千川原 周作

第1話

主人から連絡があった。

時刻は夜九時、稽古を終えて弓道場を出ようとした、まさにその時だった。


「息子と二人で晩御飯を食べ尽くしてしまったから好きなもんを買っておいで」


先ほどより少し重くなった体で道場の外に出る。


疲れ切った体が吐く息が白く凍る、其処は冬の匂いが満ちた世界。


道場の扉を閉め、今後の予定を考える。この時刻ならスーパーの閉店セールに間に合うか、ならば、お惣菜のトマトサラダとチーズを買って帰ろう。

以前、あのスーパーで購入したトマトサラダは素朴ながら優しい甘みがあり、息子も気に入り嬉しそうに食べていたものだ。

それにタンパク質を補うためのチーズ。夜食を食べる自分への罪悪感を少しでも減らそう。

道場に隣接する神社の境内を歩き、停めてある車へと向かう。


広い境内をぐるりと囲む松の木々。

樹齢のわからない木々の影が彼方と此方の境界の目印。


夜の神社に主はいない。


松の内、此方の世界に限っては昼と同じ世界ではない。

冬の匂いに混じるのは何の匂いか。

それに気づいてしまえば、きっと、もう、戻ることはできない。

敷き詰められた砂利を踏みしめ歩を進める。


それは、いつもと同じ行動。

気付いてはいけない、振り返ってはいけない。前だけを見て進み、車に乗って自宅に戻る。


それは、いつもと同じ行動。

つつがなく、ただ、ただ、つつがなく。そうやって真面目に生きてきた。


車に乗って自宅に戻る、その前にスーパーに寄る。ただ、それだけのこと。


境界の外、松の影の向こう側。

ふっと、目をやれば、彼方の世界の道沿いに行きつけのタイ料理屋の光が見える。



煙草が吸いたい。



ゆっくり家で食べたいから持ち帰りでパッタイを頼んで、作ってもらっている間にコーヒーでも頼んで一服させてもらおう。

疲れた体で買い物をする気力は、もう無い。


それは、いつもと違う行動。


ほんの少しの寄り道。ただ、それだけのこと。

境界をくぐり、松の影を背に、いつもと違う道を進む。

見知ったはずの店なのに。

周りの時間が違うだけで、こんなにも知らない顔を見せる。

体の中で僅かに感じる「何か」。それが何なのか解らないまま、通い慣れたはずのタイ料理屋の硝子製の重い扉を開けるために入口へと進む。


一瞬の出来事だった。


硝子製の重い扉に手をかけながら店内に目をやると、立っている人が見える。

動きを緩めることなく、そのまま扉を開け、香辛料の匂いに満たされた空間に足を踏み入れる。

それは、どこかで見た事のある顔。

知っているはずの顔なのに服装と背景が一致していない。


ほんの僅かな間、

ゆるりと思考が止まる。



ああ、同じ弓道場に通う医師だ。



繋がった記憶、動き出した思考。

私の記憶には、磨き込まれた床張りの道場、引き絞られた弓がピリピリと鳴く中、白黒の的を狙う着物姿の真っ直ぐな瞳。

私の眼前には、橙色の照明が照らす極彩色のタイ料理屋、店内に置いてあるタイの情報誌を手に持ち、普段着でくつろぐメタルフレームの眼鏡越しの真っ直ぐな瞳。

入口の扉に手をかけてから医師を認識するまで、ほんの一瞬の出来事だった。

気付いた時には、お互い目と目で挨拶を始めていた。

失敗だ、これでは煙草が吸えない。見知った人間には嫌煙家で通っている。

非常にまずい状態のままに挨拶を交わす。


「お疲れ様です。今日は、練習お休みなんですね」


作り笑顔に甘い声、見つめる視線は少し意地悪に。

いつもの通りの男性に対する態度。


「あ、はい、あ、そちらは道場の帰りですかね。」


驚きと気恥ずかしさの入り混じった眼差し、髭の生えた頬が少し紅潮して見えるのは店内の照明の所為だけではないはずだ。

もちろん道場で挨拶をしたことはあるし、何度か世間話をしたこともある。しかし道場以外で会うのは初めてだ。

環境が違うだけで、こんなにも知らない顔を見せる。

照れたような可愛らしい笑顔。

どうやら医師は食事を終え、今から食後の甘いものを食べるらしい。


そんなやり取りに馴染みの店主が気を遣ってくれたようだ。


「よかったら、こっちの広い席を使ってください。」


太陽に焼けた肌、人懐こい笑顔で流暢に日本語を話すタイ人の店主。

医師が座っていた窓際の二人掛けのテーブルから、店内奥の壁際の四人掛けのテーブルへと促される。

これも何かの縁と腹を括るしかあるまい。

そう、

これも仕事だと思えばいい。

煙草は諦めた。

細く息を吐き、私の中の仕事の電源を入れる。

ゆったりとした動作でテーブルに移動し壁を背に席に座る。



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