第7話
あの日、
届くことのなかった私の手。
今も私の心に刺さり続ける棘。
愛と呼ぶには、お互いに幼すぎた。
それでいて子供でもないほどの大人。
いつまでも続くと思っていた。
終わることなど考えてもいなかった。
「じゃあ、またね。」
いつもと同じだった。
手を振って別れた。
夕日がキラキラと眩しかった。
逆光になったあの子の表情がよく見えなかった。
いつもと変わらない日常。
終わることのない日常。
終わるはずのない日常。
その日常が終わり始めた。
連絡を貰い、急いで救命センターに向かった。
事故だった。
よくある事故。
出会い頭の事故。
ほんの一瞬の不注意の事故。
それは、毎日のように報道される事故。
あまりにも日常の中に溶け込んでいる無機質な情報。
その被害者に人格が生まれた時、世界は終わり始めた。
私の左手の薬指が憶えている最後の体温。
命を無くした生き物の温度。
あの子の頬は、雨の日の鉄棒のように冷たかった。
纏わりつくのは線香の煙。
二度と呼ばれることのない私の名前。
幼い愛を誓い合った幼い私がいた。
永遠だと思っていた。
世界は終わり始めたのに、幼い私は終わる方法を知らなかった。
夕日の中での別れの日。
「また」が来ることはなかった。
今も私は、見送った手を降ろせないでいる。
あの日、
手を振らずにあの子を抱きしめていれば良かったのか。
夕日に包まれた笑顔に手を伸ばせばよかったのか。
あの日なら、まだ届いた手。
今は、もう届くことのない手。
そう、
届くことのない手。
届くことのない私の左手。
その手の先に見えるのは。
冷えた空の向こう側を見上げる彼の横顔。
整えられた髭と柔らかな皮膚に覆われた下顎骨の曲線、それに続く白い頸部の美しさ。
触れようと思えば触れられる距離。
それは、
手を伸ばせば届く距離。
本当に?
手を伸ばせば届く距離?
隣に居るはずの彼の意識は、
今、
遥か彼方、
冷えた空の向こう側。
伸ばしかけた左手を戻す。
あの時も、
これからも、
私の左手は届くことなんてない。
「星が取れたら、その時は一番に樫井さんに見せますね。」
届くかな。
遥か彼方、冷えた空の向こう側に居る彼に呼びかけてみた。
「高鷲さんの願いは何ですか。」
向こう側から彼が聞く。
私の願いを。
私の願いは。
「この日常が続くことです。」
作り笑顔に甘い声、いつも通り心に蓋をして答える。
つつがなく、ただ、ただ、つつがなく。
同じことを繰り返す、変化のない日常。
同じことの繰り返しに見える、平穏な日常。
何も終わらず、
何も始まらず、
心を揺さぶられる事の無い日常。
また、向こう側から彼が聞く。
「その日常が終わった時、途切れた気持ちは何処へ行くんでしょう。」
見渡せば、世界を囲む境界の影。
此処は松の内、
主の居ない青鈍色の夜。
隣に見えるはずの彼の輪郭が滲んで見える。
命と世界の境界が滲んでいる。
境目が溶けてしまえば戻ることは出来ないのだろう。
冬の匂いに混じるのは何の匂いか。
気がつけば、すぐ側で。
『敷き詰められた砂利に足を取られてはいけないよ。』
『転んだら二度と帰れないよ。』
誰の声だろう、もう思い出せない。
いや、違う。
これは、
まだ知らない声。
そう、
気づいてはいけない声。
大丈夫、
私は、
まだ帰れる。
「何処へも行きませんよ。」
そう、
だから、
しっかりと歩くんだ。
「それすらも続いて行く日常です。」
「何処へも。行かない。」
遠く向こう側で彼が呟く。
世界と彼の境界は滲んだままだ。
もう一度、私の声を届ける。
「ええ、何処へも。」
「このまま。ですか。」
このまま、か。
何を抱えているのだろう、何処でとどまっているのだろう。
知りたい衝動に駆られる。
私の頭の中では警報が鳴っている。進むべき道は其方ではないと。
それを好奇心が抑え込む。
ほんの少しの寄り道、すぐに進むべきいつもの道に戻ればいい。
「ええ、『そのまま』です。」
溶けかけていた彼の輪郭がくっきりと浮かび上がる。
青鈍色の世界から冬の星座を見上げたままの彼の眼差しに命の色が戻る。
「春先に妻を亡くしました。」
少し高くて透明感のある彼の声。
その声が私の中を侵食し始めた。
終わる事も始まる事も無い日常を望んでいた。
心が動けば痛みが増す。
それは、抜けることのない棘の疼き。
「妻が居たので断っていたんですが、来年度から海外に行くんです。」
赴任期間は最短で一年の予定だが、赴任期間が終了しても今の病院に戻るかは不明とのことだ。
「いつ出国ですか?」
「色々と準備もありますし、二ヶ月後には出国予定です。」
いつの間にか向き合う目と目。
メタルフレームの眼鏡の奥の瞳に浮かぶ色が読み取れない。
終わりも始まりも欲しく無い。
欲しいのは、
心を乱される事の無い穏やかな日常。
私の心の奥深く、決して抜けない棘がある。
動けば更に食い込む棘。
届くはずの無い空に煌めく無数の中ひとつ、その手に握ることが出来たなら、掴んだ掌は青い炎に焼かれるのだろうか。
届くはずの無い空に煌めく無数の星ひとつ、その手に握る事ことが出来たなら、彼は『落とした命』を願うのだろうか。
私も、また、願うのだろうか。
あの夕日の中に消えた笑顔を。
焼かれる痛みと引き換えに、願うのだろうか。
彼の心に刺さる棘。
未だ、
私の心に刺さる棘。
それは、
違うはずなのに同じ棘だった。
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