9 World's end / 世界の果て

 じわり、じわりと蝉の鳴く道を、歩いていく。

 カミサマの体調がまた悪くなりだした。おばあさんの家でペットボトルに水を詰めてきたけれど、この炎天下、水分補給を満足にできているとは言い難い。

 それでも私はまだ平気だった。やっぱり年齢差はあるのかもしれない。

 日中はほとんど距離を稼がず、お昼にはおばあさんに作ってもらったおにぎりを食べながら、休みつつ休みつつ、日陰を探して歩きながら、先へと進んでいく。

 道標のない旅路。もう後戻りはできない。行けるところまで、行く。



 夜。またしても見つけた小さな納屋で、夜を明かそうとする。

 ライトの小さな光の中で身を寄せ合って、ぽつりぽつりと言葉を交わしながら、気づけば眠りに落ちていて。目を閉じたのは、日付けの変わる二時間も三時間も前だったように思う。



 ――そして私は真夜中、何かの音で目が覚める。

「――――! カミっ、カミサマ⁉」

 音の方を見れば、隣でカミサマが痙攣していた。鼻血を垂らして、歯をかちかちと鳴らしながら、胸元では両手をもがくようにして呻いている。

「カミサマ、カミサマっ!」

 私は近寄って、身体を支える。カミサマはその間も首元を引っ掻くようにして、何度も何度も襟元に手をかける。

「なに? どうしたの?」

 カミサマは、首元のポシェットの紐に手をかけた。引っ張り出そうとしている。

「ポシェット⁉ ポシェットを出せばいい⁉」

 その言葉にカミサマはわずかに頷く。私は震える身体をなだめながら、服の下のポシェットを取り出す。出会った頃よりも少しだけつぶれているような、つまりは中に入っていた何かが減ったような、そんな印象を受ける。

 カミサマは引き出されたポシェットを掴んでファスナーを開こうとするけれど、手が震えて力も入らないようで、上手く開けることができない。

「――私が開けるよ? いい⁉」

 触ってはいけないと、中を見てはいけないと言われていたポシェット。

 でも今は緊急事態。そんなこと、きっと言っていられない。

 カミサマは苦痛に満ちた表情で、弱々しく頷く。

 私はファスナーに手をかける。

 中のものを、あるだけ取り出す。

「――――‼」

 中に入っていたのは錠剤と、紙の束と、色褪せた一枚の写真だった。

 瞬時に、いろいろな思いが交錯する。でも、今一番必要なのは間違いなく――

「クスリ、だよね⁉ いくつ飲むの⁉」

 手元にはあと5つしかない錠剤。カミサマは私の右手の甲に指を三本立てて、力なく触れる。

「3つ⁉」カミサマは頷く。私は三粒を手に取って、カミサマの口に入れる。ペットボトルの水を口に運ぶ。ごぼごぼと溢しながらも、彼女はどうにか錠剤を飲み込んだ。


 しばらくして、痙攣は収まり、汗をびっしょりとかいたままカミサマは気絶するように眠りに落ちた。私もほっと胸を撫で下ろす。そして。


 差し込む月明かりの中、私の手元に残された物。


 残りたった2つだけの錠剤。


 一緒に東京を観光して回った時の、様々なチケットの半券。


 私は、くしゃくしゃになった東京タワーのチケットや浅草寺のおみくじや花やしきのチケットや動物園の入場券や映画の半券やサンシャインシティのチケットを見て、涙が止まらなくなった。

 声を殺して、ずっと、ずっと、それを抱えながら、泣き続けた。


 旅の果てで。

 私たちは、何を得るのだろう。何を失うのだろう。

 ここまで来てしまったのだ、と、思う。

 世界を知らない小さな少女が、目にした初めての思い出を、大切に胸に抱えて、ボロボロになった身体を引き摺って、ずっと、ずっと遠く、安心なんてない場所まで――――

 私はなんて早計だっただろう。

 逃げるだなんて、そんなことが、12歳になるかならないかくらいの幼い少女に、できるはずがないんだ。

 どれだけ愚かなことをしたのだろう。私は、私は、ただ――


 ……そして、最後に残された写真。

 色褪せたその写真には、二人の男女と、その二人が互いの手で抱きかかえる、まだ生まれて間もないような赤子が写っていた。男女の歳は二人とも三十代前半といったところだろうか。女性の方は長く綺麗な金色の髪をしていて、目鼻立ちもしゅっとした外国人。日本人顔の男性は優しそうな表情をして、眼鏡に癖っ毛のどこか親しみの持てる風貌をしている。

 微笑む二人が抱える赤子は困ったような泣き顔をしていて。

 ――ああ、きっとこれがカミサマなんだ。私は直感でそう思う。

 そして、だからこの二人は、カミサマのお父さんと、お母さんだ。

 やっぱり、カミサマにも両親はちゃんといたんだ。でも、それならどうして、こんな幼い頃の自分の写真ただ一枚だけ……? 今両親は何をしている? 施設から逃げ出してきたのなら、どうして両親の元に向かわない?

