10 渚にて


 トンネルと抜けると、真っ赤な夕陽が網膜を刺して、眼前には人のいない浜辺が広がっていた。薄く連なる雲海が、空を赤く覆い尽くす。波は小さく、柔らかく、静かに、浜に打ちつける。耽美な風景に、私たちは思わず立ち尽くす。

「……浜辺、降りよう」

 カミサマが言う。私たちは無人の渚に、足を踏み入れる。


 波打ち際まで進んで、背負っていたリュックをどさりと砂に沈めて、呆けたように突っ立って、遥か遠く、水平線に煌めく太陽を望む。私たちはしばらく無言のままで、どれだけ歩いたかわからない旅の中で最も綺麗な夕焼けを、この目に灼きつける。

「……世界の果て」

「え?」

 カミサマがぽつりと呟いて、遅れて私は訊き返す。

「ここが、世界の果て」

「…………」

 その言葉を胸の中で呟きながら、再び海に視線を戻す。

 世界はどこまでも、燃え上がるように赤く、それは終末を思わせる。


 ああ、そうか、ここが。

 世界の果てなんだ。

 ――きっと、それでいいんだ。

 全身の力が抜けるような、恍惚の空。

 ここが、終わりです。あなたたちの旅の、最終目的地です。誰かにそう言ってもらえたら、いつだって私はこの砂浜に、崩れ落ちることができる気がする。


 カミサマは靴を脱いで、よろよろと水辺に歩いていく。その小さな背中はあまりにもたくさんのものを背負いすぎていて、普段なら元気の証に見える裾の汚れも、疲弊や憔悴の生々しい傷痕に見えて、夕焼けの中、逆光で立つ彼女はどこまでも儚くて。

 そのまま海に融けてしまうのではないかと、恐ろしくなる。

 だから私も靴を脱いで、カミサマの後を追う。

「冷たいね」

「うん、気持ちいいね」

 私たちはひんやりと冷たい水に足を浸けて、やっぱりそれ以上何もする気になれなくて、ぼんやりと空を眺めては、どこか涼しい、寂しげな風に吹かれて。


 水遊びを終えた私たちは、浜辺に座り込む。カミサマは私の左で、足を伸ばす。

 美しい夕焼け。ほんの少しだけ肌寒い空気。もうすぐに終わりが待っているかのような、静かな世界。寄せては返す、波。

「綺麗だね」思わず漏れた言葉。嫌いだったはずの世界に、飛ばす言葉。

「世界の終わりみたいだね」

 カミサマが呟く。

 その空は、私たちのこれまでの旅路と、そこで抱いた感情の全部を混ぜ合わせたみたいな、寂しくて悲しくて美しい色をしている。何かを堪えているようでもあって、湛えているようでもあって、今にも泣き出しそうにも見えて。そんな風に、たくさんの想いを抱かせる。

「ヒヨリは」

 鮮烈な情景の中で。カミサマは、これまでとおんなじように、私の名前を呼ぶ。何度この名を、呼ばれただろう。ヒヨリ、ヒヨリ、って、可愛くて、嬉しくて、くすぐったくて。

「ヒヨリはさ、世界が終わってほしいって、思う?」

 それはいつかと同じ質問。初めて出会ったあの日、東京タワーから世界を見下ろした時と同じ言葉。


 今、私が、この旅で見て感じた全てを以て、その質問に、返す答えは――


 だけど、言葉が出てこない。喉元で突っかかって、声にならない。


 波の音がする。


「カミサマもね、ずっと、こんな世界終わっちゃえばいいのにって、思ってた」

 カミサマは言う。何でもない風に、独り言ちるように。


「カミサマね、パパとママを殺したの」


「え……」

「生まれてすぐの頃。カミサマはもちろん覚えてもいないんだけど、能力の加減がわからない赤ちゃんだったカミサマは、パパとママを部屋の壁に圧し潰して殺したの。リビングの壁には血と内臓が人の形に広がっていたんだって。カミサマはそのまま機関に引き取られて、それからずっとそこで暮らしてきた」

