第3話 狡猾にして残虐! 銀色の髪の女

 東京湾。

 上り詰めた天のいただきから半月がなだらかな弧を描いて悠然とすべり降りようとしている。

 湾岸沿いにかけられた巨大な橋を支える太い支柱の天辺に一人の女が立っていた。

 夜のとばりの中、女の長く美しい銀色の髪が風に揺れながら輝きを放っている。

 そして彼女の頭部には動物のそれを思わせる2つの耳が頭髪の間から顔を出していた。


「いい夜だ。私ら妖魔にとって闇夜ほど生きやすいものはない」


 女はそう言うと口の端を吊り上げてニヤリと笑った。

 妖魔。

 ほとんどの人間は知らずにいるが、この世に確かに存在する『人ならざる』存在。

 彼らは人間が遠く及ばないほどの身体能力と魔力を持つが、この世界でそれを発揮することができるのは陽光の消え失せた夜の間のみ。

 女は夜気に身を任せるように両手を広げ、心地良さそうに夜風を浴びる。


鬱陶うっとうしい太陽の明かりも今は我が身に届かぬ」


 人の世たるこの世界において彼女ら妖魔は昼の間は人と何ら変わらぬ脆弱ぜいじゃくな存在に成り果ててしまう。

 それは遥か古の時代に人と妖魔とが取り交わした契約による制約であると、事情を知る者たちの間ではそう伝えられている。


「さて、時間通りだね」


 そうつぶやく女の蝋人形のように無機質なその白い肌とは対照的に、その目は月明かりを受けて爛々らんらんと銀色の輝きを放っている。

 それは獲物を狙うきつねを思わせる狡猾こうかつな光だった。

 彼女が鋭い眼光を投げかけるその先では中型の貨物船が湾内の海面を進み、今まさに彼女が立つ橋の下にさしかかろうとしているところだった。


 突然、銀髪の女は支柱の上から宙に身を踊らせた。

 風にあおられて衣服と髪とが暴れ狂うのも気にとめず、女は一気に降下していく。

 かなりの高度があるにもかかわらず、女はふわりと軽やかに船の甲板の上に降り立った。

 甲板には数名の船員の姿があったが、突然降って湧いた女の姿に、皆一様にどよめきを上げながら後ずさる。

 銀髪の女はそんな彼らに向けて余裕の表情を浮かべながら手をかざした。


なんじらの見たこと聞いたこと。忘却の彼方へと去りゆく」


 女がそう詠唱えいしょうすると彼女の手のひらがまばゆく光り、その場にいた数名の船員がすべて我を失ったように呆然とその場に立ち尽くした。

 見開かれた彼らの目からは光が消えうせ、そこに何も映ってはいない。

 その様子に満足げな笑みを浮かべると、女は動く者の無くなった甲板を足早に進み、船内に足を踏み入れた。

 船内には甲板と同じくまばらに人の姿が見られたが、甲板の船員達と同様に彼女が通った後には呆然と立ち尽くす彼らの姿が残されるだけだった。


 やがて銀髪の女は船の最下層に設けられた倉庫室の前に立った。

 ここまで来ると人の姿は皆無である。

 倉庫室の扉には、【内装工事中のため関係者以外立ち入り禁止】と書かれた札がかけられていたが、女は無遠慮に倉庫室の扉を開けた。


 室内は広々とした1フロアになっており、そこには数十名の人物がまるで押し込められているかのように肩を寄せ合っている。

 女が扉を開け放った途端、そこにいた全員がピリピリとした緊張感を漂わせて入口を振り返った。

 その目には一人として違わずにギラギラとした殺気が宿っている。

 女は彼らを一通り見回してその人数を確認すると、口の端を釣り上げてニヤリと笑った。


「旅人諸君。ようこそ日本へ。私が水先案内人だ」


 銀髪の女がそう告げると殺気立っていた乗客らの顔に安堵の色が浮かび、張り詰めた空気が瞬時に和らいだ。

 そこにいた珍妙な乗客らの中には熊や猿のように毛むくじゃらの者もいれば、鳥のようなくちばしを持つ者もいる。

 彼らも皆、銀髪の女と同様に人ならざる存在・妖魔だった。

 さらにここにいる彼らは全員、正規の手続きを経ずに日本へと入国しようとしている密航者たちでもあった。

 彼らは自分たちの密入国を手引きしたのが目の前の女だと知ると胸を撫で下ろす。

 だが長い船旅の間、気を張り詰めてきた彼らは、緊張の糸がほぐれた途端にたまっていたガスが噴出するかのように不安や恐れを口にし始めた。


「水際の安全は確保されているのか?」

「まさか俺たちが港で水揚げされるんじゃねえだろうな」


 妖魔という存在がある以上、それを取り締まる側の人間がいる。

 表立って発表されてはいないが、各国の警察組織には必ず妖魔専門の部署が存在していた。

 今、この客室にいる密航者らが恐れているのは、そうした手勢の存在だった。

 どよめきはうずとなって次第に大きくなっていく。

 口々に言いつのる彼らの言葉を女は腕組みをしながらしばらく黙って聞いていたが、やがて解いた片手を腰にあてがい、もう片方の手をふところにしのばせながら鼻を鳴らして笑った。


