第5話




「おまたせしました。」


愛想の良い店主が機嫌よく料理を運んできた。

スパイスが香るパッタイと鮮やかな緑色のカノム・チャン。

私の胃が動きだすのがわかった。

医師の話に夢中になっていたが、今日は昼御飯を食べてから何も食べていない。


「美味しそう、いただきます。」


手を合わせて目を瞑り、口の中で感謝の言葉を唱える。もう、ずっと昔からしている、幼い頃からの習慣。食べる物への感謝の言葉。

それらが終わってから箸をとり食事を始める。何も変わらない、幼い頃からの習慣。

この店の調理人、『ママ』の作るパッタイは甘めの味付けで、日本人なら馴染みのある砂糖醤油の甘辛い味付けに近い。

モヤシ、ニラ、卵に海老、それに小さめの一口大に切られた厚揚げ、色とりどりの具材、平たい米粉の麺に絡む異国の調味料、トッピングはパクチーと砕いたピーナッツ、くし切りレモンが添えられている。

料理とともに運ばれて来た調味料のうち、ナンプラーと赤い唐辛子の粉を手に取る。

ナンプラーは少し多めに、赤い唐辛子は思った以上に辛いので少なめに、そうやって慣れた手つきで調味する。

箸で少し混ぜてから米粉の麺を口に運ぶ。

甘みと旨味が舌の先に染みる。その後に鼻腔に抜けるナンプラーの独特の香り。食材たちからの贈り物を堪能していると彼が笑った。


「美味しそうに食べますね。」


「え、そうですか。恥ずかしいから、あんまり見ないでください。」


照れた風を装うが、これも身体に染み付いた生き方の一つ。

食事の時間というのは不思議なもので、時間を共にする相手によって料理の味や雰囲気まで変わる。

だからこそ、こちらから必要以上に楽しげな空気を生んでやれば、相手にも楽しい時間だと思い込ませることができる。


「すみません。でも、本当に幸せそうな顔でしたよ。」


優しい笑顔だ。

なんだか、少し楽しくなってきた。


「だって、幸せなんですもの。」


それは、ほんの少しの興味。

もう少しだけ、彼の中に入ってみたい。

上目遣いに聴いてみる。


「樫井さんは幸せじゃないんですか?」


まばたき、ひとつ。

彼の瞳が動く。

返事は無い。


「私は、今、とっても幸せですよ。」


意地悪な笑顔を浮かべて彼の返事を待つ。

意を決したように彼が答える。


「そんなにパッタイが好きなんですか。」


さすがに賢い男だ。

こちらの意図を読んでいる。

これは、もはや予定調和。


「もちろん美味しいご飯もですけど、樫井さんと一緒にご飯を食べられる幸せ。」


「そうなんですか。」


「そうですよ。今日、ここに来なければお会いすることは無かったんですよ。」


安堵したような笑顔を見せる彼。

その彼の、もう少し深い部分を見てみたい。

優しい笑顔を浮かべる彼を真っ直ぐに見つめ、たっぷり時間をかけて甘い声で囁く。


「ご縁がありますね。」


催眠作用のある甘い毒。

遅効性の甘い毒、

気がついた時には手遅れ。

ほら、

もう全身にまわる頃。


「ねえ、聞いてもいい?」


「何をです?」


「どうして、お医者さんになろうと思ったん?」


全身にまわる甘い毒、

それでも僅かに残る理性で彼は話し出した。


「医師を目指す友人がいたんです。」


その話の内容に、私は少しばかり驚いた。

学生時代に進路を決めるにあたって思ったこと。それは、名のある大学の偏差値の高い学部、そこに合格すれば全てが上手くいくと思っていたこと。

根拠など無い。

ただエリートと言われる人間になれさえすれば人生は上手くいくと思い込んでいた。

その思いから、ひたすら勉強に打ち込む日々を過ごしていたのだが、医学部を目指す友人の話を聞くうちに医師という仕事に興味を持ち、そんなに魅力的な仕事ならばという思いから進路を医学部に変更し大学に入学して今に至るわけである。


「ねえ、待って、医学部って入ろうと思って簡単に入れるものなの?」


「簡単ではないですよ。ただ、大学さえ選べば何とかなります。」


「どういうこと?」


「学費と偏差値の兼ね合いです。国立と私立でも違いますが、大まかに私立ですと偏差値が高ければ学費は安く、偏差値が低ければ学費は高い。私は学費を考え国立にしました。当時の目標は医師免許の取得ですので大学の名前は気にしませんでした。ですが出身大学を重視する医局もあるようでして、話を聞く限り地底医の私はエリートコースからは外れていますね。まぁ、自分の実力とお金の問題を考えて大学を選べば難しいことではないです。」


「もう話のレベルが高すぎてついていけん。とりあえず、お医者さんは凄いってことでいいや。」


突き抜けて賢い人間の考えは、酷く単純で、それでいて現実味が無い。

生きる世界は同じはずなのに。

彼が見ている世界と私が見ている世界にズレがあるのか。

同じものを見ているはずなのに、見え方が違っているのか。

彼が食べる鮮やかな緑色のカノム・チャンは、彼の目には私の中の何色に映るのだろう。


「それ、緑の魔法のやつ、美味しい?」


彼の手が止まる。

飼い犬の馬鹿らしくも愛らしい質問に微笑む飼い主。


「魔法のやつって。まぁ、美味しいですよ。食べます?」


「ごめん、なんか催促したみたい、違うんやで。でも、ありがたく頂きます。」


スプーンと共に皿に乗った緑の魔法がこちらにやってきた。

大きさは手のひらに乗るくらいだろうか、正方形の弾力のある鮮やかな緑色。皿の上でプルプルと揺れる異国の食べ物。

このスプーンもまたタイの食器なのだろうか。形はラーメン屋などで見かけるレンゲそのものだが、それよりも少し小さく、材質はコップと同様の銀色の薄い金属製で、とても軽い。

彼のスプーンを借りて緑の魔法を口に運ぶ。

舌先に伝わる冷えた金属の感触、ココナッツの香りと焼けるような甘さ。

それらをゆっくりと味わって、今度は私が魔法をかける。


「あ、美味しい。これ、好きかも。」


デザートに夢中なふりをして、緑の魔法を彼に返す。

私の唇で魔法をかけたスプーンと共に。

返されたデザートの皿を受け取る彼。

何事もなかったかのように緑の魔法を口に運ぶ。

そのスプーンが彼の唇に触れる。

私もまた、何事もなかったかのようにパッタイを口に運ぶ。

でも、私は気づいていた。

彼の指がスプーンに触れる瞬間、僅かに震えていたことを。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る