 呆気なく語られる、衝撃的な過去。それは、あまりにも残酷すぎる、悲哀の始まり。

「だからカミサマは、両親をしらないの。帰る場所もないの。親族はみんなカミサマを気味悪がって引き取ろうとしないし。もちろんしようと思ってもできないけどね」

 カミサマはそう言って笑う。どうして笑えるの? そんな、そんな話、

「……でもさ、ヒヨリには優しいおばーちゃんとおじーちゃんがいて、パパもママも生きてるんでしょ? 帰る家だってちゃんとあるじゃん」

「……」

 どうして今、私の家族の話? ――なんて、そんな愚かな反論、しない。できないよ。

「パパとママ、嫌い?」

「…………」

「ヒヨリのパパも、ママも、きっとヒヨリのことが大切だから、だいすきだから、心配してくれてるの。トキヒラのことがあったから、恐いんだよ。またヒヨリを失うんじゃないかって、怯えてるんだよ」

「……でも、私たちは逃げてきたんだよ、家出してきたんだよ。カミサマ言ったじゃん、私たちふたり、名前もない誰かになって、どこか知らない場所でずっとずっと暮らそうって」

「そんなこと、できないよ」

 カミサマはあっさりと、きっぱりと、何の迷いもなく、自分で言った言葉を、未来を、否定してみせる。

「ヒヨリ、見たでしょ。カミサマのクスリ。いっぱい詰め込んできたつもりだったけど、やっぱり足りなくて、途中から一回の分量を減らしながら飲んできたの。でもそれだっていよいよなくなっちゃった。だからもうね、限界なんだ」

「え……っ、」

「ヤスダがさ、――あ、えっと、あの眼鏡の男ね、ヤスダが、『初等教育以降は外の世界で勉強できるかも』って言ったでしょ? でもあれってね、人に危害を加える可能性の低い能力者たちの話なの。普通の暮らしができる人たちの話なの。カミサマの力はかなり強い方で、なんとかレベルも高いの。……それに、生まれた時から身体が弱い。これは力と直接の関係はないんだけど、でも力を使うことは身体をコクシすることと一緒だから」

「えっ……、待ってよ、待って、それじゃあ」

 カミサマが何食わぬ顔で、全部全部知り尽くしているみたいな表情で、私を一度見て、また水平線に視線を戻して。


「カミサマは、ずっとずっと変わらない毎日が嫌だった」


 そのシンプルな想いは、いつだって私が抱いていた不満と、おんなじで。

「……だから、逃げ出してきたの?」

「うん。壁をぶっ壊して、塀を飛び越えて、逃げ出してきた」

 ふっ、とカミサマは表情を少しだけ明るくして、どこか懐かしむように、語り出す。

「カミサマは飛べるから、抜け出そうと思えばあんな施設簡単に抜け出せた。でもずっと、できなかった。塀の向こうの空を見ながら、ここから出ていきたいってずっと思っていたのに、でもしなかった。いけないことだと思ったから。悪いことだって思ってたから。やったら怒られるって思ってたから」

 カミサマは手元の砂を掴んで、ぎゅっと握って、それから海の方に向かって投げる。砂は手から投げ出された瞬間、さらさらと風に舞って、すぐに砂浜に戻っていく。

「でも、ある時ふと、そんなルール、誰が決めたの? なんで強制されてるの? なんでみんな大人しく従ってるの? って思った。そこで、結局自分を留めているのは他の誰でもない自分自身だったんだって、気づいたの。身寄りがないから、出ちゃダメって決まりだから。でもそんなの関係ないんだよ。だってカミサマの命は、世界のためでも人類の未来のためでもなくて、カミサマ自身のためにあるんだから」

 それは決意の話。小さな少女の、全力の逃避行の、始まりのお話。

「外の世界は、ほんとに楽しかった。好きなもの食べて、写真とか画面でしか見たことなかったいろんな場所に行けて、身体は身軽で、怒る人もいなくて、決まった時間の検診もなくて」

 カミサマは笑顔になる。その横顔に、私は堪らなくなる。

「ヒヨリに出会って、いろんなところに連れていってもらえて、一緒にお風呂に入って、一緒に眠って、お姉さんみたいだった。お母さんみたいだった。……ママのこと、知らないけど、もしも生きてたら、こんな感じだったのかなって、思った」

 居た堪れない気持ちになる。耳を塞ぎたい、目を逸らしたい、ここから駆け出したい、ねえ、そんな話を、何でもないみたいに言わないでよ、ねえ、

「なんならこのまま死んでもいいって思ってた。嘘みたいに楽しい毎日で、隣にヒヨリがいて、逃げて逃げて逃げた先で、死ぬならそれでもいいって」

 カミサマは、今にも口を開けて私たちを飲み込んでいきそうな空を見上げる。

 そして、言う。

「でも、でもね、カミサマね、気づいたんだ。この世界は、終わらせるには、未練も、可能性も、ありすぎるんだ、って」

 潮風に、その短くなった髪が柔らかくなびく。夕陽を受けてきらきらと輝く。


「世界は、終わらないんだよ」


「……うん」

 そんなこと、ずっとずっと前から知っていた。だって本当は、ノストラダムスの大予言は、本人の言説のどこにもない言葉を好き勝手創作して出版されたフィクションだったから。

