笑って言うアスモデウスをじっと見て、私は「はぁ……」と盛大に溜め息をついた。

「仕事はちゃんとやろ? 私、やるべきことをちゃんとやらない人は嫌いだよ」

 アスモデウスは目をぱちくりさせていた。ややしてにっと笑う。

「白雪さんがそう言うなら」


   *


 で、どうしてこうなった。

「書類読むのめんどくさーい。ハンコ押すのだるーい。白雪さん食べたーい」

 待て! 最後のひとつおかしい!

 私とアスモデウスは、彼の部屋で書類と格闘していた。

 アスモデウスの配下だというコウモリが、彼の部屋まで書類を持ってきていた。私はアスモデウスが目を通した書類を紐で綴じる手伝いをしていた。アスモデウスはハンコを押すだけなのに、めんどくさいとか言ってもう仕方がないな……。

「文句言わないの。あとはハンコ押すだけってところまでコウモリ君がまとめてくれてるのに」

 私の言葉に、机の上にあごを乗せてぶーたれていたアスモデウスは、しぶしぶ顔を上げた。

「これ終わったらチーズケーキ食べていいから」

 昨日調子に乗って作りすぎてしまったチーズケーキは、厨房の冷蔵庫でいい感じに冷えているだろう。ベル君もマモンさんも、思った以上に喜んでくれたから良かった。

 それでもアスモデウスは唇を尖らせている。

「白雪さんがチューしてくれたらがんばるー」

「張っ倒されたい?」

 私は絶対零度の微笑みを浮かべる。ナマ言うのはその口か?

「ごめんなさい」

 瞬間、アスモデウスの背筋はしゃんと伸びた。

 私は思わずぷっと吹き出してしまう。変わり身早すぎでしょ。

「やっと笑ってくれた」

 柔らかく細められたアスモデウスの目と私の目が合う。私は目を瞬かせた。

「え、私……?」

「笑ってなかったよ」

 頬杖を付いて私のことを見ているアスモデウスは、真剣な表情で。

 ちゃんと見ててくれたことが、なんだか嬉しかった。

「……ありがと。やっぱちょっと緊張してたのかも」

「本当に白雪さんは、ここでは自由にしていいんだよ。……俺にはできないけど」

 そう言ったアスモデウスに、私は何も言うことができなかった。その寂しげな表情が、初めて見るものだったから。

 ぽつりと呟かれた言葉の意味は分からなかったけど、なぜだかそれが頭に残った。


   *


 アスモデウスはあの時浮かべた表情が嘘だったかのように、今日も軽薄そうな笑みを浮かべている。今もメイドの女の子が赤面して逃げていった。

「あ、白雪さーん」

 廊下の先からそれを見ていた私に気付くと、アスモデウスはひらひらと手を振った。

 私は大げさにため息をついた。

「またあなたは女の子を誑かして……」

「えー? 俺はいつも本気だよー?」

 アスモデウスは笑みを深める。

「それを全員に言ってるんでしょうが!」

 『色欲』の性質上、仕方のないことなのかもしれない。なんていうか、本能? 人間にとっての食欲とか睡眠欲とかみたいな。

「でも一番は白雪さんだけどねー」

 アスモデウスはにーっと笑みを浮かべている。

 なんか、こういうことを言うのは自意識過剰みたいで嫌なんだけど。

「でもアスモデウスは本気じゃないでしょ?」

 出会ったときから感じていた。サタンと一緒で、彼もこの魔王の決め方を受け入れてはいない。私にちょっかい出すのもただの暇つぶしで『色欲』を隠れ蓑にしている。

「アスモデウスは誰に対しても本気になれないんじゃない? 今はそれでいいかもしれないけど、本気になれる人を見つけたらきっと、これまでのことが辛くなるよ」

 なんて恋愛経験ゼロの人に言われても、説得力がないかもしれない。だけどそんな私でも気付いたんだ。好意を向けられてるからかな?

 アスモデウスは苦しそうな目で私を見ていた。大丈夫だよ、あなたなら本気で好きになれる人を見つけられる。

「……がう」

「え?」

「違う! 違うんだ白雪さん! 俺は……!」

 叫んだアスモデウスに手首を取られた。背中に衝撃を感じて、あぁ壁に押し付けられたんだと気付いた次の瞬間――

「……!?」

 なんだこれ。間近にアスモデウスの顔。そして唇に感じる柔らかい感触。

「……はぁ……!」

 アスモデウスの顔が離れてからようやく、彼にキスされたんだと気が付いた。

 呆然としている私に、アスモデウスはさっきよりも苦しそうな表情をする。そしてそれは後悔の色に変わった。

「俺は……白雪さんが好きになっちまったんだ……」

 痛いくらいの力で手首を押さえつけられてるのに、今はそんなことも気にならない。ファーストキスだとか無理やりだとか、そんなことよりも痛ましげな顔をするアスモデウスの方が気になった。

「……ごめん」

 だけどそれだけ言って去っていく彼を、私は追いかけることができなかった。

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