第5話 喧嘩上等! 魔界からの監視者

 白みがかった夜明け前の空の下、都心からやや外れた工業団地の一角は静まり返っていた。

 いくつかの工場の間にある空き地には古びた二階建てのバスが止まっている。

 それはすでに現役を終えて老後を迎えたような車両であり、車輪が全て外されてその代わりに鉄筋の土台で地面に固定されていた。

 一階の窓は地味な緑色のカーテン、二階の窓は深い青地に花柄の描かれた華やかなカーテンで覆われていて、一階の入り口近くには赤く簡素な郵便受けが設置されている。

 それは廃車となったバスを改造して作られた二階建ての住居であった。 


 どこからともなくエンジン音が近づいてきたかと思うと、バスハウスの前に二人の人物を乗せた一台のバイクが停車した。

 磨き上げられたマリンブルーのボディーが特徴的なバイクに乗っていた二人の人物はエンジンを切ると、かぶっていたフルフェイスのヘルメットを脱いだ。

 バイクを運転していたのは響詩郎きょうしろうであり、その後ろに乗っていたのは雷奈らいなだった。

 二人は深夜の仕事を全て終え、この仮事務所兼住居であるバスハウスまで帰ってきたところだった。

 時刻は午前5時を回っている。

 バイクから降り立つと、雷奈らいなはハッと気配を感じてバスハウスの陰をにらみつけた。


「……今日はずいぶんと近くからのぞいてるのね」


 雷奈らいなの声に反応して、バスハウスの陰からスッと現れたのは一人の女性だった。

 年齢は響詩郎きょうしろうたちよりも少し上くらいだろうか。

 肩までの短い栗色の髪と茶色い瞳。

 服装は紺のスーツに白いシャツ、そしてスーツと同色のタイトスカートを身につけていて堅い雰囲気の女性だった。


「お仕事お疲れさまです」


 その女性は二人にそう声をかけると慇懃いんぎんに頭を下げた。

 響詩郎きょうしろう雷奈らいなも彼女の顔を見るとうんざりとした表情を浮かべる。

 二人の表情を見ると女は泰然と己の心情を口にした。


「そんな顔をされるのは心外ですね。うんざりなのは私も同じです」

「だったら帰れ!」


 雷奈らいながさっそくカミナリを炸裂させるが、女はすまし顔でこれを受け流した。


「そうはいきません。この紫水しすい、姫さまの命を受けてここにいるのですから」


 彼女の名は紫水しすい

 人の姿をしているが、彼女は妖魔である。

 紫水しすいがバスハウスの監視を始めてすでに一週間が過ぎていた。

 雷奈らいな響詩郎きょうしろうが彼女の存在を知っているのは、律儀りちぎにも初日に紫水しすいが今日からここを監視するという挨拶あいさつに訪れたからである。

 紫水しすいは至ってまじめな声音で二人に問いかける。


「仕事も終えて、これからお二人の愛の巣で仲むつまじく男女の営みですか?」


 紫水しすいの言葉に雷奈らいなはカッとなって声を荒げた。


「は、はぁ? あんた馬鹿じゃないの?」


 怒りをあらわにしてそう言う雷奈らいなを挑発するように紫水しすいは高飛車な態度で腕を組んだ。


「照れなくてもいいのですよ。若い男女にとって朝方は比較的性欲の高まる時間帯です。心おきなくむさぼり合ってください」

「黙れ! この欲求不満女!」


 雷奈らいなの怒声にも紫水しすいは涼しい顔を崩さない。

 紫水しすいにとって雷奈らいなのような猪突猛進の直情型人間は扱いやすく、雷奈らいなはさながら闘牛士に振り回される牛のようだった。

 響詩郎きょうしろうは困った顔で二人の間に割って入る。

 彼には紫水しすいの思惑がよく分かっていた。


紫水しすい。あんたが心配しなくても俺は白雪とどうこうなるつもりはない」


 彼の言う白雪とは紫水しすいが属する魔界の種族の長の娘、即ち一族の姫君の名前だった。

 紫水しすいがその姫君である白雪から受けた命令の内容は響詩郎きょうしろうも知っていた。

