第6話



その後、何を話しただろう。

とりとめもない話、それでいて途切れることのない会話。

勝ち続けることが当たり前で負けることを許されなかった柔道の話。

吐くほどの勉強と試験の連続、その合間の恋愛に苦しむ医学部時代の話。

まだ朝とも呼べない薄暗い時間に家を出て暗くなってから帰宅する今の職場の話。

とくに印象深かったのは救命センターでの話だった。

そこは戦場、淡々と行われる命のやり取り。

落とす命、落とせない命。

死亡診断書を書いて気持ちを切り替え、次の仕事を片付ける。

ドラマチックな物語とは程遠い、生々しいまでの日常。

それが、彼の日常。

ごく当たり前に語られる日常。


「救急搬送の大半は一刻を争うものではありませんよ。搬送されたからには受け入れるしかありませんけどね。」


眉間に寄せられた皺、疲労が色濃く滲む表情、吐き捨てられた言葉。

これも、また彼の日常なのであろう。

事故などでの障害の等級や診断書に不満を持つ患者に理不尽に恫喝され警備を呼ぶ。

入院させる必要のない年老いた患者の入院を強く希望する患者家族に、認知症の進行や院内での感染症の危険性を説明する。

ナースからの緊急性のない連絡に何度となく手を止められ、そのために発生するその後の予定の調整。

事故で折れた幼い子供の背骨のカーブに合わせて金属の長い棒を曲げていく作業が難しい手術。

職員の不足する休日に急変した病棟の入院患者に一人で心肺蘇生を行う。手を止めることは決して許されない。それは、即ち患者の死を意味する。流れる汗、蓄積される疲労、それら全てに気がつかないふりをして処置を続ける。


「助かったの?その患者さん。」


「ええ、助かりましたよ。何事もなかったかのように元気に退院していかれました。」


ふうっと息が漏れ身体の力が抜けるのがわかった。すっかり彼の話に引き込まれてしまっていた。

氷の溶けた銀色のコップの水を飲む。

医師の仕事というのは本当に不思議な仕事だ。

私の仕事とは全てが違う。

制度改正が無ければ大きな変更のない予定された仕事。顧客の会社の資産管理と会計決算業務、給与計算、官公庁に提出する書類作成。突発的なことはなく、普段の雑談からも顧客のニーズを探り会社を発展させたい方向性を考え顧客に有益な情報を提供する。顧客の会社の業績が上がれば私の事務所の信頼も上がる。