「フン。そんな心配は無用だ。残念ながら諸君らが日本の土を踏むことはないからな」


 そう告げてニヤリと狡猾こうかつな笑みを浮かべた女の手には、手のひらに乗る程度の小さな黒いつぼが握られていた。


「な、何だって?」

「どういう意味だ?」


 予想だにしていなかった唐突な女の言葉にその場の空気が凍りつく。

 そこにいた一同は女の言葉の意味を量りかね、唖然として身じろぎひとつ出来ずにいる。

 だが、銀髪の女はそんなことはお構いなしに、手のひらに乗せた黒いつぼを眼前にかかげた。


かてを得て覚醒かくせいときへ備えたまえ」


 女はおごそかな声音でそうつぶやく。

 すると一瞬の間の後、つぼのフタがカタカタと音を立てて小刻みに揺れ始めた。

 そして、ほんのわずかに開いたフタの隙間から得体の知れない何かが鋭く牙をいた。

 その動きがあまりにも速すぎて、その場にいた妖魔らの目にはそれがむちのようなひとすじの黒い線としか映らなかった。

 だが、それが空気を切り裂く音を立ててしなると事態は一変した。


 銀髪の女から一番近い位置に立っていた狼の頭を持った同族らしき数名の男らの首から上が、一瞬にして胴体から切り離されたのだ。

 鮮血の尾を引きながら宙に跳ね上がった頭部と、残された胴体の乱雑に噛みちぎられたような首の切り口から吹き上がる真っ赤な血しぶきのせいで、むせ返るような血のにおいが客室の中に広がり始める。


「ヒッ……ヒアアアアアッ!」


 誰かが上げた悲鳴が開始の合図となり、凄惨せいさん殺戮さつりくショーの幕が開けた。 

 銀髪の女が手にしたつぼから黒い閃光がひらめくたびに、妖魔どもの首が胴体から続けざまに切り離されて次々と宙を舞う。

 犠牲者は増え続け、舞い上がる彼らの血が床に壁にそして天井に紅色の染みを作っていく。

 惨劇の一部始終を女はその目で見つめ続けた。

 やるべきことをやりながらも、事態を楽しむことを忘れない、そんな目だった。


 ものの5分と経たないうちにその場にいた妖魔らは全員が絶命し、室内に生きている者は銀髪の女だけとなった。

 肉塊と化した胴体と首とが部屋中ところ狭しと転がっている。

 おぞましい光景と吐き気をもよおすほどの血の臭気の中にあって、銀髪の女は涼しい顔でふところからタバコを一本取り出して口に咥えると、指をパチリと弾く。

 目の前に現れた青白い狐火でタバコの先端に火をつけると、女は吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した。


「長旅の結末がこれだ。残酷な運命を呪いな。ウスノロども」


 そう言うと女はわずかに開いていたつぼふたを完全に開け放った。

 その途端、タバコの煙がゆらゆらと不安定に動き出したかと思うと、ふたを取り払われたつぼの中から今度は激しい気流が噴出し、やがてそれは強烈な突風となって部屋の中を荒れ狂う。

 風はそこかしこに散らばっている密航者らの遺骸を巻き込み、肉片を巻き込み、挙句あげくには床や壁や天井に染みついた血痕すらきれいさっぱりと巻き取って、それらをつぼの中へと吸い込んでいった。

 

 まるで鍋の中身をスープまで全て飲み干すかのように妖魔らのむくろをすべて吸い込み終えるとようやく風は収まり、客室内は静寂に包まれた。

 女は吸殻すいがらを投げ捨てると、つぼふたを閉めた。

 女がタバコを一本吸い終える間に、室内は虐殺の痕跡をいっさい残さず、あたかも初めからそこには誰もいなかったかのように人の気配がすっかり消え去ってしまったのだ。

 女はつぼふところにしまい込むと腕組みをして口を開いた。


りん。いるんだろ。出て来な」


 無人の客室内に響き渡る女の声に反応して、室内の空間に波紋のような揺らぎが生じる。

 するとその揺らぎの中から、突如として一人の少女が姿を現した。

 少女は中学生くらいの年齢に見え、無造作に跳ね散らかった短い黒髪はやけに前髪だけが長く、その下からのぞく目が暗い光を放っている。


「連中の見張りと隠避いんぴ。ご苦労だったな。りん


 りんと呼ばれたその少女は、銀髪の女が捨てた吸殻すいがらを見つめてボソッつぶやく。


「ヒミカ。室内禁煙だよ」


 彼女の声はひどく薄っぺらで感情にとぼしいものだった。

 りんにそう言われると、ヒミカと呼ばれた銀髪の女はフンッと鼻を鳴らした。


「しゃらくさい……けど、DNA鑑定とかされても厄介だね」


 そう言って捨てた吸殻すいがらを拾い上げるとヒミカはそれを指先から発した狐火で焼き尽くした。


「ところでどうだ? この規模の船ならおまえの結界で丸ごと包み込めるだろう?」


 そう尋ねるヒミカにりんうなづいてみせた。


「問題ないよ。もっと上質な護符があれば、この倍の船でもいける」


 りんの答えに満足した様子のヒミカは彼女の肩を抱き寄せると、そっと耳打ちした。


「それは頼もしい。もっと高価な護符を取り寄せておくから次も頼むぞ」


 高価な護符というその言葉に思わずりんは顔をほころばせた。

 感情の欠落したような少女がその時ばかりは花が開いたように微笑みを浮かべるのを見て、ヒミカの顔にも笑みを浮かぶ。

 ただし、その目には氷の刃のような鋭く冷たい光と暗い欲望が宿っていた。

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