 でもそれには多分意味があったんだ。1999年。世紀が変わる直前に、もしかしたら区切りよく、都合よく、世界がリセットされるかもって、心の何処かで非日常を、終わらない日常をぶっ壊してくれる崩壊を、望んで、期待して、それはちっとも不思議なことじゃなくて、そんな誰かに魅力的に映った〝予言〟は、少なくともその人々に物語を与えたんだ。退屈な人生をやり過ごしていく物語を、束の間手渡したんだ。そして兄もまた、それに囚われた。

 でももう、世紀末なんかじゃないんだ。

 そして私は、生きているんだ。


 世界の果てだって、本当は、何処にもないんだよ。


「世界なんて終わっちゃえばいいのに」の裏にある、本当はちゃんと生きていたい、この二本の足でしっかり立って、この手で世界に触れて、満たされた、幸せな毎日を過ごしたいって気持ちから、目を逸らしちゃダメなんだ。

 そんなシンプルな想いに気づくまで、随分と歩いてきた。逃げてきた。遠回りしてきた。


「ヒヨリ、〝うすかわ〟は、まだある?」

「え……?」

 カミサマは私に訊く。いつか話した薄皮のこと。私にずっと憑き纏う、薄皮のこと。

「……うん、意識すれば見えるよ」

「それ、カミサマが、剥がしてあげる」

「え……?」

「だいじょうぶ。安心して」

 カミサマは身を乗り出して、私に近づく。私たちは向かい合う。じっと見つめ合う。

「――ヒヨリには、ヒヨリのことを心配してくれるひとがいる。大切に想ってくれるひとがいる。生きていく場所がある。自由で、でもちょっと不自由で、でもやっぱり自由で、なんだってできる力が、可能性が、たくさんある。だから、捨てないで、終わらせないで」

 カミサマは私に両手を伸ばす。私の目の前に膜を張る薄皮に――触れる。

 私の目線より少し高い場所で、弾力のあるそれを、掴んで、手をハの字にすぼめて、

「集中して。イメージして。カミサマは今から、ヒヨリを覆うその膜を、突き破る」

 ――私はカミサマの両手に視線を集中させる。心拍数が高まっていく。

「いくよ、ちゃんと見ててね」

 ――そして、カミサマの小さな手と手の間に、――わずかに、亀裂が入っていく。

「――‼ うそ、嘘、嘘だ、なんで、だって、これは……!」

 有り得ない、だって、この薄皮は、私を守る壁は――!

「ヒヨリ、手を伸ばして、カミサマに、さわって」

 カミサマは私の薄皮をこじ開ける。ぴり、ぴり、亀裂が縦に広がっていく。

「なんで、だって、薄皮は、絶対に破れないはずなんだよ、なのに、どうして、なんで」

 カミサマはこじ開けた薄皮から右手を突き出す。私の内側に、入ってくる。

「ヒヨリ! 手を伸ばして! 内側から、ヒヨリのから、それを突き破って!」

 カミサマは叫ぶ。私の目をじっと見て、私は震える右手を、持ち上げようとして――

「うすかわなんて、ほんとうはないんだよ。ヒヨリを守ってくれるものなんて、何もないの」

 カミサマは言う。

 本当は、私にも分かっていたことを、言う。

「でも、だからなんだっていうの? そんなもの、必要ないんだよ。初めから。全部ヒヨリが怖がってつくっちゃっただけなの。ねえ、ヒヨリ、世界を恐れる必要なんて、ないんだよ」

