第3話
「樫井さんは甘いもの、お好きなんですか?」
決して視線を外すことはない。
作り笑顔のまま鼻から抜ける甘え声。
狙う獲物は警戒心の強い野生動物、少し慎重に獲物との距離を測る。
「まあ、好きですね。仕事中は食事を取る時間がないこともあるので、お菓子を食べてますね。」
仕事、か。
医師の仕事、知人に医療関係者などいない私には、外来診療での「お医者さん」以外の仕事などは想像で描くしかない。
私の知らない世界で生きる人間への興味が僅かに生まれる。
「え、そんなにお忙しいんですか。あ、『お医者さん』でしたよね。ごめんなさい、私、病院の事、あんまり知らなくて。」
ほんの少し視線を外す。
今までの落ち着いた雰囲気とは一転して慌てた様子を見せ、話し言葉も少し砕けた感じにして動揺している自分を演じる。
これは、相手からすれば、見ることのないはずの内面を不意に見てしまったという状態。
まるで以前から親しくしている間柄だと錯覚させるような態度。
すこし馴れ馴れしいぐらいで丁度いい。
そこに、『今、医師だという事を思い出した』というスパイスも加える。
医師などの役柄のインパクトの強い人種は、その役柄を演じることを常に求められる。それは私生活でも変わりはない。
『医師』だと相手に知られた瞬間から『医師』であることを強制させられる。そこに一人の人間としての尊厳は存在しない。
そういう類の役者を、一人の生身の人間として扱うことによって対等な関係を築く。
これは、人間関係の基本なわけだ。
『役柄』ではなく『個人』を見て欲しい。
一種の承認欲求を満たすことで相手の領域に入り込む。
ごく簡単で当たり前、それでいて失礼のない対応。
だが、現実には彼を個人としてみる人間は少ないだろう。
だからこそ、呼ばれ慣れた『先生』ではなく、『樫井さん』と個人名で呼ぶことで彼の領域に侵入することに成功したのだ。
時間にして三秒
右下に落とした視線を再びメタルフレームの眼鏡の奥に定め、獲物の様子を窺う。
「あ、いえ、手術が続いたりすると忙しいですが、そんなに、いつも忙しいわけではないんです。」
案の定、医師は微笑んでいた。
狙い通りだ。
ならば、もう少し追い詰めてみるか。
「ごめんなさい、お医者様ですものね。『先生』ってお呼びするべきなのに、私ったら失礼しました。」
詰めた心の距離を、一気に広げる。
必要以上に他人行儀に。
振り幅が大きいほどに獲物の動揺も大きくなるはずだ。
構える暇もなく一気に詰められた距離。
心に触れられるほど側に来てくれていたはずなのに、今度は急に遠くに行かれる。
離れてしまう
行ってしまう
失ってしまう
そういった類の焦燥感。
心地よい距離を保ちたいなら自ら追いかけるしかない構図を作って追いかけさせてやる。
相手をグラグラと揺さぶり冷静な判断をさせないまま、こちらの猟場へと誘い込む。
「いえ、今は仕事中ではありませんし、それに私は『先生』と呼ばれるほど偉い人間ではありません。」
上手く私の猟場に誘い込めた。
「そうなんですか、そう言っていただけると助かります、樫井さん。」
なんとも申し訳なさそうな表情を作り、作り笑顔と甘えた声で再び心の距離を詰める。
その距離は以前よりも遥かに近い。
それは、
もう触れる寸前。
いや、
僅かに触れたかもしれないと思わせるほどに気がつけば側に。
彼の見せる表情が変わった。
微笑みの中に入り混じった、その感情。
その様子を冷静に観察して分析をしてみる。
これまで幾度となく繰り返してきた実験と考察と検証。
まず、嫌われてはいないだろう。
好意は芽生えているはずだ。
ならば、その好意の種類とは。
見つめる
笑顔で
これは、まさに狩り
「じゃあ、私の晩御飯は、樫井さんのオススメのパッタイにしますね。樫井さんは何を頼まれます?」
「カノム・チャンにします。」
彼の声が不思議な響きを奏でる。
聞いたことのない異国の言葉。
そっと彼の心を撫でてみようか。
今度は先ほど触れた場所とは違うところ。
甘い笑い声を混ぜてはいるが、悪戯を思いついた子供のような純粋さで目を輝かせてみる。
「今、魔法使いました?何の呪文?」
子供っぽい表情のまま、ほんの少しテーブルに身を乗り出し身体の距離も詰める。
「魔法は使ってないですね。『米粉のココナッツ風味ゼリー菓子』と、メニューには説明があります。」
彼もまた、子供のように笑う。
「美味しそう。じゃあ、樫井さんは、その『なんとか』で。」
「『なんとか』じゃなくて、カノム・チャンです。」
優しく笑う彼の瞳を真っ直ぐ見つめたまま、さらに心の距離を詰める。
私の甘い笑い声を彼に聴かせ、一呼吸の沈黙の後に、酷くゆっくりと唇を動かす。
「真面目なんですね、樫井さん。」
どんな砂糖菓子よりも甘い響き。
それが、彼の外耳道を通り、その奥にある鼓膜を撫でる。鼓膜から染み込んだ私の声は、彼の耳小骨を、蝸牛を、リンパ液を刺激して有毛細胞によって電気信号に変換される。
電気信号に変換された甘い砂糖菓子は、もはや何に邪魔されることもなく彼のラセン神経節細胞や内耳神経を通過し大脳聴覚皮質へと到達する。
電気信号になり損ねた私の声は、彼の内耳から細胞に染み込み血管から血流に乗り身体中へと運ばれる。
それは、傷つけられたメラノーマが血流に乗って全身に運ばれるのにも似ている。
逃れる術は無い。
ねえ、
先生、
どうなさいます。
彼の表情を確認する。
私の蒔いた餌は気に入ったようだ。
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