自分のペースで予定を立てて、ゼロやプラスのスタート地点から更にプラスにする仕事。

それに比べると彼の仕事というのは、突発的に起こるマイナスを如何にゼロに近づけるかの連続、時にはマイナスのまま終わることもある仕事。

一体、どういう気持ちで仕事をしているのかと質問してみる。

空中を僅かに彷徨う彼の視線。

そうして、ぐるりと世界を一周し私の処へ戻ってくる。


「降りかかる火の粉を淡々と払うのみですかね。」


そう答える彼の声に、使命とか理想とか、そういうものは無い。

本当に、ただ、ただ、日常なのだろう。

役柄にインパクトがあるだけで、彼自身は今時の若者と何ら変わりはないように思える。

そんなことを考えていると彼が申し訳なさそうに話しかける。


「時間、大丈夫ですか?」


時計に目をやる。

時刻は、まもなく十一時。

店内を見れば他の客の姿は無く、愛想の良い店主が厨房に近い席で晩御飯だろうか、寛いだ様子で賄い料理を食べている。

店内に流れていたはずの民族音楽の曲調が変わっている。異国の言葉が奏でる演歌、タイ国内の流行りの曲なのか店主夫婦の趣味なのか。

営業時間が終わった後の店主たちの寛ぎの時間といった空間に変わっている。


「ごめんなさい、すごい時間。」


「いえ、こちらこそ一方的に話してしまって。」


交わる視線。

柔らかな空気。

お互いが顔を見合わせて同時に微笑む。


「遅くまでお付き合いいただいて、ありがとうございます。」


作り笑いに甘い声、視線を彼から外すことなく会釈する。


「いえ、こちらこそ聞いていただいて、ありがとうございます。」


そう言って優しく笑う彼。

あまりに笑顔が可愛いので最後の意地悪を。

僅かに首を傾け上目遣いに見つめる。口の端からペロリと舌を出して悪戯をした子供のように。


「あぁ、楽しかった。駄目や、時間が全然足りひん」


再び交わる視線。

繋がったものは。

喜びを隠そうともしない優しい笑顔。

少し別れが惜しくなる。

できるならば、もう少しこの笑顔を見ていたい。


「ねぇ、連絡先を交換しません?」


メタルフレームの眼鏡の奥の瞳に驚きの色が浮かぶ。

私の申し出に僅かな同様を見せたものの、彼は連絡先の交換に快く応じてくれた。


厨房の近くの席で食事をしていた店主に声をかける。

遅くなったことを謝ったが、いつも通りの人の良い笑顔のまま機嫌良く受け答えされた。

タイ人というのは大らかなのか、それともこの店主が大らかなのか。

そんなことを考えながら二人して店を出る。

店の前の道を渡り、松の木々の影の境界を超え、主の居ない世界に戻る。


吐く息が白く凍る青鈍色の世界。

遠くの街灯に作られる薄く滲む二つの影。

敷き詰められた砂利を踏み歩く二つの影。

暗く佇む神社の木々の上。


見上げれば、

乾いた空気の向こう、真空に磨かれ限りなく輝く冬の星座。

まるで、

すぐ側にあると錯覚するほどの澄んだ夜空の星々。


静かに輝くカシオペア座。

冷えた空に静かに佇む星。

届くはずのない空に手を伸ばす。


それは、星取り。

かつて、私の母に教わった昔話。

溢れるほどの星が輝く夜、その空に手を伸ばし、どれか一つでも取ることができたなら、どんな願いでも叶うのだと。

母親越しに見上げた空に煌めく星。

その空に手を這わせる母の輪郭は薄く滲んでいた。

無機質に煌めく星の温度も、繋がれた手の感触も、夜の匂いも思い出せない。

幼い私の世界は輪郭を無くし、すべてが混ざり合っていた。


あの日以来、私は何度となく夜の空に手を伸ばした。

届くはずのない距離だと知ってからも、身体に染み付いた癖のように気がつけば夜の空を撫でていた。


あの時、

母は何を願ったのだろう。

夜空に伸ばした母の手は、星を取ることが出来たのだろうか。

見上げた母の顔は、どんな表情だったのだろうか。


もう、思い出せない。

何も、思い出せない。


「星取りですか。」


夜空を撫でる私の手が止まる。

過去を撫でる私に響く柔らかな彼の声。


「取れたら見せてくださいね。」


振り返り見た彼の表情は優しい笑顔のままだ。

可愛い笑顔をするな、と思った。

少年の様な可愛い笑顔を見つめたまま意地悪くからかう。


「あら、センセイにも願い事なんてあるんですか。」


見つめた視線の先、メタルフレームの眼鏡の奥の瞳の微笑みが消える。

踏んではいけないものを踏み抜いたかもしれない。


それは、影踏み、今度は彼が鬼になる。


微笑みの消えた瞳は視線を僅かに外し、乾いた空気の向こう側を見上げる。

そのまま、薄い唇が動く。


「決して落としてはいけない命を落としたんです。」


今、彼の世界に私は存在していない。

私だけではない。

この世のどんな『命』も、今、この瞬間の彼の世界には存在していない。

手を伸ばせば届きそうな星があるのは、届くはずのない空の中。


『決して落としてはいけない命』


それは、

今も私の心に刺さる棘に似た痛みかも知れない。



彼と同じ棘なら良いのに。



そんなことを思ってしまった。

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