 ああ、カミサマは、絶対に破れないはずの壁を突き破って、私に手を伸ばす。

 だから私が、私がこの手を伸ばすことは、カミサマの手を掴むことは、つまりこの幻想を否定することだ。私自身の弱さを、受け入れることなんだ。


 ふっと、思い出す顔。お兄ちゃんの、顔。


 ――私は手を伸ばす。その手に触れようとする。儚げで、力強い、小さな掌。

「ヒヨリなら、だいじょーぶ」

 触れる。

 ああ。

 その瞬間、私と、カミサマの周りが、一瞬だけ淡く光り輝いた。

 薄皮が、剥がれていく。皮を剥くように、頂点部分からめくれて、砂浜に沈んで、光の粒になって、紅色の空に昇っていく。

 それは私の錯覚だったかもしれない、幻覚だったかもしれない。

 だけど、これだけは確かなこと。私が纏っていた薄皮は、全部剥がれ落ちた。

 世界を覆う半透明の膜は、もう見えない。

 沈んでいく太陽の光が眩しくて、私は目を細める。


「うすかわ、まだ見える?」

「ううん……もう、見えない。見えないよ」


 繋いだ手と手。そのままカミサマは――私に抱きついてくる。

 私は抱きとめて、ぎゅっと身体を寄せて、その柔らかい髪を撫でる。

「ありがとね、カミサマ」

「おやすいごようさ」

 きっとこんなこと、カミサマにしかできないんだ。

 やっぱりカミサマは、不思議な力を、持っているんだね。


 沈む夕陽の中で、出会ってから撮ったたくさんの写真をスクロールしながら、私たちは言葉を交わして、笑い合う。顔出しパネルの変顔。パンダのスーベニアメダル。カミサマがスマートフォンを奪い取って撮影した、よく分からない壁の落書き。

 その全てが、愛おしかった。

 こんな愛しさが、誰かと笑える日々が、美しい空が、これからの世界にもあるのだとしたら。


「ねえ、カミサマ? なんで自分のこと、カミサマって名乗ったの?」

「カミサマって言えば、従ってもらえると思ったから」

「なにそれ」

「案内役がほしかったの」

「私、ちゃんと案内役できてた?」

「うん!」

 カミサマが笑う。私も笑う。


「……あ」

 けれどその穏やかさは、唐突に終わる。カミサマは小さな声を上げて、垂れてきた鼻血を手で受け止めようとして前のめりになって、そのまま砂浜に倒れ込んで――

「カミサマっ⁉」

 カミサマの身体を支えて、どうにか体勢を元に戻す。

「大丈夫⁉」

「へへ……だいじょーぶ……」

 最後のクスリは、お昼に飲んでしまった。これ以降、昨晩のような痙攣が起きた時、私はどうしたらいいか分からない。ねえ、カミサマ、最初からこうなるって、分かっていたの?


 その時、どこか遠くの空から、バラバラと大きな音が聴こえてきた。

 だんだんと大きく――近づいてくるその音は、ヘリコプターの音だった。

 私たちは二人で空を見上げる。視界に捉えたヘリコプター。

 最初は豆粒ほどの大きさだったそれはどんどんと大きく――近くなっていく。

「きた」とカミサマが呟く。彼女の方を向くと、片足を膝立ちにして身構えている。


 ヘリコプターはやかましい音を立てながら、私たちの目の前に着陸した。

 ちょうど同じタイミングで、浜辺すぐの道路に、一台の黒い車がやってきて、停車した。


 ――――ああ、遂にこの時がきてしまった。


 ヘリコプターの搭乗ハッチが開かれる。中から出てきたのはあのスーツ姿の眼鏡の男。続いて出てきた二人の男はヘルメットを被っていて――その手には猟銃みたいな大きな銃を抱えていた。

「随分と遠くまで来ましたね」

 ゆっくりとこちらに歩み寄りながら、ヘリの旋回音に掻き消されないギリギリの声量で、眼鏡の男が言う。

「よくこんなところまで来れたものだと感心します。……さあ、もう満足していただけたことでしょう。我々と、施設に戻りましょう」

 その言葉に、立ち上がったカミサマは、――さっきとはまるで別人みたいに、感情を剥き出しにして、子供みたいに、反発する。

「……いやだ、いやだいやだいやだいやだ! わたしはずっとヒヨリと一緒にいる! あんなところになんて戻りたくない! 普通のひとたちと同じ生き方をしたい!」

 人並みを嫌った私。人並みになりたかったカミサマ。

「……それは、できません」

 男はたった一言で、彼女を否定してみせる。

「あなたは世界のために必要です。あなたたちを研究すれば世界が変わるかもしれない。科学はまた一歩発展できるかもしれない。そのことはよくお分かりになられているはずです。施設の他の子供たちもそれを受け入れ、私どもに協力してくれています」