『ご両親のことをお忘れになったとは言わせませんよ』

 思い出す、憎らしいほど冷静な、スーツ姿の男の言葉。

 けれど、抱いたその全ての疑問は、眠っているカミサマには訊けそうにもない。私は手元にあるもの全てを、ポシェットに戻す。


 ――錠剤。もしかして彼女は私と出会ってからもずっと、このクスリを投薬し続けてきたのだろうか。でも私は、カミサマがクスリを飲んでいた場面に出くわしたことがない。私に知られないように? それはどうして? 何かの病気を患っていたのだろうか。能力に関係がある? そんな話微塵も聞いてはいないし、病の素振りなんてこれまで少しも……。

 ふと、真夜中にトイレに起きたカミサマを思い出す。布団についた血のシミ。

 もしかしてあの時――……。


 私はカミサマの寝顔を確認する。苦しそうに、眉間に皺を寄せて眠っている。

 月明かりに光る、額の汗をハンカチで拭ってあげると、少しだけ表情が和らぐ。

 その髪を優しく撫でるとカミサマは、「ママ」と、消え入るほど小さな寝言を、呟いた。



 次の日の朝。

「カミサマ、ねえ、あのクスリは何?」

 真剣な表情を向けて、私は訊く。

「どうして私に話してくれなかったの?」

「……」

「答えて。大丈夫、怒ったりしないから」

 私は表情を柔らかく崩して、そう諭す。

「だって、だって……。クスリ見せたら、カミサマが神様じゃないってばれちゃうと思ったから……」

 その答えはどこか愛しくて、でももしもそれを伝えられていたら、私はカミサマと旅をしていなかったかもしれない。本当に警察とかに、彼女を差し出していたかもしれない。

「あと2つしかないけど、大丈夫なの?」

「……」カミサマは答えない。

「……それがなくなった時、カミサマはどうなるの?」

「…………」


「……ここら辺で、私たちの旅も終わり、なのかな」

 私は心に浮かんだ言葉を、素直に口に出してみる。

「え……やだ、いやだ! カミサマ平気! まだヒヨリと旅したい! まだ世界の果てにも辿り着いてない! ねえ、やだ、やだよぅ!」

 するとカミサマは私に抱きつく。縋りつくように、弱々しく、痛々しく、言葉を重ねる。

「……だってもう、さすがに私には背負い切れないよ。状況が変わっちゃった。その組織の人たちなら、なんとかしてくれるんでしょ? 戻るべきだよ、絶対」

「嫌だ‼」

「……そんな、ワガママ言わないの」

 もう喧嘩はしたくないから、私はカミサマの言葉に反発はしない。

 カミサマは私の胸に顔を埋めたまま、震えた声で、堰を切ったように、続ける。

「ずっと一緒にいるって決めた。カミサマは、ずっとヒヨリと一緒にいるの。そしてね、ふたりでずっと、どこまでもどこまでも歩いていくの。そして世界の果てに辿り着くの。それは波打ち際。波の音と蝉の声がして、でも静かで、とっても穏やかで、優しくて。真っ赤な夕陽が世界を染めて、カミサマたちはその風景を眺めながら、いっぱいいっぱいお話するの。楽しかった旅の思い出。渋谷で走ったこと、東京タワーに登ったこと、浅草でおみくじを引いたこと、ジェットコースターに乗ったこと、みんなでお弁当をつくったこと、動物園のパンダのこと、新宿で見た夜景のこと、ゲームセンターで遊んだこと、電車に乗ってずーっと、知らないところまで旅をしてきたこと。二人で自転車に乗ったこと、けーさつから逃げ切ったこと、夜の学校でじゅぎょうしたこと、けんかもしたね、って笑いあって、陽が暮れるまでそこにいるの」


 その言葉に私は、何も言い返せなくなる。

 ――だって、そんなのずるいよ、ずるいじゃん。

 胸がいっぱいになる。張り裂けそうになる。

 カミサマの小さな身体を、強く抱きしめ返す。愛しくて堪らなくなる。私だけはずっと一緒にいるんだって、そう決意して、私はカミサマとここまできたんだ。

 世界の果てへの向かい方なんて解らない。この先には言葉通り、「終わり」しか待っていないのかもしれない。


 ――それでも。

 私は。


「……分かった。分かったよ」

「……ありがとう、ヒヨリ、だいすき」

「うん、私も、カミサマのことが大好きだよ」

 例えこの先に何があったとしても。私たちはふたりで、歩いていく。

 追っ手がきたら、カミサマが吹き飛ばす。私はふたりの頭脳になって、旅の道程のことや、食事や、泊まる場所なんかをしっかりと管理するんだ。

 そして、ずっと、遙か世界の果て、誰も行ったことのないような美しい景色の中で、いつまでもいつまでも、やっぱりたまには喧嘩もしながら、私たちは暮らしていくんだ。

 暮らして、いくんだ……。



 日の傾き始めた海岸沿いを、私たちは歩いていく。歩幅の随分と小さくなったカミサマに合わせて、ゆっくりと、ゆっくりと。左手側から、私たちに届く真っ赤な光。

 静かな道。前にも後ろにも、人影なんてもちろんない。

 私たちはいろんな話をしながら歩いていく。本当に取り留めのない、中身のないような言葉を交わしていく。しりとり、クイズ、知らなくてもいいような雑学披露。

 東京での旅の思い出。楽しかった、掛け替えのない時間のこと。


 私は言う。「東京に行けばね、自由になれるかもって、思ってたの」

 カミサマは返す。「どこにいたって不自由で、どこにいたって自由だよ」

 私はカミサマを見る。カミサマは私を見て、続ける。

「それは矛盾じゃないよ。だってこの世界は、簡単に割り切れたりしないんだから」


 唐突に、目の前にトンネルが現れる。それは長く、出口の光は見えない。

 私たちは手を繋いで、顔を見合わせて頷き合って、トンネルの中を進んでいく。

 カミサマは大きな声を上げて反響を楽しんで、つられて私も声を上げて、ふたりして笑って。


 トンネルを抜けると、目の前には真っ赤な夕陽と、静かに波打つ浜辺があった。

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