 そして紫水しすいが本心ではその命令を快く思っていないことも。

 そうした響詩郎きょうしろうの言葉にも紫水しすいは冷然と言葉を返す。


「それは願ってもない言葉です。ですがそれを直接姫様に伝えるつもりなら響詩郎きょうしろう殿を私が八つ裂きにします」


 今すぐにでも有言実行しそうな紫水しすいの言葉に響詩郎きょうしろうは思わず顔をひきつらせた。


「ど、どうすりゃいいんだよ」


 紫水しすいは諭すような口調で自分の考えを端的に伝える。


「簡単ですよ。あなた方お二人が手っ取り早くつがいになれば、私はそれを粛々と白雪様にお伝えして、あきらめていただきます」

「つ、つがいって……」


 そう言って紫水しすいに詰め寄ろうとする雷奈らいなを手で制し、響詩郎きょうしろうは呆れた顔で言った。


「そんなことになったらあんたの立場がやばいんじゃないのか? 俺たちが妙なことにならないよう見張るのが、あんたが姫様から命じられた役割なんだろう?」


 響詩郎きょうしろうの言う通り、紫水しすいが白雪より命じられたのは、二人を見張るという任務だった。

 彼女の姫君である風弓かざゆみ白雪はある事件をきっかけに響詩郎きょうしろうにご執心しゅうしんとなり、そんな彼と雷奈らいなが男女の仲にならないよう、腹心の部下である紫水しすいを監視の役目につけたのだった。

 彼女らの一族は代々、女しか生まれないため、他の部族から男性を連れてきて夫とする慣習があった。


 半年ほど前、その風弓かざゆみ一族は内紛を抱えて危機を迎えていた。

 その内紛を治めて白雪を暗殺者から救ったのが響詩郎きょうしろうであり、その時から白雪は響詩郎きょうしろうにぞっこんだったのだ。

 そして白雪の強い希望と諸々の事情があって、彼女の夫候補に選ばれたのが響詩郎きょうしろうなのだが、紫水しすいはそれを快く思っていなかった。

 その理由はただひとつ。

 響詩郎きょうしろうが人間だからである。


 白雪が響詩郎きょうしろうと夫婦になるようなことだけは絶対に避けなくてはならない。

 紫水しすいにとって幸いなのは響詩郎きょうしろうが白雪に対して現時点ではまだ男女の仲に成り得るような感情を持っていないことだった。

 だが、だからと言って先ほど響詩郎きょうしろうが言っていたように彼のほうから白雪を拒絶する言葉を伝えることだけは紫水しすいにとって我慢のならないことだった。


(高貴なる姫さまが人間の男にそでにされるなど許されないことだ)


 紫水しすいとしては響詩郎きょうしろう雷奈らいなと男女の仲になり、それによって白雪が恋をあきらめてくれることが一番の上策だった。

 無論、それは白雪の命令に背くことだったが紫水しすいにためらいはなかった。


「我が一族の真なる繁栄のためならばこの紫水しすい、喜んで不届き者の汚名をかぶりましょう」


 そう言う紫水しすい雷奈らいなはフンッと鼻を鳴らしてきびすを返す。


「馬鹿馬鹿しい。あんたたちのお家の事情なんて知ったことじゃないのよ。見張りでも何でも勝手にしてれば? 行くわよ。響詩郎きょうしろう


 そう言うと雷奈らいな響詩郎きょうしろうの腕をつかんで、バスハウスの入口から中へと入っていった。

 バタンとぞんざいに閉められたドアを見つめ、紫水しすいは憎々しげに目くじらを立てた。


「馬鹿馬鹿しい? それはこちらのセリフだ。人間ふぜいが」


 そう言うと紫水しすいは夜明けの空を物憂げに見上げた。


「まったく。姫様も御戯おたわむれが過ぎる。人間の血が我が一族に交わるなど前代未聞のこと。絶対に阻止せねば。いざとなれば私がこの手を汚してでも、神凪かんなぎ響詩郎きょうしろうを亡き者にしてやろう」


 そう言った紫水しすいの目には殺気に満ちた鋭い光が宿っていた。

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