「――そんなこと知らない!」

 カミサマは叫ぶ。ふらふらと前に歩み出て、私を通り過ぎて、男と対峙する。

「人類のため⁉ 知らないよそんなこと! わたしがいなくたって、世界は勝手に進んでいくじゃん! わたしみたいなひとは世界にたくさんいるんでしょ⁉ じゃあいいじゃん! わたし一人くらいいなくたって! ほっとけばまた人を殺すとかなんとか! わたしもうそんなに子どもじゃないもん! 力だって自分でコントロールできるもん!」

 極端な反抗。剥き出しの感情。吐き出される不満。噛みつく言葉。

 痛々しいほど切実に、その幼い言葉は空気を裂く。

「もう嫌だ! 毎日狭い部屋の中に閉じ込められて! 身体中を触られて! 変な管をつけられて! 注射されて! ふざけんな、ふざけんなふざけんなふざけんな!」

 カミサマの抵抗は伝わない。男が右手を掲げると、彼の背後に立っていた二人の男が、手に持っていた銃を構えた。――その銃口は、カミサマに向いている。

「――麻酔銃なんて効かないから! 全部吹っ飛ばすから!」

 瞬間、ぶわぁと、私たちを取り囲むようにして円形に、足元の砂が渦を巻いて舞い上がる。私たちを覆うように、守るように、旋回している。

 男が右手を下げるとほぼ同時、旋回していた砂が弾けるようにして、周囲に飛び散る。突風が私たちを中心に同心円状に広がって、麻酔銃はその手から叩き落とされる。

「――カミサマっ!」

 と、同時に、カミサマは、鼻血を吹き出しながら、力尽きたように前のめりに倒れ込む。

「え……ねぇ、ちょっと、カミサマ、ねぇ!」

 抱き留める。砂浜への激突は免れる。全身の力が抜けて、ぐったりとしている。

「……ここらで潮時です。子供の遊びにも、いつまでも付き合ってはいられないんですよ、こちらとしても」

「――遊びじゃ、ない‼ 遊びなんかじゃなかった! 本気だった! わたしは本気で……世界を終わらせるつもりだった!」

 私の腕の中で、カミサマは力を振り絞って、吠える。悲痛な叫び、もうやめてよ、と私は乞い願う。

「でもあなたは遊び歩いていただけです」

「……違う、違う!」

 そう。違う。小さな可愛い神様は、この世界を見極めるために、自分の足で歩いて、自分の目で見て、自分の手で触れて、確かめた。そしてカミサマは思い至ったんだ。世界は終わらせる必要のないものだ、って。

「……ヘリに乗せろ。病院の手筈は」

「整っています」

 でもその言葉は届かない。大人たちは、カミサマの叫びを無視する。

 ――だから、私も叫ぶ。

「……どうして、どうしてっ! どうしてカミサマが苦しまなくちゃいけないの⁉ 何かから逃げなくちゃならないの⁉ こんな……こんなっ、普通の女の子がっ! 自分の意志とは関係ないことに振り回されて――っ!」

「仕方のないことです」

「仕方ないって――そんなの誰が決めたんですか! 彼女の自由を奪っていいなんて誰が決めたんですか!」

「世界です」

 ――世界。その言葉に、私は返す言葉に詰まる。

「この場合の世界とはつまり、端的に言えば……大国です。――彼女のような力を持つ人間は、遥か昔からいました。世界各地が交流を持つようになるまでは、時に伝承として、時に都市伝説のようなものとして、妖怪や悪魔憑きの類いとして、それぞれ狭いコミュニティの中で流布し完結していましたが、文明が進み現代に近づくにつれ、そうもいかなくなりました。二度の世界大戦の時、能力者を戦争には用いないという取り決めを行ったことに端を発して、戦後から今に続く能力者管理、研究の機関が成立しました」

 そこで男は一旦言葉を切って、親指で眼鏡を押し上げる。どこまで冷淡に、事務的に、感情なく語るその男に、私が向ける感情は全て受け流されてしまっているような気がした。

「ですから私どもの行動も全て、世界の取り決めに従って行っていることです。あなたが彼女を想う気持ちも分からなくはありませんが、情ではどうにもならないこともあります」

