第2話


店主がメニューと水を持ってきた。

四人掛けのテーブルに、水の入った銀色のコップが二つ置かれる。

タイの伝統工芸だろうか、飲み口の薄い金属のコップは氷水に冷やされ、全体に施された複雑な模様に空気中の水分を集めている。

何処からか流れるタイの民族音楽。

向こうの壁際のテーブルの客達の話し声。

店内を包む柔らかな光。

その光を受けて鈍い光を放つ銀色のコップから視線を上げる。

上げた視線の先に座るのは、知っているはずの知らない医師。

その、視線が合う。

繋がった目と目。

と、

メタルフレームの眼鏡の向こう側の視線が下に落ちる。

泰然とした空気の中に感じる違和感の正体がわかった。



緊張しているな。



職業柄だろう、相手に不安を与えないように自分の感情を見せない様は流石というべきか。

ただ、ここは診察室ではない。

そして、私は患者でもない。

彼もまた医師ではない。

ならば、今、向き合う二人の間にあるものとは?

そう、今は医師ではない彼。

かなり短く切り整えられた髪は、ほんの少しの癖が見て取れる。

頬から顎にかけて伸びる髭は整えられており、そのせいで落ち着いた印象を与えてはいるが、恐らくは若い医師なのであろう。

疲れているのだろうか、目尻の下の部分が赤みを帯びている。

すっきりとした鼻筋、固く結んだ薄い唇。

肌の色が白いのは日光に当たる機会が少ないのだろう。病院での勤務の過酷さが窺われる。

男性にしては少し細い首、それでいて美しい存在感を放つ喉仏。

芯の通った真っ直ぐな姿勢とテーブルの上に置かれた両の手。

親指は弓の様に反っている。関節が目立つすっきりとした美しい指たち。

その指の爪は、どれも短く切り揃えられ白い部分は確認できないほどだ。



その指で手術をするのか。



暖かな肌にメスを突き立て、柔らかな皮膚を破り、その下の肉を丁寧に切り裂く。

目的の場所が露わになるまで彼はメスを動かし続けるのだろう。

破れた皮膚から流れる血液の赤の濃度を気にすることもなく、ただ目的の場所を目指す彼の指。

ラテックス越しに指に伝わる肉の感触、血の温もり、その匂い。



金属製の器具に次々と体を侵食されていくというのは、一体どんな気持ちなのだろうか。



その彼の指が、テーブルの上のメニューを引き寄せる。


「何を食べますか?」


メタルフレームの眼鏡の奥の視線が私を捕らえた。

まだ違和感を感じるのは緊張しているのか。

それとも警戒しているのか。

彼は何を怖がっているのか。

まずは、この警戒心の塊の様な野生動物の保護から始めることにした。


「樫井さんのお気に入りを教えてください。」


作り笑いに甘えた声。

僅かに首を傾けて、ほんの少しの上目遣い、そのまま眼鏡の奥を真っ直ぐに見つめてみた。


まばたき、ひとつ。

そうして彼は視線をメニューに落とした。



入ったな。



長く「女」をやってきたからだろう、こういうのは感覚で分かる。

相手の中の「何処か」に私が入り込んだ瞬間。それが、どこかは今は分からないが確実に相手の中に入り込めた瞬間。

まずは、第一段階クリアといったところだ。

タイ料理のメニューと、「私」を彼の脳の回路が処理をしている。

私の一部が入り込んだままの彼が答えた。


「あー、パッタイ、ですかね。」


「あ、やっぱり。私も大好きなんです。」


両手を合わせて口元を少し隠し、驚きと喜びを見せて笑う。視線は、合わせたままだ。


「樫井さんも、好きなんですね。」


共感脳を刺激する。我々は仲間だと。同じだと。味方だと。


「私も、好きです。」


合わせたままの視線。

今の話題はメニューの話で、好きなのはパッタイ。


ねぇ、

分かってますよね。


まばたき、ふたつ。

そうして彼は微笑んだ。


氷水を湛えた飲み口の薄い銀色のコップ。

複雑な模様が集めた空気中の水分がテーブルを濡らす。

彼の指が濡れたコップを捕らえる。

ゆっくりと水を飲む彼の薄い唇。

食道を通過する水に合わせて動く喉仏。

それに合わせて、私も少し水を飲む。

静かにコップを置き、テーブルを濡らす水を撫でる彼の指。

水滴は柔らかな光を受けてキラキラと輝いている。

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