「そんな――そんなっ……」

「日和さん。あなたにも捜索願が出ています。ご両親も心配なさっている。警察まで私どもがお連れいたします。どうぞご家族の元に、お帰りください」

 私の言葉を遮るようにして、男は言い放つ。

 ――ここで両親を出してくるのは、卑怯だ。


 眼鏡の男は後ろの二人に再び指示を出す。銃を叩き落された二人が、こちらに近づいてくる。

「やだ、くんな、いやだ、ヒヨリ、助けて、ヒヨリ、逃げよう、ねぇ」

 でも、もうカミサマに、逃げる力は残っていなくて。

「あっ、あぁ!」

 カミサマを抱きかかえて走り出すことなんて私にはできなくて、私の手の中にいたカミサマは二人の男に強引に引っ張られていく。私は追い縋るように抵抗する。男たちに組み付いて、彼らからカミサマを引き剥がそうとする。でも非力な私にそれは叶わない。一人の男に突き飛ばされ、砂浜に背中を打ちつける。

「やめろ! ヒヨリに何かしたら、ぜったい許さないから! その時は、――その時は本気で、この世界全部ぶっ壊すから! 終わらせるから! ヒヨリとわたし以外の全人類! 跡形もなく滅ぼしてやるからぁっ!」

 カミサマは鼻血を垂らしながら、二人の手の中で暴れる。力を使ったのか男たちが吹き飛ぶ。カミサマは私の元に駆け寄ってくる。ふらふらで、足をもつれさせながら、走ってくる。だから私も身体を起こして、カミサマに駆け寄る。男たちが立ち上がる。迫ってくる。私とカミサマを強引に引き剥がそうとする。カミサマの両腕はそれぞれ男たちに掴まれて、近づいた私たちの距離が、また離れていく。

 カミサマはもう力なく、抵抗もしないで、引き摺られていく。私は追いかける。身体に触れる。足がもつれて、その手が離れてしまう。這うように進んで、また近づいて。

「ごめんね、ヒヨリ。世界を終わらせるのは、無期限えんちょう」

「ううん! いいの、いいんだよ、それでいいの!」

 だって、この世界は、この世界は――――!

「巻き込んで、ごめんね。ヒヨリ、すき、だいすき、世界でいちばんだいすき」

「うん! 私も! 私もカミサマのこと大好き! 出会えてよかった! 私の薄皮を剥がしてくれた! ありがとう、ありがとうカミサマ! 大好きだよ、ずっと、ずっと!」

「ヒヨリの世界は、終わらないよ。だから、生きて。何も捨てないで。カミサマの分も、この世界を見て。触って。感じて。楽しんで。めいっぱい、生きて。――わたしのこと、忘れないでね」

「当たり前じゃん! 忘れるわけなんかないじゃん! ――ねぇ! また会えるよね⁉ これで終わりじゃないよね⁉ いつでもおばあちゃんのところ来ていいからね! 電話くれたら私すぐに行くから! 学校があっても、仕事があっても! 何があっても絶対すぐ会いに行くから! ねえ、カミサマ! カミサマ――――っ」

 二人の男に抱えられ、憔悴しきった顔のカミサマはヘリコプターへ乗り込んだ。

 乗り込む瞬間に彼女が見せた、全てが終わったのだという、――全てから解放されたのだという、安らかで穏やかな表情を見て、私も、また、同じように……――

 力なく、膝から崩れ落ちる。このままどこまでも、この砂の海に沈んでしまいたい気持ちになる。

「日和さんは、あちらの車へ。……それでは、長い間彼女がお世話になりました。失礼します」

「ねぇ――待って! 待って、ください! カミサマは、彼女は大丈夫なんですよね⁉ 元気になるんですよね⁉」

「……あなたが責任を感じる必要はありません。彼女とのこと、今し方話した内容は、他言無用でお願いします」

 眼鏡の男はやっぱりどこまでも事務的にそう言って、ヘリに乗り込んで。


 轟音を上げながら、ヘリコプターは高く、高く、上昇していく。

 淡く蒼の混ざる紅色の空に、昇っていく。

 私はそれを見上げながら、抑えることのできない涙を流し続けた。

 私の声は掠れて、途切れて、この叫びはもう、届かない。


 或る夏の夕暮れ。旅は終わった。逃避行は、失敗した。

 私の胸にとめどなく溢れるのは、この無力な両手ではどうすることもできない理不尽に対する悔しさと、遣る瀬無さと、悲しみと、――そう感じる自分自身を呪い殺してしまいたいたくなるほどの、残酷な安堵感だった。

 全てが解き放たれた後の穏やかな空。

 それはこのまま何もかも終わりにしてしまいたくなるほどに、綺麗な空だった。

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